LOGIN財閥同士の思惑が渦巻く世界で、「不仲な夫婦」と噂される九条夫妻。冷静沈着な夫と、気品ある妻は、公の場では距離を保ちながらも、互いに言葉にできない想いを胸に秘めていた。過去の誤解、交錯する噂、周囲の視線――それでも二人は、夫婦として並び立つ道を選ぶ。愛は信じるものなのか、守り抜くものなのか。表では語られない真実と、静かに深まっていく絆を描く、財閥ロマンス。
View More神崎家の広大な私邸のリビングには、不機嫌そうな顔の神崎美玲の姿があった。旧姓――鳳条(ほうじょう)美玲。日本有数の名門財閥・鳳条家の令嬢として生まれ育ち、幼い頃から一流の教育を受けてきた女性である。立ち居振る舞いは誰よりも優雅で、社交界では常に人々の視線を集める存在だった。その反面、気位が高く、妥協を許さない性格でも知られている。夫・壮真の女性問題には何度も激怒してきたが、それでも「神崎家の体面」を守るためだけに離婚という選択だけはしなかった。財閥同士の結婚とは、当人同士だけの問題ではない。神崎家と鳳条家、双方の信用や歴史が関わる。感情だけで婚姻を終わらせられるほど、彼女の立場は軽くなかった。その毅然とした態度から、社交界ではいつしか「氷の女王」と呼ばれるようになっていた。誰にも媚びず、誰にも屈しない。冷たいほどに美しいその姿は、多くの人間に畏怖すら抱かせていた。だが――。今夜ばかりは、その氷のような仮面にも亀裂が入っていた。壮真が「玲子」という愛人のマンションへ行っていることを知っていたため、美玲は不機嫌極まりなかった。広いリビングには高級家具が並び、暖炉には静かな炎が揺れている。だが、その温かな光さえ、美玲の心を和らげることはできない。テーブルの上には冷め切った紅茶が置かれたままになっていた。何度時計を見ても、針が進むたびに苛立ちは募るばかりだった。神崎グループの業績が目に見えて下がっているというのに、長年そばに置いているあの愛人にホテルのスイートルームのような豪華なマンションの部屋を買い与え、週に何度もそこへ通い、挙句は会社へも堂々と立ち入りを許している。会社の重役たちも陰では笑っている。社員たちも噂している。神崎グループのトップが、会社より愛人を優先していると。そのたびに、美玲は神崎家の人間として頭を下げる立場に立たされてきた。夫の不始末を片付けるのはいつも自分だった。それなのに壮真は何一つ反省しない。美玲は歯ぎしりをして悔しがった。「あの女……あの女を手放さないなら、見てなさいよ、壮真!!」怒りを押し殺した低い声が、静かなリビングへ響く。美玲は一人、ソファに座って怒りを抑え込もうとしていた。脚を組み、腕を組み、必死に感情を抑え込もうとする。しかし胸の内では怒りが渦巻いていた。やがて屋敷の外か
櫻羅が一階の大広間の前を通ると、障子越しに漏れる賑やかな声が耳に届いた。中では遅めの夕食を楽しんでいるたくさんの宿泊客の姿が見える。浴衣姿の家族連れや夫婦、友人同士らしい若者たちが笑い合いながら食事をしており、料理の湯気と笑い声が広い会場を包み込んでいた。美味しそうな料理の香りまで廊下へ流れてきて、櫻羅は思わず足を止める。しかし、その光景を見ても、自分が中へ入ろうという気持ちにはなれなかった。「まだ部屋には戻れないかな……」そうつぶやき、何となく、自分はこのまま帰ってしまおうかと考えていた。心春のお供で遊びには来たが、和真が現れたことで、自分の役目は終わったような気がしていた。きっと今頃、和真は心春のそばにいる。二人だけで話したいこともあるだろう。自分が部屋へ戻れば、かえって気を遣わせてしまうかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、自然と一人の顔が浮かんできた。「叶翔、ちゃんとごはん食べたかな……」そんなことをつぶやいていると、櫻羅も途端に寂しくなってしまった。朝からずっと心春と一緒だった。温泉街を歩き、お土産を買い、初めての温泉に入り、日本料理を食べた。どれも楽しく、思い出に残る一日だった。それでも、心のどこかではずっと叶翔のことを考えていた。今頃何をしているだろう。仕事は終わったのだろうか。ちゃんと食事はしたのだろうか。そんな些細なことまで気になってしまう。大広間を過ぎた辺りの廊下の端に、小休止できるように木製のベンチが置いてあった。赤い布が掛けてあり、前にテレビで見た時代劇のドラマに出てきた、お茶屋さんの景色に似ていた。櫻羅はそこへ腰を下ろした。木の温もりがどこか心を落ち着かせてくれる。しばらく静かに庭を眺めていたが、結局我慢できず、浴衣の袖からスマホを取り出した。画面には叶翔の連絡先が表示される。自分が電話をしたら心配するだろうか?でも、叶翔がちゃんとご飯を食べたか確認するためとか言えば、叶翔はきっと笑ってくれるだろう。そう考えると、無性に叶翔の声を聞きたくなった櫻羅は、叶翔の番号をタップした。呼び出し音が静かな廊下へ小さく響く。一回。二回。三回――。しばらく呼び出していたが、やがて叶翔が電話に出る。叶翔の周りは少し騒がしかったが、やがて静かになった。どこか人が沢山いるとこ
