「本気で婚約を解消するつもりなの?」
テーブルの向かい側で、上質な服に身を包んだ中年女性が、疑いの目を向けてきた。
星野文月(ほしの ふみづき)は、目の前に置かれた婚約書を手に取ると、迷うことなく真っ二つに引き裂いた。そして、深津蒼介(ふかつ そうすけ)の母親――深津梨沙子(ふかつ りさこ)へと視線を戻した。
「これで、信じていただけましたか?」
梨沙子は一瞬言葉を失い、目には明らかな驚きが浮かんだ。だが、すぐに嘲るように唇を歪めた。「いいでしょう。新しい身分はこちらで手配してやるわ。一ヶ月以内に、この澄川市から出ていきなさい」
文月はグラスを握りしめ、静かに頷いた。「わかりました」
彼女がバッグを手に席を立とうとすると、梨沙子が鋭い声で呼び止めた。「約束は守ってもらうわよ。余計な騒ぎは一切起こさないこと。もし蒼介のお父さんが彼の浮気を知ったら、ただじゃ済まないから!」
文月の足が止まった。ある過去の出来事が、脳裏をよぎる。
かつて、他人から見れば、彼女と蒼介の関係は陳腐なおとぎ話そのものだった。ド貧乏シンデレラが、白馬の王子様に見初められた物語。
大学時代、彼女は真面目な優等生で、彼は誰もが憧れる御曹司。どう考えても、交わるはずのない二人だった。
それなのに、蒼介は彼女に一目惚れしたのだ。
周囲の学生たちの話では、蒼介はまるで何かに憑かれたかのように、彼女と付き合うためなら、どんな無茶でもした。
勉強嫌いだった蒼介が、彼女の欲しがっていた一冊の専門書を手に入れるため、雪の降る冬の夜に街中を探し回ったこともあった。
彼女が魚料理を好むと知ると、夜明け前から釣りに出かけ、危うく川で溺れかけたことさえあった。
当初、文月は身分の差があまりに大きいことを理由に、彼の熱意に感動はしても、彼の想いを何度も断っていた。
しかし、彼女との婚約を許してもらうため、蒼介は実家で土下座までし、父親に本気で足を折られかけたのだ。
病院へ運ばれる途中、蒼介は彼女に電話をかけ、震える声で「結婚してほしい」と告げた。
その夜、文月はついに心を開き、蒼介こそが一生を共にする相手だと確信した。
大学時代から卒業、そして婚約したこの二年間を含め、六年の歳月を共にしてきた。
もうすぐ結婚というその時に、自分だけを見つめてくれていたはずの男が、なぜ突然心変わりしてしまったのか。彼女自身にも、それが信じられなかった。
……
その夜、文月はリビングで蒼介の帰りを待っていた。
夜十一時を過ぎても、彼が帰ってくる気配はない。
文月はスマホを手に取り、彼に電話をかけた。
三度目の呼び出し音で、ようやく相手が出た。
「文月?ごめん、今ちょっと接待中でさ。どうしたんだ?」蒼介の声は、とろけるように甘い。
電話の向こうから聞こえる騒がしい音楽に、文月は尋ねた。「バーにいるの?」
蒼介は言い聞かせるように説明した。「ああ、大事な接待なんだ。少し長引きそうで、帰りが遅くなるかもしれない」
その直後、蒼介の息遣いがわずかに乱れ、唇が絡み合うような、生々しい音が聞こえた。
かすかな音だったが、耳のいい文月はそれをはっきりと捉えてしまった。
胸がずきりと痛み、彼女はかろうじて声を絞り出した。「今……すぐ帰って来られない?」
蒼介は深く息を吸い込んだ。情欲を抑えきれないのか、声が微かに震えていた。「相手がまだ帰らないんだ。たぶん無理だな。でも約束するよ。この席が終わったら、すぐに飛んで帰るから。それでいい?」
文月の心は、完全に冷え切った。彼女は乾いた唇の端を吊り上げた。「わかったわ。じゃあ、切るね」
電話を切り、スマホを強く握りしめる。
三日前、蒼介のシャツの襟に口紅の跡を見つけた彼女は、親友の桜井由美(さくらい ゆみ)と一緒に蒼介のいるバーへ向かった。
薄暗い店内で、蒼介は白石萌々花(しらいし ももか)を腕に抱き、気だるげな表情で友人に愚痴を漏らした。「正直、彼女にはもう飽きたんだ。活気も個性もない。こっちの思い通りになるだけの粘土人形みたいで、つまらない」
文月の瞳から光が失われ、ドアを開けようとしていた手が止まった。自分の心が砕ける音が、はっきりと聞こえた気がした。
由美は背後で、文月を心から気の毒に思いながら、呆然と呟いた。「嘘でしょ……あれ、本当に蒼介さんが言ってるの……?」
