LOGIN章真は、まるで息をするみたいに人の好意を手に入れる。若く。端正で。金を持っていて。――しかも気前がいい。学年主任との話のあと、章真は学校へ四億円近い寄付を申し出た。新しい図書館建設のためだ。その瞬間、彼は学校中の特別なお客様になった。この学校では、数百万円規模の予算申請ですら毎回苦労する。それなのに章真は、軽く笑って巨額の寄付を決めてしまったのだ。もはや福の神扱いだった。けれど結安だけは知っている。彼が立花家から手に入れたものに比べれば、そんな金額など微々たるものだということを。そして――彼の優しさは、すべて気まぐれだということも。葉山叔父さんごっこに飽きれば、彼はいつでも自分を捨てられる。今は機嫌がいいから優しくしているだけ。価値がなくなれば、きっと迷いなく本性を見せる。結安はそれを理解した上で彼に合わせていた。彼は欲しいものを手に入れた。――結安もまた、同じだった。学年主任と校長が章真へ媚びへつらう中、結安は彼の隣で大人しく座っていた。仲の良い保護者と少女。そんなふうに見える距離感。それが章真を満足させる。――引き取って正解だったな。彼はそう思う。私生活はかなり乱れている。だが経営者である以上、世間体は必要だった。このままずっとアヒルを養っていても悪くないかもしれない。見た目も可愛い。家に置いておくだけでも気分がいい。せいぜい肩でも揉ませれば、養育費の元くらいは取れるだろう。本来なら、そのまま結安は授業へ戻るはずだった。だが章真が、「周防本邸へ連れて行く」と言い出したため、学年主任は即座に許可を出した。しかも自ら駐車場まで見送りに来る。顔中に愛想笑いを貼りつけながら、何度も頭を下げる姿は、完全に大口寄付者への対応だった。章真もまた気前よく小切手を渡し、そのまま結安を車へ乗せる。シートベルトを締め終えた結安を見ながら、彼はふいに尋ねた。「なんだ、不機嫌そうだな。授業なんて、そんなに大事か?大学なんて、立都市ならどこでもどうにでもしてやる。そんなことより、マッサージとか覚えた方が役に立つぞ」……結安は馬鹿ではない。つまり彼は、自分をメイドとして育てるつもりなのだ。今はまだ幼いから面白がっている
結安は立ったまま――じっと「葉山叔父さん」を見つめていた。普段はスーツ越しに隠れているせいで細身に見える。だが浴衣一枚になった章真の身体は、想像以上に男らしかった。厚みのある胸板。うっすら覗く引き締まった腹筋。日頃から鍛えているのが一目で分かる。そんな結安の視線を受けながら、章真はゆっくりと近づいてくる。そして見下ろすように立つと、静かに言った。「そこに座って、大人しく待ってなさい。俺が身支度を終えるまでだ……今回だけだからな。次またやったら休学させる。家で料理と掃除でも覚えて、メイドとして働いてもらうぞ。メイド代も浮くしな」まだ数日しか経っていないのに、もう平気で睡眠を邪魔してくる。しかも隠す気すらない。結安はこくりと頷き、リュックを背負ったまま素直に腰を下ろした。背筋をぴんと伸ばして。その様子に、章真は少し満足する。彼は支配することを好む男だった。こうして従順でいてくれるなら――将来的に、この家に置いてやっても悪くないと思う。昼は学校へ通い、夜はここでメイドとして働く。案外悪くない生活かもしれない。やがて章真は身支度を終え、仕立ての良いスリーピースに着替え、細い金縁眼鏡を掛けて結安と共に階下へ降りた。章真には朝食を摂る習慣がない。ブラックコーヒーを一杯飲むだけだ。一方、結安は卵サンドを片手に車へ乗り込み、そっと彼へ差し出した。それを見た章真は目を細める。「俺が空腹で倒れるとでも思ったか?まだ毎朝朝飯を食う年齢じゃない……そういうのはお前の父親くらいの歳になってからだ」拓哉の話題が出た瞬間、結安は黙ってサンドイッチを引っ込め、そのまま自分で食べ始めた。章真は何も言わず、アクセルを踏み込む。――慰めもしない。彼は拓哉という男を心の底では見下していた。弱肉強食。ビジネスの世界では当たり前のことだ。力がないのが悪い。それを他人のせいにはできない。それどころか、自分は娘まで引き取ってやっている。こんな善人が他にいるだろうか、とすら思っていた。学校へ掛け合い、生活を気に掛け、面倒を見てやっている。三十分後。黒のベントレーはある公立高校へ静かに滑り込んだ。設備はどれも古びていて、校舎にもどこか時代を感じる。いかにも普通の高
