Chapter: 第70話 二人で選んだ未来 グループAI統括室が正式に発足した日。 澪は、新しい執務室の前に立っていた。 扉の横には、白石澪という名前が記されている。 結婚後も、仕事ではこの名前を使う。 それを会社へ伝えたとき、反対する者はいなかった。「白石室長」 佐伯が呼びかける。「会議の準備ができました」「ありがとうございます」 室内には、法務、人事、監査、情報システム、開発部門から集まった職員が座っている。 大きな組織ではない。 最初から完璧な規程があるわけでもない。 それでも、問題を隠さず話せる場所ができた。「今日から正式に業務を始めます」 澪は参加者を見回した。「統括室は、AIの導入を妨げるための組織ではありません」 黒崎が匿名文書で主張したように、澪はすべてを止めたいわけではない。「安全に使い続けるために、必要なときに立ち止まれる組織です」 澪は三つの基本原則を改めて説明した。 判断する人間を明確にする。 使用したデータを記録する。 重大な問題があれば、安全に停止する。「わからないことを、わかったふりで進めないでください。問題を報告した人を、計画を邪魔した人として扱わないでください」 参加者たちが頷く。「私の判断が間違っていると思ったときも、記録を残して反対してください」「室長の指示にもですか」「もちろんです」 佐伯が少し笑った。「では、遠慮しません」「お願いします」 最初の会議を終えると、澪は婚姻届の入った鞄を持って会社を出た。 正面玄関では、鷹司が待っている。「お待たせしました」「私も、今来たところです」「十分前から立っていましたよね」「見えていましたか」「統括室の窓から」 二人は並んで役所へ向かった。 婚姻届の提出には、思っていたほど時間がかからなかった。 記入内容を確認され、受理されたことを告げられる。「これで終わりですか」 外へ出たあと、澪が尋ねた。「そのようですね」「もっと、何か変わると思っていました」「何か変わりましたか」 澪は自分の手を見る。 指輪は昨日までと同じだった。 隣を歩く鷹司も、昨日までと変わらない。「名前が変わりました」「はい」「でも、まだ実感がありません」「家に帰れば、少し変わるかもしれません」 二人は役所から、去年桜を見た公園へ向かった。 花はすでに散り始め
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 第69話 ただいまを言う場所 引っ越しの日は、朝から雨だった。「桜が散ってしまいますね」 新居の窓から外を見ながら、澪が言った。「まだ残っています」 鷹司は段ボール箱を運びながら答えた。 公園の桜は、雨に濡れながらも淡い花を残している。 部屋の中には、二人分の荷物が積み上がっていた。 鷹司の箱には、書類や本が整然と分類されている。 澪の箱にも名前は書かれているが、中身は必ずしも一致していなかった。「これは、仕事関係と書かれていますが、食器が入っています」「最後に空いていた箱へ入れたので」「分類の意味がありません」「開ければわかります」「開けるまでわからないことが問題です」 鷹司は困ったように箱を見つめた。「あとで一覧を修正します」「もう開けるので、修正しなくていいです」 二人で箱を開け、必要なものを棚へ収めていく。 食器は二人で選んだ。 机と椅子は、それぞれが使いやすいものを選んだ。 リビングのソファだけは意見が合わず、決めるまでに三度店へ足を運んだ。 結局、どちらの第一希望でもないものを選んだ。 だが、二人で座ると不思議と落ち着いた。 午後になり、澪のスマートフォンに統括室から連絡が入った。 試験導入中の文章作成AIが、社外秘の情報を含む回答を出したという。「会社へ戻りますか」 鷹司が尋ねた。 澪は報告内容を確認した。 佐伯が利用を停止し、情報システム部へ調査を依頼している。 法務にも共有済みだった。 対応手順に漏れはない。「戻りません」「大丈夫ですか」「佐伯さんたちが対応しています」 澪は返信を入力した。『初動対応を確認しました。調査結果を記録し、月曜日に報告してください』 以前なら、すぐに会社へ向かっただろう。 自分で確認しなければ不安だった。 だが、それでは統括室を作った意味がない。「気になりますか」「気になります」「戻らなくていいのですか」「私がいないと対応できない組織にはしません」 澪は端末を伏せた。「今日は、ここを片づけます」「では、次は台所ですね」 二人で作業を続け、夕方には段ボール箱の大半が空になった。 夕食は、近所の店で買った弁当だった。 まだ調理器具の場所が決まっていない。「広い台所を選んだ意味がありませんね」 鷹司が言った。「今日から毎日使えという意味ではありません」
