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弟の薬を捨てた私を、母は人殺しと呼んだ

弟の薬を捨てた私を、母は人殺しと呼んだ

By:  野良Completed
Language: Japanese
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弟である理安(りあん)が喘息の発作を起こしたあの日。私、松山星那(まつやま せな)は理安が使うはずだった吸入薬を、すべて洗面台に洗い流した。 母の紗季(さき)が洗面所に飛び込んできたとき、私の手にある空のボトルからは、まだポタポタと滴が落ちていた。 母は息ができずに胸をかきむしる理安を抱き寄せ、私の頬を力任せに張り飛ばした。 「星那!あんた、まだ8歳なのに、どうしてそんなに底意地が悪いの!この子が死ねばせいせいするとでも思ってるの!?」 違う。その薬は中身がおかしいんだって、伝えたかった。 ボトルの口からは、ツンと鼻を刺す消毒液の臭いがしていた。新しく雇われた家政婦が、掃除用具入れから間違えて持ってきたものだったからだ。 でも、母は私の弁解を最後まで聞こうとはしなかった。 私の腕を乱暴に掴み、まだ改装工事の終わっていない物置部屋へと引きずり込むと、外からガチャリと鍵をかけたのだ。 「自分のくだらない嫉妬心より、弟の命のほうがずっと重いって気づくまで、そこから絶対に出さないからね!」 ドアの向こうでは、父の智也(ともや)が理安を抱きかかえ、慌てて病院へと駆け出していく足音が遠ざかっていく。 一方、ドアの内側では、私が暗闇で蹴り飛ばしてしまったポリバケツから白いペンキがドクドクと流れ出し、じわじわと私の足の甲を覆い始めていた。 私はドアの隙間に必死で爪を立て、「お母さん、お母さん!」と何度も何度も泣き叫び続けた。 翌日。 病院の医師から「理安くんの薬には、確かに清掃用の洗剤が混ざっていました」と電話が入り――そこでようやく、母は思い出した。 物置部屋の鍵が、まだ自分のバッグの底に沈んだままであることを。