けれど結安は分かっていた。彼の優しさなんて、きっと気まぐれだ。今はただ機嫌がいいだけ。あるいは、少し興味を持っているだけ。そのうち本気の恋人でもできれば、この家に自分の居場所などなくなる。……もっとも。結安自身、ここに居続けるつもりなどなかった。章真は両親を死へ追い込んだ側の人間だ。そんな相手の庇護の下で、何も知らないふりをして生きていけるはずがない。生き延びたいとは思う。けれど、ただ惨めにしがみつきたいわけじゃない。もちろん、本音を章真に話すつもりもなかった。結安は従順そうに目を伏せ、小さな声で言った。「分かりました、葉山叔父様」――叔父様?章真はわずかに眉を上げる。以前、結安は彼をお兄ちゃんと呼んでいた。だが、彼が何年もかけて父の会社を狙っていたと知ってから、その呼び方は二度と口にしなくなった。お兄ちゃんより、叔父様のほうが安全だった。世の中には悪い叔父はいても、悪いお兄ちゃんという響きは存在しない。もちろん、そんな少女の複雑な感情を章真が知るはずもない。彼はただ、素直で聞き分けのいい子だと満足していた。叔父様呼びも悪くない。どこか威厳が出る。その呼び方を彼は自然に受け入れた。まだ父親ではない。だが先に姪ができたと思えば、それも悪くない。明日は学校へ付き添い、そのあと両親の家へ連れて行こう。少し自慢したくなっていた。章真は結安の髪を撫でる。改めて眺めると、本当に整った顔立ちだった。家へ連れて歩いても見栄えがいい。結安は目的を果たし、そろそろ部屋へ戻ろうと身体を動かす。だが次の瞬間、また肩を押さえられた。章真はソファにもたれ、目を閉じたまま低く息をつく。「なかなか上手いな。次は肩も頼む。今日は疲れた」結安は逆らえなかった。おとなしく彼の肩へ手を伸ばす。明るい照明。静まり返った屋敷。傍らには、懸命に世話を焼く少女。章真はふと思った。騒がしい夜遊びも。欲望に溺れる時間も。今はどうでもいい。こうして静かな家で過ごすのも、案外悪くない。……もっとも。この子の手つきはまだぎこちない。明日にでも蝶野に教えさせるか。力加減も分かっていない。危うく変な場所を押されそうになった。そ
返事はない。章真が視線を上げると、結安は両手を膝の上に揃え、まるで優等生のようにきちんと座っていた。……なるほど。寝室で男を待つのは大人の女の役目だ。この子はまだ子ども。だからリビングで、帰りの遅い保護者を待っていたわけか。宿題でも見てほしいのか。保護者欄にサインでも必要なのか。そう考えると、妙に新鮮だった。章真は、まだ父親というものをやったことがない。だが、いずれ自分にも子どもはできるだろう。その予行練習と思えば悪くない。そんなことを考えていると、結安が小さく口を開いた。「……学校が、受け入れてくれなくて。先生が、一度あなたに来てもらって、手続きをしてほしいって……」――ほう。それは少し面倒そうだ。だが逆に、少し興味も湧いた。それに、数日会わなかっただけで、「あなた」呼びか。随分よそよそしくなったものだ。章真はソファへ歩み寄り、結安の隣へ腰を下ろす。その瞬間、結安は敏感にアルコールの匂いを感じ取った。まだ幼い。それでも女の本能のような警戒心が働き、無意識に身体を少し離す。章真は目を細めた。……へえ。アヒルは自分を怖がるのか。誰の金で食べ。誰の家に住み。誰の庇護で生きていると思ってる。それなのに、そんな顔を向けてくるとは。まったく、躾がなっていない。