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 第68話 変わる名前 新居の契約を終えた翌週、澪と鷹司は婚姻届を前にしていた。 記入できる欄は多くない。 それでも、澪の手は一つの欄で止まった。 婚姻後の姓。「迷っていますか」 鷹司が尋ねた。「少しだけ」 結婚すれば、澪は鷹司の姓を名乗る予定だった。 家族への挨拶でも、そのつもりだと話している。 だが、白石澪という名前は、単なる記号ではなかった。 軽視された名前。 成果を奪われた名前。 それでも、自分の仕事を取り戻した名前だった。「仕事では、白石のまま続けたいです」 澪は言った。「もちろんです」「反対しないんですか」「なぜ反対するのですか」「鷹司家の人間として働いているように見えたほうが、都合がいいと思う人もいるかもしれません」「そのほうが、あなたにとって都合が悪いでしょう」 統括室の責任者になった直後、鷹司姓へ変えれば、婚約や家の力で選ばれたと考える人もいるだろう。「白石澪として積み重ねた実績は、結婚しても消えません」 鷹司は続けた。「必要なら、婚姻後も私が白石を名乗ることもできます」 澪は驚いて顔を上げた。「本気ですか」「はい」「鷹司家はどうするんですか」「家の都合だけで、あなたに変化を求めるつもりはありません」「会長が認めないのでは?」「父の許可を得て結婚するわけではありません」 鷹司らしい答えだった。 澪はしばらく婚姻届を見つめた。「戸籍上は、鷹司でいいと思っています」「本当に?」「はい。ただし、仕事では白石澪を使います」「わかりました」「家では、どう呼びますか」「澪さん、と」「今までと同じですね」「変えたほうがいいですか」「いいえ」 澪はペンを持った。「名前が変わっても、全部が変わるわけではありませんね」「変えたいものだけ、二人で変えればいいと思います」 婚姻届の記入を終える。 提出日は、二人が初めて桜を見に行った日に近い日を選んだ。 式については、まだ決めていない。 大きな披露宴を望んでいるわけではなかった。「会社には、いつ報告しますか」「統括室の正式発足後にします」「隠していると思われませんか」「婚約していることは知られています。結婚の日まで全社員へ報告する必要はありません」「では、発足の日と入籍の日が近くなりますね」「忙しくなりそうです」 鷹司は手帳を開いた。
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 第67話 過去から届いた依頼 その日の午後、澪のもとへ一通のメールが届いた。 差出人は、以前の勤務先の清算業務を担当している弁護士だった。 会社は事業を大幅に縮小し、残された契約や資産の整理を進めているという。『旧AIシステムに関する技術資料について、お話を伺いたいと考えております』 澪は何度も文章を読み返した。 以前なら、会社の名前を見ただけで胸が苦しくなった。 今も、何も感じないわけではない。 しかし、画面を閉じたくなるほどではなかった。「返事をするんですか」 佐伯が心配そうに尋ねた。「業務上必要な範囲で対応します」「またシステムを直してほしいと言われたら?」「直しません」 澪は静かに答えた。 会社が崩れたあとも、澪が戻れば何とかなると思っている人はいた。 だが、澪には救う義務も、再び犠牲になる理由もない。 数日後、オンラインでの面談が行われた。 画面の向こうには、弁護士と清算担当者が座っている。「白石様が退職前に作成された設計資料の所在を確認したいのです」「退職時に、会社の共有サーバーへ保存しました」「一部が削除されているようです」「削除したのは私ではありません。保存した日時と場所は、退職時の引き継ぎ書に記載しています」「その引き継ぎ書も、見つかっておりません」 予想していた答えだった。 以前の会社では、都合の悪い記録が消されることが珍しくなかった。「私の手元に、提出済みであることを示すメールは残っています」「ご提供いただけますか」「弁護士を通して、必要な範囲のみ提出します」 澪は即答した。「システムの復旧作業をお願いすることは難しいでしょうか」「お断りします」「報酬については、相応の金額を――」「金額の問題ではありません」 澪は画面をまっすぐ見た。「私は、退職時に必要な引き継ぎを行いました。その後の管理は、会社の責任です」 清算担当者は困ったように黙った。「承知しました。失礼なお願いをして、申し訳ありません」 面談が終わる直前、弁護士がもう一つの連絡を伝えた。「元社員の方から、白石様へ個人的な文書を預かっています」 送信されたファイルを開く。 差出人は、元婚約者だった。 長い文章ではなかった。 自分が澪の仕事を理解しようとしなかったこと。 会社が崩れ始めてから、澪がどれほど多くの問題を防いでいたか知
