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Hayama
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Novels by Hayama

捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで

捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで

婚約破棄され居場所を失った私は、冷徹と噂される彼との契約結婚を選んだ。 愛はなく、互いの利害だけで結ばれたはずの関係。 そうして始まったはずの生活だった。 彼の冷たい視線、無関心な態度に心を閉ざしながらも、ふとした瞬間に見せる優しさに、どうしても胸が高鳴ってしまう。 近づけば傷つくと分かっているのに、彼の言葉に救われ、彼の仕草に惹かれていく。 これはただの契約なのか、それとも本物の愛なのか──。 偽りから始まった関係が、やがて甘く危険な恋へと変わっていく。
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Chapter: 第83話
薄暗い街灯に照らされた石畳の道を、智哉さんはただひたすらに前だけを見て歩いていく。 私がお義父様から聞かされた重すぎる真実。それを突きつけられた今、このまま黙って彼の後ろを付いて帰れば、私たちは永遠に交わることのない平行線を辿ることになる。私は勇気を振り絞り、震える声で遠ざかる背中へ向かって呼びかけた。「……ちょっと待ってください」私のその掠れた声が夜の静寂に響いた瞬間、智哉さんの革靴がピタリと止まった。けれど、彼は決してこちらを振り返ろうとはしてくれない。張り詰めた沈黙が数秒続いた後、彼がゆっくりと口を開いた。「お前は、どうして見ず知らずの他人にホイホイとついて行くんだ。危機感がまるでない」私は冷える指先をギュッと握り締め、反論の言葉を紡いだ。「見ず知らずの他人って……お義父様は、智哉さんの本当のお父様じゃないですか」私のその言葉が地雷を踏んだかのように、智哉さんの肩がビクッと大きく跳ねた。そしてゆっくりと首だけを後ろへ巡らせ、私を鋭く睨みつけた。「今回はたまたま本物だったから良かったようなものの、もし俺の関係者を騙って近づいてきた悪意のある人間だったらどうするつもりだった」「それは…でも、すぐにお義父様だって分かりました。だって、智哉さんに面影が似ていたから……」私の言葉に、彼は瞳を細めギリッと奥歯を鳴らすと、心の底からの嫌悪感を吐き捨てるように言い放った。「ふざけるな。俺は、母親似だ」亡き母親への強烈な執着と、父親に対する絶対的な拒絶。先程まで見せてくれたお義父様のあの温かい気遣いや、不器用な親としての愛情を思い出すと、智哉さんがここまで父親を忌み嫌う姿があまりにも悲しくて理不尽なものに思えてならなかった。「どうして……どうしてそんな風に、お義父様のことを否定するような言い方をするんですか」私のその問いかけに対し、智哉さんは再び私から冷たく顔を背け、暗く続く夜道へと視線を戻した。「事実を口にしただけだ」 まただ。また彼はそうやって、本当に大切な核心部分を分厚い壁の向こう側に隠して、私から遠ざかろうとしている。私は限界まで達した感情を抑えきれず、冷たい夜風を震わせるように、涙声で彼に向かって叫んでいた。「あなたはいつもそう。肝心なことは何も言わず、私に大事な過去も、本当の気持ちも、何一つ話してくれないじゃないですか!
Last Updated: 2026-07-09
Chapter: 第82話
「お前は彼によく懐いていたからね。娘であるひよりさんに、思い出話のひとつやふたつ、とっくに話してあげているものだと思っていたよ」 智哉さんが、なぜ見ず知らずの私と契約したのか。 なぜ借金をためらうことなく一括で肩代わりしたのか。 なぜ東条グループの息がかかりそうになっていた私を強引に引き剥がし、自分の目の届く範囲に囲い込んだのか。 「私が、父の娘だと知っていたから……?」 ぽつりと零れ落ちた私のその呟きは、料亭の個室に不気味なほど静かに響き渡った。 その瞬間、私の手首を力強く掴んでいた智哉さんの指先から、スッと力が抜け落ちた。 「真に受けるな。お前が耳を貸す必要などない」 そう言いながらも、彼自身が私の問いを真っ向から否定しなかったことが答えだった。 「ところで、智哉。その痛々しい腕は、一体どうしたんだい?」 お義父様の視線は、智哉さんの首から重々しく吊り下げられた分厚く真っ白なギプスへと絡みついていた。 その問いかけに、智哉さんはギリッと奥歯を強く噛み締める。 「大した怪我じゃありません」 全治三ヶ月という診断が下されたその怪我は、誰の目から見ても尋常な状態ではないのに。 智哉さんは、どうして実の父親に冷たいんだろう。母親を救えなかった過去の因縁のせいだろうか。 「どう見ても大したことないわけがないだろう。ギプスまでして…本当に大丈夫なのか?」 お義父様は困ったように眉尻を下げ、深くため息をついた。 素直に「交通事故に遭った」と答えれば、お義父様もそれ以上追求せずに納得してくれるはずなのに、なぜか智哉さんは頑なにその事実を口にしようとしない。 