少し教育したほうがいいかもしれない。どうせしばらく育てる予定だ。今後は両親にも会わせる。祖父母たちだって結安を見たがっている。なら、それなりに形を整えておかないと困る。恥をかくのは自分だ。章真はソファにもたれ、結安を横目で見ながら小さく息を吐いた。「最近忙しくてさ。足が疲れきってるんだ。本当はどこかでマッサージでも受けたかったんだけど……未成年の面倒を見に帰ってきた」そう言って、じっと彼女を見る。察しのいい子なら、とっくに動いている。だが結安は、ただ彼を見つめ返していた。瞳の奥では何かが揺れている。……涙か。少しくらい脚を揉んだからといって死ぬわけじゃない。衣食住すべて彼が与えている。姫みたいなベッドで寝かせている。その保護者に少し尽くして、何が悪い?章真は譲る気もなく、そのまま待ち続けた。「自分から動け」とでも言うように。
少女がどれだけ泣いていても。章真は、ただ静かに眺めていた。……面倒だ。やはりペットを飼うのは厄介だ。せっかく気分よく過ごしていたのに、水を差された気分になる。結局、章真は思った。――泣きたいなら、好きなだけ泣かせておけばいい。男はグラスを片手に寝室へ戻る。広すぎるベッドへ身を投げ出しながら、頭の中で女たちの名前を思い浮かべた。ルーシー。アリエル。それとも鈴音だったか。どこかへ遊びに行って、適当に発散するか――だが、隣室にいるアヒルのことを思い出した瞬間、妙に胸の奥がざわついた。……やめておくか。興が削がれる。章真は静かに、自分の未来の帝国図を思い描く。あと四年。その頃には、栄光グループと肩を並べる存在になっているはずだ。男なら誰しも、一度は夢を見る。――天下を掌に収め、美女を腕に抱く。美女のほうは、もういい。どんな女も、どんな欲望も、彼は知り尽くしている。やはり欲しいのは権力だった。そのためなら、章真は昔から手段を選ばない。この世代の中でも、彼は突出した存在だった。弱肉強食。それがビジネスの絶対法則。彼にとっては、信仰にも等しい。罪悪感など必要ない。弱かったのは拓哉だ。甘く脆かったから、結安は孤児になった。そして母親もまた、自分勝手な女だった。そう考えると、少しだけ気分が軽くなった。……拓哉夫妻は転落死。事件性は認められなかった。三日後。複数の手続きを経て、ようやく荼毘に付されることになった。章真は、二人のために最高級の墓地を用意した。庭付きの区画。総額は二千万を軽く超えていた。下手な生者の家より、よほど立派だった。だが、見送りに来た人間は少ない。立花家の人間は皆、理解していた。結安は駒にされ。いずれ、捨て駒になる。関わる価値などない。下手に近づけば、自分まで巻き込まれる。誰もがそう考えていた。深夜。冷たい雨が降っている。空は重く沈み込んでいた。結安のそばにいたのは章真だけ。あとは宇佐美、桐生。それから福祉局の職員が一人。葉山社長が結安にどれほど丁寧に接しているか。どれほど手厚い環境を与えているか。それを自分の目で確認していた。そして
だが章真は一切迷わなかった。「使え」高橋医師の胸がわずかに揺れる。だが、章真は彼にとって最重要の顧客だった。この男を失えば、損失は計り知れない。どれほど気が進まなくても、結局、高橋医師は結安へDSYを投与した。極秘研究段階の特殊薬剤。効果は異常なほど強力で、一般人が触れられるような代物ではない。そして、その効き目は凄まじかった。三十分も経たないうちに、結安の熱は完全に下がった。顔色も明らかによくなっている。だが高橋医師は知っていた。これは身体を前借りして得た回復だ。無理を重ねれば、将来的に確実に身体を壊す。まして少女の身体では負担が大きすぎる。普通なら、よほどの事態でなければ使わない薬だった。結安が目を覚ます。視界に映ったのは医師。そしてベッド脇に立つ章真。部屋には宇佐美と桐生の姿もある。手には書類ケース。朦朧とする意識の中、彼らは署名について説明していた。監護権の件。