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三毛沢しっぽ
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Novels by 三毛沢しっぽ

限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした

限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした

人一倍性欲が強いのに、長い間彼氏がいないドジOLの甘崎りと。マッチングアプリで手痛い失敗をした彼女は、意を決して女性向け風俗のサイトを開く。そこでりとが目を奪われたのは、昼間自分を冷たく叱りつける完璧主義の鬼上司・鷲尾冴臣に酷似したセラピスト〝レイ〟のプロフィールだった――。
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Chapter: 91.誰かのものでも構わない
 七月最後の土曜日。 梅雨明けの抜けるような青空の下、りととロゼを乗せた特急列車は、海沿いの線路をひた走っていた。 行き先は、日本有数の温泉地である熱海だ。「わぁ……海だーっ!」 車窓からキラキラと光る水面が見えると、りとは窓に張り付くようにして歓声を上げた。 今日のりとは、休日のリゾート気分に合わせたミントグリーンのオフショルダーワンピース。麦わら帽子から覗くショートヘアが揺れて、いかにも夏らしい爽やかな可愛らしさだ。 隣に座るロゼは、黒のキャミソールにシアーシャツを羽織り、ダメージデニムを合わせた少し辛口なカジュアルスタイル。大人の色気が漂う彼女の雰囲気に、とてもよく似合っている。「ちょっと、はしゃぎすぎだってば」 ロゼが呆れたように笑い、りとの麦わら帽子を軽く叩いた。「ねぇ、せっかくの旅行だしさ。もうお仕事じゃないんだから、源氏名で呼び合うのやめない?」「あっ、確かにそうですね! じゃあ、私のことは〝りと〟って呼んでください!」「おっけー、りと。アタシの本名は〝綾〟だから。よろしくね」「はいっ、綾さん!」 本名で呼び合うことになり、二人の距離がまた少しだけ縮まった気がした。 熱海駅に到着すると、二人はホテルへ向かう前に〝熱海サンビーチ〟へと足を伸ばした。 白い砂浜と青い海、それに立ち並ぶヤシの木が南国リゾートのような雰囲気を醸し出している。 二人はサンダルを脱いで波打ち際を走り回り、「冷たーい!」「綾さん、水かけないでくださいよぉ!」と、女の子同士らしい無邪気な戯れを満喫した。 ひとしきり遊んだ後、送迎バスに揺られて到着したのは、高台に建つ豪華なリゾートホテルだった。 吹き抜けになったエントランスには巨大なシャンデリアが輝き、全面ガラス張りのロビーからは、相模湾の絶景がパノラマで広がっている。 案内された客室も広々とした和洋室で、窓の外には果てしなく続く海が見えた。「すごーい! こんなお部屋、一生に一度泊まれるかどうかですよぉ!」 りとはふかふかのベッドにダイブして大興奮だ。綾も「レンレン、本当太っ腹だね……」と感心したように室内を見回している。 夕食の前に、まずは汗を流そうと大浴場へ向かった。 広々とした脱衣所で、りとはなんの躊躇いもなく服を脱ぎ捨てていく。一方、隣の綾は、なぜか壁の方を向き、タオルで隠すように
Last Updated: 2026-08-01
Chapter: 90.冴臣さんと呼ぶ女
 分厚い遮光カーテンが引かれた、都内のシティホテルの一室。  薄暗い間接照明の下で、不規則な水音がねっとりと響いている。 小太りで少し髪の薄い、銀縁メガネをかけた中年男の腰の動きに合わせ、彼女の艶やかなグレージュの長い髪が、シーツの上でふわり、ふわりと揺れていた。「んっ、んんっ……」 男の熱を帯びたものを口に含み、懸命に奉仕を続ける。  しかし、不意に息継ぎのタイミングが合わず――ガリッ。「痛っ! ちょっとリオちゃ〜ん、なんか今日怒ってる?」 うっかり歯を立ててしまい、男が顔をしかめた。「あっ、ごめんなさい〜。わざとじゃないんですよぉ」 彼女――〝リオ〟という偽名を使っている女は、上目遣いで甘ったるく微笑んだ。そのふわふわとした庇護欲をそそる空気に当てられ、男はぱっとだらしない笑顔を浮かべて表情を和らげる。「うふふ〜。やっぱりリオちゃんは可愛いな〜。おじさん、許しちゃう」 男の脂ぎった手が伸びてきて、豊かに膨らんだ胸をいやらしく揉みしだく。「やんっ♡」 甘い嬌声を上げると、男はさらに機嫌を良くした。「今日は特別に、お小遣い弾んじゃおうかな〜?」 「やったぁ。嬉しいですぅ。そしたら、私も……もっとサービスしちゃいますね」 吐息が混じり合うほどの至近距離で、完璧な愛想笑いを浮かべる。  しかし、彼女の頭の中はひどく冷めきっていた。(早く……早く、終わって……!) 顔には一切出さないが、腹の底には吐き気にも似たうんざりする感情が渦巻いている。(私は……私は、自分の身を削って、ここまでしないと彼に会えないのに……!) 脳裏にフラッシュバックするのは、休日の駅のホームで見かけた、信じられない光景。  大好きな彼が、愛おしそうに、他の女の額にキスを落としていた。『さ、冴臣さん……っ!?』 あの子は、そう呼んでいた。(冴臣さん、って……。あの子は、〝レイ〟くんではない、彼の本当の顔を知っている……!) ギリッと奥歯を強く噛み締める。  ドス黒い嫉妬心が、胸の内側をドロドロに焼き尽くし、今にも押し潰してしまいそうだった。「リオちゃん、そろそろ……いいかな?」 「はいっ……優しく、してくださいね」 やがて、上にのしかかってきた男の重みと、乱暴な挿入の痛みが下半身を貫く。  彼女は嫉妬と惨めさで泣き叫びそうになるのを必死に
