LOGIN結婚して一年が過ぎたころ、黒澤時生(くろさわ ときお)は突然、私に触れようとしなくなった。別荘にはわざわざ仏間を作り、数珠も肌身離さず身につけるようになった。 私がどれほど誘っても、彼は冷たい態度のままで、心ひとつ動かす様子もなかった。 ある夜、浴室の前で、私は目を疑った。彼が別の女の写真に向かって、欲望をあらわにしている姿を見てしまったのだ。 その瞬間、悟った。禁欲を装っていた時生も、結局は欲に逆らえなかった。そして、その欲は私にではなく、別の女に向けられていたのだ。 私は彼を騙し、離婚協議書にサインさせると、彼の世界から跡形もなく消えた。 けれど後になって耳にしたのは――彼が狂ったように私を探し回っているという噂だった。 その後、やっとの思いで再会したが、それは彼の叔父の結婚式だった。 純白のウェディングドレスに身を包んだ私を目にした時生は、真っ赤な目をしながらも、どうしても言えなかった。「おばさん」という、その一言を。
View More時生の目つきが一瞬で険しくなり、その場の空気が凍りつくほど冷え込んだ。「理子と高司の間にどんな因縁があろうと関係ない。昭乃に手を出した以上、ただでは済まさない」健介は少し間を置いてから言った。「高司さんのほうは、もう動いているはずです。今は潮見市中を探しても理子の行方はつかめません。ただ、理子の家の近所の人に話を聞いたところ、今日この件が明るみに出たあと、家は何者かに荒らされたそうです。泣き叫ぶ声も聞こえたらしくて……最後は誰かに引きずられて連れて行かれたとか。どこへ連れて行かれたのかは分かりません」時生は奥歯をぎりっと噛み締めた。あの高司め、また一歩先を越された。だが、さっき娘から聞かされた話を思い出すと、それもどうでもよくなった。高司がどれほど力を持っていようと、昭乃の心には自分がいる。それなら何も怖くはない。娘も妻もまだ夕飯を食べていないことを思い出し、時生は椅子の背に掛けていたジャケットをつかむと、そのまま軽い足取りで部屋を出た。昭乃の心にまだ自分がいるのなら、たとえ今は許してもらえなくても、自分の誠意を伝える方法はいくらでもある。途中で心菜の大好きなスイーツ店へ寄って、お気に入りのアイスクリームケーキを買う。それから昭乃お気に入りの隠れ家的な料理店へ行き、いつも好きで食べている料理をテイクアウトする。そんな予定まで、もう頭の中で決めていた。車が地下駐車場を出たところで、スマホが鳴った。画面に表示された「優子」の名前を見た瞬間、時生は眉をひそめる。本当は電話に出るつもりはなかった。だが、あの夜の出来事が勝手に脳裏によみがえり、わずかな罪悪感に負けて、結局通話ボタンを押した。「時生……」優子の声はひどく弱々しく、今にも泣き出しそうだった。「この二日、お腹がすごく痛くて……何も食べられないの……」「どうしてお腹が痛いんだ?病院には行ったのか?」時生の声はどこか上の空で、アクセルを踏む足も少しも緩まなかった。しかし優子の次の言葉は、冷水を浴びせられたように彼の上機嫌を一瞬で吹き飛ばした。「行ったわ。先生が言うには……」わざと少し言葉を切り、いっそう悲しげな声で続ける。「先生が言うには、あの夜……時生が激しすぎて、傷ついてしまったって」時生はハンドルを握る手に力を込め、指の関節が白く浮き出た
心菜は小さな眉をぎゅっと寄せた。ほんの数分前まで、勇気を出してキッチンへ行き、高司に謝ろうと思っていた。あの日、パパに話してしまったせいで、高司おじさんがママのために用意していた誕生日サプライズを危うく台無しにしてしまうところだったからだ。けれど、ドアの前まで来たとき、昭乃と高司の話し声が聞こえてきた。昭乃は、まだ時生のことを忘れられないと言っていた。そして、時生とは幼なじみなんだとも。もちろん心菜だって、パパとママがもう一度一緒になってくれたらいいとずっと願っている。しかし今、ママの泣き声を聞いていると、心の中はどうしようもなく複雑だった。心菜はずっと、ママはもうパパのことなんて好きじゃないと思っていた。しかし、さっきの話ぶりだと、ママはまだパパのことが好きなんじゃないの?ぼんやりドアを見つめていると、ポケットのスマホが震えた。時生からのボイスメッセージだった。「ママの様子はどう?」と聞いている。画面を見つめながら、心菜は今日の大人たちはみんな変だな、と急に思った。高司おじさんも、紗奈おばさんも、そして今こうして連絡してきたパパも、みんなママのことばかり気にしている。そしてママは、泣いている。心菜はそっと洗面所へ入り、時生に電話をかけた。会社では、時生がスマホの画面に表示された名前を見るなり、報告中だった部下に手で合図して下がらせ、ほとんど一瞬で電話に出た。「心菜、ママの具合はよくないのか?夜ご飯はちゃんと食べた?」「パパ、さっきママ、泣いてたの」心菜は元気のない声で、小さくため息をついた。「泣いてた?」時生の声は一瞬で張りつめ、すぐに言った。「パパが悪かった。ママを泣かせちゃったんだ。今は?まだ泣いてるのか?」心菜は少し間を置いて、自分が聞いたことをそのまま話した。「たぶん、パパのせいじゃないよ。さっき高司おじさんが来て、ママがまだパパのことを忘れられないって言ったの。そしたら高司おじさんが帰っちゃって、それからママが泣き出したの」電話の向こうの時生は、その瞬間、まるで強心剤でも打たれたかのようだった。沈んでいた表情が一気に明るくなり、声まで弾んだ。「ママ、本当にそんなことを言ったのか?本当に……聞き間違いじゃないんだな?」「うん!私、ママはパパのこと嫌いなんだと思ってたもん!」