そして父の会社について。今後は新たな後見人である葉山章真が、全面的に管理を引き継ぐということ。罠だと分かっていた。父の会社を奪ったのはこの男だ。追い詰めたのも。もしかしたら、両親を死へ追いやったのも。――全部、この人かもしれない。それでも、生き残るためには、署名するしかなかった。立花家にはもう彼に対抗できる人間などいない。結安はベッドに座り、目の前の書類を見つめる。サインしてしまえば、成人した瞬間、この男は自分を捨てる。屋敷から追い出される。……なるほど。これが自分を引き取った理由だったんだ。結安は泣かなかった。悲しむ時間すらなかった。書類を読み終えると、静かに署名し。そのまま書類を返す。そして布団へ横になり、小さく鼻を鳴らしながら呟いた。「……もう、寝たいです」彼女には、選択肢などなかった。復讐しようとすら思わない。若くても分かっている。自分は、巨木にしがみつく羽虫のような存在だと。ただ成人まで耐えて。機会が来たら、章真のもとから逃げればいい。……あるいは。逃げるまでもなく、彼のほうから捨てるかもしれない。なんて惨めなんだろう。今の自分は、彼に養われなければ生きていけない。そうでなければ、路
春が去り、夏が来た。夏は慌ただしく過ぎていく。半年ほどの間、立都市は変わっていないように見えた。夕梨の下腹部は日増しに大きくなっていった。七月、彼女は寒真の出資を受け入れたが、全額ではなかった。彼にとって六千億円が決して楽な額ではないことを知っていたからだ。そこで彼女が四千億円、寒真が二千億円を出資し、共同で央築ホテルの立都市とH市のホテルを買い取った。その後、ホテルは「立光ホテル」と改名された。夕梨の胎児の性別がほぼ確定し、つわりもひどかったことから、娘だと分かったからだ。寒真は娘の名前をホテルにつけたがった。これは愛情であり、一種の探りでもあった。彼は夕
二人が振り返ると、そこには玲丹がいた。玲丹はお腹を突き出しており、妊娠四ヶ月といったところだ。一年ほど前、玲丹は富豪に嫁いだ。最初の年に娘を産んだが、相手の母はあまり喜ばず、娘がまだ生後三ヶ月の頃から、次の子作りを迫られ、運良くすぐにまた妊娠したのだ。第一子は帝王切開だったから、まさに命がけの出産だ。玲丹の事情はわざわざ聞かずともゴシップニュースに書かれている。夕梨はこの女に何の感情も抱いていなかった。彼女は寒真の手を振りほどき、一言だけ残した。「昔のご縁、大事にしてらっしゃい」寒真は彼女を引き留め、車のキーを彼女の手に握らせた。「車で待っててくれ、すぐ
十七時ちょうど。青河は夕梨を迎えに副総支配人室へと向かった。夕梨はすでに着替えを済ませて待っていた。見慣れているはずの青河でさえ、その姿に一瞬息を呑んだ。普段の彼女とは全く雰囲気が違っていた。細いストライプのシャツの上にダークブルーのスウェットを重ね、ボトムスは白のコットンショートパンツ。足元は白のハイソックスに白いスニーカーを合わせている。黒髪を下ろし、ベースボールキャップを被っていた。手には四角い白のハンドバッグ。全体的に洗練された「抜け感」がありながら、特にそのすらりと伸びた脚が健康的でセクシーだった。青河はずっと自分が硬派な人間だと思っていたが、この瞬間
冷たい氷水が、頭から足先まで容赦なく浴びせられた。寒真は目を覚ました。目を開けると、そこには激怒した仁政と、情けないものを見るような両親の姿があった。ソファには弟の寒笙が座り、悠々とサプリメントを飲んでいる。その横では翠乃が静かに刺繍の本を読んでいた。寒真は頭を振った。氷の雫が祖父の顔に飛び散った。仁政はさらに激昂し、罵声を浴びせた。「家にまともな人間がもう少し多ければ、私は今頃H市の豪邸で安穏とした余生を送っておったわ!こんな辱めを受けることもなくな!見ろ、今の自分のザマを。バーで泥酔なんぞしおって、野垂れ死にしなかったのが不思議なくらいだ!」晴臣が思わず口を