Masuk雨は降り続いている。傘が必要な程の雨では無いが。
涙雨 まさしく骨の髄に染み入るような、そんな雨だ。 俺は目の前の墓石を見つめ、一束の花束をその墓石に供える。記憶の中の彼女は俺に微笑んだ事は無い。それなのに彼女の微笑みを想像出来てしまう程に、俺は彼女を知っているような気がしている。無意識に拳を握り締める。 その時 ―― 微かな物音が聞こえた気がして、反射的に顔を上げる。視界の隅で何かが動くのを捉える。少し離れた場所、その場所の墓石の影から清掃員の制服を着た人間が足早に立ち去ろうとしていたところだった。 その背中に何故か、惹き付けられる。 (あれは……いや、そんな筈は無い……) 療養所は爆発し、遺体も発見されている。だからこそ、今日の葬儀なのだ。 「征哉様?」 部下の日下部の声に、我に返る。 「……いや、何でも無い。行こう」 そう言って俺はその場を後にする。 車に乗り込み、目を閉じる。 あの清掃員の後ろ姿……体の線が細く、しなやかな歩き方。 ……知っている。忘れる筈が無い。理性を失い、求め合ったあの夜に俺はその背中に口付けたのだから。 俺の腕の中で小さく震えていた女……あの女の背中に似ている気がする……。 ◇◇◇ 屋敷に戻った俺は部屋に籠り、ブランデーを傾ける。 「献杯、だな」 そう一人で呟く。 あの夜の女がまさか、一ノ瀬の長女だったなんて思いもしなかった。 一ノ瀬美緒の事は噂では聞いていた。俺の家・九条家と敵対する一ノ瀬家の長女で、聡明な箱入り娘。後妻に入った華瑛という毒婦とその娘の瑛理香が一ノ瀬家を蹂躙している事は知っていたが、そもそも敵対している家の事情など、俺には無関係だ。もっと言えば、内側から瓦解してくれれば、わざわざ俺が手を下す事も無くなり、煩わしい事が一つ消えるだけ。 だがパーティーで初めて一ノ瀬美緒を見た瞬間、俺は目を逸らせなくなっていた。 これまで数え切れない程の女を見て来た。その内の誰一人として俺の心を揺さぶった事は無い。しかし、彼女は違った。一ノ瀬美緒、彼女だけは違ったのだ。目を奪われる、そんな事が本当にこの世に存在するのだと思い知らされた。 一ノ瀬美緒の美しさは俺がそれまで想像して来たものとは違っていた。てっきり過保護に育てられ、箱入りで世間知らずで……か弱く儚い女性だと思っていた。しかし、実際は違った。 スラリと伸びた身体に、上品なドレスを纏っている。肌を過度に露出している訳でも無い。それなのにそこに立っているだけで人を、いや、俺の目を惹き付ける存在感があった。 凛とした強さと自立した気高さ。 その佇まいに俺は知らず知らずのうちに惹き付けられていた。そして俺はおかしな事にこうも感じていたのだ。 どこかで会った事がある……? いや、そんな筈は無かった。俺と一ノ瀬美緒が会ったのは、その時が初めてだったのだから。 隣に並び立ったのは、派手で下品極まりない、過度な肌の露出をしている女、それが今、思えば一ノ瀬美緒の義理の妹の瑛理香だったんだろう。婚約者である一ノ瀬美緒を顧みず、高橋だか何だかとかいう男と腕を組み、無駄に体を密着させていたから、その違和感に俺は笑いを堪える事が出来なかったのだ。 あの程度の男なら、あの女でも充分だろうと思った。普通なら自分の姉の婚約者と腕を組んで公の場には立たないし、あんなに過度な露出のドレスなど、着ない。 それに自身の妹にあんなに露骨に扱われているにも関わらず、文句一つ言わず、その表情すら崩さない、その姿に理由の分からない苛立ちを覚えた俺は思わず、失笑してしまっていた。 