文月は苦笑いしたが、どう答えていいかわからなかった。実のところ、蒼介がもう自分を愛していないことには、うすうす気づいていた。
半月前、文月は蒼介が見知らぬ華奢で美しい女性を抱きしめ、ある邸宅に入っていくのを目撃してしまったのだ。
すぐに探偵を雇い、多くの証拠書類と写真を入手した。
女性の名前は白石萌々花。大学を卒業したばかりで、深津グループに採用されたばかりのインターン社員だった。
出勤初日に、二人は関係を持ったという。
ホテル、高級レストラン、夜景の見えるバー。写真の中の二人は、幸せそうに睦み合っていた。
彼女が家で結婚式の準備に追われ、月末の挙式のために夜更かししている間、蒼介は何も手伝わないどころか、外で別の女性と不倫関係になったのだ。
家に帰るたびに、彼はまだ彼女を深く愛しているかのように振る舞い、彼女の肩を揉み、足をマッサージし、「今日も一日お疲れ」と囁いていた。
すべてが嘘。すべてが腐りきっていた。
文月は目を閉じ、静かに二階へ上がると、部屋にある宝飾品をすべて箱に詰めた。
「もしもし、佐藤さん?いくつか宝飾品を処分してほしいの。それと、予約をお願いしていた結婚式場、キャンセルしておいて」
電話の向こうで、佐藤和也(さとう かずや)が少し驚いたように尋ねた。「星野さん、社長と喧嘩でもしたんですか?」
「いいえ。式場は、私が自分で選び直すことにしただけよ」
文月がそう言い終えるか終えないうちに、窓の外を車のヘッドライトが横切った。
彼女は電話を切り、窓辺に寄った。
蒼介が車から降りてきた。相変わらず背が高く端正で、スーツを完璧に着こなしている。
ただ、襟元は乱れ、シャツから鎖骨が覗いていた。
彼は慌てて襟元を直し、いつもの香水を軽く吹きかけ、身なりを整えてから家に入ってきた。
その一部始終を、文月は目に焼き付けていた。
胸が、締め付けられる重苦しい痛みを感じる。
やがて部屋のドアが開き、蒼介が入ってきた。彼は後ろから文月を抱きしめ、彼女の肩に頭を埋めてすり寄った。「文月、ただいま。ここ数日、飲み会続きでごめんね。もしかして、怒ってる?」
その声には、探るような響きがあった。
文月は彼の腕からそっと抜け出し、振り返って静かに尋ねた。「接待じゃなかったの?どうして早く帰ってきたの?」
蒼介は笑って彼女の手を取り、甘い眼差しを注いだ。「君が帰ってきてほしいって言うなら、全部放り出してでも帰ってくるさ。どんな取引先やプロジェクトも、文月より大事なものなんてないよ」
彼はズボンのポケットからアクセサリーケースを取り出し、文月に手渡した。
「プレゼント。開けてみて」
文月が受け取ると、中にはダイヤモンドが散りばめられた高価なブローチが入っていた。
だが、彼女は一目で思い出した。三日前に探偵から送られてきた写真の中で、黒いワンピースを着た萌々花が、胸にまったく同じものを付けていたことを。
かつては自分だけのものだったはずの愛情が、今や蒼介によって二人に分け与えられている。
何より皮肉なのは、同じプレゼントを、蒼介があの女に贈ってから三日後、ようやく彼女にも買ってきたことだった。
彼女は、もう彼の「都合の良い女」に成り下がったのだ。
心臓に、無数の細い針が突き刺さるような痛みが走り、顔から血の気が引いていく。
蒼介は彼女の様子の変化に気づき、眉をひそめた。「文月?どうしたんだ?」
文月は必死に感情を抑え、微笑んでみせた。「ううん、何でもないわ。プレゼント、とても素敵ね。あなたを呼び戻したのは、サインしてほしい書類があったからなの」
彼女は振り返って書類を一部取り出し、署名欄を指差した。
「西ノ丘にあるあの別荘、とても気に入ってるの。私に譲ってくれない?」
蒼介は笑い、ペンを取ると、内容をろくに確認もせず、気安くサインした。「なんだ、そんなことか。これから欲しい不動産があったら、直接佐藤に手続きさせればいいんだよ。いちいち俺に聞かなくていい。俺のものは、すべて文月のものなんだから」
文月は黙ってその書類を引き出しにしまった。
おそらく、蒼介は永遠に知ることはないだろう。その書類が持つ、本当の意味を。
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