Chapter: 参考文献一覧敬称略 順不同鏡山昭典『私撰 枕ことば辞典』阿部萬蔵・阿部猛『改訂版 枕詞辞典』八條忠基『詳解 有識装束の世界』倉本一宏『平安京の下級官人』和田英松『官職要解』榎村寛之『斎宮-伊勢斎王たちの生きた古代史』承香院『あたらしい平安文化の教科書』繁田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』こさかべ陽子『よく分かる平安時代』『平安時代の絵事典』『光る君へ』ついに最終回…時代考証が語る平安貴族の「政治」と「恋愛」<上>https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20241209-OYT8T50192/『光る君へ』ついに最終回…時代考証が語る平安貴族の「政治」と「恋愛」<下>https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20241209-OYT8T50194/望月光『望月光の古文教室 古典文法』荻野文子『マドンナ古文 パーフェクト版』『落窪物語』『平中物語』『御堂関白記』『小右記』『堤中納言物語』『日本書紀』『古事記』『古今和歌集』『山槐記』『源三位頼政集』小松英雄『伊勢物語の表現を掘り起こす』望月光『望月光の古文教室 古文読解編』荻野文子『マドンナ古文常識217』荻野文子『マドンナ古文和歌の修辞法』岡本梨奈『岡本梨奈の1冊読むだけで古文の読み方&解き方が面白いほど身につく本』木下武司/亀田龍吉『万葉集 植物さんぽ図鑑』成清弘和『律令家族法の研究』『令義解』『律令制と古代社会』河添房江『紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語』八條忠基『有職故実から学ぶ年中行事百科』梶川敏夫『ビジュアル再現 平安京 地中に息づく都の栄華』梶川敏夫『新版よみがえる古代京都の風景
Last Updated: 2026-06-24
Chapter: 第三十二話 物語の続き ~平安時代の悪役令嬢~〝橘の よりちかき|香《か》は ならのはの はねのはやしは |深紫《こきむらさき》と〟 歌の下の句で「はねのはやしは 深紫と」と言ったのは、初句の『橘の』は近衛と言う意味ではない(『|右近衛府《うこのえふ》』を『右近の橘』ということがあるため)だと思っていた。『ならのはの』は|枕詞《まくらことば》なので意味はありませんのよ。『|羽林《はねのはやし》』は近衛府の大将から少将までを指す言葉で官位は従三位から正五位下で色は|深紫《こきむらさき》、自分は六位(色は|深緑《こきみどり》)だから羽林ではない。 それでも|敢《あ》えて羽林と言う言葉を使ったのは『橘』は『近衛』と言う意味ではなく名字だ、という意味だと解釈していたのだけれど――。 考えすぎだったのかしら……。 私は首を傾げた。 もしかして思っていたより歌が得意ではないとか?「それに六位って……太政大臣の跡継ぎなら|蔭位《おんい》は従五位下のはずよ」 六位なのは深緑の位襖を着ているのだから間違いないはずだ(官位によって着ていい色が決まっているんですのよ)。 自分より下の位階の色を着るのは構わないから(上の官位の色は|勅許《ちょっきょ》がない限り禁止)、深緑が好きとかそういう理由で実際は五位だけど六位の位襖を着ていたとか? そんなことありますの?「私が引き取られてしばらくしてから北の方が息子を産んだので」 ああ……。 それも良くある話だ。 正妻に跡継ぎが産まれないからと他の妻が産んだ息子を後継者にしたら嫡男が産まれる。 昔の帝ですらそれで揉めて一度は皇統が分かれてしまったくらいだ。 一位の庶子なら蔭位は|正六位上《しょうろくいじょう》である。「だから橘を名乗っているのです」 「お母様が橘だったってこと?」 お祖父様(お母様のお父様)の政敵になるほどの大貴族(元)に『橘』なんていたかしら? 私は首を傾げた。「いえ、母や妹が住んでいたのは橘の里として有名なところだったので」 「
Last Updated: 2026-06-23