そしてそうやってただ黙って立っているだけの一ノ瀬美緒の隣に立つべきなのは ―― そう思った俺はそこまで考えて、思考を停止させ、グラスの中の酒を煽った。 しばらくして体が火照り始め、やがては体が内側から燃えるような感覚になる。 すぐに異変に気付く。酒に何か混ぜられている……。 そう思った時にはもう遅かった。 意識は朦朧とするのに、体の感覚は鋭くなり、真っ直ぐ立っていられない。誰かに押されるようにして部屋へと入れられ、そのまま ―― 扉が閉まった。 そしてその部屋の中に彼女が居た。 そこからの記憶は混濁している。俺から近付いたのか、彼女からなのか。薬の作用と酒のせいで、記憶がぐちゃぐちゃにかき乱されて行く。それでも一つだけ、ハッキリと覚えていた。 それはこれまで一度も感じた事の無い感覚だった、という事だ。 腕の中の彼女は熱を帯びているのに、どこか柔らかく、壊れそうな程に細く、それでいて俺にしがみつく手には力が入り、俺の背中に彼女の爪の跡がつく。呼吸は乱れていたが、拒む事は無かった。抱き寄せた瞬間、全身の熱がようやく行き場を見つけたような錯覚に陥る。まるで身体だけが、記憶の無い何かを……“それ”を覚えているかのようだった。 ただ酷く心地良くて。 意識が完全に沈み込む寸前、かすかにシャッター音のような音が聞こえた気がした。 ……カシャッ。 カシャッ、カシャッ。 俺が正気に戻り、目覚めた時にはベッドには俺以外、誰も居なかった。 夢だと思ったのだ。 酷くリアルで、生々しく、そして甘美な夢だったと。タブレットに新しい情報が追加される。九条征哉が頷いて見せる。私がそれを開くと、表示されたのは見た事の無い暗い部屋……?(いいえ、知ってるわ、この部屋)タブレットに映し出されている部屋は、紛れもなく私のお母様の使っていた部屋だ、あの離れの。「荒らされているのか、時間経過とともに荒れたのか……」九条征哉がそう呟く。私は画像を見ながら言う。「両方ね」この部屋の惨状を見た事がある。あれはまだ私が幼かった頃。華瑛が一ノ瀬の家に入り込み、お母様の使っていたあの部屋の中から色々な物を処分すると言って、持ち出したのだ。その当時の私は文字通り、処分するのだとばかり思っていたけれど。華瑛のあの隠された小部屋の存在を知ってしまった今、お母様の私物はあの小部屋に移されているのだろうと分かる。画面をスクロールする。暗い部屋の中で浮き立つようにドレッサーの鏡が光を反射している。その鏡には何かが書かれている。「You belong to me forever……」それを読んでゾッとする。あなたは永遠にわたしのもの……?九条征哉を見上げる。「これって一体……」私がそう言うと、九条征哉も苦笑している。「これは予想外だな」私も九条征哉も今までずっと華瑛は私の母である香織を憎んでいるものとばかり思っていた。見合いとは言え、婚約も済んでいた相手である一ノ瀬恭介が一方的に懸想して、婚約を破棄してまで結婚した女性が自分の親友だったら。そう考えれば、自然とその悪意は親友だったお母様に向く筈だと思っていたのだ。けれど実際は全く違っていたのだとしたら?華瑛が一番、こだわっていたのはお母様との関係で、お父様はただの添え物だったとしたら……。九条征哉がタブレットの画面をスクロールする。次に現れたのは……銀色の……カプセル?「これ……」私がそう言うと九条征哉が頷く。「IDカプセルだな」画面をスクロールする。現れた画像にはその銀色のカプセルの中に入っていたであろう紙が映し出され、更にその後の写真にはその紙が開かれて書かれている文字列が見えた。KGBK-V10 / 0779-X-GN1それを見ても私には何の事か分からない。九条征哉を見上げると、九条征哉は微笑んでいた。「これが何か、分かるの?」そう聞くと九条征哉が頷く。「あぁ、分かるよ」九条征哉はそう言って、少