Last Updated: 2026-07-31
Chapter: 89.恋人みたいな一日
 「朝まで寝かせるつもりはない」という前回の鷲尾の言葉は、決して比喩ではなかった。 カーテンの隙間から白々と朝日が差し込んでいる。何度目かの激しい絶頂を迎えて、さすがに疲労が勝ったのか、鷲尾は静かな寝息を立てて眠ってしまっていた。(まつ毛、ながっ……) 普段は黒縁メガネの奥に隠れてわかりにくいが、目を閉じていると、彼のまつ毛が羨ましいほどに長く美しいことがよくわかる。 りとはすっかり目が冴えてしまっていた。(そ、それにしても……声、思わずたくさんだしちゃったな) 前回は依千との最中の声を鷲尾に聞かれてしまったが、今回は逆に、壁の向こうにいる依千に丸聞こえだったはずだ。あの彼が、どんな顔で隣の部屋の音を聞いていたのかと想像すると、心底申し訳なくなる。(ご、ごめん……いっちゃん) 心の中でそっと懺悔し、二度寝はできそうにないからと、りとはそっとベッドを抜け出してシャワーを浴びに向かった。「……っ!?」 脱衣所の鏡を見て、りとはギョッとして目を剥いた。 洋服から見えない部分に数え切れないほどの赤いキスマークが点々と咲き乱れていたのだ。(キスマーク、こんなにつける〜!?) クールな顔をして、意外と独占欲が強い。そんな彼の不器用な情熱が嬉しくて、りとは一人で頬を緩ませた。 シャワーを終え、りとはキッチンで手早く朝食の準備に取り掛かった。 鷲尾のことだから、絶対に栄養バランスの良い和食を喜ぶはずだ。冷蔵庫にあった食材を使い、雑穀ごはん、鮭の塩焼き、厚焼き玉子、ほうれん草の胡麻和え、かぼちゃの煮物、そしてねぎと豆腐の味噌汁を手際よく並べていく。 出汁のいい匂いが部屋に漂い始めた頃、ベッドの上の大きな身体がモゾリと動いた。「……朝食を作ってくれたのか?」 寝起きの低い声。のっそりと起き上がり、ベッドサイドに置かれた黒縁メガネをかける鷲尾の姿が、どうしようもなく愛おしい。 向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせて食事を始める。 鷲尾は一口食べて小言を探すような顔をしたが、味も栄養バランスも文句のつけようがなかったらしい。 「……美味いな」と、悔しそうに素直に褒めてくれた。「せっかくの休日なのに、今日は槍でも降るんでしょうか?」「……失礼だな」 窓の外を見上げながら大げさに眉を下げるりとに、鷲尾は呆れたように言いながらも、満足そ
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 88.営業じゃない、本心だ
 柔らかなマットレスに二人の身体が深く沈み込む。間接照明だけの薄暗い部屋の中、重なり合う二つの影が、真っ白なシーツの上に濃く落ちていた。 先ほどまで彼を縛り付けていた、悲惨な過去の記憶。その冷たい鎖を少しでも溶かして洗い流したくて、りとは鷲尾の首筋に腕を回し、自分からそっと唇を寄せた。 まずは、お互いの輪郭と体温を確かめ合うような、ひどく優しくて丁寧なキスだった。普段の会社で見せる隙のない鬼上司としての顔は、今の彼にはどこにもない。 触れ合うだけの甘いキスを何度も繰り返すうち、やがて少しずつ熱を帯び、鷲尾の薄い唇がわずかに開かれる。そこへりとは自分から舌を滑り込ませ、彼の熱い舌と絡み合うような、深く息が詰まるほどの口づけへと変わっていった。「んっ……ふ、ぁ……っ、冴臣、さん……っ」 キスの合間、甘く痺れる頭で荒い呼吸を繰り返しながら、りとは潤んだ瞳で至近距離にある彼の瞳を見つめた。「……冴臣さんは……私のこと、好きですか?」 息も絶え絶えに紡いだその言葉に、鷲尾はほんの少しだけ動きを止めた。「……惹かれていると、先ほど伝えただろう」 はぐらかすような、どこか不器用な答え。それに対し、りとは「ダメです」と首を横に振る。 そのまま鷲尾の首筋に甘えるように頬を擦り寄せた。彼から漂う、清潔な大人の男の香りと、体温が上がったことによる微かな汗の匂いが、りとの鼻腔をくすぐって胸をひどく高鳴らせる。「惹かれている、じゃなくて……ちゃんと目を見てしっかりと気持ちを伝えてほしいです」 懇願するように言うと、二人の間に若干の空白の時間が落ちた。 鷲尾はそっと、りとの華奢な肩を大きな両手で掴むと、密着していた身体を少しだけ離した。 薄暗い部屋の中、至近距離で二人の視線が真っ直ぐに絡み合う。黒縁メガネの奥の瞳が、どう言葉を紡ぐべきか葛藤するように、僅かに揺れているのがわかった。「…………」「…………」 痛いほどの沈黙。りとは逃げずに、彼が言葉を探してくれるのをじっと待つ。 やがて鷲尾は、照れ隠しのように気まずそうに、ふいと視線を逸らした。「……今更、言いづらいな」「えー! なんでですか! 言ってくださいよぉ!」 りとは不満げにジタバタと身をよじり、真っ白なシーツを蹴飛ばして抗議する。その子供っぽい仕草に、鷲尾は観念したようにふぅ、と一つ長いため息
Last Updated: 2026-07-29
Chapter: 87.冴臣さんの一番そばに