Chapter: 第三十一話〝みや〟という名の姫 私(左大臣の《《元》》大君の方)が首を傾げていると――。「〝みや〟は私の父親違いの妹です」 |頼浮《よりちか》が言った。「……つまり、私はお母様の|不義《ふぎ》の子で、あなたはお兄様ってこと?」 私が訊ねる。 お母様がお父様を婿にする前に他の殿方を夫にしていた時期があって、その時に頼浮を産んだのでないのならそういう事になる。 だとすると――。 せっかく入内しなくて良くなったのに……。 帰る家を失った上に頼浮と異父兄妹なんて……。 これでは結局結ばれることが出来ないのは同じだ。 なんてことですの……。 では、通ってきて婿になる気はなかったと言う事ですのね。 それとも左大臣の姫なら兄妹と言うことを隠して婿になってもいいと思っていたとか? そして今は左大臣の姫ではなくなってしまったから明かしたということ? 帰る家を失った上に散々ですわ……。 私は肩を落とした。 とはいえ妻というのは基本的に夫の出世の手伝い(と跡継ぎ)のためにいるのだから左大臣の娘ではないどころか貴族ですらなくなり財産もない今の私では相手にしてくれる殿方などいるはずないのだ。 夫に養ってもらう妻もいるが、それは男性が出世して財産も出来てからの話である。「北の方ではない妻が産んだ姫――中の君です。左大臣の中の君の名は|美也《みや》というのです」 「私と同じ名前でしたの!? お父様ったら!」 いくらなんでもいい加減すぎますわ! |感傷《かんしょう》に|浸《ひた》っていましたのに、ぶち壊しではありませんか!「母は私の父に捨てられて苦しい生活を送っていたのです。それで左大臣が一時期、母を援助して下さっていました。美也はその時に出来た娘です」 援助と言いつつすることはしてたって事なのね……。 とはいえ、そもそも面倒を見るというのは妻にするという事なのだが。 親が娘に大して財産を残さなかった場合、女性は夫に捨てられたらすぐに生活
Last Updated: 2026-06-22
Chapter: 第三十話 悪役令嬢の正体「この子をお願いします」 そう言って私(左大臣の大君の方)に猫を渡すと中の君が牛車から降りた。 中の君は私が初めて会った日にあげた孔雀の羽を持っている。 皆が見ている前で大君として出ていったのだからもう引き返せない。 牛車の中に残った私も――。 * お父様は中の君がこれ以上狙われることのないように死んだことにした。 遺体があると|死穢《しえ》に触れてしまうからという理由で重症だった中の君を人の訪れがない寺に運び込んだ。 我が子と言えど死穢は死穢だから触れないために見ないようにするというのは珍しくない。 特に左大臣ともなると公式行事の予定が詰まっているし、他の者と違って簡単に欠席することも出来ないのだから尚更だ。 中の君はその寺で介抱を受けて助かった。 お父様は最初、中の君を狙っている者を捕まえたら生きていたと明かして左大臣家に連れ戻すつもりだった。 しかし犯人は叔父様で、私や三の姫、四の君を巻き添えにしてまで中の君を亡き者にしようとしたと判明した。 しかも叔父様がそんなことをした理由を考えたら中の君が生きていると知られるとまた狙われるかもしれない。 今回は叔父様ただ一人でやったこととされた。 そして、叔父様は|遠流《おんる》(遠い土地への流罪ですわ)になった。 だが叔母様やお母様が同じことをしないという保証は?――もちろん、ない。 次に中の君が狙われたら再び私や妹達が巻き込まれるかもしれない。 そのときは巻き添えになった私達も助からないかもしれないと考えたお父様は中の君を死んだままにしておくことにした。 こうなったら中の君を別の娘ということにして知り合いの貴族に養女にしてもらうしかない、そう考えた時、今度は春宮が出家すると言い出した。 お父様が春宮に|啓《けい》す(申し上げるって意味ですわよ)と言ったのはこのことである(私は中の君のことをお父様から聞いて知っていましたのよ)。 私はそれを止めたのだ。 春宮に中の君が生きていると
Last Updated: 2026-06-21