及川の執務室に入る。ここには私が持って来た“道具”がいくつか置いてある。本邸に置くには少しばかり大きくて、かさばるものばかりだったからだ。その荷物の中から私は防毒マスクを出し、開錠の為に使うピッキングの道具を持って、あの部屋に向かう。ドアノブを回し、鍵がかかっている事を確認し、防毒マスクを床に置く。ピッキングの道具を出し、鍵穴に差し込む。指先に伝わるわずかな振動と音を頼りに鍵を開ける。カチッ……そんな音がして鍵が開く。私は防毒マスクを被り、サッとピッキングの道具を片付け、深呼吸をし、ドアノブを回す。ガチャ……扉を開く。部屋は真っ暗だ。強い遮光カーテンが引かれているせいで、日の光が全く入らない。私の付けている腕時計からピッピッと音が鳴る。腕時計の文字盤を見る。~有害毒素検知~それを見て私は微笑む。(やっぱりね)扉を閉める。暗闇に目が慣れて来ると部屋の全体が見えて来る。まるで打ち捨てられた廃墟の部屋のように、クローゼットの扉は開けっ放し、ドレッサーの引き出しも開け放たれている。天蓋付きのベッドの天蓋は乱れ、チェストも開かれたままだ。(泥棒でも入ったみたいに荒れているわね)私は一歩踏み出す前に、ペン型のライトを取り出し、万が一にもトラップが引かれていないかを確認する。足元はOK、何もない。慎重に辺りを照らす。トラップの類は無さそうだ。(それもそうか、相手はどこぞの御令嬢だものね)慎重に歩き出しながら私は周囲を見回して行く。鍵をかけて、この部屋を封鎖し”開かずの間”にした理由がある筈だ。鍵さえかければ、人はその鍵を誰かが開けて中に入るかもしれないなんて思わないものだ。それも何年もそのままで放置されていたとすれば、警戒は下がっているだろう。私は近くにあったチェストの中を覗く。中には数枚の布が入っているだけ。その下の引き出しを開けても結果は同じだった。サッと動き、クローゼットを覗く。クローゼットの中もほぼ、空だ。ドレッサーの前に立つ。引き出しを開けると、中にはいくつかの化粧品。古いものだ。コロンと転がり出て来たリップスティック。手に取るとそれには名前が刻印されていた。KAORI ICHINOSEここは美織様のお母様がお使いになっていたお部屋なのだ。そしておそらくは“青の永久凍土”に汚染されている ――素早くベッドに移動し、私はベッドのマットレス
「美織」声を掛けられ、私は部屋に入って来た九条征哉を見る。「征哉」九条征哉は私の座っているソファーまで歩いて来て、私の隣に座る。「見たか?」私の手に持っているタブレットを見て九条征哉が聞く。「えぇ、見たわ」そう言うと、九条征哉は私の方へ体を向けて聞く。「それで、離れには何が?」そう聞かれて私は少し考える。「確かにあの離れはお母様が体調を崩してから、療養の為に使っていたものだけれど」九条征哉が私の肩を抱く。「お母様が体調を崩したのも私が幼い頃だから、私は離れに出入りさせて貰えて無かったの」そう言いながら過去の自分の思い出を振り返る。「その頃は華瑛は来ていたか?」そう聞かれて私は首を振る。「正直、覚えていないの。私はまだ幼くて、ただただお母様に会えなくなった事がとても悲しかったから」九条征哉の手が私の肩を撫でる。「それで?」そう聞かれて言う。「お母様が亡くなって、すぐに華瑛と瑛理香が一ノ瀬の家に入って来て、最初は私も本邸に部屋があったのだけど……確か、私が中学に上がる頃には離れに行くように命じられて、そうしたの……及川もその方が良い、自分も行くからって」そうだ、あの当時、及川も離れに執務室を持っていた。