Chapter: 第4話 見て見ぬふり 不正は、突然生まれない。 最初は、小さな違和感だった。 金額が少し大きい。 相手先の名前が曖昧。 添付された資料が薄い。 承認が早すぎる。 誰も質問しない。 誰かが目を逸らす。 そして、ある日からそれは会社の空気になる。 ネクストリンクの特別調査委員会が設置されてから、一週間が経った。 第二会議室の窓には、朝からブラインドが下ろされていた。 テーブルの上には、紙資料、ノートパソコン、番号付きファイル、付箋、外付けストレージ、調査メモが並んでいる。 そこはもう会議室ではなかった。 帳簿とログを解剖する、無菌室のような場所だった。 委員長の三枝義人は、老眼鏡をかけ直し、手元の一覧表を見た。「対象データ、三千八百十二件。そのうち、一次抽出で異常値ありとされたものが二百十七件」 水城莉央が頷いた。「経費、出張、接待、外注費、研修費、販促費。名目は散っていますが、承認経路に偏りがあります」 大槻沙織が資料をめくる。「桐谷健吾申請、高瀬美咲承認。この組み合わせが多い。さらに、営業管理課長の西岡大輔、営業第二課長の山城直人、経理課長の小田切修、経理管理課係長の江藤真一。この四名が複数の案件に絡んでいます」 外部公認会計士の榊原徹が、低い声で言った。「典型的ですね。主犯がいて、承認者がいて、現場側で形を作る人間がいて、経理側で通す人間がいる」 若手会計士の村瀬絢が画面を拡大した。「K-Bridge Consulting関連だけでなく、接待費の水増し、出張費の目的不明、研修費への付け替えもあります。金額はまだ確定できませんが、現時点の疑義額は少なくとも六千万円台に乗ります」 会議室に、紙をめくる音だけが響いた。 六千万円。 中小企業なら、それだけで資金繰りが傾く金額だ。 ネクストリンクにとっても、軽い金ではない。 社員の給与。
Last Updated: 2026-07-17
Chapter: 第3話 空席を埋める者 ネクストリンクは、止まらなかった。 翌朝八時。 高瀬悠真は、いつも通り本社二十七階の社長室にいた。 昨日、臨時取締役会で専務取締役・高瀬美咲の一部職務権限停止が可決された。 営業本部長・桐谷健吾には自宅待機命令が出された。 社用端末は回収。 会社アカウントは停止。 経費精算、契約、外注先選定、出張申請、チャットログ、メールボックス、ファイル共有履歴は保全された。 普通なら、会社中が凍る。 だが、会社は生き物だ。 誰かが倒れた瞬間、血流を別の道へ逃がさなければ、全身が腐る。 悠真は、社長室のモニターに表示された全社向けメッセージを確認していた。 文面は短い。 余計な感情はない。 だが、社員が一番知りたいことだけは入れてある。⸻社員各位昨日開催された臨時取締役会において、一部役員および幹部社員に関する調査体制の設置を決議しました。調査の公平性と事業継続を確保するため、当面の間、一部業務分掌と権限を変更します。顧客対応、開発、導入支援、サポート、採用、給与支払い、取引先支払いに影響はありません。社員の皆さんには、不確かな情報に基づく憶測や個人攻撃を避け、通常業務を継続してください。内部通報者、関係社員、調査協力者への不利益取り扱いは一切認めません。会社は、事実に基づき、適正な手続きで対応します。代表取締役社長高瀬悠真⸻ 悠真は最後まで読み、神谷玲奈へ視線を向けた。「これで出してくれ」「承知しました」 秘書室長の神谷玲奈は、すぐに配信予約を入れた。 八時十五分。 全社員にメール。 社内ポータルに掲示。 管理職向けには、別途説明資料。 顧客対応部署には想定問答。 人事部には相談窓口の増設。 情報システム部に
Last Updated: 2026-07-16