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Chapter 1

第1話

ガチャリと鍵がかけられる音は、さっき母から受けた平手打ちよりもずっと痛く、胸の奥に大きく響いた。

私はドアにすがりつき、両手で必死にバンバンと板目を叩いた。

「お母さん!あの薬、本当に使っちゃ駄目だったんだよ!」

外からは返事がない。

理安の苦しげな泣き声がリビングから玄関へと遠ざかっていく。

「車の鍵は!?急いで!」と焦る父の声。

「とりあえず病院へ行きましょう。あの子のことは、帰ってからたっぷり思い知らせてやるわ」と、怒りを押し殺した母の声が聞こえた。

直後、バタン!と重い玄関のドアが閉まる音がした。

物置部屋には、私だけが取り残されてしまった。

ここは本来、父が理安のために子ども部屋へ改装しようとしていた場所だ。

壁際には新しいフローリング材が積まれ、床には丸められた配線コードが転がっている。そして部屋の隅には、白いポリバケツが二つ置かれていた。

「工事の材料には体に悪いものもあるから、絶対に触っちゃ駄目よ」。母は以前そう言っていたのに。

さっき私をここに放り込んだとき、母の手の力はすさまじかった。

その勢いで弾き飛ばされた私は、暗がりの中でポリバケツにぶつかってしまったのだ。

蓋がきちんと閉まっていなかったらしく、隙間からドロリとした白い液体がこぼれ出し、床材を這うようにして私の靴底へと迫ってくる。

ツンとするキツい臭いがした。

さっきの、理安の薬と同じように鼻の奥を刺す嫌な臭い。

私は思わず鼻と口を両手で覆い、ドアのところまで後ずさった。

「お母さん……ごめんなさい、私がいけなかったから、お願いだから開けて……!」

冷たいドアに耳を押し当ててみるけれど、家の中からは足音一つ聞こえない。

もう一度叩いてみたが、すぐに手のひらが赤く腫れて痛むだけだった。

このドアは、最近新しく付け替えられたばかりだ。

「理安がハイハイするようになったら危ないから、家中のドアを外からロックできるものに替えるんだ」と父が言っていた。

あの日、父は私と同じ目線になるようにしゃがみ込み、優しく頭を撫でながらこう言った。

「星那はお姉ちゃんなんだから、お父さんとお母さんと一緒に、理安のことを見ててあげてね」

――私は、ちゃんとお姉ちゃんとして見ていたのに。

理安の喉からぜいぜいと苦しそうな音が鳴り始めたことに、誰よりも早く気づいたのは私だった。

新しく雇われた家政婦さんが、薬箱ではなく掃除用具入れから「あのボトル」を持ち出したのを見たのも、私だ。

無理もない、二つのボトルはとてもよく似ていた。

どちらも透明なプラスチック製で、水色のラベルが貼られていたから。

でも、中身の臭いが明らかにおかしいと気づいた。だから私は、とっさにあの薬を洗い流したのだ。

それなのに、母は私の弁解に耳を貸そうともしなかった。

発作で苦しむ理安の姿と、私が握りしめていた空っぽのボトル。母の目には、ただそれしか映っていなかったのだ。

私はその場にしゃがみ込み、ドアのわずかな隙間から外を覗き込もうとした。

けれど隙間はあまりにも狭く、床の埃がうっすらと見えるだけだ。

指先を押し込んでみると、床板を引っ掻く爪の音がチリチリと小さく鳴った。

「お母さん……」

絞り出した声は分厚いドアに跳ね返され、虚しく自分の耳に届くだけ。

ふいに小さく咳き込んだ。喉の奥を細い針でチクッと刺されたような痛みが走る。

先ほどの白いペンキが、まだじわじわと広がっているのだ。

私は慌てて傍らにあったダンボール箱を引きずり、その気味の悪い液体の流れをせき止めようとした。

箱はやけに重かった。中に入っているのは、理安のために買った新しい本棚だ。

「お部屋ができたら、壁一面に理安の絵本を並べてあげるの」と、つい昨日も母は嬉しそうに話していた。

私の絵本は、ベランダに置かれた古い衣装ケースの中にしまい込まれている。「もうお姉ちゃんなんだから、いつまでも子どもっぽいものを読まないの」と言われて。

重い箱を無理に引っ張ったせいで、ダンボールの角が腕をかすめ、ぷっくりと赤い血の玉がにじんだ。

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第1話
