LOGIN莉奈の痛ましい状態と、耳に入ってきた言葉を思い出し、承也は両手の指を強く握り締めた。指の関節は白く強張り、細かく震えている。彼は一度目を閉じ、ようやく問いを口にした。「医者は何と言った」直哉は短く告げた。「うつ病だ」その言葉が落ちた瞬間、悠斗は眉をひそめ、浩平の目には複雑な色が浮かんだ。――どうして……直哉もその言葉を口にしたくはなかった。それでも、現実に向き合わないわけにはいかなかった。承也の目の奥で激しい動揺が渦を巻いていることに、直哉は気づかなかった。ただ彼を厳しく問い詰める。「彼女は五年前からうつだったんだろう?」承也は答えなかった。代わりにもう一度、念を押すように確認する。「医者が、彼女をうつ病だと診断したのか」直哉が答えた。「ああ」承也の顔色が変わった。呼吸がまた詰まる。莉奈は、五年前からうつだったわけではない。五年前、莉奈は自分の両親が承也によって死に追いやられたことを知った。両家の深い因縁も知った。失意のあまり承也のもとを離れようとし、自分の命を盾にしてまで去ろうとした。承也は、そんな彼女に自分勝手な催眠をかけ、記憶を消した。莉奈が空港から引き返し、承也の前へ駆けてきて告白したことを忘れさせた。島で二人が過ごした半月も忘れさせた。さらに、自分が彼女の両親を死に追いやったことも忘れさせた。莉奈にはただ、海外旅行へ向かった日に事故に遭い、頭を打ったという記憶だけを残したのだ。あの時の催眠は、決して完璧なものではなかった。いつか記憶が戻る可能性は、最初から残されていた。すべては、承也が彼女の愛に執着して蒔いた種だ。今日、この苦い報いを受けるのは、彼にとって当然のことだった。だが、莉奈のうつ病は五年前に始まったのではない。一年以上前、人工死産のあとに起きたものだった。人工死産のあと、承也は莉奈を松風レジデンスへ連れ帰り、身体を休ませた。莉奈は誰にも会いたがらなかった。その後、承也は彼女を無人島へ連れて行って生活したため、直哉が彼女に会う機会はほとんどなかった。あの頃の莉奈は、あまりにも苦しんでいた。承也は世界中からトップクラスの心理カウンセラーや精神科医を呼び寄せ、彼女の治療に当たらせた。最後にカウンセラーが提案したのは、一般的には推奨されていない、む
直哉が戻ってきた時、莉奈の嘔吐はもう収まっていた。真央は直哉より数分早く到着していて、莉奈の顔を丁寧に拭いている。白崎執事はそばで目を赤くし、うつむいたまま床の吐瀉物を黙々と片づけていた。「彼女は、いったいどうなってしまったんですか」莉奈がベッドで横になったあと、直哉は主治医が連れてきた精神科医へ尋ねた。口を開いた瞬間、自分の声がひどく震えていることに気づく。今の莉奈の状態は、もう単に「食欲がない」という程度ではなかった。直哉は、莉奈を失ってしまうことが怖かった。精神科医は静かに告げた。「向井さんには不眠の既往歴があり、睡眠薬も長期間服用されています。現在の状態と合わせて考えると、うつ病とみて間違いないでしょう」――うつ病。その言葉は、重い拳のように直哉の胸を激しく打った。一瞬、直哉は自分が聞き間違えたのだと思った。「うつ病……そんなはずは」だが精神科医は冷静に答えた。「向井さんは今、こちらの診察に十分協力できる状態ではありません。それでも、判断を誤っているとは思いません」うつ病。その言葉は直哉から遠く、莉奈からはもっと遠いものだと思っていた。彼女は昔から自分の感情をコントロールするのが得意で、精神的な面で直哉に心配をかけたことなど、これまで一度もなかったのだ。「今は食事を一切受けつけない状態です。まずは点滴で栄養を補給するしかありません。そうしなければ、身体が持ちません」直哉の足元はふらついた。医師たちのその後の説明も、ほとんど耳に入らない。胸いっぱいに広がる強烈な自責の念で、目が赤くなった。自分は今まで、いったい何をしていたのか。莉奈が睡眠薬を飲んでいたことすら知らなかった。なぜもっと早く異変に気づいてやれなかったのか。なぜ早く専門の治療へ連れていかなかったのか。彼女はいったい、どれほど長いあいだ一人で睡眠薬を飲み続けていたのだろう。直哉はすぐに手の者を動かし、莉奈の過去の受診記録を徹底的に調べさせた。そこでようやく分かった。莉奈は約一年にわたり、いくつもの病院を変えながら断続的に睡眠薬を処方されていた。最も古い記録は、人工死産から三ヶ月後だった。直哉は自分の頬を力任せに叩いた。処方された回数と、当時診察した医師の所見を見る限り、その時点ではまだうつ傾向に