 不器用な優しさを含んだ手で頭を撫でられ、りとの胸に熱いものがこみ上げてきた。  そのままゆっくりと両腕を伸ばし、目の前に座る大きな身体を、そっと抱きしめる。 普段なら「離れろ」と冷たくあしらわれそうなものだが、今の鷲尾はまったく抵抗しなかった。それどころか、少しだけためらった後、ゆっくりとりとの華奢な肩に顔を埋め、その重い体重を預けてきたのだ。 会社で見せる隙のない鬼上司でも、夜の完璧なセラピストでもない。ただの一人の不器用な男としての、無防備な姿だった。  りとは彼の広い背中に腕を回し、少し硬い髪を、子どもをあやすように優しく撫でた。「……お母さんとは、その後、どうなったんですか?」 ぽつりと問いかけると、肩口からくぐもった低い声が返ってきた。「父が残した借金をすべて返し終えた日に、弁護士を入れて完全に縁を切った。もう何年も会っていないし、今どこで何をしているのかも知らない」 鷲尾は自嘲するように短く息を吐く。「家族もいない。自ら遠ざけたのだから当然だが、恋人も作らない。ただただ、余計な感情を抱え込まないように……仕事にだけ打ち込んできた」 彼がどれほど孤独で、張り詰めた糸の上を一人で歩くような日々を送ってきたのか。その見えない重圧が、触れ合う体温越しにひしひしと伝わってくる。  りとは慈しむように、一定のリズムで彼の背中を撫で続けた。「……寂しかったんですね」 その言葉に、鷲尾の肩がビクッと大きく跳ねた。  彼はゆっくりと顔を上げ、信じられないものを見るように、りとを大きく見開いた目で見つめる。彼自身すら気づかないふりをして、心の奥底にずっと鍵をかけていた感情だった。 重荷から解放された安堵の裏に張り付いていた、どうしようもない孤独と寂しさ。りとは、それをあっさりと掬い上げてみせたのだ。「恋人、という肩書きが課長を縛って苦しめるなら、私はいりません」 りとは彼の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと言い切った。「でも……〝冴臣〟さんの一番そばに、いさせてもらいたいです」 初めて口にした、彼の下の名前。  鷲尾は一瞬、息を呑むように言葉を失い、やがてふっと、憑き物が落ちたような微かな微笑みを浮かべた。「……俺の夜の仕事は、疑似恋愛を提供することだ。万が一、俺のプライベートのそばに女がいるとバレたら……君は、熱狂的な
Last Updated: 2026-07-28
Chapter: 86.甘崎りとの答え
 至近距離で見つめ合う沈黙の中、鷲尾は小さく息を吐き、りとの額からゆっくりと自分の額を離した。 そのまま少しだけ距離を取り、テーブルの上の冷めた麦茶へと視線を落とす。「俺にとって、家族や愛という言葉は……君が想像するような、綺麗で温かいものではないんだ」 ぽつり、ぽつりと静かに語られたのは、彼の幼少期の記憶だった。 外では家族思いの良い父親を演じながら、裏では金にだらしなく、事業に失敗して多額の借金を作って消えた父。 そして、最初は被害者だったはずの、母。 母は借金取りに怯え、泣いてばかりいたが、次第にその弱さを幼い冴臣にぶつけるようになったという。『あなたは男の子なんだから、お母さんを助けてくれるでしょう?』『誰のために苦労してると思ってるの?』『あなたまで、お父さんみたいに私を置いていくの?』「俺の母は弱い人だった。だが、その弱さを免罪符にして、俺を縛り、搾取し続けた。……俺の努力も、稼いだ金も、すべては母を救うための道具でしかなかった」 鷲尾の低い声には、怒りよりも深い諦めと、消えない傷が滲んでいた。「俺の中で、家族は逃げられない関係だ。愛しているという言葉は、相手を縛り、いずれ自分の人生を差し出せと要求するための呪いだ。……愛情は、いつか必ず重い請求に変わる」 だから、彼は恋愛から降りたのだ。 セラピストの〝レイ〟としてなら、どれだけ甘く優しく接することもできる。そこには時間と料金という明確な境界線があり、始まりと終わりが約束されているから。 けれど、恋愛や結婚は違う。相手の寂しさも、怒りも、生活も、将来も、すべてが濁流のように自分へ流れ込んでくる。それが怖くて、何よりも嫌悪していた。 痛いほどの沈黙が落ちる。 りとは泣きそうになるのを必死に堪えながら、テーブルの上で彼の大きな手を両手でそっと包み込んだ。 同情して可哀想なんて言ってはいけない気がした。ただ、ここにいると伝えるように、ぎゅっと指先を握る。 鷲尾は伏せていた目を上げ、りとを真っ直ぐに見つめた。「君のその、感情がすべて顔に出るところや、馬鹿みたいに前向きで単細胞なところに……俺は、ずっと救われていた」 思いがけない言葉に、りとは目を見開いた。「会社でも夜の仕事でも、俺は完璧な役割を求められる。だが、君の部屋でオムライスを食べている時だけは、俺はただの男
Last Updated: 2026-07-27
離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした

離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした

最低な不倫夫を捨てたその日、花屋で働く和花(わか)は、雨が降る夜にゴミ捨て場で記憶喪失の美しい青年・理聖(りひと)を拾う。 濡れた服を脱がせると彼の背中には和彫りの刺青が! さらに鞄からは大量の札束と本物の拳銃まで見つかってしまう。もしかして、裏社会の人間……? そう分かっていたはずなのに、孤独と酔い、そして彼の色気に絆され、和花はその日のうちに彼と関係を持ってしまう。 危険な男と一夜の過ち――かと思いきや、理聖は家事を完璧にこなし、和花をどこまでも優しく甘やかしてくれる最高に過保護な同居人で!? どん底から一転、危険な彼との甘すぎる溺愛の日々が幕を開ける――!?