ガチャリと鍵がかけられる音は、さっき母から受けた平手打ちよりもずっと痛く、胸の奥に大きく響いた。私はドアにすがりつき、両手で必死にバンバンと板目を叩いた。「お母さん!あの薬、本当に使っちゃ駄目だったんだよ!」外からは返事がない。理安の苦しげな泣き声がリビングから玄関へと遠ざかっていく。「車の鍵は!?急いで!」と焦る父の声。「とりあえず病院へ行きましょう。あの子のことは、帰ってからたっぷり思い知らせてやるわ」と、怒りを押し殺した母の声が聞こえた。直後、バタン!と重い玄関のドアが閉まる音がした。物置部屋には、私だけが取り残されてしまった。ここは本来、父が理安のために子ども部屋へ改装しようとしていた場所だ。壁際には新しいフローリング材が積まれ、床には丸められた配線コードが転がっている。そして部屋の隅には、白いポリバケツが二つ置かれていた。「工事の材料には体に悪いものもあるから、絶対に触っちゃ駄目よ」。母は以前そう言っていたのに。さっき私をここに放り込んだとき、母の手の力はすさまじかった。その勢いで弾き飛ばされた私は、暗がりの中でポリバケツにぶつかってしまったのだ。蓋がきちんと閉まっていなかったらしく、隙間からドロリとした白い液体がこぼれ出し、床材を這うようにして私の靴底へと迫ってくる。ツンとするキツい臭いがした。さっきの、理安の薬と同じように鼻の奥を刺す嫌な臭い。私は思わず鼻と口を両手で覆い、ドアのところまで後ずさった。「お母さん……ごめんなさい、私がいけなかったから、お願いだから開けて……!」冷たいドアに耳を押し当ててみるけれど、家の中からは足音一つ聞こえない。もう一度叩いてみたが、すぐに手のひらが赤く腫れて痛むだけだった。このドアは、最近新しく付け替えられたばかりだ。「理安がハイハイするようになったら危ないから、家中のドアを外からロックできるものに替えるんだ」と父が言っていた。あの日、父は私と同じ目線になるようにしゃがみ込み、優しく頭を撫でながらこう言った。「星那はお姉ちゃんなんだから、お父さんとお母さんと一緒に、理安のことを見ててあげてね」――私は、ちゃんとお姉ちゃんとして見ていたのに。理安の喉からぜいぜいと苦しそうな音が鳴り始めたことに、誰よりも早く気づいたのは
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第2話
それをスカートの裾で無造作に拭い取る。だが、スカートの裾にはすでにあの白い液体が染み込んでいて、足にべったりと張り付いてひどく冷たかった。立ち上がり、ドアノブに手を伸ばす。ガチャ、と半分だけ回るものの、外からのロックに阻まれて開かない。つま先立ちになり、両手で力いっぱいひねってみても無駄だった。ふと見ると、壁際に古い積み木が入った箱が置かれていた。私が幼い頃に遊んでいたもので、母が荷物整理のついでに放り込んでいたのだ。私はその積み木を床にいくつか重ね、その上に乗ってドアの上部にある小さな明かり取りの窓へ手を伸ばした。だが、窓枠には工事用の白い養生シートがべったりと貼られている。爪を立てて少しだけ剥がしかけた途端――足元の積み木が崩れた。ドンッ、と硬い床材に直接膝を打ち付ける。息が止まるほど痛くて思わず口を大きく開けたが、声は出さなかった。理安が泣けば、母は飛んできてすぐに抱きしめてくれる。でも私が泣くと、母はいつも不愉快そうに眉をひそめるのだ。「お姉ちゃんなんだから。弟と張り合ってどうするの」――張り合いたいわけじゃない。ただ、ここから出たいだけなのに。密室の物置部屋は、時間が経つにつれてどんどん息苦しくなってきた。壁に据え付けられた換気扇はまだ配線がつながっておらず、羽はピクリとも動かない。私は這いつくばり、ドアの隙間にぴったりと顔を寄せた。そこからほんの少しだけ、外の空気が流れ込んでくる。冷たい廊下の匂いと一緒に、母の服からいつも香る柔軟剤の匂いが微かにした。そのとき。外から「チン」とエレベーターの到着音が響いた。続いて、慌ただしい足音。そして、玄関の鍵穴にカギが差し込まれる金属音。私は膝の痛みも忘れて飛び起きた。「お母さん!私、ここだよ!」バタン、と玄関のドアが開き、真っ先に父の声が飛び込んできた。「急いで!理安の上着と予備の吸入器、そこの棚に入ってるはずだ!」私はドアに張り付くようにして、手のひらでガンガンと板目を叩いた。「お父さん!お母さん!私、ここにいるよ!」外の足音が、ピタリと止まった。ドアを隔てた向こう側から、いぶかしむような母の声が聞こえる。「……今の、何の音?」気づいてくれた。私はさらに力を込め、痛む手で何度も何度もドアを叩き続けた。「
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第3話