高司の物わかりの良さが、かえって私の胸を締めつけた。私は唇を噛みしめながら、何度も何度も心の中で言い聞かせてきた言葉を口にした。「自信家なんだね。はっきり言うよ。この数日で、ようやく気持ちの整理がついたの。あなたと一緒にいたのは、ただ私の面倒をたくさん片づけてくれる人だったから。時生とは二十年以上かけて築いてきた絆があるの。それは、あなたみたいに少し一緒に過ごしたくらいで消せるものじゃない」そう言うと、私はすぐスマホを取り出し、長い間眠らせたままだったサブアカウントを開いた。学生時代に作ったアカウントで、友達は時生ただ一人。タイムラインにもアルバムにも、制服姿の頃から結婚式まで、私たちの思い出がぎっしり詰まっていた。時生に裏切られてからは、一度もログインしていなかった。しかし今は、それが高司を突き放すための、いちばん鋭い武器になってしまった。私はタイムラインの中でもいちばん目を引く一枚を開き、スマホの画面を高司の目の前へ突きつけた。「見て。私と時生には、こんなにたくさんの思い出があるの。もう骨の髄まで染みついて、心に刻まれてる。あなたと付き合ったのは、自分をごまかしたかったから。あなたに気持ちを向ければ、彼を忘れられると思ってた。でも……忘れられなかった」写真の中では、若い私は時生の首に抱きつき、何の憂いもない笑顔を浮かべていた。降り注ぐ陽射しが私たちを包み込み、空気まで幸せで満ちているようだった。高司の視線が写真に落ちる。その瞳がわずかに揺れ、まるでその幸せが目に刺さったかのように細められた。私は、この程度では彼を諦めさせられないんじゃないかと不安だった。彼なら意地でも手放さないかもしれない、と。けれど彼はただ黙って写真を見つめていた。長い沈黙のあと、小さくため息をつき、疲れを滲ませたかすれ声で言った。「利用され続けても構わない。昭乃……それでも、俺は君にそばにいてほしいと言ったら?」その瞬間、心が誰かに無理やり真っ二つに引き裂かれたようだった。浅く息を吸うだけでも、耐えがたいほど痛かった。私は彼の瞳の奥にある、かすかな願いと寂しさを見つめることができず、一語一語、言い聞かせるように答えた。「でも、私は嫌なの。一緒にいることで、もう私の普通の生活まで壊れ始めてる。本当は、あなたを利用して厄介事を片
私は高司の後ろ姿を見つめながら、胸の中でいろいろな感情が入り混じっていた。子どもたちの前でそんな込み入った話はできず、慣れた手つきでエプロンを身につけ、冷蔵庫から食材を取り出して手際よく料理を始める彼を、ただ黙って見ていることしかできなかった。やがて二人の子どもがプレゼントを抱えて、嬉しそうに自分の部屋へ包みを開けに行くと、私はようやく勇気を振り絞ってキッチンへ入った。高司の大きな体はキッチンでは少し窮屈そうに見えたが、それでも落ち着いた様子だった。彼は野菜を洗っていて、水の流れる音だけが静かな空間に響いている。あまりにも穏やかな表情で、あの悪意に満ちた世間の騒ぎなど、まるで何も影響していないように見えた。しかし私は知っている。彼は平気なふりをしているだけ。私に心配をかけたくないだけなのだ。澄江は彼にとって、それほど大切な存在だ。澄江がショックで体調を崩したことを知らないはずがないし、ネット上にあふれる彼への中傷を目にしていないはずもない。私はキッチンの入り口に立ち尽くし、忙しく動く彼の背中を見つめた。喉の奥が詰まったようで、何か言いたいのに、どこから切り出せばいいのかわからなかった。いつの間にか、水の音が止んでいた。先に口を開いたのは高司だった。その声には、どこか折れたような響きがあった。「この前は……悪かった。感情を抑えきれなかった。君を受け入れると決めた以上、心菜のことも受け入れる。心配しなくていい。これからは、あの子につらい思いは絶対にさせない」そう言うと、彼はまた黙々と手を動かし始めた。心菜と沙耶香にまったく同じプレゼントを用意してくれていたことを思い出し、胸がじんわりと温かくなる。彼は行動で、私のために変わることができると伝えてくれていた。だからこそ、私はこれ以上、自分勝手ではいられなかった。「高司さん、私たち……」一文字ずつ絞り出すように言った。「私たちに、もう未来はない」高司の背中がぴたりと止まり、キッチンの空気まで凍りついたようだった。胸が引き裂かれるほど痛かった。それでも私は無理やり言葉を続けた。「私は……」「ネットの件が理由か?」彼は突然振り返り、私の言葉を遮った。その黒い瞳は底知れず深く、星ひとつない夜空のようだった。「もう対応している。信じてくれ。一週間
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