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Chapter: 04.孤独を溶かした夜
 重なった唇は、最初はただ触れ合うだけの、小鳥が啄むような軽いものだった。 驚きに目を見開いていた理聖だったが、和花が逃げないとわかると、そっと目を閉じ、呼応するように顔の角度を変えてきた。 温かな息遣いが絡み合い、戸惑うような浅い口づけは、徐々に熱を帯びて深くなっていく。 背中に回された彼の手が、不器用ながらも力強く和花の身体を引き寄せた。 ほんの少しのアルコールと、冷え切った心を溶かすような彼の体温。 わずかに開いた唇の隙間から、彼がそっと舌先を這わせてくる。甘い痺れが脳髄を駆け抜け、和花の口から抑えきれない吐息がこぼれた。 息継ぎのためにゆっくりと唇が離れると、二人の間に艶やかな銀の糸が引いて、切れた。 和花の頬は火のように熱かった。 元夫である芽流とは、結婚してから1度も男女の関係になっていなかった。「疲れているから」と躱され続け、その理由がまさか別の女の存在だったとは思いもしなかったのだ。 女性として求められていないという事実が、ずっと心の奥で重いしこりとなっていた。 だからこそ、久しく忘れていた甘い刺激に、和花の身体は自分でも驚くほど正直な反応を示してしまっていた。 下腹部が甘く疼き、指先まで熱が巡っていく。 そのかすかな震えと吐息の熱さで、理聖は和花の変化に気づいたようだった。 切れ長な瞳が、熱を帯びたまま和花の顔をじっと見つめる。そして、視線を部屋の片隅や、先ほど和花が差し出した男物のスウェットへと向けた。 部屋には、まだ微かに別の男性が暮らしていた気配が残っている。新品のまま放置されていた男性用の衣類。そして、泣きはらしたような和花の目元。 理聖は何かを察したように、和花を抱き寄せていた腕の力を少しだけ緩めた。「……和花さん。念の為の確認ですが……大丈夫ですか?」 低くかすれた声が、耳元で優しく響く。 大丈夫。その言葉の意味するところは、和花にも痛いほどよくわかった。 このまま、行きずりの男と関係を持ってしまっても後悔しないか。誰かに責められるような状況ではないのか。 記憶を失っていても、彼の頭の回転の速さと他者を気遣う優しさは健在のようだった。 離婚届を出したその日のうちに、見知らぬ男とこんなことになるとは、夢にも思っていなかった。 明日になれば、冷静になって激しく後悔するかもしれない。警察に追われて
Last Updated: 2026-08-01
Chapter: 03.甘い過ちの始まり
 その沈黙を切り裂くように、遠くからけたたましいサイレンの音が近づいてきた。「……っ!」 和花は思わず肩を跳ねさせた。ウー、ウーという赤色灯の幻影が、雨の降る窓の外を駆け抜けていく錯覚に陥る。複数台のパトカーが、アパートの周辺を取り囲むように巡回している気配がした。 心臓が肋骨を突き破りそうなほど、激しい早鐘を打つ。背筋を冷や汗が伝い落ちた。 目の前にいるのは、拳銃と立派な刺青を持つ素性不明の男。 もしや事件を起こして逃走中なのでは。警察が踏み込んできたら、匿っている自分も捕まってしまうのではないか。 和花の頭の中で最悪の想像が膨らみ、恐怖で呼吸が浅くなる。 しかし当の理聖はといえば、きょとんとした顔でソファーにちょこんと座っていた。 まるで事態を理解していないような無防備な姿だ。それを見ていると、和花の方が過剰に怯えているだけのようにすら思えてくる。 息を殺して数分。やがてパトカーの気配は遠ざかり、外には再び雨の音だけが戻ってきた。「……はぁ」 和花は全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。盛大に安堵の息を吐き出す。「あの、大丈夫ですか?」 理聖が不思議そうに小首を傾げた。その拍子に、彼が少し顔をしかめたのを見て、和花は思い出した。「そういえば、後頭部が腫れていたんでした! 見せてください」 救急箱を取り出し、理聖の背後に回る。濡れた深い色の髪をそっとかき分けると、透き通るような色白のうなじの上に、赤く腫れ上がった箇所があった。「少し痛みますよ」 消毒液を浸したガーゼを当てると、理聖の広い背中がビクッと揺れた。和花は痛みを散らすように、そっと周囲を撫でながら手当てを進めていく。「貴方が何者なのかは、今の私にはわかりません。でも……その荷物を見る限り、暫くはここにいた方がいいかもしれないですね」 記憶もなく、警察に追われているかもしれない危険な男。関わるべきではないと本能が警鐘を鳴らすが、冷たい雨の降る夜に、彼を一人で外へ追い出すことなどできなかった。「ええ……そうですね」 理聖は困ったように眉を下げた。「申し訳ありませんが、少しの間だけ、お世話になります」 手当てを終えた和花は、再びビジネスバッグに視線を落とした。拳銃が見つかって驚愕し後ずさってしまったが、よく見るとまだ底の方に何か入っている。 恐る恐る中
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 02.別れと出会い