Chapter: 第二十九話 青い鸚鵡(オウム)の香炉 数日後―― 私(左大臣の大君の方)は松姫から頂いた物語を全て読み終えた。 やはり桜の枝を全部切ったとは書いてなかった。 そもそも〝女〟が出てくる前に桜を贈ったのは別れるときの一枝だけで、再会後は贈っていない。 思い込みだったのだ。 読む前に吉野の枯れた桜の話を聞いていたから。 そして縫い物。 物語の姫君は縫い物が上手かった。 だから継母は姫君に大量の縫い物を押し付けたのだ。 けれど中の君はお世辞にも上手いとは言えなかった。 お母様が中の君に縫い物をさせていたのは中の君が|下《へ》……あまり得意ではなかったからだ。 左大臣家の娘として婿を取ることになるのなら縫い物が上手くなければならないから。 |箏《そう》の演奏も同様で、物語の主人公は名手で妹に手ほどきしていた。 ついでにいうと物語の主人公は〝中の君〟ではなかった。 というか〝中の君〟と書いてあるところは無かった――松姫の書いた物語には。 それも私の勘違いだった。〝|同胞《はらから》〟と書いてあったのが〝女〟と一緒に出てきた場面だから当然なのだが。 松姫の物語には〝女(意地悪をしていた姫君)〟は全く出てこなかった。 そして孔雀や|鸚鵡《オウム》の香炉は〝女〟と一緒に出てきたのだから当然、松姫が書いた物語には出てきていない。〝女〟が出てきてからの話は松姫以外の誰かが書いたのだろう。 時々あるのだ。 物語の先を読みたいと思った別の誰かが勝手に続きを書いてしまうことが。 あるいは、そもそも続きではなく別の話が混同されたのかもしれない。 継子いじめ譚は人気があるから多くの人が書いていた。 どちらにしろ、松姫の物語は私や中の君の話ではなかったのは間違いない。 疑問は解けましたけど……。 いなくなった人達は戻ってこない。 もう取り返しが付かないのだ。 私は深い溜
Last Updated: 2026-06-20
Chapter: 第二十八話 物語の終わり 私(左大臣の大君の方)が目を覚ますと、また陰陽師と僧侶達の祈祷や読経の声が聞こえていた。「姫様……」 トメが声を詰まらせる。「今回は|痘瘡《もがさ》じゃないわよね?」 そう言った私の声は驚くほど|掠《かす》れていた。「召し上がったものの中に毒が……」「あなた達は大丈夫だったの!?」 飛び起きたかったが身体が動かなかった。 夢で見た物語の毒は今回のこと!?「姫様方だけが召し上がられたので……」 ならお菓子だろう。 珍しくて数が手に入らないお菓子は主人しか食べない。「妹達は!? 無事なの!?」 物語で儚くなったのは末の妹だったはず。 |左大臣家《うち》なら四の姫だ。「三の姫様も四の姫様もお元気です」「元気?」 まだ子供で身体が小さいのに?「三の姫様と四の姫様は召し上がられませんでしたので」 小さい子供がお菓子を食べなかった……?「ご親戚の方が姫様方にとお菓子を贈って下さったんです。ただお客様がいらしたので数が足りなくて……姫様と中の君だけが……」 三の姫も食べなかったのなら贈られたのは娘の人数分だけだったのだろう。 だとすれば|私達《むすめ》を狙ったと言うことだが――。 私達を親戚が狙った? 一体なんの理由があって? 数日後―― 陰陽師や僧侶の声が止まった。 中の君は助からなかった。 私達は沈痛な面持ちで|墨染《すみぞ》めの衣裳を着て俯いていた(|喪《も》に服す時に墨染めの色を|纏《まと》った)。 三の姫や四の姫、女房達は泣いていた。「姫様、申し訳ありません!」 女房の一人が泣きながら謝った。「あなたが毒を入れ
Last Updated: 2026-06-19
Chapter: 終章 後編 流が狙われていた理由が混血ではなかったのと同様、水緒を刺した鬼が狙われていたのも混血自体ではなく|可支入《かしり》族の血を引いているせいだと聞いた。 可支入族の血が一族に入ると災いがもたらされるから命を狙っている者がいると言っていたらしいが、桐崎はそんな話は聞いたことがない。 小川も知らないという。 可支入族の血が災いをもたらすというのはおそらく鬼の間に伝わっている|街談巷説《がいだんこうせつ》――根も葉もない噂話なのだ。 そんな本当かどうかも分からない話を間に受けた最可族の一部の者が可支入族の血を引く娘を狙った。 その鬼の祟名は「身虫」 おそらく「|獅子身中《しししんちゅう》の|虫《むし》」ということだろう。 流が救いの子なら「身虫」は救いを妨げる者だ。 実際「身虫」が水緒を刺さなければ流が願い事をすることもなく、流から最可族の血が消えることもなかった。 流の中の最可族の血が残っていれば、最可族の子孫達は祟名を呼ばれても死ななくなっていたはずだったのである。「身虫」が左無と手を組んだのは最可族に命を狙われていたからだ。 最可族が「身虫」に何もしなければ、最可族の跡目争いに関わることもなく、水緒を殺そうとしたりもしなかっただろう。 |卜占《ぼくせん》の自己成就。 