私は慌てて自分のポケットを探った。スカートのポケットに、短くなった鉛筆が入っている。崩れかけたダンボール箱から、柔らかい紙を少しだけちぎり取った。指がガクガクと震え、鉛筆の芯が二度も折れた。それでも、いびつな字で必死に書き付けた。【くすりちがう。かせいふさんが まちがえた】私はその紙切れを、ドアの隙間から外へ押し込もうとした。けれど隙間が狭すぎて、紙は半分まで出たところでつっかえてしまった。爪の先を使って、少しずつ、少しずつ外へ押し出す。そこへ、父の足音が近づいてきた。隙間の向こう側に、父の履いている黒い革靴が止まる。紙切れの端は、確かに外側にはみ出しているはずだ。父が身をかがめる気配がした。「星那」私の名前を呼ぶ父の声は、少しだけ優しかった。「まずは、お母さんに謝りなさい。理安が良くなったら、お父さんが後でちゃんと話を聞いてあげるから」「お父さん、ちがうの。その紙を見て!」けれど、私の声はかすれてうまく言葉にならなかった。寝室から戻ってきた母の足音がした。手には理安の上着が握られている。「まだあの子の機嫌をとってるの?そうやってあなたが甘やかすから、図に乗るのよ」父が身を起こす気配がした。そのとき、一歩後ずさった父の革靴の底が、紙切れの端を無情にも踏みつけた。――ズリッ。鈍い音がして、私の書いた紙切れはドアの隙間の埃まみれの床に擦り付けられた。一生懸命書いた文字が、黒く汚れて滲んでしまった。母がバッグをひったくるように持ち上げ、早口でまくしたてる。「行くわよ。先生が待ってる」「……あの子に、何か食べるものくらい残していこうか」と父がためらいがちに言った。「一食抜いたくらいで死にはしないわ」玄関に向かいかけた母が、ふと立ち止まった。「もしあの子が自分の非を認めないなら、絶対に出さないでちょうだい。このままじゃ、いつか本当に理安を殺しかねないわ」父がため息をつき、テーブルの上に何かを置く音がした。「星那、テーブルの上にパンを置いておくからな。反省したら、自分で出てきて食べなさい」私は必死でドアを叩いた。反省したら、じゃない。お母さんが外から鍵をかけたんだから、出られるわけがないのに!その声は、父には届かない。「早くして!玄関の鍵も二重
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第4話
「今になって『確証がない』ですって?」母は鼻でふっと笑った。「さっき病院にいたときは何も言わなかったのに。星那が私に罰を与えられていると知って、急にそんなこと言い出すわけ?」家政婦は何も言い返せなかった。母はさらに畳みかける。「どうせ、星那に何か吹き込まれたんでしょ?あの子は昔から、そうやって可哀想なフリをして大人を騙すのが得意なのよ。バレエ教室に行きたくないからって、『先生につねられた』なんて嘘をついたこともあったわ。後で防犯カメラを確認したら、先生はただ姿勢を直しただけだったじゃない」私はドアに張り付いたまま、ゆっくりと俯いた。あのとき、先生は本当につねったんだよ。腕の内側だったから、防犯カメラの死角になっていただけなのに。母に連れられて教室へ謝罪に行ったとき、私はずっと長袖の裾を引っ張って痣を隠していた。誰も、私の言葉を信じてくれなかったから。家政婦が小さく反論した。「でも紗季様、とりあえず星那お嬢様のご様子だけでも……まだ物置部屋にいらっしゃるんですよね?」私は必死でドアを叩いた。「家政婦さん!いるよ、ここにいるよ!」だが、母はヒステリックに声を荒げた。「当たり前でしょ!あの中でしっかり反省させてるのよ!」「でも、あの部屋はまだ工事の途中で、塗料の臭いがキツいんじゃ……」「私たちがあなたを雇ったのは、理安の面倒を見てもらうためよ。娘の教育方針に口出しするためじゃないわ!」電話越しに、理安の泣き声が聞こえた。母の声が急に焦り始める。「とにかく、薬箱の写真を撮ってすぐに送って。それから、絶対にそのドアは開けないこと!あの子は今、誰かが甘やかしてくれるのを手ぐすね引いて待ってるんだから」プツッ、と通話が切れた。リビングには、家政婦の荒い呼吸音だけが残された。彼女はしばらくの間、そこに立ち尽くしていた。私はドアに額を押し付け、かすれた声で懇願した。「家政婦さん……お願い、開けて」やがて、足音がこちらへ向かってきた。ドアのすぐ外で足音が止まる。隙間から、彼女のつま先の影が見えた。ドアノブに手が触れ、カチャリと小さな音が鳴る。私は息を呑んで待った。だが次の瞬間、彼女のスマホが再び鳴った。母からのボイスメッセージだった。その声は、ドアを隔てたこち
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第5話