廷治は言い終えた途端、後悔した。壇将は、そもそもそんな人ではない。向井さんを慰めるためだとしても、他人の悪口を言うような真似はできないはずだ。だが次の瞬間、壇将の指先が画面を何度かタップした。【椎名承也は最低のクソ野郎だ】廷治は呆然とした。――あのJさんでも、人の悪口なんて言えるのか。莉奈はスマホの画面を一目見て、唇の端をわずかに引いた。力のない、かすかな笑みだった。壇将の喉の奥で、押し殺した咳がくぐもった。杖をつく手に力が入り、彼は重い身体を支える。それから杖で椅子を引き寄せ、病床のそばに座った。壇将はさらに画面へ文字を打ち込む。【分からないことは、無理に分かろうとしなくていい。すべてに明確な答えがあるわけじゃない。椎名承也にどれほど人生をかき乱されようと、君は今も向井莉奈のままだ。君を本当の意味で変えられるのは、君自身しかいない】【君が自分を諦めたら、向井莉奈という存在は本当に消えてしまう。いつか愛する人と『共に白髪の生えるまで』寄り添って生きてほしいというご両親の願いまで無かったことになってしまう】莉奈の赤い目元が潤んだ。彼女は目の前の男を見た。涙でぼやけた視界の中で、深い褐色の瞳だけが静かに映っている。【少し食べてくれ。自分のために生きるんだ】莉奈の混濁した頭の中に、細い裂け目が入ったようだった。そこから、かすかな光が差し込む。白い唇が動いた。乾いて掠れた声が落ちる。「……分かったわ」その返事を聞くと、男の固く寄っていた眉がゆっくりとほどけた。廷治は興奮したように食事のトレイを持ってきた。黒いストレッチ手袋をはめた手がそれを受け取り、莉奈の前へ差し出す。……浩平は車を走らせ、結城邸へ戻った。中庭まで来たところで足を止め、横へ目を向ける。赤いスポーツカーが1台、そこに停まっていた。――ふん。一応、帰る家は覚えていたらしいな。浩平は執事に結城黎(ゆうき れい)がどこにいるのかを尋ねることもなく、そのまま屋敷へ入り、二階へ上がった。部屋の前を通りかかると、中からかすかに水音が聞こえた。浩平の口元に、意味深な笑みが浮かぶ。指を上げてシャツの一番上のボタンを外し、半開きの扉を押し開けながら、残りのボタンも外していった。かつて浩平が初めて黎の浴室へ押し入り、無理やり関
だが壇将は、廷治の忠告など聞こえなかったかのように、その手を無言で振り払った。莉奈はベッドの背にもたれていた。その座り方のせいで肩甲骨がひどく浮き出て見え、どれほど痩せ細ってしまったのかが分かる。「壇将さん、わざわざ来てくれてありがとう。もう帰って。ちゃんと怪我を治してね」壇将はスマホに一行打ち込んだ。【自分の体も大事にできない状態で、俺に何を言えるというんだ】莉奈の目が、少し止まった。――そうだ。今の自分に、誰かを説得するだけの力などない。自分の体すら大切にできていないのに、他人へ「体を大事にして」などと何を偉そうに言えるというのだろう。莉奈は目を伏せ、小さくつぶやいた。「ただ、どうしても分からないの。私の父が、彼の両親を死なせた。彼は、私の両親を死に追いやった。まるでそれで、二人のあいだには決着がついた、相殺されたみたいでしょう。承也は両親の仇を討った。じゃあ、私は?」廷治は呆然とし、すぐに背筋が凍りついた。莉奈がひどく落ち込んでいることは知っていた。だが、まさかそんな凄絶な事情が裏にあったとは。自分は本当にどうしようもない馬鹿だ。莉奈に、「ひとまず椎名社長へ折れてから、機会を見て逃げればいい」などと、軽々しく何度も勧めてしまった。廷治は自分を殴りたくなった。莉奈の父親が承也の両親を死なせたのだとしても、それは彼女本人とは何の関係もない。だが承也が彼女の両親を死に追いやったのなら、それは本当に、彼女にとって親の仇ではないか。彼女が承也に折れられるはずがないのだ。莉奈の肩が微かに震えていた。押し殺した声が、途切れ途切れにこぼれる。「七歳で両親を失い、二十歳で記憶を消された。承也が私の親の仇だということを忘れさせられて、ただ彼を愛しているという感情だけを残されていた。だから、意地でも彼と結婚しようとしたの。私はまるで操り人形みたいに、人生をずっと誰かに操られていたわ。私は……いったい何なの?」莉奈は胸元の病衣を強く握りしめ、息を吸い込もうとした。けれど肺の中に無数の針が刺さっているようで、呼吸をするだけで身を切られるように苦しかった。「今はまた、彼に病院へ閉じ込められている。こんな私に……まだ生きている意味なんて、あるの?」莉奈は見ていなかった。その「生きている意味」という言