一ノ瀬家の執事だったけれど、及川はお母様の傍に付いていたのだ。「及川はお母様と懇意にしていたのよね?」私がそう聞くと九条征哉が頷く。「あぁ、そうだ。及川は元々、美織の母親の家である七倉に付いていた。香織が一ノ瀬家に入った時に及川も一緒に付いて来たんだ」そう言われて及川が何故、私を救う為に動いてくれていたのかが、何となく分かって来る。「及川は元々、お母様の家に付いていた人間だったのね……」私自身が知らない事がまだまだたくさんある。私は比較的、早い時期に離れに隔離された事で、一ノ瀬家に蔓延る悪意から、ある意味、守られていたのだと感じる。「それで、離れには他に何か、華瑛がこだわる何かがあった記憶は?」そう九条征哉に聞かれて私は考える。「それなんだけど。あの離れには鍵のかかった部屋があったの」そう言って九条征哉を見上げる。「鍵のかかった部屋?」そう聞かれて頷く。「えぇ、そうなの。私があの離れに入った時には鍵がかかっていて、入る事は出来なかった。これは推測だけどあの部屋はきっとお母様が使っていた部屋だと思う」そ
新しい命令が下った。――離れを捜索――確かにあの離れは気になっていた。美緒様が本邸ではなく離れに、まるで隔離されるように一人で住まわされていた場所。そこには及川の執務室があるので、あの離れに行くのはそれ程、骨は折れないだろう。華瑛は今、和久井に夢中なのだ。良いタイミングでもある。だが及川が知らない事を私が探れる……?いや、及川だからこそ、探れない事もある筈だ……あの小部屋がそうだった。離れに入る。本邸では瑛理香がおかんむりで花瓶を派手に割っていた。離れを使ってのお茶会を華瑛に却下され、更に婚約者である高橋翔太にも、興味を向けられていない事に苛ついているようだった。高橋翔太と一ノ瀬瑛理香。あの二人は一蓮托生では無い互いに求めるものを互いが持っていただけ、という脆い繋がりでもある。どちらかが相手の求めるものを失った時、瓦解する ――そんな脆い関係だ。愛し合ってもいない、愛なんてあの二人の間に生まれる訳が無い。離れに入ると、廊下の向こうから及川が歩いて来た。「存分に。私は本邸に戻り、本邸内をコントロールする」そう言われて私は頷く。「えぇ、お願い」及川と入れ替わりで私は離れを見て回る。◇◇◇「美織はどうしている?」日下部にそう聞くと日下部が微笑む。「お部屋にて、情報を共有されています」そう言われて俺は微笑む。「そうか」そう言って時計を見る。「食事は摂っているのか?」そう聞くと日下部が微笑む。「えぇ、征哉様よりは健康的に」そう言われて笑う。「そうか」俺がそう返事をすると食事が運ばれて来る。それを見てまた笑う。日下部は本当に気の利く男だ。◇◇◇九条征哉が私に与えた権限 ――それは一ノ瀬家に潜り込んでいるスパイたちの報告をタブレットで見られるようになった事だ。報告によれば私が使っていた離れの捜索を九条征哉が命じている。離れ……あそこは元々、お母様が療養の為に使っていた場所でもある。今思えばお母様が体調を崩したのは華瑛の仕業だったと分かったけれど、体調を崩し始めた時は、その原因が分からなくて、私はとりあえず、お母様から引き離されたのだ。お母様が亡くなり、あっという間に華瑛が一ノ瀬家に入り込み、私は成す術もなく、離れに追いやられた。それでも離れはお母様が居た場所だったし、本邸に居るよりは心が休まった。離れの部屋はいくつかある