電話の向こうの相手は、ひどく硬い声で何かを告げていた。ドア越しの私には全ての言葉は聞き取れなかったが、断片的な単語だけが耳に届いた。「……病院ですが……残留液から……塩素系の……理安くんは現在安定して……」家政婦の声が、ひっくり返った。「やっぱり、あの薬がおかしかったんですか!?」私はドアにペタリと手を這わせた。電話の向こうが何かを答えると、家政婦はすがるように早口でまくしたてた。「星那お嬢様が薬を捨てたんです!あの時、お嬢様は『これを使っちゃ駄目だ』と言っていたのに、紗季様が勘違いされて……っ」そこまで言って、彼女は言葉を詰まらせた。息を呑むと、彼女はすぐに自分のスマホを取り出し、母へ電話をかけた。母が電話に出たのか、スピーカーからは病院の喧騒が漏れ聞こえてきた。看護師の慌ただしい足音、理安の泣き声、そして母の荒い呼吸音。家政婦は泣き出しそうな声で叫んだ。「紗季様!病院から電話がありました。薬の中に清掃用の洗剤が混ざっていたそうです!星那お嬢様は嘘なんてついていません、理安坊ちゃんを助けようとして――」「……もう一度言って」母の声が、不自然なほど低く掠れた。「私が薬を間違えたんです。今朝、掃除用具入れから間違えて持ってきてしまって……星那お嬢様はそれに気づいて、あわてて洗い流してくださったんです!」ガシャン!と、電話の向こうで何かが床に落ちる音がした。続いて、父の緊迫した声が割り込んでくる。「そういえばあの子、あの時『薬が違う』って何度も叫んでなかったか!?」誰も答えなかった。数秒の重い沈黙の後、ようやく母が口を開いた。「星那は?」家政婦の足音がこちらへ近づき、ドアのすぐ外で止まった。「まだ、物置部屋の中です」電話の向こうがにわかに騒がしくなった。父が「すみません、急いで家に戻ります!」と看護師に向かって叫んでいる。だが母は、まだ信じられないというように問い返した。「あなた、ドアを開けなかったの!?」家政婦の声が震える。「だって、紗季様が絶対に開けるなとおっしゃったじゃないですか!それに鍵は紗季様のバッグの中ですから、私にはどうすることも……!」電話の向こうが、今度こそ完全に静まり返った。私はもう一度、ドアを叩こうとした。けれど、ドア
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第6話
その小さな鉛筆は、母の足元で止まった。端には、白いペンキが点々とこびりついている。母はそれを見下ろし、カチカチと震える唇を動かした。「これ……星那のものだわ」誰も、彼女の言葉に答えなかった。開け放たれた物置部屋から、強烈な化学塗料の異臭が廊下へ噴き出してきた。管理人さんは思わず鼻と口を覆い、半歩後ずさった。家政婦さんは耐えきれずに声を上げて泣き崩れた。父が母を突き飛ばすようにして、部屋の中へ飛び込んだ。「星那!」私はドアのそばに立って、みんなと一緒に部屋の中を覗き込んでいた。倒れたフローリング材。水分を吸ってドロドロに崩れたダンボール箱。部屋の隅からドアのところまで流れ出した白いペンキの海。私のお気に入りの小さな靴が、そのペンキの中に沈んでいた。靴の先は、出口であるドアの方を向いている。そして、私は見た。冷たい床の上に横たわる、自分自身の姿を。黄色のスカートはペンキで脚にべったりと張り付き、両腕は苦しげに胸の前に丸められていた。指先は鉛筆の芯の粉で真っ黒に汚れている。ドアの内側には、小さな黒い指紋が無数に残されていた。下から上へ。そしてまた、上から下へ。必死にドアを掻きむしった跡。父が床に膝を打ち付け、崩れ落ちた。「星那……お父さんだよ、迎えに来たよ」父が私の体を抱き上げようと手を伸ばす。管理人さんが慌ててそれを制止した。「駄目です!まずは換気をして、すぐに救急車を!」しかし父はその手を乱暴に振り払い、怒鳴った。「この子は寒がりなんだ!早くここから出してやらないと……!」母はドアの前に立ち尽くしていた。手には、まだ鍵を強く握りしめている。ギザギザの鍵山が手のひらに食い込んで血が滲んでいたが、母は手を離そうとしなかった。ただ、床に倒れた私をじっと見つめていた。「星那……」蚊の鳴くような、掠れた声だった。私は、それに返事をしようとした。口を開いたのに、声が出ない。ふと自分の手を見下ろして、私は気づいた。私の手は、半透明になっていた。指先が、母が先ほど床にぶちまけた病院の領収書を、すうっとすり抜けていく。もう一度、父の肩に触れてみる。やはり、触れることはできなかった。――そっか。私、もう自分の体の中にいないんだ。すぐに救急隊員たちが駆
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第7話