彼は一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、何かを堪えるような切実な眼差しで言葉を失って立ち尽くす私の方を盗み見た。 そしてすぐに視線を外し、誰の目から見ても嘘だと分かるような、あまりにも苦しい弁明を絞り出した。 「……少し、派手に擦りむいただけですよ。あなたに心配していただくようなことではありません」 もしかして智哉さんは、私の前で『交通事故』という単語を口にすることを恐れているのだろうか。 私のトラウマに気を遣い、自分自身が滑稽な嘘つきに成り下がるような不器用な配慮を優先しているのだとしたら…。 「そうか。本当のことは話してくれないんだな」 その静かで悲しげな問いかけは、決し
Last Updated: 2026-07-08
Chapter: 第81話
入り口を振り返ると、そこには到底ここにいるはずのない、そして私が今最も顔を合わせづらい人物が立っていた。「智哉さん……っ、どうして、ここに……」私の震える呟きを完全に無視し、智哉さんは長い足を乱暴に動かして部屋の中へと踏み込んでくる。その視線は私を通り越し、上座に座る実の父親へと真っ直ぐに向けられていた。「何のご連絡もなく、私の婚約者を勝手に連れ出されては困ります」お義父様は手元の切子グラスをゆっくりと回し、中に入った冷酒を一口含んだ。「どうしてお前の許可が必要なんだ? 私はただ、ひよりさんと食事がしたかっただけだよ。ひよりさんだって、私の誘いにちゃんと合意してついてきてくれたんだからね」合意という言葉に、智哉さんの顎のラインが怒りでギリッと強張った。智哉さんは鼻で冷たく笑い飛ばした。「合意、ですか。この国で、あなたからの誘いに首を横に振れる人間なんて、最初から一人も存在しませんよ」息子の辛辣な言葉に対しても、お義父様はただ大袈裟に眉をひそめ、困ったようなポーズを取ってみせるだけだで。その一連の動作のすべてが、智哉さんの焦りを誘うための完璧な計算のようにも見えた。確かに彼は巨大グループのトップであり、誰も逆らうことのできない絶対的な権力を持っている。けれど私に向けられた眼差しは常に温厚で、言葉の端々には優しさが滲んでいた。圧などという暴力的なもので私を脅し、無理やり連れ出したわけではない。「まるで私が権力を振りかざして若いお嬢さんを脅し取るような、横暴な人間だとでも言いたいのか?」お義父様の問いかけに対し、智哉さんは一切の妥協を許さない冷酷な視線で見下ろし続けた。「事実、そうでしょう。あなたのその他人を自陣営に巻き込む時の圧がどれほど異常か、ご自分では気づいていないのですか」「そうなのかい?」お義父様は智哉さんの言葉を全く気にする素振りも見せず、むしろ私の方へ柔らかな視線を向けて、困ったように首を傾げてみせた。お義父様は横暴な人なんかじゃない。とても優しくて私を温かく迎え入れてくれた人だと、智哉さんに伝えなければ。「いえ、私は……っ」智哉さんがゆっくりと首を巡らせ、私を漆黒の瞳でギロリと睨みつけてくる。たった一度睨みつけられただけで、呼吸の仕方すら分からなくなってしまう。「ははっ。ひよりさんはお前の方がよっぽど怖いみたいだ
Last Updated: 2026-07-07
Chapter: 第80話
「私の父が、人生を懸けて研究していた薬というのは、もしかして…」膝の上で固く握りしめた両手にはじっとりと嫌な汗が滲み、指先は氷のように冷たくなっている。頭の中では、かつて自分が吐き捨てた数々の残酷な言葉が、呪いのようにぐるぐると渦巻いていた。「あぁ。亡き妻の、難病を治すためのものだったんだ」確かな重みを持って紡がれたその言葉は、私の頭を鈍器で殴りつけるほどの衝撃を持っていた。難病の再生医療薬。それは決して顔も知らない誰かのための新薬開発などではなく、智哉さんの最愛の母親の命を繋ぎ止めるための、彼ら家族にとっての文字通り最後の希望だった。その希望を、私はあの日…。何も知らない怒りに任せて罵倒したあの時、智哉さんがどれほどの絶望と、怒りを味わったのか。想像するだけで胸が激しく締め付けられる。私は声を発することはおろか、瞬きすら忘れたかのように、ただぼう然と虚空を見つめることしかできなかった。「……っ、あぁ」喉の奥から、言葉にならない掠れた嗚咽が漏れ出た。両手で顔を覆い隠すように俯くと、後悔という名のどす黒い感情が全身の血液に乗って駆け巡り、私を内側から食い破りそうになる。私が憎んでいたのは、私を顧みなかった父の仕事だったはずなのに、その剣先は無関係な人の心を真っ向から刺し貫いていた。「大丈夫かい? 顔色がひどく青ざめているが」気遣うような、ひどく温かで穏やかな声色が響き、私はビクッと肩を震わせた。罪悪感で顔を上げることもできず、ただ必死に呼吸を整えようと深く息を吸い込む。冷たい空気が肺を満たすと、ほんの少しだけ理性が戻ってきた。これ以上、この人の前で取り乱すわけにはいかない。「申し訳ありません。あまりにも突然の事実で、少し動揺してしまって」なんとか取り繕ったものの、私の声は酷く上ずり、手はまだ微かに震えていた。そんな私の不審な様子を、彼は咎めることもなく事情を理解しているかのようにゆっくりと何度か頷いた。「私はてっきり、あの子が君にすべてを話しているものとばかり思っていたよ」智哉さんは何も話してはくれなかった。私が父親の研究を心底憎んでいることを知っていたからなのか。それとも、あんな残酷な言葉を吐いた私に対して、真実を告げる価値すら無いと見限っていたからなのか。振り返ればもらうばかりで、彼が抱える深い悲しみに寄り添おうとし