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 第66話 記録が示したもの 黒崎の会社に関する内部調査は、一週間後に一区切りを迎えた。 法務部、監査部、情報システム部による報告会には、澪も統括室の責任者として出席した。「結論から申し上げます」 監査部長が資料を開いた。「顧客情報の提供に、正式な承認はありませんでした」 営業企画部では、検証を急ぐという理由で必要な手続きが省略されていた。 川瀬は上司から成果を求められ、黒崎からは他社も同じ方法で進めていると説明されていた。 しかし、実際の顧客データを外部へ渡す許可は、誰も出していない。「匿名文書については?」 会長が尋ねた。「黒崎さんの会社で作成された可能性が高いと判断しています」 情報システム部長が、送信記録を画面に表示した。 来客用ネットワークからメールを送った人物は、防犯カメラに映っていた黒崎の部下だった。 本人は、黒崎から渡された文書を送っただけだと説明している。「文章は、問題のAIを使って作成されていました」「AIが勝手に送ったのですか」 役員の一人が尋ねた。「いいえ」 澪が答えた。「澪に関する情報を入力し、就任を阻止する文書を作るよう指示した人間がいます。送信したのも人間です」「では、AIは道具にすぎないと?」「責任を逃れるために使われた道具です」 AIが暴走したわけではない。 人間が目的を与え、都合のいい情報を集め、もっともらしい文章を作らせた。 そして、AIが出した結果だから客観的だと主張しようとした。「東央リテールの社員評価についても、同様です」 監査部長が続ける。「排除対象という分類名は、黒崎さん側が設定していました。自動的に人事処分を行う機能はありませんでしたが、人事担当者が評価結果を参考にしていた形跡があります」「影響を受けた社員は?」「現在、先方が過去の異動や契約終了を再確認しています」 被害がなかったわけではない。 だが、AIが自ら人間を支配していたのでもない。 判断をAIへ預けた人間がいた。 説明せずに利用した人間がいた。 それが問題の本質だった。「黒崎さんの会社との契約は解除します」 会長が告げた。「不正なデータ取得については、関係機関への報告も進めてください」「川瀬さんの処分はどうなりますか」 澪が尋ねた。 営業企画部長が答える。「規程違反により、当面の間、業務から外します」
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 第65話 最初の規則 週明け、グループAI統括室の設立準備会議が開かれた。 正式な発足は一か月後。 それまでに、組織の規程と審査手順を決めなければならない。 会議室には、開発部門だけでなく、法務、人事、監査、情報システム部から選ばれた社員が集まっていた。 佐伯も、開発部門の担当者として参加している。「白石さん」 会議が始まる前、佐伯が小声で尋ねた。「本当に僕でよかったんでしょうか」「嫌でしたか」「そうではありません。ただ、もっと経験のある人がいると思って」「経験だけで選んだわけではありません」 澪は資料を机に置いた。「佐伯さんは、正式な申請がないからデータを渡さなかった。それが選んだ理由です」「あれは、規則だったので」「規則を守ることを、簡単だと思わないでください。急いでいると言われたり、上の指示だと言われたりすれば、守れない人もいます」 佐伯は少しだけ姿勢を正した。 定刻になり、澪は会議を始めた。「統括室の最初の仕事は、黒崎さんの会社に関する調査ではありません」 参加者たちが顔を上げる。「問題が起きたときだけ動く組織にしないために、まず規程を作ります」 澪は画面に三つの文章を表示した。『AIの判断だけで、人に重大な不利益を与えない』『利用するデータと責任者を、必ず記録する』『すべてのシステムに、安全に停止できる手段を設ける』「この三つを、統括室の基本原則にしたいと考えています」 人事部の担当者が手を挙げた。「重大な不利益とは、どこまで含みますか」「採用、解雇、異動、昇進、契約の拒否などです。ただし、これだけに限定しません」「AIを参考にすること自体は禁止ですか」「禁止しません。最終的に判断した人間と、理由を記録してください」「それでは、責任者がAIを使いたがらなくなるかもしれません」「責任を負いたくないから使うのであれば、最初から導入すべきではありません」 会議室が静かになる。 法務部の担当者が頷いた。「妥当だと思います。AIが決めたという説明では、責任の所在が曖昧になります」 別の社員が尋ねた。「停止手段についてですが、常に統括室が止められるようにするのですか」「通常は、各部門の責任者が管理します。ただし、情報漏洩や重大な権利侵害の可能性がある場合、統括室から緊急停止を要求できるようにします」「経営陣が続
Last Updated: 2026-07-30