父は床に這いつくばったまま、私の手を見つめていた。私の小さな手は、何かを硬く握りしめていた。薬箱に入っていた説明書の切れ端だった。救急隊員が指を開かせようとしたが、死後硬直が始まっているのか開かない。見かねた管理人さんがピンセットを持ってきて、少しずつ、少しずつ、その紙片を引っ張り出した。汗とペンキでくしゃくしゃになったその紙片には、一行の小さな文字が印刷されており、そこだけ鉛筆で真っ黒になるほど何重にも丸がつけられていた。【※塩素系洗剤と絶対に混ぜないでください】その文字を見た瞬間、母は突然その場に嘔吐した。父は震える手を伸ばしてその紙を受け取ろうとしたが、手が激しく震えすぎて、三度空を切ってようやく掴むことができた。警察が到着したときには、リビングの照明がすべて点けられていた。眩しいほどの白い光が、物置部屋の中を容赦なく照らし出す。ドアの内側に残された無数の黒い指紋が、一本、また一本と、鮮明に浮かび上がった。一番低い指紋は、床の隙間のすぐそばに。一番高い指紋でも、やっと母の腰の高さに届くかどうかだった。「お子さんをこの部屋に閉じ込めたのは、どなたですか?」警察官の問いかけに、誰も答えなかった。母はドアの前にへたり込み、乱れた髪が顔の半分を覆い隠している。警察官がもう一度、強い口調で尋ねた。「鍵をかけたのは誰ですか?」母が、ゆっくりと顔を上げた。彼女の手には、まだあの鍵の束が握られている。ギザギザの鍵山の先には、乾いて固まった白いペンキが、わずかにこびりついていた。警察官が母の手から鍵を取り上げ、証拠品用の透明な袋に入れた。ジッパーがぴっちりと密閉された後も、母の手は宙を彷徨うように浮いたままだった。父は物置部屋の入り口に座り込み、壁に背中を預けていた。シャツの胸元には白いペンキがべったりと付き、スラックスの膝は埃まみれだ。救急隊員が私の体をストレッチャーに乗せて運び出そうとしたとき、父はそれを遮るように手を伸ばした。だが、警察官がその肩をぐっと押さえる。「松山さん。娘さんは、さらに詳しい検死を行う必要があります。どうかお通しください」父の手は小刻みに震え、やがて力なく床へと落ちた。私は宙に浮かんだまま、自分の顔に真っ白な布が被せられるのを見下ろして
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第8話
それでも母は私の腕を乱暴に掴み、物置部屋まで床を引きずるようにして連れて行った。警察官が一時停止ボタンを押した。画面は、母が外からガチャリと鍵をかけた瞬間で止まっている。彼女の手には、あの鍵が握りしめられていた。キーホルダーには、黄色いアヒルのマスコットが揺れている。私が去年の誕生日に、お小遣いを貯めてプレゼントしたものだ。そのアヒルは今、冷たい証拠品袋の中で、無機質な管理番号のシールを貼られている。「鍵をかけてから、お子さんをどれくらいの時間放置しましたか?」と警察官が尋ねた。「……午前八時頃から、夜の七時過ぎまでです」と父が力なく答える。「途中で一度、吸入器を取りに家へ戻られましたよね」と家政婦さんが補足した。警察官は父に視線を向けた。「その戻られた際、お子さんの状態は確認しましたか?」父の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。「……していません」「助けを求める声や音は?」父の唇がガクガクと震え出した。「……ドアを叩く音は、聞こえました」「なぜ開けなかったんですか?」父が母の方を見ると、母は狂ったように首を横に振った。「だって、ただ駄々をこねてるだけだと思ったんです!気を引くために可哀想なフリをしてるだけだって……!」警察官が家政婦さんに促し、映像を早送りさせた。画面は、二人が吸入器を取りに戻ってきた場面に切り替わる。ドアの向こうで、私が必死に叩いているのがわかるほど、ドアの板面が何度も小さく振動していた。父が物置部屋の前に立ち止まる。そして、身をかがめた。ドアの隙間から、私が差し出したダンボールの切れ端がほんの少しだけ顔を覗かせている。次の瞬間――父の革靴が、それを無情にも踏みにじった。画面の中の父は、ドアに向かって呑気にこう言っている。「まずは、お母さんに謝りなさい」リビングは死んだように静まり返った。警察官は手帳をしまい、代わりに病院からファックスで送られてきた初期検査の報告書を取り出した。「ボトルに残っていた液体から、塩素系の洗剤が検出されました。お嬢さんが薬を捨てたという行為は、結果としてもう一人のお子さんが洗剤を吸入してしまう致命的な事故を防いだことになります」母が弾かれたように顔を上げた。「星那は……本当に、理安を助けようとしたって言う
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第9話