Chapter: 第2話 取締役会「それでは、臨時取締役会を開始します」 高瀬悠真の声が、役員会議室に落ちた。 午前十時。 株式会社ネクストリンク本社、二十七階。 普段なら新規事業や上場準備、採用計画、資金調達、主要顧客との契約更新などを話し合う場所だった。 だが、今日だけは違う。 会議室の空気が、妙に重い。 ガラス張りの壁の向こうには、いつも通り東京の街が広がっている。 車は流れ、人は歩き、ビルの窓は光を返していた。 世界は何も知らない顔で動いている。 その一方で、ネクストリンクの中枢では、会社の内臓に刃を入れる会議が始まろうとしていた。 長い楕円形のテーブル。 議長席には、高瀬悠真。 その右隣に、副社長の七瀬蒼真。 二十九歳。 悠真より六歳若い。 創業五年目に入社した天才肌のプロダクト責任者で、現在は開発・事業戦略を管掌している。 黒いジャケットに白いシャツ。 表情は柔らかいが、目は鋭い。 悠真が外部交渉と経営全体を見るなら、七瀬蒼真は会社の製品を未来へ引っ張るエンジンだった。 その隣には、取締役CFOの水城莉央。 三十一歳。 元外資系投資銀行。 上場準備、資金繰り、銀行交渉、資本政策を担う女性取締役だ。 数字に強く、余計な情緒を嫌う。 美咲が財務・人事管掌の専務として社内管理を見ていた一方、水城莉央は資本市場と金融機関に向き合う役割を担っていた。 左側には、専務取締役の高瀬美咲。 今日も美しかった。 白いブラウスに淡いベージュのジャケット。 落ち着いた髪。 役員としての笑顔。 十年近く、会社の顔の一人として振る舞ってきた女の顔だった。 悠真はその横顔を見ても、何も言わなかった。 そのさらに隣に、取締役CHROの宮園千晴。 三十三歳。 人事
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第1話 証拠はそろった 高瀬悠真は、怒鳴らない男だった。 それは優しいからではない。 怒鳴る前に、数字を見るからだ。 東京都千代田区。 丸の内の高層ビル群を見下ろす二十七階に、株式会社ネクストリンクの本社はあった。 法人向けクラウド管理システム、営業支援AI、企業内データ連携プラットフォーム。 十年前、六畳一間の古いマンションで始めた会社は、いまでは従業員三百十二名、年商百八億円の中堅IT企業になっていた。 上場準備にも入っている。 銀行も、監査法人も、証券会社も、ネクストリンクを「次に伸びる企業」と見ていた。 その会社の創業社長が、高瀬悠真だった。 三十五歳。 黒髪を短く整え、余計な装飾を嫌い、いつも白いシャツに濃紺のスーツを着ている。 派手な経営者ではない。 メディアで夢を語るより、契約書の一文を直す方を好む男だった。 そして、ネクストリンクの議決権の七十八%を保有する、絶対的なオーナーでもあった。 その日も、悠真は朝七時半には出社していた。 役員フロアの社長室。 ガラス越しに見える東京の朝は、妙に澄んでいた。 机の上には、三つの資料が並んでいる。 一つは、月次売上報告書。 一つは、上場準備に関する監査法人からの確認事項。 そしてもう一つは、封をされた茶色の調査報告書だった。 差出人は、青葉総合調査事務所。 悠真が二週間前に正式契約した、探偵事務所である。 悠真はその封筒にはまだ触れなかった。 先に売上報告書を開いた。 第一事業部、前年比一二八%。 第二事業部、前年比一一六%。 営業本部、新規案件獲得数は多い。 だが、利益率が落ちていた。 特に営業本部長である桐谷健吾が決裁した案件に、妙な接待費と旅費交通費が増えている。 偶然ならいい。 だが、偶然が同じ方向に三度続けば、それは数字の悲鳴だ。 悠真は赤ペンで資料の端に小さく丸をつけた。 その時、社長室のドアが控えめにノックされた。「社長、よろしいでしょうか」 入ってきたのは、秘書室長の神谷玲奈だった。 三十二歳。 長い髪を後ろでまとめ、薄いグレーのジャケットを着ている。 秘書という肩書きだが、実質的には社長室の番人だった。 予定管理、社外調整、役員会資料の確認、株主対応の下準備までこなす。 悠真が創業五年目に採用した人材で、会社の裏側を誰よりも冷静に見
Last Updated: 2026-07-14