占いを聞いたことで自ら成就させるように振る舞った挙げ句、その通りの事を起こしてしまうというものだ。 占いが当たったという場合、これに当て|嵌《は》まることが多い。 悪いことは特にそうだ。 可支入族の血を引く娘に対して行ったのが正にそれである。 流や「身虫」に対して、最可族が何もしなければ長の|能力《ちから》を持った跡継ぎがいなくなることもなかった。 長の|能力《ちから》は寿命と引き替えなのだから願ったら自分も死ぬのだ。 そう簡単には使えない。 最初で最後、一度きりしか使えない|能力《ちから》なのだから得たところで必要になるようなことはまずない。 長になりたいと言うだけの理由で兄弟を手に掛ける者達が一族のために自分の命
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 終章 前編 桐崎は小川の家に来ていた。 借りていた書物を返すためだ。 流に水緒以外の者とも交流するように勧めたものの、無理そうだとも思った。 記憶を失った時は、水緒への想いもなくなったようなので引き離す良い機会だと思ったが、流はまた以前と同じように水緒に惚れてしまった。 おそらく流は|幾度《いくたび》忘れても水緒に|惹《ひ》き寄せられてしまうに違いない。 だが、それだけ想いが強い分、失った時の衝撃は|計《はか》り知れない。 寿命を|全《まっと》うしたならまだしも、それ以外の理由で水緒が|早逝《そうせい》したとき流がどうなるか分からない。 特に水緒が人間に殺されたりした場合、見境なく|殺戮《さつりく》を始めるかもしれない。 ただでさえ他の鬼より強い最可族に戦い方を教えてしまったばかりに流の討伐は容易ではなくなった。 それでいざという時の対策を考えるために最可族の本を借りていたのだが……。 水緒と同時に命を落とすと決まっているなら対処法を考える必要もなくなった。 桐崎は流から聞いた話を小川に伝えて書物を返した。「しかし都合良く寿命と引き替えに水緒を助けてくれる神仏が現れるとは。よほど強い想いだったのだろうな」 桐崎が苦笑しながらそう言うと、「都合や想いは関係ないのだ」 小川が答えた。「どういうことだ」 桐崎の問いに小川は最可族の長が死んだと告げた。「元々最可族の長は寿命が|尽《つ》き掛けていたらしい」 それで息子達の跡目争いが激化したそうだ。「結局、息子達が争いの末に全員死ぬのと時を同じくして長も息を引き取ったらしい。長も跡継ぎもいなくて今かなり混乱しているらしい」「それが流に関係があるのか?」「寺で討伐した鬼が弟を|名無《なん》と言っていただろう」 小川の言葉に桐崎が頷く。「長の息子は上から|惨《さん》、|旱《かん》、|難《なん》という名だったらしい」 それを聞いた桐崎は息を飲んだ。 この前、流を襲ってきた鬼は
Last Updated: 2026-07-02
Chapter: 第八章 第五話 全ての最可族が許せない……! 流は無言で抜刀すると左無に向かって走り出した。 駆け寄っていく流に鬼達が襲い掛かってきた。 それを次々に斬り伏せていく。「同時に掛かれ!」 左無が鬼達に命令する。 鬼達が次々と長い爪を振り下ろしてくる。 しかし身体が大きく腕が長いとぶつかってしまうから同時には振り下ろせない。 時間差が出来るから人間の姿で、(鬼に比べれば)小柄な流が腕を|掻《か》い潜るのは|容易《ようい》だった。 か弱くて無抵抗の人間しか相手にしたことのない鬼達の振り回す腕は大振りだから普段から戦う訓練をしている流が見切るのは|容易《たやす》い。 流が次々に鬼を斬り伏せて左無に迫った時、何かを叩く高い音と共に、「きゃっ!」 水緒の悲鳴が聞こえてきた。 思わず振り返った流に左無が腕を振り下ろす。 流はそれを|躱《かわ》すと、「水緒!」 左無を無視して水緒の方に駆け出そうとした。 その途端、つねが水緒の首筋に長い爪を突き付けた。 流の足が止まる。「早くあいつの祟名を言いな!」 つねが水緒に怒鳴った。 水緒が首を振る。 真後ろに左無が迫ってきている気配を感じた。 つねが左無の手先なら左無がいなくなれば水緒を放すはずだ。 背後から振り下ろされた左無の爪を横に一歩ずれただけで|避《よ》けると振り返り様、斬り上げた。 左無が絶叫を挙げて倒れる。「左無! お前が死ねば、あたしらは狙われなくなるはずだったのに、よくも!」 つねが水緒の胸に爪を突き立てた。 水緒が声もなく倒れる。「水緒! 貴様!」 流はつねに駆け寄ると刀を袈裟に斬り下ろした。 つねが断末魔の声を上げて地面に転がる。「水緒! 水緒!」 刀を脇に置いて水緒を抱き起こすと大声で呼び掛けたが返事がない。 水緒の胸が微かに動いているからまだ生きているが