「Jさん?」廷治が驚いて声を上げた。彼は早足で扉の外の男へ向かった。巡回の看護師だと思っていたのに、まさか壇将だったとは。壇将の姿を見るだけで、廷治は胸の奥が落ち着いた。扉の外で、壇将は杖をついて立っていた。黒いストレッチ手袋をはめた手でキャップのつばを深く下げ、深い褐色の瞳をベッドの隅に座る莉奈へ向ける。莉奈はゆったりした病衣を着ていた。身体は薄く、顔色は紙のように白い。窓の外では風が黒い雲を巻き上げていて、もし窓を開ければ、彼女まで風にさらわれて消えてしまいそうだった。男の、杖を握る指がぎゅっと強くこわばった。「ギプス、外れたんですか」廷治の声が、男の視線を引き戻した。壇将はわずかにうなずいた。「外れたならよかったです。回復は順調ってことですよね。早くよくなってくださいよ、Jさん」廷治にとって、壇将は頼りがいがあり、並外れた腕を持つ最強の男だった。もし壇将が怪我をしていなければ、一昨日の夜、彼らは必ず莉奈を東安市から連れ出し、承也から遠く離れた場所へ逃がせていたはずだ。ただ、壇将の身体からはまだ薬の匂いがした。完治までは、まだしばらくかかりそうだった。あの佐藤悠斗という図体のデカい男を、壇将にやっつけてもらう計画は、ひとまず先送りにするしかない。壇将は杖をつき、ゆっくりと病室へ入った。背の高い身体は、杖に頼っていても鋭い気配を隠しきれない。彼の視線が、テーブルの横に置かれたまま、まったく手つかずの食事をかすめた。廷治はその視線を追い、小声で説明した。「向井さんは気分が沈んでいて、何も食べたくないみたいなんです」本当は、気分が沈んでいるなどという生易しい程度ではない。あの直哉でさえ、どうにもできなかったのだ。だがそれを、廷治は怖くて口にできなかった。莉奈は膝に顎を乗せたままだった。壇将が近づいてきても、表情は淡いままで、すぐにまた窓の外へ顔を向ける。東安市は雨季に入っていた。冷たい雨が降り続いている。ここは高層階で、窓から下を見下ろしても中庭の緑地は見えない。見えるのは、黒雲に覆われた空と、ガラス窓へ激しく叩きつけられる雨粒だけだった。風景と呼べるものは、何もなかった。莉奈はその姿勢のまま動かなかった。やがて肩へ軽く触れられ、彼女は少しだけ目を横へ向けた。目に入ったのは
もし莉奈が、小槌は自分の体内の毒を吸収したせいで苦しんでいるのだと知ったら、美月を憎むと同時に、自分自身にどれほど残酷なことをするか、誰にも分からない。承也は、二度とその危険を冒せなかった。ここまで長く隠してきたのだ。あと数日を焦る必要はない。「じゃあ、まずは少し腹に入れてくれないか。あいつが食べてな……」浩平はそこまで言って、自分が何を口走りかけたのかにハッと気づいた。承也に、莉奈が朝食を食べていないことを教えるわけにはいかない。真央が持っていった食事は、そのまま手つかずで戻ってきたのだ。直哉でさえ、どうにもできなかった。承也が知れば、どれほど心配するか分からない。そこで浩平は、慌てて話の向きを変えた。「――つまり、あいつはそんな同情を引く手には乗らないぞってことだ」親指と人差し指の間の傷に触れていた承也の手が止まった。彼はベッドの背にもたれ、いつも通りの静かな顔で言った。「俺は同情を引くつもりはない。彼女にそんな手に乗ってほしいとも思っていない」浩平はテーブルの上にあったお粥の椀を手に取った。「で、食うのか食わないのか。食わないなら俺が食わせてやる」浩平は病床の端にどかりと座った。スプーンを持ち、承也の口元へ強引に運ぼうとする。だが、承也がゆっくり目を上げただけで、浩平の伸ばした手はピタリと止まった。「……やってみろ」承也の冷えた声には、はっきりとした警告が混じっていた。浩平は疑わなかった。もし本当に口へ押し込もうとすれば、承也は重傷の身であっても、間違いなく浩平を壁際まで蹴り飛ばすだろう。――強がりすぎる男は、本当に怖い。莉奈の前で何でもないような顔をするのは、まだ分かる。だが同じ紙おむつを穿いて育った俺の前にまで、ここまで強がらなくてもいいだろうに。「君たちは帰って休め」承也は軽く何度か咳き込んだ。浩平は聞いているだけで胸が痛んだ。「結局、食うのか」承也が答えた。「君が帰ったら食う」浩平は言葉に詰まった。「……分かった。約束は守れよ」しばらくして、浩平と省之介は病室を出た。出ていく前に、浩平は悠斗へ、承也から目を離すな、勝手なことをさせるなと念を押した。自分はシャワーを浴び、着替えたらすぐ戻ってくると言い残す。承也はテーブルの上のお粥を