 芽流たちが去った後、部屋にはきつい香水の匂いだけが残されていた。 和花は窓を全開にし、冬の冷たい風を部屋いっぱいに取り込んだ。 それから、二人が寝転がっていたベッドを冷ややかに見下ろす。少しでも彼らの痕跡を残しておきたくなかったのだ。 その日の午後、和花は役所の窓口に立っていた。 突き返されたらどうしようという不安をよそに、手続きはあっさりと終わった。 高橋和花は、この日をもって|佐伯《さえき》和花へと戻ったのだ。 書類を受理した職員の「お疲れさまでした」という優しい声に、小さく頭を下げる。 これで、本当に終わったのだ。 アパートの部屋に戻ると、張り詰めていた糸がふっつりと切れたように、目から大粒の涙が溢れ出した。 自分でも驚くほど、声を出して泣いた。 愛が残っていたわけではない。ただ、高校生の頃から一緒にいた彼に対する、断ち切れない情だけはあったのだろう。 そして何より、彼のために懸命に働いてきた自分の時間が、ひどく無価値なものに思えて悔しかった。「……とりあえず、このベッド捨てなきゃ」 手の甲で乱暴に涙を拭い、和花は顔を上げた。泣いている暇なんてない。 すぐに不用品回収業者へ連絡を入れると、運良くその日のうちに来てもらえることになった。 巨大なキングサイズのベッドが運び出され、がらんどうになった寝室を見渡す。 押し入れから来客用の布団を引っ張り出し、フローリングの上に敷いた。当分はこれで寝るしかない。 ぽつんと置かれた布団を見ていると、どうしようもない孤独感が押し寄せてきた。「……家にいたくないなぁ」 誰の温もりもない冷たい部屋から逃げ出すように、和花は傘を手に取った。 いつの間にか、外は冷たい雨が降り始めていた。 夕方。冷たい雨が打ち付ける中、和花は近所の赤提灯が下がる居酒屋にいた。 一人でこんな店に入るのは初めてだったが、とにかく誰かの声がする明るい場所にいたかった。 カウンター席の隅に陣取り、焼き鳥を頬張りながらビールを呷る。(ちょっと飲みすぎちゃったかな……) 何杯目かのジョッキを空にしたところで、和花は小さく息を吐いた。 明日も花屋の仕事があるというのに、足元が少しおぼつかない。 会計を済ませ、冷たい雨の降る外へと出る。傘に当たる雨音が、酔った頭に心地よく響いた。 フラフラとした足取りで家路に
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 01.夫の裏切り
「うー、寒っ」 2月の冷たい風が頬を撫でる。吐く息は白く、冬の寒さはまだ厳しい。それでも、見上げる空は抜けるような青空だった。 |高橋《たかはし》|和花《わか》は、冷え切った手をこすり合わせながら自宅への道を急いでいた。 今日は2月13日。バレンタインデーの前日ということもあり、和花が働く花屋は朝から目の回るような忙しさだった。 早朝からのシフトに入っていた和花は、昼過ぎにはすべての業務を終えることができたのだ。 ふんわりと編み込まれたミルクティーベージュの三つ編みが、歩くたびに背中で小さく揺れる。セージグリーンのエプロンワンピースの下には温かい素材のブラウスを着込んでいるものの、冷え性の体には少しこたえる寒さだった。 夫である|芽流《めぐる》は、今頃まだ寝ているだろうか。 芽流とは昨年入籍したばかりだった。 中学時代からの友人で、高校生の頃に交際をスタートさせた。同じ短大を卒業した後、和花は花屋の正社員として就職し、芽流はフリーターになった。 バンドでいつか成功する。そう熱く語る彼を支えたい一心で、和花は懸命に働いてきた。 しかし、二人の生活基盤が整ってくると、芽流は全く働かない日が増えていった。「曲作りに集中したい」と言われると、優しく穏やかな性格の和花は争いを避け、ただ黙ってうなずくことしかできなかったのだ。 自宅のアパートに到着し、ドアを開ける。「ただいま……」 無人の玄関に向かって呟いた和花の視線は、三和土に脱ぎ捨てられた見慣れない派手なハイヒールに釘付けになった。 嫌な予感が脳裏をよぎる。和花は音を立てないように靴を脱ぎ、寝室へと向かった。 ドアの隙間から、女の甲高い笑い声と芽流の声が漏れ聞こえる。震える手でゆっくりとドアを開けた。「……芽流くん、これ、どういうことかな……?」 絞り出すような声が響く。 和花が必死に働いて買ったキングサイズのベッドには、芽流と、見知らぬ褐色肌のブロンドギャルが身を寄せ合っていた。「ちょっとヤダ〜! 芽流、奥さん帰り遅いって言ってたのに〜!」 女は苛立ったように毛布を引き寄せる。「わ、和花、今日も遅くなるって言ってたよね……? バレンタイン前日で、繁忙期だって……」 血の気を失った芽流が見え透いた言い訳を口にする。「えっ、今日は早朝シフトだから、お昼すぎには帰るって……伝えて
Last Updated: 2026-07-30
余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる

余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる

