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第二十七話:墨

Author: 新城凪
last update publish date: 2026-05-29 12:00:00

機嫌は悪くなる一方だった。さっき、彼女は墨瓶を割った。

黒い墨は割れる音とともに瓶からあふれ出し、カーペットを黒く染めた。割れた瓶は軽く跳ね、何枚ものガラス片が黒い墨に混ざり、やがてその破片はセラフィナの足元で止まった。

アスイェはちょうど部屋の外に立ち、中のセラフィナを見つめていた。

彼が割れた墨瓶に目を向けたのは、ほんの一瞬だった。

そのあとは、ずっと機嫌の悪いセラフィナを見ていた。

セラフィナは震え、まるで天敵を前にした猫のようだった。

「ちがうの……これは……」

彼女はしばらく、そのまま立ち尽くした。

やがて、思わずアスイェの姿を探したとき、はじめて彼女は動いた。

アスイェはすぐ近くにいた。

近すぎて、振り向けばそこにアスイェがいる。

「ちがうの……これは……!」

彼女は頭を抱えたまましゃがみ込み、指で自分の髪を掴み、頭の中の悪いものを引きずり出そうとするようだった。

「セラは今、熱い!食べたくない!ただ暴れたい!むかつく!」

アスイェはゆっくりと彼女に近ついた
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  • アスイェ•Asyeh   第四十話:目に映した影

    セラフィナはまた、アスイェの状態を無意識に感じ取った。アスイェの体調が優れないと、セラフィナも気分が悪くなる。その糸は深く体の中に埋まっていた。痛みは感じないが、体がその糸に引っぱられているような感覚に、セラフィナは思わず息を殺した。アスイェのそばにいると安心する、その感覚に駆られて、またアスイェを探しに行った。セラフィナは本当は文句を言いたかったが、毎回アスイェを見るたび、やめてしまった。彼を探すのは簡単なことだ。セラフィナには今、アスイェのことがしっかり「見えていた」。アスイェは体を椅子に預け、黒髪が視線を遮り、アスイェは疲れ果てたようだ。彼の呼吸、仕草、眠りに落ちた気配。そして、もっと深い吸血鬼の鼓動……「おやすみしてるの?」彼女は寝ていたアスイェに近づき、名前を呼んだ。「アスイェ?」アスイェは動かなかったが、影は先に動いた。吸血鬼に影はない。それは影のようなものだった。静かに動いて、人が気づく前に呑み込む。ただ、その影はそのまま消えてしまった。まるで日の光に焼かれたもののように。アスイェが目を開けたのはその時だった。「……怖いのか?」「影はアスイェの能力なの?」「そうだ。言ってなかったか?」「初めて知った……」「……言い忘れた」セラフィナが彼に近づくと、何か別のものが、水のように頭の中へ流れ込んだ。最初は一雫だった。その雫は、まるで鏡のように何かを映し出した。夜行、殺戮、炎、風。その黒い影はいつもそこにいたが、楽しんだことはなく、ただ仕事をこなすだけだった。これはアスイェの記憶だった。しかし、セラフィナは自分の姿も目にした。ただ彼の後ろについて歩き、親しみを込めた眼差しでアスイェを見つめていた。静かで、若く、白かった。「それ。セラなの?」いつの間にかアスイェはもう立ち上がっていて、少女に聞いた。「また、目眩がするのか?」その答えを待たず、彼の手はセラフィナの目を覆っていた。初めて、セラフィナは彼を避けた。