Last Updated: 2026-07-01
Chapter: 第八章 第四話 流が森の中で栗を拾っていた時だ。「いたぞ!」 男の声が聞こえると同時に母が駆け寄ってきた。「流!」 母が流を抱き締めた。「こんなところに隠れてたとはな」 そう言って姿を現したのが今、目の前に居る鬼――|左無《さん》だった。 別の鬼が流の袖をまくった。「間違いない! こいつです!」 その言葉に母は流の腕に目を落とす。「そこに字が書いてあるの!?」 と母に聞かれた。 これが見えないのだろうかと思いながら頷くと、母は|呻《うめ》いた。「それで相模が……」 例え血の繋がった親であろうと最可族ではない母には見えなかった。 流は母が知ってると思っていたから言ってなかった。 だから母には流に祟名が付いているかどうか知る|術《すべ》がなかったのだ。「この子を相模の跡継ぎにはしません。ですから……」「お前がそう言ったからと言ってなんになる。親父が力尽くで奪いに来たら抵抗出来ないだろう。成斥族などなんの力もないのだからな」「それは……」「恨むなら親父を恨め」 左無はそう言うと爪を振り上げた。「流、目を閉じて。誰もいなくなるまで絶対に目を開けちゃダメ。死んだ振りを続けなさい。その後は出来る限り遠くに逃げるのよ」 母が流の耳元に早口でそう囁いた。 そして抱き締めている流の身体の位置を|僅《わず》かに変えた。 その瞬間、流は胸に激痛を感じて気を失った。 母が|予《あらかじ》め流の身体の位置を少しずらしていたことで、母の心の臓を貫いた爪は流の急所を|逸《そ》れた。 そのため流は瀕死の重傷を負ったものの死なずに済んだ。 重い何かの下で意識を取り戻して動こうとして母の言葉を思い出した。 そこで耳を澄ませてみたが物音は聞こえなかった。 これなら他に人はいないだろうと判断して〝何か〟の下から|這《は》い出してから自分の上に乗ってい
Last Updated: 2026-06-30
Chapter: 第八章 第三話「初めて江戸に来た時、雪うさぎを作ったんだよ」 水緒はそう言ってその時のことを話してくれた。 物忘れになった直後は流に近付くなと止められていたが、最近は二人の|仲睦《なかむず》まじいところを見ても桐崎は何も言わないから話しても問題なさそうだと判断したらしい。 近付いてはいけないと言われていたから江戸から来てからの話をしていなかっただけらしく、実際にはこの五年間に様々なことがあったようだ。 四六時中、何かしらの催しがあり、毎年それをしていたのだから色々なことがあって当然だ。 そんな大切なことを全て忘れるなんて……。 我ながら情けない。 桐崎は入れ込みすぎていたと言っていたが、今以上に惚れ込んでいたのだとしたら何故忘れたりしたのだろうか。 流は水緒の話に耳を傾けながらなんとか思い出す方法はないかと考えていた。 翌日の夕方、流は水茶屋に向かっていた。「流ってのはあんたかい?」 男が声を掛けてきた。「錦絵の娘からこれを預かってきたんだが」 男はそう言って文を差し出した。「え……?」 これから迎えに行くと言う時に? まさか水緒に何かあったんじゃ……! 流は慌てて文を開いた。 文には、寺で待っている、としか書いてない。 これだけでは水緒からの呼び出しなのか、誰かに捕まって書かされたのか分からない。 いや、脅されたなら水緒は死んでも書かないだろう。 ただ……。 顔見知りに騙されたと言う事はあるかもしれない。 流の為だとか喜ぶなどと言われれば書いてしまうことは有り得る。 どちらにしろ水緒が待っていることに代わりはない。「この寺へはどうやって行けばいい?」 流が文を持ってきた男に訊ねると、「そこなら知ってるから案内するよ」 男はそう言って早足で歩き出した。 寺に近付くにつれ鬼の気配が
Last Updated: 2026-06-29