Last Updated: 2026-07-06
Chapter: 第79話
「いや、君を責めているわけじゃないんだ。ただ…君のような才能ある娘が、なぜ東条の懐へと入っていったのか。私はずっと引っかかっているんだよ」それはもっと泥臭くて、情けなくて、自分でも目を背けたくなるような、私自身の薄暗い感情だった。「ただ…自分に自信がなかっただけなんです」自分の口から飛び出したその言葉は、あまりにも滑稽だった。父に少しでも振り向いてほしくて、彼と同じ医療薬の研究という道を選んだ。けれど大学で専門的な知識を学べば学ぶほど、私に突きつけられたのは自分には何もないという残酷な現実だった。「父と同じ道に進んだものの、学べば学ぶほど自分には父のような才能も、すべてを懸けるような情熱もないんだと思い知らされ…。だから、業界の頂点である篠原グループを目指すことすら恐れ多くて逃げ出してしまったんです」父のように、寝食を忘れて一つのことに狂気的に没頭できるような才能も情熱も、私の中には存在しなかった。業界の絶対的な頂点であり、天才たちが集う篠原グループ。そこを目指すことは、自分の凡庸さを完全に証明してしまうようで、たまらなく恐ろしかった。自分なんかがトップの舞台で通用するはずがない。そんな強烈な劣等感と恐怖が、私の足を進むべき道から遠ざけていた。「そんな時に東条グループから内定をもらって、ここなら自分の実力に見合っているかもしれないと、無意識のうちに父の影から逃げるような選択をしてしまいました」絶対的な頂点である篠原グループほどのプレッシャーはなく、少しだけ手の届きそうな場所に思えたその会社は、逃げ場所を探していた私の目にはひどく魅力的な選択肢として映ってしまった。お義父様はテーブルの上で両手を静かに組み、深く、重々しい溜息を一つ吐いた。「君のように優秀な才能を持った子が自信を持てずにいたなんて、本当に残念でならないよ。我社を志望してくれさえすれば…」もしあの時、私がほんの少しの勇気を持って篠原グループの門を叩いていれば。けれど、東条グループにいた時から、私はただの足手まといだった。嫌な記憶が頭をかすり、私は急いで頭を強く横に振った。「私は…いえ。私の至らなさはともかくとして、父が残した研究が少しでも助けになっていたのなら、娘としてそれ以上嬉しいことはありません」私が無理に作った作り笑いは、きっとひどく歪で無様なものだっただろう。そ
Last Updated: 2026-07-05
Chapter: 第78話
私は勧められるがままに杯を重ね、高級な切子のグラスに注がれた冷酒を水のように一気に喉の奥へと流し込んだ。喉から胃にかけてカッと熱いものが落ちていく感覚が、極度の緊張で冷え切っていた身体を内側からじんわりと温めてくれる。「おぉ、いい飲みっぷりだね」ふわりと視界が揺れ、頬に微かな熱が帯びてきたのを自覚した時、正面に座るお義父様がひどく嬉しそうに目を細めた。自分が無意識のうちにかなりのハイペースで杯を干していたことに気づき、私はハッとして慌てて手元の切子グラスをテーブルに置いた。酔いが回ってきているとはいえ、相手はあの篠原智哉を育て上げた、底知れない権力を持つ財界の重鎮。ここで醜態を晒すわけにはいかないと、私はほんの少しだけ緩みかけていた頬を両手で軽く叩き、必死に理性を総動員して居住まいを正した。「きょ、恐縮です……。お酒がとても美味しくて、ついペースが上がってしまいました」その瞬間、私の全身を巡っていたアルコールの熱が、スッと音を立てて冷えていく。心臓がドクンと大きく跳ね、思考が完全に停止する。お義父様は手元のグラスを軽く揺らしながら、中に入った氷がカランと鳴る音を懐かしむように聞き入っていた。「……君のお父さんともね、よくこうして夜遅くまで酒を酌み交わしたものだよ」仕事ばかりで家に寄り付かず、最後はあっけなく事故でこの世を去ってしまった父。私にとって父親という存在は、常に背中を向けている遠い存在であり、彼の交友関係など何一つ知らなかった。それがまさか、篠原家という強大な一族とこんなにも密接に繋がっていたなんて。「私の、父と…? あの、先ほどの車の中での話の続きですが……お義父様は、どうして私のことをご存知なのでしょうか?」乾いた唇から漏れ出た私の声は、ひどく掠れて震えていた。 私の切実な問いかけを受け、お義父様は静かに目を伏せ、一つ大きなため息をついた。「……君のお父さんはね、我が医療グループの薬開発者だったんだよ」その言葉が持つ重みに、私は呼吸の
Last Updated: 2026-07-04
その魔法が解ける前に

その魔法が解ける前に

この家に、私の居場所なんてなかった。 幸せになることも、誰かに愛されることも、すべて諦めていた。 そんなある日、突然、縁談の話が舞い込んでくる。 どうせその人も、みんなと同じなんだろう。 そう思っていたけど…?