  • アスイェ•Asyeh   第三十九話:共感

    セラフィナは、自分はもう成長したのだと思っていた。そのせいか、以前ほどアスイェの部屋を訪れなくなっていた。夜,彼と一緒に散歩に行くことがあっても、奇妙なことが起きた時や、血が騒いで助けを求める時でさえ、セラフィナはアスイェと距離を取った。セラフィナは他の吸血鬼と会ったことがないし、アスイェの居場所を奪うつもりもなかった。だが、なんとなくわかる。アスイェが自分をこの屋敷に置いていること自体、普通ならありえない。吸血鬼はなんとなくわかることが多い。例えば今日、一度もアスイェに会っていないことに違和感を覚えた。そして、少女の調子もよくなかった。最初はただの立ちくらみだと思った。はっきりと感じたのはそのすぐあとだった。少女は歩くことすら難しい状態に陥った。壁に手をつき、せめてこの状況をアスイェに伝えようと思い、重い足を引きずるように進んだ。屋敷の中に、一つだけ鍵がかかっていない部屋があった。アスイェが彼女を一人にする時のために用意した部屋で、普段なら、セラフィナが立ち寄るべきではない場所だったが、今日、セラフィナは初めてそこを訪れた。彼女はノックせず、少しだけ部屋の扉を開けた。カーテンは閉めきられておらず、部屋の中にはワインの香りが漂っていた。この時だった。この目眩も疲れも自分のものではなく、アスイェのものだと、ふと気づいた。アスイェは疲れて、髪が頬ににかかり、その顔は普段よりも白く見えた。アスイェがこんなにも静かな姿を見せたことは、セラフィナは扉の外に立ち止まり、入っていいかと躊躇っていた。セラフィナは近づくたび、確信したことがあった。これは、逆らえない血の繋がりだった。別に血の繋がりに逆らうつもりはないが、アスイェが寝込んだ姿を見ると、どこか痛々しく感じた。その時だった。椅子の上に横になっていたアスイェは目を開け、躊躇している少女を見つめた。「……来たか……どうした?」「ごめんなさい……アスイェが疲れているって感じたから……」「感じた……共感したのか?」「「そうだと思う。さっきセラ、目眩したから……

  • アスイェ•Asyeh   第三十八話:少女への料理

    料理をするのはアスイェの数少ない趣味の一つだった。セラフィナは今、アスイェが料理する姿を見ていた。キッチンは灯りをつけていない。あるのは、暖炉のまだ消えていない火の光だけだった。吸血鬼は寒さを恐れない。セラフィナはまだ成長中だが、人類と比べて寒さを耐えられるほうだった。セラフィナは以前、なぜ暖炉の火がずっと消えないのかと聞いたことがあった。「そのうち消える」とアスイェは言った。暖炉の前でアスイェと並んで立ったことを覚えていた。時々アスイェに抱き上げられたこともあった。その頃から、暖炉の火はいつも燃えていた。アスイェはマントを脱ぎ、袖をまくり上げ、すでに起こされていた火の前に立った。狩りはもう終わって落ち着いた少女は、目を輝かせながら蒼い炎を見つめた。「……ちゃんと座ってろ。お前は食べ物を待っているんだ。狩りに出るわけじゃない。」「だって、蒼い炎が綺麗だもん!」少女は少し身を乗り出し、両手で椅子の端をぎゅっと掴んでいた。楽しそうに見た。アスイェの包丁捌きはきれいで無駄がなかった。肉をきれいに切り、鍋に入れて、音と共に肉の香りが鼻をくすぐる。その香りは吸血鬼の本能を煽られるものではなかったが、セラフィナは確かに空腹の感覚の感覚を覚えた。「……何を焼いてるの?」「セラが好きな肉だ。ちゃんと座ってないと野菜しかあげない」セラフィナは唇を一回舐めて、やっとしっかりと座った。「……わかった。待ってる」それからしばらく、焼ける肉の香りと火の音だけが響いていた。時々、油が弾けて火が大きくなるたびに、セラフィナは頑張って本能を抑えていた。アスイェは背をセラフィナに向けたまま、セラフィナが我慢しているのを知っているかのように言った。「足りなければ、後で血もあげる」「ううん、大丈夫」「そうか」彼女はそのまま座っていて、ただでさえ機嫌のいい少女は、肉の焼ける音を聞きながらずっとにやけていた。「アスイェ、真剣に肉を焼いているね」「うん。毎回ではない」「セラのため、、でしょう?」「…