Chapter: 第八章 第二話 結界が解かれるのを待って寺に入っていった鬼はやはり保科だったのだ。 |可無《かん》の死を確認しに行ったのだろう。 確か可無は流が記憶を失う前に倒した鬼を弟の|名無《なん》だと言っていた。 となると知らなかっただけで跡継ぎ候補の二人を殺したのは流だったという事になる。 だとしても関係ない。 襲ってきたりしなければ殺したりしなかった。 可無は人を喰っていたからだが、どちらにしろ流を始末するつもりだと言っていたからいずれは襲われただろうし、そうなっていれば反撃していた。 いる事すら知らなかった父親の事情など知った事ではない。 鬼の村なら人間に絡まれる事はないだろうから水緒を連れて行けるなら話は別だが、水緒と離れなければならない場所に行く気はない。 水緒が死んだら後を追うと決めたのだ。 まだ生きているうちに離れるつもりは毛頭ない。「相模様が汀様――あなたの母上との間に子をなしたのは一族を呪いから解放するためだったのです」 狩りに出た先で汀と知り合い、成斥族には呪いを解く力があると聞いたらしい。 それで成斥族の血を引く子を一族に迎え入れれば最可族に掛けられた呪いが解けるかもしれないと考えて子供を産ませたらしい。「実際、相模様の読み通り……」 保科は何やら|得々《とくとく》として語っていたが流はもう話を聞いていなかった。 呆れたなどというものではない。 流のことを呪いを解くための道具としか思ってないのだ。保科も父も。 呪いが解けるかもしれないからと言う理由だったのなら母が父との間に子をなす事を望んでいたかどうかも怪しい。 鬼なのだから力尽くで母に子供を産ませたと言う事は十分有り得る。 生贄にするために同じ人間を家畜のように増やして売り買いする供部と言う一族も大概だとは思ったが、呪いが解けるかもしれないなどという不確かな理由で子供を作った父も同類だ。 流を跡継ぎにしたいというのも自分の子供だからではなく呪いを解くためなのだから愛情など欠片もないのだ。 兄
Last Updated: 2026-06-28
Chapter: 参考文献一覧と作中に関する補足敬称略 順不同鏡山昭典『私撰 枕ことば辞典』阿部萬蔵・阿部猛『改訂版 枕詞辞典』八條忠基『詳解 有識装束の世界』倉本一宏『平安京の下級官人』和田英松『官職要解』榎村寛之『斎宮-伊勢斎王たちの生きた古代史』承香院『あたらしい平安文化の教科書』繁田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』こさかべ陽子『よく分かる平安時代』『平安時代の絵事典』『光る君へ』ついに最終回…時代考証が語る平安貴族の「政治」と「恋愛」<上>https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20241209-OYT8T50192/『光る君へ』ついに最終回…時代考証が語る平安貴族の「政治」と「恋愛」<下>https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20241209-OYT8T50194/望月光『望月光の古文教室 古典文法』荻野文子『マドンナ古文 パーフェクト版』『落窪物語』『平中物語』『御堂関白記』『小右記』『堤中納言物語』『日本書紀』『古事記』『古今和歌集』『山槐記』『源三位頼政集』小松英雄『伊勢物語の表現を掘り起こす』望月光『望月光の古文教室 古文読解編』荻野文子『マドンナ古文常識217』荻野文子『マドンナ古文和歌の修辞法』岡本梨奈『岡本梨奈の1冊読むだけで古文の読み方&解き方が面白いほど身につく本』木下武司/亀田龍吉『万葉集 植物さんぽ図鑑』成清弘和『律令家族法の研究』『令義解』『律令制と古代社会』河添房江『紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語』八條忠基『有職故実から学ぶ年中行事百科』梶川敏夫『ビジュアル再現 平安京 地中に息づく都の栄華』梶川敏夫『新版よみがえる古代京都の風景
Last Updated: 2026-06-19