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Chapter: 第170話
「うまっ! これめちゃくちゃ美味しい!」 雄大さんはスプーンいっぱいにすくった熱々のシチューを勢いよく口に運ぶと、目を大きく見開いて感動の声を上げた。 そのあまりにも素直で気持ちのいい食べっぷりに、料理を作った側としてはこれ以上ないほどの喜びを感じてしまう。 「お口に合ってよかったです」 私の返事を聞いて、雄大さんは「ほんと、お店に出せるレベルだよ!」と大げさに褒めてくれる。 彼はふと何か思いついたように顔を上げ、私の顔と、静かに食事を進めている壱馬さんの顔を交互に見比べた。そして、少し羨ましそうな、それでいて本気とも冗談ともつかないようなトーンで突然突拍子もない提案を口にした。 「いいなぁ、こんな美味いご飯が毎日食べられるなんて。俺も毎日通っちゃおうかな」 毎日通うだなんて、雄大さんらしい思い切った冗談に聞こえて笑ってしまう。仮にその突拍子もない言葉が半分、いや全部が本気だったとしても、嫌だとは思わなかった。毎日の食事の準備や買い出しは今より少しだけ大変になるかもしれないけれど、こんなにも美味しそうに私の作った料理を食べてくれる人がもう一人増えるのなら、料理を作る身としては凄く嬉しい。ただ、スーパーに行く回数が増えることだけが…。 「ふふっ、お時間がある時ならいつでも大歓迎ですよ」 私がにこやかにそう答えると、雄大さんは子供のように両手を上げてガッツポーズをした。 ズボンのポケットからゴソゴソと自分のスマートフォンを取り出すと、目を輝かせながら身を乗り出し、私に向けてそのスマートフォンの画面を突き出すように見せてきた。 「じゃあさ、行く前に連絡したいから連絡先教えてよ!」 確かに、いつ来るかわからない状態よりも、事前に連絡をもらえた方が食材の買い出しや準備の都合がつけやすくて断然助かる。それに、こうして親しくお話をするようになったのだから、連絡
Last Updated: 2026-05-30
Chapter: 第169話
「うわ、もうこんな時間か」 お玉でかき混ぜていたシチューの鍋からふわりと立ち上る温かな香りに包まれながら、私はゆっくりと雄大さんの方を見る。 リビングのソファでだらだらとスマートフォンを眺めていた雄大さんが、画面右上にある時計の表示でも見たのか、大きく伸びをしながら天井を仰いでいた。 窓の外はすっかり暗くなり、街灯のオレンジ色の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。 今日は夕方から急に冷え込んできたから、温かい料理を作っていて正解だったかもしれない。 「よろしければ、夕食食べていきませんか?」 ちょうど多めに食材を買い込んでいたこともあり、お鍋の中には三人分でも十分に足りる量のシチューがたっぷりと煮込まれていた。 それに、賑やかな食卓になるのは私も嬉しい。 「え、マジ? いいの?」 彼の顔がパッと明るくなり、無邪気な表情が浮かんだ。ソファから勢いよく身を乗り出すあまり、クッションが床に落ちそうになるのを慌てて押さえている様子がおかしくて、私は思わずふふっと声を漏らして笑ってしまった。 まな板の上の野菜を片付けながら、私はカトラリーのセットを新しく用意しようと、食器棚の方へと歩みを進めた。 木製のスプーンとフォークを取り出しながら頷く。 「はい、多めに作ってあるので」 私の返事を聞いた雄大さんは、両手を軽く叩いて心底嬉しそうなジェスチャーを見せた。 「やった! じゃあお言葉に甘えて──────」 雄大さんの歓喜の言葉は、リビングの入り口に姿を現した長身の影によって無惨にも途中で遮られた。 「少しは遠慮しろ」 仕事帰りのはずなのに、その立ち姿には疲労感よりも特有の威圧感のようなものが漂っていて、ピシッと整ったスーツ姿がリビングの緩みきった空気を一瞬にして引き締める。 それなのに、雄大さんは悪びれる様子もなくへらへらと笑ってみせた。 「あ、壱馬。おかえりー」 雄大さんの気楽な挨拶に対して、壱馬さんは短く鼻を鳴らして応えた。 上着を脱ぎながらこちらへ歩いてくる彼の姿を追いながら、私も手を休めて正面に向き直る。 普段は夜遅くまで仕事に追われていることが多い壱馬さんが、こんなに早く帰宅するのは珍しいことだった。 「壱馬さん、おかえりなさい。今日は早かったですね」 私の問いかけに、壱馬さんはスーツのジャケットを椅子に掛けながら静
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 第168話