お母様に離れを使うアイデアは却下されてしまった。あの離れは確かに手を入れてない。あの離れにはお姉様が一人で住んでいた。本邸に居るだけで目障りだったお姉様を離れに追いやった時はスッキリしたけれど。お姉様が居なくなった今、あの離れは誰も住んでいない廃墟のようになるのが目に見えている。だからこそ、一ノ瀬家の唯一の令嬢である私が使ってあげようと思ったのに。気持ちを切り替える為に本邸でのお茶会をどこでやるか、考える。やっぱりテラスかしら……そう考えていると、お屋敷に誰かが入って来た。入って来たのは翔太だった。(そうだわ、翔太にも相談しよう)そう思った私は入って来た翔太に声を掛ける。「翔太」声を掛けると翔太が私を見て、微笑む……いえ、私を見て眉を顰めた。「あぁ、瑛理香」そう言って辺りをキョロキョロ見回す。「お義父さんは?」そう聞かれて私は言う。「知らないわ、書斎にでも居るんじゃない?」そう言うと翔太はそのまま私を素通りして行こうとする。「待ってよ」そう声を掛ける。翔太は振り向き、聞く。「何? 俺、急いでるんだけど」そう言いながら翔太は手に持っているスマホに目をやる。「明日にでもお茶会を開こうと思うの」そう言うと翔太は眉間に皺を寄せて言う。「あぁ、良いんじゃない」素っ気ない返事にイラっとする。「お姉様の使っていた離れを使おうと思ったんだけど、お母様がダメだって」そう言うと翔太が私を見る。信じられないものを見るような目付きだった。「離れ? あの離れ?」翔太はそう言ってはなれのある方を指差す。「えぇ、そうよ。でもお母様がダメだって」翔太は大袈裟に大きく溜息をついて、言う。「瑛理香、本気かよ。あの離れは美緒が使ってたんだ、縁起でも無いだろ」そう言われて私は自分の思い付いたアイデアを貶されて更にイラっとする。「だって! 今はもう誰も使ってないのよ?」そう言うと翔太は肩をすくめて言う。「お前のそういうとこ、嫌いじゃないけどさ。今はまだ美緒が死んでからそれ程、時間も経ってないんだし、大人しくしてる方が良いんじゃないか? 評判にも関わって来る話だろ?」そう言いながら翔太はまたスマホを見て、私に言う。「とにかく今は俺、忙しいんだよ。九条グループの株価がまた下がってるんだ。ここは俺たちが九条を出し抜けるかどうかの大事なタイミング
「私はそろそろ本邸へ戻るわね」真中芙美がそう言って私の執務室を出て行く。真中芙美が耳に付けた盗聴器には和久井と華瑛の楽し気な会話が聞こえているらしい。私は離れの執務室から窓の外を見る。生い茂った緑、手入れの行き届いていない、庭。この離れを囲む木々や雑草の手入れは許されていなかった。全ては華瑛の指示だ。離れではあるものの、ここだけで独立して生活自体は出来るよう、設計されている。香織様がここへ来てさえいれば、本邸で過ごされる事がなければ、或いは、香織様をお守り出来たかもしれなかった……?いや、違うな。あの華瑛と香織様が出会ってしまった事……それが全ての間違いだったのだ。私は七倉からの指示を受けて、香織様に付いてこの一ノ瀬家へ入った。一ノ瀬恭介との結婚は、七倉が渋ったのだ。既に見合いを済ませていて、婚約もしている男が懸想して見合いでの縁談を破談にし、アプローチをして来たのだ。一見、ロマンチックに見える、そんな話だが、実際には違う。最初にした約束を反故に出来る、そういう男なのだという判断を七倉がするのも当然だった。だが、香織様が絆されてしまった。一ノ瀬家の縁談の相手が三崎家だという事を香織様は後になって知ったのだ。だからこそ、一ノ瀬恭介からの申し入れを何度も断り、三崎家の華瑛と結婚するよう、進言もなさったのだ。それを強行しておいて、あの男は……香織様の妊娠中に……そう思うと腸が煮えくり返る。その事を知った香織様は私に託したのだ。