Chapter: 羈旅(きりょ) 随身が猫を捕まえ、糸毛車が動き出そうとしたのを見た貴晴は思わず牛車の外に飛び出した。「貴晴!?」 隆亮が驚いたような声を上げる。 貴晴はそれには構わず糸毛車に駆け寄ろうとして足を止めた。 隆亮が出世できなくなったら困るか……妻達が。 貴晴は牛車の中の隆亮を振り返った。「お前はそこにいろ!」 と言ってから、「そこの車、止まれ!」 と青糸毛の牛車を止めた。「誰だ、お前は! この車に乗ってるのがどなただと……」 郎党が刀の柄に手を掛けて|誰何《すいか》する。「私は弾正台だ!」 貴晴がそう言うと、青糸毛の前簾が僅かに動いた。 乗っている者が外を覗いたのだろう。「そいつの狩衣は|黄丹《おうに》よ! 春宮でなければ着られない色を着るとは不届きな! やってしまいなさい!」 青糸毛の中から女性の声がした。 郎党達が一斉に斬り掛かってくる。 貴晴は抜刀すると太刀を横に払った。 郎党が叫び声を上げて転がる。 続いて背後で絶叫が上がった。 振り返ると隆亮が郎党を斬り捨てたところだった。「おい! 出世できなくなるぞ!」 貴晴が隆亮に声を掛ける。「私はお前の手伝いを命じられてるんだから、これは仕事だ」 隆亮は嬉々としてそう言いながら別の郎党を斬り付ける。「これは仕事じゃ……」「お前、弾正台だって名乗っただろ」 隆亮が更に別の郎党を斬る。 失敗した……。 隆亮が側にいない時にするべきだった。 あの女御だと気付いて|咄嗟《とっさ》に牛車を止めてしまったが……。 私が全ての責任を被れば隆亮はお|咎《とが》めなしにしてもらえるだろうか……。「春宮になりたいのでしょうけど、そう
Last Updated: 2026-06-18
Chapter: 離別「女御の猫だとご存じだったのですか? それで、あの袋を……」 貴晴は織子に訊ねた。 「女御?……ああ、ではやはり、あの方は春宮様のお母様だったのですね」 「ご存じなかったのなら何故、言葉を|濁《にご》しておられたのですか?」 単に暗くてよく分からなかったという事だったのか?「父が春宮冊立の邪魔をしていたとか、私が邪魔をするとか|仰《おっしゃ》っていたので……」 つまり帝や春宮が関わっているようだから言いづらかっただけか……。 春宮冊立の邪魔を出来るような立場の人間となると身元はかなり絞られる。 二年前に一度襲撃されていて内親王だという事を人に知られたくないと思えば春宮や女御と関わりがあるというわけにはいかないだろう。 そういえば――。「都の近くまで戻ってきてから襲撃されたんですよね? |退下《たいげ》した斎王を狙う理由は……|前《さき》の帝が春宮冊立の邪魔をしていたと思っていたから、その逆恨みだったということですか?」 「いえ、どなたかに|春宮位《とうぐうい》を奪われるかもしれないと……それで帝が私の言う事を信じるとかなんとか……でも、私は今の帝とお話ししたことは……」 織子が首を傾げながら言った。 斎宮に旅立つ儀式をすっぽかしたのだから今上帝が織子に会ったことがあるとしても十二年以上前だ。 となると、帝は織子の言うことを信じているというより恐れていて、つつじの君が|廃太子《はいたいし》をしろと言ったらその通りにするかもしれないと思っていたのかもしれない。 そもそも、帝が織子を恐れているのは大赦させるために女御が毒を飲ませたせいなのだから自業自得なのだが――。「帝には他に親王様がいらっしゃらないのですから廃太子などあるわけないのに……」 織子は『帝には他にご存命のご兄弟はいらっしゃらないし……』と言いながら首を傾げている。 祖父が言っていたように、皇族しか皇后になれなかった時代は帝の意向がもっと尊重されていたから春宮選びにもその意思が反映された。 ただ、それも相当大昔の話だ。
Last Updated: 2026-06-17
Chapter: 恋 それが二年前のことだった――。 それ以来、祖父とは口を|利《き》いていなかったから詳しいことは知らないが、おそらく今の春宮を押している勢力――多分、春宮の母親の女御やその父親――が、帝が隠し子を春宮に立てようとしているようだという噂と聞き付けて貴晴の命を狙ったのだ。 迷惑な……。 だから皇族も貴族も嫌いなのだ。 |皆《みんな》、|他人《ひと》の気持ちを考えずに勝手なことばかり……。 弾正台に補すという話があった時、すぐに〝|弾正宮《だんじょうのみや》〟にしてやるという意味だと察しが付いた。 弾正台というのは親王がなる名誉職のようなものだからだ。 だが親王宣下――親王の身分を与えること――の有無はともかく、貴族の腐敗を正す気があるというのならなってもいいかと思ったのだ。 大納言の姫と釣り合う身分も欲しかったし……。 そういえば、内大臣が中の姫の恋人のことを相談した女御は春宮の母親だと言っていたな……。 