「花澄ちゃんがいてくれて、俺の方こそすごくホッしてるんだ」「私が……ですか?」思いがけない言葉に、私は思わず目を瞬かせた。「あいつ、昔から何でも一人で抱え込む癖があって。周りには平気な顔をして、自分だけで乗り越えようとするんだけどさ」少しだけ苦さを滲ませた声で呟き、雄大さんはふうっと短く息を吐いた。その吐息には、長年親友を見守ってきた彼ならではの、歯がゆさと慈愛が深く入り交じっているように聞こえた。 私が知っている壱馬さんの完璧な微笑みの裏側にある、決して誰にも見せようとしない脆さ。それを誰よりも知っている雄大さんの横顔は、明るく陽気な雰囲気からは想像もつかないほど静かで、どこかひどく切なげだった。「だからね、あいつが花澄ちゃんのことで一喜一憂したり、柄にもなく余裕なくしたりしてるのを見ると…。ああ、やっとあいつの心をこんなに揺さぶる人が現れたんだなって、嬉しくなるんだよね」からかうように悪戯っぽく片目を瞑ってみせる雄大さんに、私はどう返していいか分からず、再び熱を帯び始めた頬を隠すように小さく俯くしかなかった。私の些細な言動が、彼の中に波風を立てているのだとしたら。それはなんて恐ろしくて、なんて幸せなことなのだろう。「まだまだ、私にできることは少ないかもしれないですけど……」絞り出すように紡いだ私の言葉は、情けないことにかすかに震えていたかもしれない。背伸びをして彼にふさわしい自立した女性になろうとしても、その道のりは果てしなく遠く思えて、時折どうしようもない無力感に襲われる。それでも、少しでも彼の力になりたいという嘘偽りのない本音だけは、どうしても伝えたかった。「そんなことないと思うよ。ただ、そばにいてくれるだけで救われることだってあるから」その真っ直ぐで嘘のない声に、私は顔を上げた。気の利いた言葉が言えなくても、彼と対等な立場で支え合うにはまだ時間がかかるとしても、今の私なりにできることが確実にあるのだと、雄大さんが肯定
Last Updated: 2026-05-28
Chapter: 第167話
「え……?」ポツリと落ちた雄大さんの言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。あんな顔って、一体どんな顔だったのだろう。私が知らない壱馬さんの表情を想像して、思わず聞き返してしまう。「あ、いや、何でもないよ。こっちの話」雄大さんは少し悪戯っぽく笑って、ひらひらと手を振った。深く追求してはいけないような気がして、私はそれ以上踏み込むことができず、微かに熱の残る頬を冷ますように小さく息を吐いた。「……でも、少し羨ましいです」ぽつりと溢れた私の声に、雄大さんが「ん?」と小首を傾げる。「壱馬さん、雄大さんと一緒にいる時はすごく自然体で…」カップの縁を指先でなぞりながら、私は自分の中にあるもどかしさを言葉にしていく。雄大さんと話す時の壱馬さんは、私が普段見ている彼とは少し違っていた。言葉遣いも少しだけ荒っぽくなって、どこか少年のような、飾らない等身大の男性という感じがする。私と一緒にいる時の壱馬さんは、いつだって完璧で、エスコートもスマートで、驚くほど優しい。雄大さんの前で見せるような、力の抜けた素の壱馬さんを引き出せるのは、長い時間を共に過ごし、深く理解し合っている雄大さんだからこそなのだと思う。私に向けてくれる甘く優しい微笑みももちろん大好きだけれど、本当はもっと、彼の中にある泥臭い部分、不器用なところにも触れてみたい。「私にはまだ……見えない壁があるというか。優しくしていただいている分、気を遣わせてしまっているんじゃないかって、時々不安になるんです」私に向けられる優しさが特別なものだとしても、彼にとって一番居心地のいい場所は、まだ私ではないのかもしれない。そんな身勝手な劣等感が、せっかくの嬉しい気持ちに薄い影を落としていた。彼が何の鎧も纏わずに、ただ息をするように傍にいられる一番安らげる場所が私であればいいのにと、そんな身の程知らずな独占欲が心の奥底で静かに渦巻いていた。沈黙が降りた数秒の間、私は自分のひねくれた感
Last Updated: 2026-05-27
Chapter: 第166話
「壱馬は…」雄大さんがふと言葉を区切り、どこか遠くを見るような目をした。彼らの間に流れる、私が立ち入れないほどの長い時間と深い絆の前に、急に自分がひどく場違いで、身の程知らずな存在に思えて仕方がなくなってしまった。「す、すみません。私なんかよりも、雄大さんの方が壱馬さんを知っていらっしゃるのに」自分の声が緊張で少し震えている。壱馬さんのことを知った風な口を利いてしまった自分が恥ずかしくて、顔が急激に熱くなっていく。どうにかしてこの気まずい空気を誤魔化そうと、私はぎこちなく口元だけで笑ってみせたけれど、きっと引き攣った表情になっていたに違いない。「いや、壱馬のことをちゃんと見てくれてるんだなって」予想に反して、雄大さんの声はどこまでも穏やかで、包み込むような温かさに満ちていた。呆れられたり、怒られたりするかもしれないという私の被害妄想は、その一言で見事に打ち砕かれる。「え?」間抜けな声が、思考よりも先に口から漏れてしまった。私は丸くした目をパチパチと瞬かせながら、雄大さんの次の言葉を待つことしかできず、ただただ固まってしまった。「よく素っ気ない奴って思われるけど、本当は誰よりも優しい奴んだよ」雄大さんの言葉が、私の心の中にある壱馬さんへの想いと完全に重なり合い、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。「壱馬さんは、初めて会った時から私に手を差し伸べてくださって」気がつけば、溢れ出る想いを止められずに言葉が口から飛び出していた。壱馬さんの大きな手が、どれほど温かく私を引っ張り上げてくれたか。「壱馬にとって花澄ちゃんも同じだと思うよ」同じという響きが、あまりにも現実味がなくて、一瞬耳を疑う。壱馬さんにとって、私が? あの完璧で、どこか遠い世界にいそうな彼にとって、私のような存在が何か影響を与えているなんて、そんな大それたことを想像すらしたことがなかった。「壱馬さんも…?」かすれた声で、どうにかそれだ