リビングでは、母がソファに丸くなり、私の黄色いワンピースを強く抱きしめていた。私が着ていたものは証拠品として警察に回収されてしまったから、母が抱きしめているのは、それと同じデザインの予備のワンピースだ。私と理安の姉弟お揃いの写真を撮るために、母が買ってくれたものだった。理安の小さな服は、ベランダで綺麗に洗濯されて干されている。私の服は、母に力任せに握りしめられ、すでにぐちゃぐちゃの皺だらけになっていた。テーブルに置かれた父のスマホにも、親族のグループLINEから通知が届いた。父の姉である美穂(みほ)からのメッセージだ。【ねえ、理安くんは無事なの!?】その文字が目に入った瞬間、母が弾かれたように顔を上げた。父は慌ててスマホをひったくり、強制的に電源を落とした。「……もう、見るな」母は、ふっと自嘲するように、乾いた短い笑い声を漏らした。「ねえ、見たでしょ……。結局、誰もが真っ先に理安のことしか聞かないのよ」父の手が、ピタリと凍りついた。翌日。私の通っていた小学校の担任の先生が、弔問のため家に訪ねてきた。ちょうど同じタイミングで、父に抱きかかえられた理安も病院から帰宅した。一晩の経過観察を経て退院できたものの、顔色はまだ青白く、鼻の下には医療用テープの跡が痛々しく残っている。理安は玄関に入るなり、ソファから立ち上がった母に向かって短い両手を伸ばし、抱っこをせがんだ。母は二歩だけ近づき――ピタリと足を止めた。まるで、触れてはいけない恐ろしいものを見るような目で、理安を見つめている。「お医者様からは、もう家で休ませて大丈夫だと言われた。ただ、ショックを受けているだろうから精神面には気をつけてやってくれと……」父が沈んだ声でそう言い、理安を抱き直す。理安は父の肩に顎を乗せ、キョロキョロと家の中を見回した。そして、物置部屋のドアに張られた黄色いポリスラインを見つけると、不意にそちらへ小さな指を向けた。「おねえちゃん」父の体が、ビクッと強張る。理安はもう一度、物置部屋を指差した。「おねえちゃん」母の手から、私が着るはずだった黄色いワンピースが滑り落ちた。母は半狂乱で飛びつき、理安の小さな両肩を鷲掴みにした。「星那が見えるの!?星那はどこにいるの!?」理安は
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第10話
しかし、作業員が工具箱を手にして玄関に立った途端、母が狂ったように駆け寄り、ドアの前に立ちはだかった。「外さないで!」髪を振り乱し、血走った目で作業員を睨みつける。「星那が……あの子が、ここを叩いたのよ!」異様な気迫に、作業員はその場に立ち尽くしてしまった。父は力なく手を振り、作業員に今日は帰ってもらうよう頼んだ。家の中は再び、重苦しい静寂に包まれた。寝室で眠っている理安は、あまり寝付けないようで、少し経つとすぐに「コン、コン」と咳き込んだ。その咳が聞こえるたび、母はビクッと立ち上がる。けれど寝室のドアのところまで行くと、どうしても足が止まってしまうのだ。以前なら、理安が泣き声を上げた瞬間に誰よりも早く飛んで行ったのに。今の母は、理安を抱きしめることを恐れていた。仕方なく、父が理安を抱きかかえてリビングへ出てきて、ソファに座って背中をトントンと叩いた。だが、父のやり方は不器用だった。強すぎたり、弱すぎたりして、リズムが一定じゃない。理安は不快そうに、さらに火がついたように泣き出してしまった。父は額に汗をにじませ、慌てて引き出しをかき回した。退院のときにもらった医者のケア手順書を探しているのだ。ガタガタと引き出しを引いた拍子に、中から一冊の小さなピンク色のノートがポロリと床に落ちた。私のノートだ。表紙には、私が貼ったいびつなウサギのシールがついている。父の手が止まった。ソファの隅にいた母の視線も、そのノートに吸い寄せられた。父が恐る恐る一ページ目を開くと、そこには子供の大きな字でこう書かれていた。【りあんが くるしくなったら、あわてちゃダメ】その下には、私が鉛筆で描いた図がある。小さな手が弟の背中に置かれ、上から下へ優しく撫でるようにトントンしている絵だ。絵の横には、さらにこう書き添えられている。【おかあさんが いってた。りあんは ちいさくて ほねが やわらかいから、つよく たたいちゃダメ】理安を抱いていた父の手が、ピタリと固まった。父はゆっくりと首を垂れ、ノートに描かれた絵の通りに、もう一度理安の背中を優しく叩き始めた。上から下へ。一定のリズムで。すると、理安の泣き声は少しずつおさまり、やがてヒック、ヒックという小さなしゃくり上げに変わっていった。
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