貴晴を狙ったのと、内大臣の中の姫の恋人を殺したのが同じ女御だとしたらやたら殺意が高い女性だという事になる。「きゃーーーーー!」 不意に織子が悲鳴を上げた。「つつじの君!」 貴晴は慌てて立ち上がると、 「失礼します!」 御簾を払った。「あ、た、多田様、違います」 つつじの君が慌てたように顔を隠す。 「え?」 「そ、そちらに……」 つつじの君が震える指で貴晴の後ろを指す。 振り返ると背後に蛇がいた。 どうやら庭から|這《は》い上がってきたらしい。 こういう事は|偶《たま》にあるのだ。 毒蛇ではない。 貴晴が蛇を掴んだ時、郎党達が駆け付けてきた。 蛇を差し出された郎党は顔を引き|攣《つ》らせながらも受け取った。「あ、あの、殺さないで下さいね」 つつじの君が、蛇を持って出ていく郎党に声を掛ける。〝蛇は神様の使いなので|轢《ひ》き殺すのは良くないと……〟
Last Updated: 2026-06-16
Chapter: 冬 六「おい、卿が訪ねてこられたぞ」 つつじの君と御簾越しで向かい合っていた貴晴に隆亮が声を掛けた。「祖父上が?」 貴晴が怪訝な面持ちで言った。 ここは右大臣邸だ。 となると普通なら右大臣に会いにきたと思うところだが今は内裏が方塞りだから別邸に行っていてここにはいない。「お前に会いに来たのか?」 貴晴が訊ねると、「いや、それが……」 隆亮はつつじの君がいる御簾の方に視線を走らせた。 貴晴がそれ以上訊ねる前に祖父が入ってくる。「祖父上、ここには姫君が……」「その姫君にお目に掛かりたい。お顔を拝見出来ませぬか?」 祖父が御簾の方に目を向けて言った。「祖父上! 失礼でしょう。貴族の姫君の顔を見たいなど……」「貴族ではない」 祖父が貴晴の言葉を遮る。「祖父上! いくら祖父上でもつつじの君への無礼は……!」「た、多田様!」 織子が|宥《なだ》めるように声を掛ける。「その方は|前《さき》の斎王……|織子《さらこ》内親王様――そうではありませぬか?」 祖父が織子の方に顔を向けた。「さら……? 祖父上、つつじの君の名前は違います」 大納言の邸の前にいた女性が『しきこ』と言っていたはずだ。「いえ、織姫の『織』って書いて『さら』って読むんです」 織子の言葉に貴晴が振り返る。 |更紗織《さらさおり》の『さら』か……? 女性の名前は予想も付かない読み方をすることが多い。『明子』とかいて『あきらけいこ』とか『兄子(さきこ)』、『亀子(ふみこ)』などである。 それはともかく、内親王なら名前に『子』が付いていたのも納得がいく。『子』が付くのは皇族か帝の妃、もしくは官位がある貴族の女性なのだ。
Last Updated: 2026-06-15
Chapter: 冬 五〝うらめども うらみつくせぬ |葛《くず》の根の いや|遠長《とほなが》に うらみ続きぬ〟 貴晴が内大臣家に着くと随身の一人に文を見せられた。 門の近くに落ちていたらしい。 貴晴と隆亮が顔を見合わせる。「……一体どんな恨みを買っているのか伺っても?」 貴晴が内大臣に訊ねた。「人聞きの悪いことを言うな。おそらく何かの逆恨み……」 内大臣が怒ったように答える。〝|延《は》ふ|葛《くず》の |後《のち》に|逢《あ》はむと |契《ちぎ》りしも 風に散る葉の うらみるなりと〟「これも逆恨みですか? 『後に逢はむ(後で会おう)』と『契りしも(約束をして夜を供にしたのに)』――約束を守らなかったんでしょう」「女を捨てたのでは? 妻にすると約束しておきながら実際は一晩か二晩で通うのをやめた……」「違う!」 内大臣は貴晴と隆亮を遮った。そのまま黙り込む。 貴晴と隆亮は顔を見合わせた。「……では、我々はこれで」「待ってくれ!」「恨まれてないなら心配いらないでしょう。我々も暇ではないのです」 貴晴が答える。「……検非違使ではないのだな」 内大臣が再び確かめるように訊ねてきた。「違います」 貴晴が即答する。「……男だ」 内大臣が苦々しげに答える。「それを隠したかったんですか? 男同士なんて別に珍しくないでしょう」「私ではない。姫だ。中の姫に男が……」 中の姫というのは内大臣の次女のことである。 どこの姫も上から大姫、中の姫か二の姫、三の姫……と呼ばれるのだ。 管大納言の姫なら『管大納言の大姫』、『管大納言の中の姫』、『管大納言の三の姫』、内大臣の姫なら『白石内大臣の大姫』、『白石内大臣の中の姫』など
Last Updated: 2026-06-14