INICIAR SESIÓN退魔師の落ちこぼれ少女・柊は、記憶を失った謎の青年・朧と出会う。満月の夜、偶然交わされた“契り”により、二人は「どちらかが死ねば、もう一方も消える」運命を背負ってしまう。やがて朧の正体が、人を滅ぼしかけた妖“月喰い”だと判明し、彼は討伐対象となる。世界を守るか、それとも彼を信じるか――。愛することが、命を奪うことに繋がる中、柊は過酷な選択を迫られる。
Ver más月が、満ちていた。
雲ひとつない夜空に、白く冷たい円が浮かんでいる。まるで世界を見下ろす巨大な目のように、翌朝、蒼真が来た。 今度は庭先からではなく、玄関から。しかも手に風呂敷包みを持って。「母親が煮物を作りすぎたと言って。受け取れ」 差し出された包みを、柊は反射的に受け取った。「……ありがとうございます」「柊のおばさんたちが不在のとき、お前がまともに食えているか心配なんだろう」 言いながら、蒼真はさりげなく土間を覗いた。余分な履物がないか、確認しているのだとわかった。 昨夜、朧の草履は縁側の奥に隠してある。柊は内心で息をついた。「上がるか?」「いや、今日は任務がある。これを届けに来ただけだ」 そう言いながら、蒼真は動かなかった。 柊を見ている。真っ直ぐに、探るでもなく、ただ見ている。幼い頃からそうだった。蒼真は言葉より先に目で話す。今その目が告げているのは、心配、だった。「昨日より顔色が悪い」「眠れなかっただけです」「なぜ」「考えすぎていて」「何を」 柊は苦笑した。「いろいろと」 蒼真は一歩、土間に踏み込んできた。「柊」「はい」「お前は昔から、一人で抱えようとする。小さい頃からそうだった」 声が、低くなった。責めているのではない。それが余計に、胸に刺さる。「力が足りないと思うたびに、もっと頑張らなければと追い詰めて。助けを求めることを、負けだと思って」「……蒼真さん」「俺はお前の幼なじみだ。何かあれば言え。それだけだ」 言い切って、蒼真は踵を返した。 門を出ていく背中を見送りながら、柊は風呂敷包みをぎゅっと抱きしめた。 廊下の奥から、気配がした。朧が、起きている。 朝食のあと、柊は書棚の前に座り込んだ。 退魔師の家には蔵書が多い。父の
朝が来た。 柊が目を覚ましたとき、縁側にはもう朧の姿はなかった。慌てて客間を覗くと、敷いておいた布団の上に、朧は正座していた。目を開けたまま、微動だにせずに。「……朝ですよ」「知っている」「眠れましたか」「眠り方がわからないと言った」 つまり一晩中、そうしていたということか。柊は言葉に詰まった。「お腹は空いていますか」 少し間があった。「わからない」「わからない?」「空腹というものが、どういう感覚かわからない」 柊はしばらく朧の顔を見つめた。感情がない。空腹もわからない。眠れない。この男の中には、人として当たり前に備わっているはずのものが、根こそぎ欠けている。 昨夜から何も食べていないのは事実だった。「とりあえず、食べてみてください」 朝餉の支度をしながら、柊は考えた。 両親は三日後に帰ってくる。それまでに朧をどうするか、決めなければならない。記憶がなく、行き場もない人間を、退魔師の家に置いておくわけにはいかない。見つかれば、問答無用で追い出されるか、最悪、祓いの対象として報告される。 朧が人間ではない可能性を、柊はまだ否定できなかった。 あの力は尋常ではない。昨夜の鴉天狗を瞬時に消滅させた青白い気配は、霊力でも妖力でもない、もっと根源的な何かのように感じられた。 でも今、台所の入口に立って柊の背中を黙って見ている朧は、どう見ても人の形をしていた。「そこに立ってないで、座っていてください」「何をしている」「味噌汁を作っています」「なぜ汁を作る」「朝ごはんだからです」 朧は一拍置いてから、素直に膳の前に座った。 しばらくして、白飯と味噌汁と、残り物の煮物を並べると、朧はそれを見て動かなかった。「食べ方