いつか、その時が来たら、その時は。そんな決意を持って遺言状を書いた香織様の胸中を思うとやりきれない。◇◇◇通りかかったメイドを呼び止める。「ねぇ、ちょっとあなた」呼び止めたメイドは私を見て、頭を少し下げる。(この人、この間、紹介状で入って来た人ね)そう思いながら私は言う。「お茶会を開くわ……そうね、明日! 明日にするわ!」そう言うとそのメイドは少し微笑み、頷く。「かしこまりました。旦那様や奥様には?」そう聞かれてイラっとする。「お母様は好きにしろと仰ったわ、だから良いの!」そう言いながら私はパッとアイデアを思い付く。「そうだわ! あの離れを使いましょう!」◇◇◇温室に咲くエンジェルストランペットを愛でる。あの小部屋にあるのはピンク色だけれど、ここにあるのは毒々しい青い色のもの。もう少し咲い
高橋翔太と瑛理香は元々、繋がっていて……一ノ瀬家の家名が欲しかった高橋翔太と、一ノ瀬家の令嬢という地位を自分だけのものにしたかった瑛理香が手を組んでいた……。高橋翔太と一ノ瀬瑛理香は笑いながら、私の墓石を足蹴にして、去って行く。しとしとと降る雨の中、私はまだ衝撃に体を動かせないでいた。不意に私は笑い出す。「フフ……」そう言う事だったのね……箒を握る手に力が入り、指の節が白くなる。私がどうしてあの夜の記憶を失くしたのか……それはあの二人が結託して私を嵌めたからだ。宿敵である九条征哉という男をも巻き込み、私に言い逃れが出来ないように写真を撮り……そして私のお腹の中に宿った子供でさえも、
及川との通話を切る。軽く溜息をつき、私は私の夫の元へ向かう。入るなと命じられている部屋に近付く。中からは嗚咽が聞こえる。私は静かに扉を開け、中に入る。部屋に入って来た私を見て、私の夫は視線を伏せる。私は夫に近付き、その肩を抱く。「火事は事故だったのよ……」慈愛を込めた声を装い、そう言う。「あの子の葬儀はもう手配しました。だから安心して、あなた」肩を抱いた私の手を握る、私の夫は泣き崩れている。「すまん……」夫はそう呟くように言って、肩を揺らす。私はそんな可哀想な夫を見つめながら、ほんの少し微笑む。部屋を出て、扉を閉めて。笑みが零れるのを我慢出来なかった。誰にも聞こえない声で
目の前で。オレンジの炎が燃え盛っている。夜空に映える炎のオレンジ色はその触手を天に伸ばし、更に炎自身が燃えるものを探している。炎の触手の先からは黒煙が立ち上り、夜空の星を覆い隠す。私を閉じ込めて、絶望の淵へ追いやった療養所という“檻”は、今はもう燃えながら歪み、崩れ落ち、灰と化して行く。「お嬢様」及川が私の横に立つ。「今この瞬間からお嬢様は灰になりました。もう一ノ瀬家の令嬢ではございません」全ては燃えて灰になった……私と一ノ瀬家の縁も、そして未練も全て燃えて灰になったのだ。思い出されるのは幼い頃の記憶――お母様が生きていた頃は……私もお父様に確実に愛されていた。お母様とお父様
及川は私を見つめ、頷く。「お嬢様、生き延びてください。それもあなたのお母様の最後の願いなのですから」そう言われて私はポロポロ落ちる涙を拭い、聞く。「私は、何をすれば?」及川が簡潔に言う。「時間がありません。今すぐにお嬢様のお召しになっている服とネックレスを外して頂けますか」及川はそう言って自分の足元にある遺体袋を見る。「この遺体にお嬢様の服を着せ、ネックレスをつけさせます。そうすればお嬢様は死んだ事になり、万が一にも生きている事が知られたとしても、その時にはお嬢様はここから遠い地へ離れている事でしょう」及川は私に紙袋を渡す。「着替えは中に」その紙袋を受け取る。漆黒のワン