  • アスイェ•Asyeh   第三十七話:少女の狩り

    森の風は止まらなかった。彼は静かに森の端に立っていた。手は腰につけていた剣に添えられていたが、その剣は鞘に収まっていたままいた。一瞬で、セラフィナの気配は消えた。森は眠りについたように静かだった。彼はセラフィナを追っていない。しばらくして、森はざわついた。そのざわつきは蟲のせいではなく、少女の狩りが始まったからだ。アスイェは高いところを見ていた。セラフィナは足音を殺していないから、アスイェはすぐに少女を見つけた。少女はまっすぐ蟲の群れの中へ突っ込んだ。短剣を鞘から抜き、一瞬で蟲の群れに道を切り裂いた。アスイェはたくさんの吸血鬼の狩り姿を見た。狂った野獣のように狩を楽しんでいた者があれば、優雅に殺していた者もいた。彼はセラフィナに剣の使い方と狩りの仕方を教えていたが、だが、「正しいやり方」が何かまでは、あえて教えていなかった。それでも、少女の狩り姿は自分によく似ていると、アスイェは思った。――静かで、余計な音を立てない。速く、殺意をしっかり隠し、蟲が鳴く前に声を失わせていた。しばらくして、焼けた後の匂いがした。アスイェは微かに笑った。「覚えるのが早いな」吸血鬼はだいたい炎を恐れ嫌っているが、アスイェは好きだった。夜の中に咲いた炎の花は蟲を殻ごと焼き尽くし、その炎は、彼が教えた通りに獲物を狩っていた。アスイェは目を離さなかった。その止まることを知らない炎は、微かな薔薇の香りを纏っていた。上から見ていたアスイェにとって、それは絶景だった。まだ制御できていない力の美しさを、アスイェはしばらく見ていなかった。セラフィナは自分の炎にむせて、咳が止まらなくなっていた。それはあまり良くないものだが、叱るべきではない。アスイェは少女の炎の扱い方を気に入っていたが、正しく導かなければ、あとで苦しむのはセラフィナだろう。それでも、今言うべきことではない。セラフィナは自分で気付き、自分でコントロールできるようになるしかない。彼は狩りを教えた時のように導くこともできるが、彼は待つことを選んだ。

  • アスイェ•Asyeh   第三十六話:少女と炎

    朝の庭は静かで、平和だった。露《つゆ》はまた花びらの上に残っていた。日の光はまたやさしく、芝生《しばふ》を照らしていた。いつもなら、セラフィナは芝生の上に寝転んでいるのだが、まるで何かの儀式の前の準備のようだった。アスイェは手に本を持っていた。「準備はいいか?目標は一直線だ」「でも、ここはアスイェの庭でしょう?」「お前の庭でもある」「燃やしちゃだめだよ!」「昨日の夜、一度燃えただろう。気にしていない」「あ、あれは!」「燃やしたくないなら、石だけに火をつければいい」アスイェは石を一直線に並べていて、それが今回のセラフィナの目標だった。セラフィナは手を挙げて、しばらくそのままだった。「……今回こそ一直線に燃やしてみせる」そう言って、彼女の指先から小さな炎が灯った。「できた!」興奮した瞬間、その炎はセラフィナの指先から逃げ出すように広がり、芝生の上に焼け跡の線を残した。それは「直線」と言いがたいものだった。――それは蛇のように、セラフィナの側からアスイェの前まで燃え広がった。その「蛇」はもちろん、アスイェの靴に触れる前に消えた。アスイェはその痕を見て、しばらく何も言えなかったが、セラフィナは彼に聞いた。「風が吹かなかった?」「お前の頭の中では吹いていたんだろう」「どういう意味?」「かわいいバカって意味だ」「セラ、真剣にやった!」「なら、自分のドレスまで燃やさないはずだ」「燃やしてないもん!」アスイェはゆっくりと少女の側にしゃがみ、彼女の肩を軽く叩いた。「よく見ろ」アスイェが手を軽く上げると、炎は本当に、金色の直線を描いた。その炎は静かで、柔らかそうに見えるが、熱さも、危うさも纏っていた。――アスイェが望めば、すべてを美しく燃やせるのだろう。「アスイェ、火を安定させる魔法も使ったでしょう?」「……使っていない。お前もやってみろ」「こう?」「肩の力を抜け。手を震わせるな。火を灯すんだ。爆発させるんじゃない」