柊の家は、山の麓にある。 退魔師の家系らしく、敷地は広い。母屋の周囲には結界石が埋められ、軒下には魔除けの御札が連なっている。だが今夜、その玄関をくぐったのは、祓うべき対象と限りなく近い何かを連れた柊だった。「……入ってください」 引き戸を開けながら、自分の選択を反芻する。 正気か、と問われれば、わからない。記憶を持たない正体不明の男を、退魔師の家に連れ込む。冷静に言葉にすれば、それはひどく無謀なことだった。 でも命が繋がっているのだと、男は言った。 打算か、情か、自分でも判然としないまま、柊は男を上がり框へ促した。「お父さんもお母さんも、今夜は遠征で不在なので。見つかる心配はないです」 男は無言だった。 案内された縁側の間に腰を下ろし、ただそこにいた。手を膝の上に置き、背筋を伸ばし、まるで置物のように静止している。感情の読めない横顔が、行燈の灯りに照らされていた。 柊は救急箱を持ってきた。退魔師の家のそれは、一般の薬のほかに、霊力回復に効く薬草の煎じ薬も入っている。男の消耗は尋常ではなかった。あれだけの力を使えば当然かもしれないが、顔色はいまだ白く、指先もわずかに震えていた。「手を出してもらえますか」 男は無言で右手を差し出した。 掌を見て、柊は小さく息を飲んだ。傷があった。石畳についたときについたのだろうか、皮が剥けて血が滲んでいる。手当てをしながら、自分の手と比べる。大きな手だった。骨張っていて、でも細くしなやかで、どこか人間離れしていた。「……痛みますか」「感じない」「感じない、って」「痛みがわからない」 淡々と答えた。感情を込める気がない、というより、感情という概念を知らないように聞こえた。 柊は消毒液を含ませた布を傷に当てながら、男の横顔をそっと窺う。「名前は覚えていますか」「ない」「どこから来たか、も?」「ない」「……何かひとつでも、覚えていることは」 そこで男は初めて、少し間を置いた。「月、が見えた」 ぽつりと言った。「目が覚めたとき、月だけがあった。あとは何もなかった」 柊は包帯を巻く手を止めた。男の言葉には、嘘をついている気配がなかった。飾りもなく、誇張もなく、ただ事実だけを告げている。「お前の家の結界、穴がある」 唐突に話が変わった。「え?」「北東の隅。三箇所、石の配置がずれ
月が、満ちていた。 雲ひとつない夜空に、白く冷たい円が浮かんでいる。まるで世界を見下ろす巨大な目のように、柊にはそれが見えた。 山の端に位置する、荒れ果てた旧社の境内。朱塗りもとうに剥がれ落ちた鳥居をくぐり抜けながら、柊は息を整えた。「……来ている」 呟きが、白い霧になった。三月の終わりとはいえ、山の夜気は刃のように鋭い。 柊は懐から式紙を取り出し、指先に力を込める。小柊流退魔術の初伝。父にも母にも「お前は筋がない」と言われ続けた、それでも必死に習得した唯一の技だ。 任務の内容は単純だった。この廃社に棲み着いたあやかしを祓え。下級の気配、との報告だった。 ──だが。 参道の奥から溢れ出してくるのは、報告にあった小さな怨気とはまったく異なる、濃く重い瘴気だった。枯れ葉が腐臭とともに舞い上がり、境内の古木がみしりと軋む。月明かりの下、砂利が黒く滲んでいく。「嘘、でしょ……」 声が震えた。 木々の影から、それは現れた。 巨躯だった。人の形をしているが、身の丈は三メートルを超えようかという。烏の頭を持ち、全身が黒い羽根で覆われた、鴉天狗の上位種。怨霊を喰らい続けて肥大化したのか、その瘴気は異様に濃密だった。眼窩に灯る赤い光が、柊を捉える。 逃げなければ。 頭でわかっていても、足が動かなかった。退魔師としての本能が「格が違いすぎる」と告げていた。これは柊が単独で対処できる類のあやかしではない。 同時に、もうひとつの声が聞こえた。 ──逃げたら、また証明される。お前には力がない、と。 幼いころから言われ続けた言葉が、頭に蘇る。お前は退魔師失格だ、と。「……やるしか、ない」 式紙を構えた瞬間、鴉天狗が動いた。 風圧が来た。翼が広がり、黒い嵐が境内を薙ぐ。柊は身を伏せるが、衝撃で石畳に叩き付けられ、式紙が散った。「っ……!」 起き上がろうとする。膝が笑っていた。掌が血で滲んでいた。それでも構えようとした瞬間、鴉天狗の大きな手が柊の首根っこを掴み上げた。 宙に浮く。呼吸ができない。 足が空を蹴る。月が目に入った。丸く、白く、冷たい月。 ──ああ。今夜は満月なのか。 妙に穏やかな感想が脳裏を過ぎったとき、足元でなにかが動いた。 風切り音がした。 次の瞬間、柊を掴んでいた腕が消えた。 落ち