Last Updated: 2026-05-26
Chapter: 第165話
「おじゃましまーす。壱馬の家来るの久しぶりだなぁ」雄大さんの屈託のない明るい声が、静かな玄関に響き渡る。壱馬さんのパーソナルスペースに別の男性を招き入れてしまったことへの申し訳なさと、この後どうやって間を持たせればいいのかという焦りが入り混じり、私は玄関口で立ち尽くしてしまった。何かおもてなしをしなければと頭をフル回転させるものの、手持ち無沙汰になった私は、緊張で少し震える手を隠すように、とっさに彼に向かってある提案を口にしていた。「コーヒーを…」緊張のあまり気の利いた言葉が浮かばず、半ば逃げるように口走ってしまった。私はそわそわと視線を泳がせながら、キッチンの方へと少しだけ体を向けた。「ありがとう」雄大さんの明るく気さくな声が、部屋に優しく響いた。そもそもこんな状況になっているのは、私が壱馬さんの過去について余計な詮索をしてしまい、その流れで雄大さんを巻き込んでしまったからで。壱馬さんの大切な友人にまで手間を取らせて気を遣わせている自分が情けなくて、私は咄嗟に謝罪を口にしていた。「私が余計なこと言ったせいで、すみません」戸棚からコーヒー豆とドリッパーを取り出し、お湯を沸かしながら慎重に準備を進めた。お湯を細く円を描くように注ぎ入れると、モコモコと粉が膨らみ、深く香ばしい匂いが部屋中に広がっていく。「そんなことないよ。俺も花澄ちゃんと仲良くなりたかったし」雄大さんはそういいながらソファーに座る。そのゆったりとした動作をキッチンの端から見つめながら、私は張り詰めていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。震えそうになる手で、出来上がったコーヒーをそっと差し出した。「ありがと」マグカップを受け取る時、雄大さんがふと見上げたその眼差しは、とても優しくて人懐っこいものだった。壱馬さんとはまた違う、周囲の人間を自然とリラックスさせるような不思議な魅力が彼にはある。湯気が立ち上るコーヒーを前に、彼がホッと一息つく姿を見て、私も少し
Last Updated: 2026-05-25
私の事が大嫌いだったはずの旦那様が記憶喪失になってから、私を溺愛するようになったのですがこれは本当に現実ですか!?

私の事が大嫌いだったはずの旦那様が記憶喪失になってから、私を溺愛するようになったのですがこれは本当に現実ですか!?

かつて冷たく私を突き放していた旦那様が、記憶を失ってからというもの、まるで恋に落ちたかのように優しくなった。今では、私を誰よりも大切にしてくれて、どうやら私の事が好きすぎて仕方がないらしい。
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Chapter: 第228話
「『彩花ちゃんは預かった。無事に返して欲しければ、今すぐ俺の会社まで飛んでこい』…ってね」颯斗さんは悪戯っ子のように片目をつむってみせた。 ソファーに軽く腰を掛け長い脚を組むその姿は、誘拐犯という物騒な言葉とはひどく不釣り合いなほど優雅だった。 からかわれているのだと頭では理解しつつも、彼のあまりにも堂々とした物言いに、私は少しだけ戸惑いを隠せなかった。 「そんな誘拐犯みたいなセリフ……。もしかして、湊さんをここに呼び出すために私を連れてきたんですか?」 彼の表情には微塵の悪意もなく、純粋にこの状況を楽しんでいるような、余裕に満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいた。 「ははっ、まさか。ただ、あいつがどんな顔をするか、ちょっとからかってみたかっただけだよ」 その悪気のないあっけらかんとした口調に、私は大きな安堵の溜め息をつくと同時に、ほんの少しだけ呆れたような視線を彼に向けた。 「湊さん、怒ってないといいんですけど……」 心底心配そうに眉を下げて呟く私を見て、彼は「殴られるかもしれないね」と事もなげに笑い飛ばした。 そして、ふいにその切れ長な目元から悪戯っぽい光を消し去り、スッと背筋を伸ばして声のトーンを一段階落とした。 場の空気が、弛緩した日常のそれから、プロフェッショナルとしてのピンと張り詰めたものへと一瞬にして切り替わるのを肌で感じた。 「まあ、湊の機嫌は一旦置いておくとして。ここからが彩花ちゃんを呼んだ本当の本題なんだけどね」 彼の静かな、それでいて確かな熱を帯びた声色に促されるように、私は無意識のうちに背筋を伸ばし居住まいを正した。 膝の上で両手を軽く握り締め、彼の言葉を一言も聞き逃すまいと真剣な眼差しを返す。 「俺がウェディングドレスのデザインをしてることは知ってくれてるよね?」 その問いかけに対し、私は迷うことなく力強く何度も頷いた。颯斗さんが女性の一生に一度の晴れ舞台のためにどれほどの時間と情熱を費やし、一本の糸、一枚の布にまで妥協のないこだわりを持っているかを、私はこれまでの関わりの中で痛いほど理解しているつもりだった。 「はい、もちろん存じています。女性の憧れをそのまま形にしたような、本当に素敵なウェディングドレスですよね」 私の心からの賛辞を受け取った彼は、照れ隠しのように前髪をふわりと掻き上げながら、どこか誇