空が鉛色に沈む天都皇国(てんとこうこく)。 帝都・白嶺(しらみね)は長年、人を喰らう化け物〝異形〟の脅威に晒されていた。 対異形特務軍に所属する青年、白玖(はく)。 巨大な白狐に姿を変え、異形を祓う帝国最強の決戦兵器たる〝神〟である彼は、その絶大な力を振るうため、莫大な魔力を宿す〝深紅の瞳の少女〟の血肉を必要としていた。 新たに軍へ配属された十四歳の少女、藍沢緋依(あいざわ ひより)。 彼女は神の餌として育てられた〝生贄〟であり、十五歳を迎える満月の夜、その身をすべて神に捧げて喰われる運命にあった。 飄々とただの兵器として生きてきた白玖は、自ら血を差し出す彼女の異質な明るさにペースを乱されていく――。
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Chapter: 27.白狐の怒りと、神様の口づけ
 火野によって緋依が安全な後方へと運ばれていったのを確認した直後。白玖の身体は、再び目も眩むような白銀の光に包まれた。  激しい地響きと共に、巨大な白狐が戦場に顕現する。 しかし、今の彼から発せられる気配には、普段の気怠げで飄々とした余裕など微塵も残されていなかった。そこにあるのは、己の大切な光を傷つけられた獣としての、純粋で狂暴な殺意だけだ。 白玖は鼓膜を劈くような咆哮を上げると、一切の防御を捨てて〝異形〟の群れへと突撃した。  強靭な顎が化け物の首を軽々と噛み千切り、大木のような九本の尾が薙ぎ払うだけで数体の〝異形〟が原型を留めずに吹き飛んでいく。 血と肉片が雨のように降り注ぐ中、白玖はただひたすらに目の前の動くものを蹂躙し続けた。一切の慈悲も容赦もないその苛烈な猛攻は、あまりにも凄惨で恐ろしく、周囲で防衛線を張っていた兵士たちに(果たして、どちらが本当の〝化け物〟なのだろうか)と畏怖の念を抱かせるほどだった。 一方、その凄惨な蹂躙劇から少し離れた戦線では、もう一人の規格外の存在が猛威を振るっていた。  対異形特務軍総帥、鷺原斎である。 美しい長い銀髪を血風に揺らしながら、鷺原は身の丈ほどもある大太刀を羽のように軽々と振るい、立ちはだかる〝異形〟を次々と両断していく。  本来、全軍を統括する総帥という立場であれば、安全な後方で指揮を執るのが軍の定石である。しかし、彼個人の戦闘能力はあまりにも高すぎた。 後方支援でくすぶらせておくよりも、前衛で直接剣を振るわせた方が遥かに戦果が上がるのだ。  そのため、放っておくと鷺原は現場の指揮を首席参謀官である火野に丸投げし、血路を開きながらどんどん最前線へと突出してしまう悪癖があった。『鷺原総帥! 前に出すぎです、少しは自重してください!』 通信機越しに飛んでくる火野の怒声もどこ吹く風。鷺原は涼しい顔で大太刀を血振りし、「指揮はお前に任せている」とだけ言い残して、さらに奥へと斬り込んでいった。 かくして、〝神〟と総帥という二つの圧倒的な力により、あれほど街を埋め尽くしていた〝異形〟の群れは、やがて完全に沈黙した。 しかし、戦いが終わった市街地には無残な爪痕が残されていた。特に、突然現れた双頭の巨大な〝異形〟――あのような特異で凶悪な個体は、特務軍の長い歴史の中でも初めて確認されたものだった。
Last Updated: 2026-08-01
Chapter: 26.僕の生贄に、何してくれてんの?
 急行した専用車両から飛び降りた瞬間、むせ返るような濃密な血と泥の匂いが白玖と緋依の鼻を突いた。 市街地は、すでに地獄のような惨状を呈していた。降り続いていた雨はいつの間にか上がっていたが、あちこちにできた大きな水溜まりは、崩壊した瓦礫の破片と、無残に引き裂かれた人々の真っ赤な血が混ざり合い、ひどく濁った色をしている。  悲鳴と怒号が交錯する最前線。そこには、すでに大太刀を振るって〝異形〟と渡り合っている長い銀髪の男――対異形特務軍総帥の鷺原斎と、指揮を執る赤髪の首席参謀官、火野玲奈の姿があった。「遅いぞ、白玖。待ちくたびれた」 大太刀で〝異形〟の胴体を両断しながら、鷺原が鋭い視線を向けてくる。「こっちは寝起きだったんだから、少しは労ってほしいね」 白玖が飄々と返すと、火野が安堵の表情を浮かべて駆け寄ってきた。「白玖様、緋依! 到着感謝します。私はこれより住人の救助と避難誘導に切り替えます。総帥殿、白玖様の援護をお願いします!」 「ああ、頼む」 火野が手早く指示を出し、兵士たちと共に瓦礫の奥へと走っていく。 白玖は氷のような瞳で、前方に蠢く群れを見据えた。今回の〝異形〟は図体が大きいうえに、異常に脚部が発達している個体が多く、動きがひどく素早い。特務軍の兵士たちの銃撃も容易く躱されている。「……ごめんね。ちょっと乱暴になるかも」 「えっ――」 緋依が聞き返すよりも早く、白玖は彼女の首筋に顔を埋め、鋭い牙を立てた。  チクリとした微かな痛みの後、トクン、トクンと自身の熱い血と魔力が彼の中へ吸い上げられていく感覚。  難航する戦況を見越した戦場での急ぎの儀式は、いつもよりもずっと強引で、けれど不思議なほど甘美な痺れを伴っていた。 十分な魔力を得た白玖は緋依から唇を離すと、次の瞬間、その身体を神々しい巨大な白狐の姿へと変じさせた。  地響きとともに顕現した決戦兵器。真っ白な毛並みを揺らし、白玖は猛然と〝異形〟の群れへと飛び込んでいく。 強靭な顎で骨を噛み砕き、鋭い爪で肉を引き裂く。まさに鬼神のごとき猛攻だった。  その後方から、緋依は両手を前に突き出し、膨大な魔力を練り上げる。「はぁっ!」 地面を隆起させて岩の足場を作り出し、白玖の機動力をサポートする。さらに氷の魔法を放ち、素早い〝異形〟の足元を凍らせて動きを鈍らせる。  磨