心春が眠ってしまったため、櫻羅は起こさないよう細心の注意を払いながら、静かに部屋を抜け出していた。座布団の上で穏やかな寝息を立てる心春の姿を見ていると、先ほどまで涙を流しながら胸の内を打ち明けていたことが嘘のようだった。櫻羅は布団代わりにもう一枚座布団を肩口へ寄せ、エアコンの風が直接当たらないよう向きを少し変えてやる。「ゆっくり休んでね……」誰に聞かせるでもなく小さく呟くと、起こさないよう音を立てず襖を閉めた。せっかく日本の温泉旅館に来たのだ。少し景色を楽しみながらホテルの中庭を歩いてみたかった。廊下へ出ると、館内は昼間とは違う静かな空気に包まれていた。遠くから聞こえてくるのは、大浴場の方から響く微かな話し声と、どこかで流れている琴の音色だけ。木造の廊下を歩くたびに、床板がわずかに軋み、その音さえも風情の一部のように感じられる。櫻羅はゆっくりと歩きながら窓の外へ目を向けた。昼間は多くの観光客で賑わっていた庭園も、夜になるとまるで別世界だった。中庭へ出ると、夜闇に照らされた幻想的な照明の光が、この巨大なホテルを美しく照らしている。石灯籠には柔らかな灯りがともり、小川には月明かりが映り込んで静かに揺れていた。庭に植えられた松や紅葉はライトアップされ、日本庭園特有の静寂さをより一層引き立てている。風が吹くたびに木々の葉がわずかに揺れ、竹垣の向こうから虫の鳴き声が聞こえてきた。櫻羅は思わず深呼吸した。温泉の湯気を含んだ夜風は少し湿っていて、とても心地よい。「きれい……」自然とそんな言葉が口から漏れる。櫻羅の育った街にも、こういった歴史のある建物は多かったが、それはすべて西洋のものであり、櫻羅にとっては子供の頃からなじみのあるものしかなかった。石造りの教会。古い城。大理石の広場。噴水や時計塔。そういった景色には見慣れていたが、日本庭園のように自然と建物が一体となった美しさは初めてだった。人工的に派手な装飾を施すのではなく、静けさそのものを楽しむ文化。その奥深さに、櫻羅はすっかり魅了されていた。「叶翔にも見せてあげたいな……」そう呟くと、浴衣の袖からスマホを取り出した。何枚も角度を変えながら写真を撮る。石灯籠。池。橋。旅館の建物。そして夜空。どれも美しく写っているように思えた。撮ったばかりの写真を見てみ
夜の帳がすっかり下りた頃。山あいに建つ高級温泉ホテルには柔らかな灯りがともり、玄関先には次々と宿泊客を乗せた車が到着していた。玄関へ横付けされた一台の高級セダンから降り立ったのは、玲司と綾乃だった。仲居たちが丁寧に頭を下げる中、二人はチェックインを済ませ、部屋のキーカードを受け取る。館内は落ち着いた和の雰囲気に包まれ、廊下には畳の香りがほのかに漂っていた。窓の外にはライトアップされた日本庭園が広がり、水面に映る灯りが静かに揺れている。綾乃はその景色を眺めながら微笑んだ。「やっぱり温泉旅館って落ち着くわね。」玲司も短く「ああ」と返事をする。二人はゆっくりと廊下を歩き始めた。部屋番号を確認しながら歩いていると、前方の廊下の向こうから二人の男性が歩いてくる。見慣れた姿だった。「叶翔!!」綾乃が嬉しそうに声を掛ける。その声に気付いた叶翔と瑛士も足早に近寄ってきた。「母さんたち、今着いたのか?」叶翔がそう尋ねると、綾乃は笑顔で頷いた。「あなたたちの方が早く着くとは思わなかったわ」研究所から直接向かった二人より、自分たちの方が先に着くと思っていたらしい。叶翔は苦笑する。「高速が空いてたからな。」そんな親子のやり取りを見ながら、瑛士も軽く会釈した。玲司は短く頷くだけだったが、その表情はどこか穏やかだった。綾乃は玲司を見上げる。「先に部屋に入りましょう」そう言うと、玲司を促し、自分たちが取った部屋の前まで歩いていく。カードキーをかざすと電子音が鳴り、静かにドアが開いた。「どうぞ。」綾乃が先に入り、玲司も後に続く。叶翔と瑛士も招かれるまま部屋へ足を踏み入れた。広々とした和室。大きな窓の向こうには夜景が広がり、温泉街の灯りが宝石のように瞬いている。テーブルにはすでに湯呑みと茶菓子が用意されていた。四人が腰を下ろして間もなく、部屋のドアが静かにノックされた。「失礼いたします。」襖が開き、仲居の女性が丁寧に頭を下げる。「皆さま、ようこそ起こしくださいました。ご夕食ですが、まだご用意できますが、どちらで召し上がりますか?」綾乃は玲司へ視線を向けた。「大広間に用意してもらいましょうか」玲司もすぐに頷く。「ああ。食事の前に風呂に入る時間はあるか?」その問いに、仲居の女性は柔らかな笑みを浮かべた。「はい、今からお