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第227話
「どうしてですか?」私の純粋な疑問の声が空気を震わせた直後、突然、静寂を切り裂くようにして電子音が鳴り響いた。颯斗さんは面倒くさそうにゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出した。「げ…噂をすれば湊だ」颯斗さんの口から飛び出したその名前に、私の心臓が大きく跳ねた。颯斗さんは一向に応答ボタンを押そうとせず、ただ画面をじっと見つめたていた。その様子があまりにも不自然で、私は思わず彼の顔と携帯を交互に見比べてしまった。「取らなくていいんですか?」着信音は依然として鳴り止まず、周囲の空気をじりじりと焦がしていくように感じられる。普通ならすぐに出るはずなのに、どうしてこんなにも躊躇っているのだろうか。「まぁ、いいかな」颯斗さんはそう言って、携帯をパタンと裏返してテーブルの上に置いてしまった。何か重要な用事でかけてきているかもしれないのに、そんなにあっさりと切り捨ててしまっていいのだろうか。すると、今度は私の携帯が鳴った。画面には『湊さん』の文字がはっきりと表示されている。「あ、私にも…」そう言いながら、応答ボタンに指を伸ばそうとした。突然、横からすっと伸びてきた大きな手が、私の携帯を素早く取り上げてしまった。「えっ?」間の抜けた声を出す私の目の前で、彼は何事もなかったかのように涼しい顔をした。「携帯預かっとくね」「え、でも」食い下がるようにそう声を絞り出すのがやっとだった。「実際に見てもらう方がいいからさ」颯斗さんの言葉は、さらなる混乱を私にもたらした。彼の意図が読めず、私はただ呆然とその顔を見つめ返すことしかできなかった。颯斗さんの口元には、かすかに面白がるような笑みが浮かんでいるように見える。まるで、これから起こるであろう波乱の展開を期待し、楽しんでいるかのような、そんな意地悪な笑みだった。
Last Updated: 2026-05-21
Chapter: 第226話
「いや、なんでもない。これ言ったら本気で怒られる気がする」颯斗さんは何かを言いかけて、笑みを浮かべたまま言葉を濁した。ちょうどその時、コンコンと控えめで上品なノックの音と共に、扉が開かれた。「失礼致します」先程の女性が部屋に入ってきた。手には淹れたてのコーヒーが乗ったトレイを持っている。ふわりと、どこかフローラルで上品な香水の匂いが私の鼻先をかすめた。とてもいい匂いで、彼女の魅力をより引き立てている。デザイン会社の秘書というだけあって、彼女の服装は単なるオフィスワークの制服のようなものではなく、洗練されたオフィスカジュアルで非常にオシャレだった。かっちりしすぎず、かといって砕けすぎない絶妙なバランス。社内全体に漂うこの自由な感じが、のびのびとした環境を作り出しているのだろう。こういう型にはまらない空気感があるからこそ、世間の目を惹きつけるようないい作品が次々と生まれるのだろうなと感心しながら、彼女の無駄のない動きを見つめていた。「ありがとうございます」私の前にも静かにカップが置かれ、上品な湯気が立ち上る。私は彼女の丁寧な気遣いに心から感謝しながら、小さく頭を下げてそのカップを両手で包み込むように持ち上げた。 ふうっと軽く息を吹きかけてから、火傷しないようにそっとひとくち飲んでみた。舌の上に広がったのは、大人びた強い苦味だった。思わず眉がほんの少しだけ寄ってしまいそうになるのを誤魔化すように、私はゆっくりと息を吐き出しながらカップをソーサーに戻した。「颯斗さんの会社、相変わらずオシャレですね」苦いコーヒーの余韻をごまかしつつ、私は室内を改めてぐるりと見渡した。どこを見ても一枚の絵になるような、計算し尽くされた空間美に圧倒されてしまう「相変わらず?」初めて来たはずの私が、どうして以前から知っているような口ぶりをしたのか不思議に思うのは当然だ。颯斗さんの表情を見て、私は慌てて自分の記憶の出処を説明しなければと思い、少しだけ早口になりながら次の言葉を探す。「あ、雑誌で見たことがあって。その時から素敵だと思ってたんですが、実際に見れるとは思っていませんでした」写真越しでも十分に伝わってくるその洗練された空気感にすっかり惹きつけられ、何度もページをめくっては隅々まで眺めていたことを思い出す。「えー、言ってくれたらすぐ招待したのに」颯
Last Updated: 2026-05-20
Chapter: 第225話