Last Updated: 2026-07-29
Chapter: 25.パンを持つ少女
 しと、しと、しと……。 心地よかったはずの優しい雨音は、微睡みの底へと沈むにつれて、鼓膜を激しく打つような土砂降りの音へと変わっていった。 それは、白玖がまだ今よりも幼い姿をしていた頃の、遠い、遠い昔の記憶。『この、気味の悪い化け物め!』『薄気味悪いんだよ、俺たちの街から出て行け!』 冷たい雨が打ち付ける路地裏で、複数の人間の男たちから容赦ない蹴りと殴打を浴びていた。 不気味な白髪と氷のような瞳。ただ死なないというだけで、魔力を持たない当時の白玖には反撃する力など少しも残されていなかった。 男たちが去った後、泥水の中に倒れ伏していた白玖は、ズキズキと激痛を訴える足を引きずりながら、なんとか自分の寝床へと向かった。 そこは、帝都の片隅にある廃棄された古い石造りの地下水路。ひどく入り組んでおり、人間からは見つかりにくく、雨風を凌ぐにはちょうどいい場所だった。 薄暗い水路の壁に背中を預け、白玖は荒い息を吐き出した。 激しい痛みを発している左足を見る。不自然な方向に曲がり、赤黒く腫れ上がっていた。(……これは完全に骨が折れてるな) 白玖は苦痛に眉根を寄せた。 死なない体質とはいえ、修復には時間がかかる。ぐぅ、と情けない音を立ててお腹が鳴った。人間の食べ物でも命は繋げるが、今日はゴミ箱を漁ることもできず、食べ物は一切見つけられなかった。 足は激痛に苛まれ、腹は空き、雨の冷たさが体温を奪っていく。(……この世界には、僕への救いなどないのか) 目を閉じ、孤独と絶望に心を沈めようとした、その時だった。 タッタッタッ、と、石畳を駆け下りてくる軽い足音が聞こえた。「ご、ごめんなさい……! 雨がすごくて、来るのが遅くなってしまったわ」 薄暗い地下水路に、場違いなほど華やかな声が響く。 雨で滑りやすくなった石の階段を慎重に下りてきたのは、一本の傘を差した少女だった。 艶やかな深い藍色の長い髪に、宝石のように輝く深紅の瞳。年齢は十四歳ほどだろうか。見事な矢絣の着物に海老茶色の袴を合わせ、足元は革の編み上げ靴という、いかにも名家の令嬢といった身なりをしている。 千鶴という名前のその少女は、人間から迫害されて地下に隠れ住む白玖に同情したのか、度々こうして親の目を盗んでは食料を運んでくれる、ひどく〝変な人間〟だった。 絶望の底にいた白玖にとって、暗
Last Updated: 2026-07-28
Chapter: 24.本物の神を見た
 季節は巡り、帝都・白嶺は初夏を迎えていた。  分厚い鉛色の雲が空を覆い隠し、数日にわたってしとしとと雨が降り続く梅雨の時期。特務軍本部の特別室も、どこか薄暗くしっとりとした空気に包まれている。 キッチンからは、出汁の香ばしい匂いが漂っていた。緋依は手際よく作った朝ごはんを食卓に並べ、白玖が起きてくるのを待っている。  本日の献立は、こんがりと焼けたアジの開き、出汁が効いた甘めの厚焼き玉子、ひじきの煮物、ネギと豆腐のお味噌汁、彩り豊かな漬け物、そして炊きたての麦ごはんだ。「白玖様、朝ごはんが冷めてしまいますよ」 緋依が寝室のドアをそっと開けると、ベッドの中心には布団にぐるぐると包まった白い塊があった。「うう……雨の日、やだぁ……。頭痛いし、湿気で身体がだるい……」 布団の隙間から、恨みがましい声が漏れ聞こえてくる。「はいはい、わかっていますから。ほら、起きてください」 緋依は慣れた手つきで容赦なくシーツを捲り上げ、ベッドから出たがらない白玖の背中をぐいぐいと押し出した。だらんと力のない彼に簡単な部屋着を羽織らせ、半分引きずるようにして食卓の椅子へと座らせる。「……相変わらず、美味しそうだな」 先ほどまで死んだ魚のような濁った目をしていたというのに。緋依の手料理を見た瞬間、白玖の氷のような瞳がパァッと輝き始めた。  「いただきます」と両手を合わせ、夢中になってアジの開きに箸を伸ばす。「ん〜! やっぱり、美味しい」 口いっぱいに麦ごはんを頬張りながら、幸せそうに目を細める白玖。その無邪気な顔を見つめながら、緋依はふと胸の奥に小さな寂しさを覚えた。(あの日、白玖様にからかわれて『結婚したいです』って意地悪で返してから……さすがに、あの手の軽口は叩かなくなっちゃったな) 以前は「嫁においで」と日常的にからかわれていたのに。自分が大胆な返しをして彼を赤面させて以来、パタリと止んでしまったのだ。平穏ではあるものの、ほんの少しだけ物足りなさを感じている自分がいる。(って……それはさすがに我儘ですよね。私は今年の冬には、命を捧げる生贄になる身なのに) 自分の矛盾した感情を振り払うように、ふるふると首を横に振る緋依。白玖は味噌汁のお椀を持ったまま、不思議そうに彼女を見つめて小首を傾げていた。 食後。手早く後片付けを済ませ、特務軍の白い軍服に着替