  • アスイェ•Asyeh   第三十五話:炎の子

    夜の風が吹き、アスイェの薔薇が揺れていた。今夜の月は明るく、セラフィナは自分のマントをしっかり着ていた。顔を上げると、アスイェは廊下の奥に立っていた。彼はセラフィナを促すことなく、ゆっくりと彼女に近づき、見つめた。「靴紐はしっかり結んだか?」「うん!」「武器は?」「はーい」アスイェは頷き、 セラフィナを連れて階段を降りた。通りは少し濡れていて、灯りも暗く、セラフィナはアスイェを見た。彼女はいつも、この長い階段を降りていくアスイェの背中を見つめていた。自分の足でこの階段を降りるのは、これが初めてだった。アスイェに連れられて、アスイェの書斎を通り、庭を抜け、屋敷の扉に辿り着いた。「いつも、夜は外に出してくれないのに」「お前は怖がっていたからな……今夜は散歩だけだ」「散歩?セラを連れて?」「お前は成長したからだ」セラフィナは小さく「うん」と答えた。二人は森に入った。森は静かで、虫の鳴き声すらなかった。ただ、二人の足音が響いた。何回か蟲の殻を踏んだと思ったが、その違和感も小さく、すぐに忘れてしまった。二人は足を止めた。セラフィナはなんとなく、ここが彼のよく立ち止まる場所だと感じた。「……お前もここに来たことがある」「セラ、覚えてないよ」「あの夜は、お前が外に逃げ出して、風に当たって、そのまま熱を出した。俺が見つけた時、お前はよく泣いていた」「セラはなんで外に逃げ出したの?」「お前は外の色を見たいと言った」「そうなの?」「今見ただろう?あまり面白いものではない」森で微かな音がした。風の音だった。木の影が揺れているだけのはずだったが、セラフィナは焦げた匂いを感じた。風が森の奥から運んできた焦げた匂いには、薔薇の香りも混じっていた。アスイェは足を止めた。少女はそのそばで、息を殺した。「匂いが……」「わかるのか」「蟲がいる?」「そうだ。匂いでわかるなら、お前が炙り出せるはずだ」

  • アスイェ•Asyeh   第四話:暗闇が苦手

    あの夜、灯は早めに落とされた。
暖炉に薪《まき》はもうなく、風の音も小さい。執事の姿もない。
アスイェと子だけがいる空間は、異様《いよう》なほど静かだった。壁に掛けられた古い織物《おりもの》は、かすかに揺れている。わずかな隙間から忍び込んだ夜風が、ほとんど聞こえないほど小さな音を、石造《いしづく》りの床の上に落としていた。アスイェは灯を点けなかった。
古い長椅子に腰を下ろし、手元には開かれていない本が一冊。
部屋の中は深い漆黒《しっこく》に包まれ、窓の隙間から差し込む月光だけが、布の上に落ちた銀糸《ぎんし》のように断続的に揺れていた。その光は、時折《ときおり》雲に遮られ、またふたたび現

  • アスイェ•Asyeh   第三話:寒いのがいや、鐘の音が怖い

    子はいつも、朝の光よりも早く目を覚めた。
 あるいは――これまで一度も、本当の眠りについたことなどなかったのかもしれない。 教会の暖炉《だんろ》が、夜通し燃えることはない。とくに冬の夜明け前、気温は一気に底《そこ》を突く。
 石畳《いしだたみ》の隙間から這《は》い出す冷気は、古《ふる》びた木の扉さえ通り抜ける。 アスイェが目を覚ましたとき、火はすでに消えていた。暖炉《だんろ》の中には、白く乾いた灰が、うっすらと積もっていた。
 空気は冷えていたが、静かだった。 赤子は泣いていなかった。ただ、黙《だま》って、揺籠《ゆりかご》の中にいた。まぶたを閉じ、小さな身体を折《お》り畳《たた》み、浅

  • アスイェ•Asyeh   第二話:欲望がない化け物

    七日目の夜、雪は前よりも激しく降っていた。屋根には氷が張り、鐘が鳴るたびに、霧《きり》のような霜《しも》がぱらぱらと落ちた。暖炉《だんろ》には湿った薪《まき》がくべられており、今にも消えそうなほど弱い火が、かろうじて燃えていた。蝋燭《うそく》の油《あぶら》はなかなか溶けず、部屋の中には、温もりも得られないまま、埃の落ちる音さえ聞こえそうな静けさが満ちていた。その命は、白い布の中にあった。まだ目覚めていない。その名もないこれは、夜にだけ泣く。
ときには、泣くという仕草すら見せず、ただ口を開け、音も立てずに「泣いていた」。
まるで夢の中で、名もない何かを呼んでいるかのように。最初、

  • アスイェ•Asyeh   第一話:十度目の鐘(かね)

    冬の朝、教会の鐘はいつもより長く鳴り響いていた。その鐘の音は重く、濁っていて、どこか遅れて響く。それはまるで、巨大な何かが水底へ沈んでいくときに生じる、濁流の中で反響するような音だった。鐘舌には鉄錆《てつさび》と風雪が絡まり、鳴るたびに、寒さそのものを引きずって天頂から落ちてくるかのようだった。 教会の高い天窓は、外の冬空と同じ、冷たく曇《くも》っていた。石の壁にはひびが入り、窓枠《まどわく》の隙間から微かな風が忍び込む。光と影が交差《こうさ》するその聖堂は、まるで時が止まったように静まり返

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