颯斗さんに案内されてたどり着いたのは、都心の一等地に建つガラス張りの洗練されたオフィスビルだった。エントランスを抜けた瞬間から漂うスタイリッシュな空気に、私は思わず足取りが重くなる。すれ違うスタッフたちから次々と丁寧に挨拶される颯斗さんの姿を見て、彼がトップデザイナーであり、この会社のトップなのだとまざまざと見せつけられた気がした。最上階へ向かうエレベーターの中で、私は自分のカジュアルすぎる服装を少し後悔しながら、悟られないように小さく息を吐き出した。やがて到着したふかふかの絨毯の廊下の奥。一際目を引く重厚な扉を颯斗さんがスマートに開け放ち、振り返って私に優しく微笑みかけた。 「どうぞ」颯斗さんの優しくも余裕のある声に促され、私は思わず小さく肩をすくめてしまった。目の前で静かに開いた重厚なガラス扉の奥には、私が普段足を踏み入れることのないような洗練された空間が広がっていて、入るのを一瞬ためらってしまうほどだ。そんな私の緊張を察したのか、颯斗さんは軽い足取りで先へと進み、手で柔らかく中を示す。彼の背中を追いかけるようにして、部屋に足を踏み入れた。 「失礼します…」緊張でガチガチになっている私とは対照的に、颯斗さんはとてもリラックスした様子で部屋の奥へと進んでいく。そして、ごく自然な動作でスッと手のひらを向け、向かいの席に座るよう促してくれた。私はそのエスコートに導かれるまま、おずおずとソファーに浅く腰を掛けた。 「コーヒーでいい?」その不意の問いかけに、私はビクッと肩を揺らしてしまった。ただでさえこんな立派で洗練された空間に招き入れてもらって、場違いなところに迷い込んでしまった迷子のような気分でいるのに、これ以上の厚遇を受けるなんて申し訳なさが勝ってしまう。「あ、はい。でも、お気遣いなく」颯斗さんは私の戸惑いなどお見通しだという風に少しだけ首を傾げながら、柔らかいけれど有無を言わせない声でピシャリと遮った。
Last Updated: 2026-05-19
Chapter: 第224話
「パーティー以来だね。元気にしてた?」フロントガラスから差し込む午後の光を浴びながら、ハンドルを握る颯斗さんが何気なくそう言った。その軽やかなトーンが、あの一晩の華やかな喧騒を瞬時に私の脳裏に蘇らせた。あの日以来の再会だけど、まさかこんな風に彼の車の助手席に滑り込むことになるなんて。「はい。颯斗さんも、相変わらずお元気そうで」私のちょっとからかうような返答に対して、颯斗さんは前方を見つめたまま、やっぱりいつもの少年のような笑みを浮かべた。「まーね」いたずらっぽく笑う彼のその一言で、車内の空気は一気に穏やかな空気になった。そういえば…。今こうして彼が私を車に乗せて走らせている状況への純粋な疑問が、すとんと胸に落ちてくる。「しばらくの間は日本にいらっしゃるんですか?」世界中の花嫁が憧れるウエディングドレスを次々と生み出す、超多忙なトップデザイナーで、世界を股に掛けて飛び回っているのが日常のはず。そんな彼が、なぜ私の隣で楽しそうにハンドルを握っているのだろう。「うん。当分はね」彼が日本に長期間滞在してまで取り組もうとしている何か。そして今、明確な目的地を持って迷いなくアクセルを踏み込んでいるその足取りの良さが急に気になり始める。「ところで、どこに向かってるんですか?」「俺の会社」その短い答えが彼の口から飛び出したとき、私は思わず目を見開いて彼を見た。「颯斗さんの?」前に雑誌で颯斗さんの会社を見たことがあった。全面ガラス張りの圧倒的な開放感の中に、世界中から集められた極上のシルクや繊細なレースのロールが美しくディスプレイされた、まるで美術館のようなアトリエ。あの洗練された聖域に、今から自分が向かっているらしい。私の驚きに満ちた声を、彼は速度を落とすことなく、むしろ私の反応を完全に楽しむかのように言い返した。「詳しい話は会社に着いてから」
Last Updated: 2026-05-18
Chapter: 第223話
あれから一週間。過去はなかったことにはならないし、私の罪が消えるわけではない。根本的には何も解決していないって分かっているけれど、私は今の湊さんだけを見るって決めたから。「今が幸せなら、それでいいんだよね」ポツリと呟いた自分自身の言葉は、誰に聞かせるわけでもなくただ空の彼方へと溶けていく。心を落ち着かせるようにエコバッグの持ち手をぎゅっと握り直して前を向いた、その時だった。一台の黒い高級車が音もなく近づいてきて、私の横にピタリと停車した。滑らかな動作で運転席の窓がスルスルと下がっていき、そこからひょっこりと顔を出したのは、全く予想もしていなかった人物だった。「彩花ちゃん」「颯斗さん!」私の少し間抜けなほど驚いた顔を見て、颯斗さんは「ははっ、驚かせてごめん!」と言い、いつもの屈託のない笑顔を見せた。颯斗さんと会うと、不思議と張り詰めていた心がスッと軽くなるような気がする。きっとそれは、彼が持ち合わせている生来の人の良さからくるものなのだろう。彼は運転席から少し身を乗り出すようにして、リラックスした様子で私に語りかけてきた。「今から家に行こうとしてたんだけど」颯斗さんが家に来るということは、当然、湊さんに何か用事があるのだろうけど…。「湊さんなら会社です」わざわざ足を運んでくれた颯斗さんを無駄足にさせてしまう申し訳なさを感じながら、少し困ったように眉を下げた。けれど、私の言葉を聞いても、颯斗さんは特に残念がる素振りは見せなかった。「じゃなくて、彩花ちゃんに会いたくて」私は一瞬自分の聞き間違いではないかと疑ってしまった。湊さんではなく、わざわざ私に会いに来る理由が全く思い当たらなかったから。目をパチパチと瞬かせながら、私は自分自身の顔を指差して、まるで確認を取るようにそのままオウム返しをしてしまった。「私ですか?」不思議そうな顔をして首を傾げている私を見
Last Updated: 2026-05-17
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