Last Updated: 2026-07-27
Chapter: 23.残される者のエゴ
 白玖の狂気じみた荒い運転に寿命が縮む思いをした緋依だったが、その猛烈なスピードのおかげで、厳しく定められている特務軍の帰営時刻には、見事なまでに間に合っていた。 それぞれ浴室で疲れを洗い流し、消灯された薄暗い寝室へ。 緋依が当たり前のように白玖の腕の中へ潜り込むと、彼は長い指先で緋依の深い藍色の髪を、愛おしむようにゆっくりと撫で始めた。「……楽しかったかい?」「はい! とても! 私の我儘を聞いてくださり、本当にありがとうございました」「君は、孤児院の奴らからも、街の奴らからも……色んな人から愛されているのだね」 白玖は、花ノ瀬の街を歩いた時のことを思い出していた。すれ違う近所のおばあちゃんや、商店街の魚屋やパン屋の夫婦までが、緋依を見るなり「綺麗になったねえ」と温かく声をかけてきたのだ。「えへへ……。孤児院のみんなだけじゃなく、私が育った花ノ瀬の皆さんは、親を持たない私を我が子のように大切にしてくれました。私は、あの温かい周りの人たちのおかげで、この残酷な世界が大好きになったんです。だから……私は恩返しがしたい」「その恩返しが、国のために命を捨てる〝生贄〟になるってこと?」「はい」「君を愛している奴らは、君がいなくなったら悲しい思いをするかもしれないよ?」 白玖の静かな問いかけに、緋依は少し考えるように目を伏せた。「そうかもしれません……。でも、それでも私は、私を愛してくれたみんなが、明日も明後日も、安心して笑って生きていける未来を作りたいんです。私が命を懸けることで、彼らの平和な日常が守られるのなら……」「ふぅん。君のその無償の愛とやらは、残される人間のどうしようもないエゴをこれっぽっちも理解してないね。酷く綺麗で、残酷だ」 どこか吐き捨てるような、白玖らしい皮肉めいた嫌味。 しかし、その言葉とは裏腹に、暗闇で見下ろしてくる彼の氷のような瞳は、微かに水気を帯びて潤んでいるように見えた。 彼はそっと緋依の首筋に顔を埋めると、チクリと、鋭い牙で肌を甘噛みした。「っ……!」 魔力を奪うための、あの激しい吸血ではない。微かに滲んだ血の雫を、彼がペロリと柔らかい舌先で舐めとる。 それはまるで、愛おしくてたまらないものを惜しむような、あるいは行かないでくれと縋るような、ひどく切ない愛情表現のようだった。 首筋に走ったピリッとした微か
Last Updated: 2026-07-26
Chapter: 22.言えない想い
 日がすっかり落ち、窓の外に夜の帳が下りる頃。 孤児院の広い厨房では、子供たち全員分の夕飯の支度が慌ただしく進められていた。 エプロンを身につけた緋依は、橘が次に何を求めているかを瞬時に察し、調味料を手渡したり、野菜を刻んだりと、流れるような手際で立ち回っていた。特務軍の特別室で毎日白玖の世話を焼いている経験も生きているのだろう。「ふふ。緋依はすっかりお料理の腕を上げましたね。変わりないようで、安心しました」 大きな鍋を木べらでかき混ぜながら、橘が目を細めて微笑んだ。「先生たちも、みんな元気そうで本当に良かったです」 緋依が嬉しそうに答えると、橘は鍋から手を止め、緋依の頭を優しく撫でた。「あなたは昔から、すぐに頑張りすぎてしまいますからね。どうか、疲れた時はきちんと休憩するのですよ」「……はいっ」 母親のような温かい言葉に、緋依はこくりと力強く頷いた。 そこへ、「私も手伝うわ!」と小夜が意気揚々と厨房に入ってきた。しかし彼女は料理が絶望的に不得意だ。頼んでもいないのに奇抜な調味料の瓶をいくつか抱えており、橘と緋依は「ストップ!」「小夜は味見係をお願い!」と慌てて全力で阻止した。「もう、二人とも酷いわね。……でも、緋依のその手際の良さなら、絶対モテるわ。あの綺麗な神様を〝骨抜き〟にしちゃうのも、わかる気がする!」 味見用の小皿を持ちながら、小夜がニヤニヤと笑った。「ほ、骨抜きって……! ちょっと、小夜!」「あらあら、まあまあ。緋依は神様のことをすっかり骨抜きにしてしまったのですか?」 顔を真っ赤にして否定する緋依に、あろうことか橘までが楽しそうに乗っかってきた。「も、もう、橘先生まで……っ。骨抜きになんてしていないですよ!」 緋依が必死に弁解しようとした、その時だった。「どうもー。この子にすっかり〝骨抜き〟にされた神様でーす」「ひゃっ!?」 背後から突然、白玖が緋依をすっぽりと抱きしめ、彼女の頭の上に自分の顎を乗せてきた。 冷たいけれど心地よい体温。軍服越しに伝わる密着した距離感に、緋依の心臓が大きく跳ねる。「ほら、やっぱり!」「まあ、本当に仲良しですねえ」 小夜が指を差して笑い、橘が口元を手で覆ってくすくすと笑う。「ちょ、ちょっと白玖様……っ! 遊ばないでください!」 緋依は慌てて白玖の腕から逃れようとしたが、彼
Last Updated: 2026-07-25
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