LOGIN章真はまだ完全に目が覚めていなかった。いつも通り、どこかの女のベッドで朝を迎えたのだとばかり思い込んでいた。昨晩はすっきりと発散しきれなかったせいか、身体の奥に軽い渇きが残っている。本能の赴くまま、身をよじる女を再び組み敷こうとしたその時――ふと意識が鮮明になり、腕の中にいるのがそこらの行きずりの女ではなく、自分が囲っているいたいけなアヒルであることに気づいた。結安は全身を小刻みに震わせていた。あまりに距離が近すぎたのだろう。彼女は居心地悪そうに顔を背けた。その拍子に、すらりとした首筋のラインが引き締まり、抜けるように白い肌が露わになる。息をのむほど美しい。薄ピンク色のワンピースが華奢な肩から滑り落ち、覗いた生真面目な肩先は、まるでパッケージを剥がしたばかりの、とろけるような生クリームケーキを思わせた。章真は彼女の顔をじっと見つめた。彼は酸いも甘いも噛み分けた大人の男だ。自分の身体が何を求めているかなど、嫌というほど分かっている。驚きを隠せない一方で、彼は彼女の表情を克明に観察していた。きっと、怖くてたまらないのだろう。成人を迎えたばかりで、いきなりこんな状況に直面しているのだ。彼女の心の中で激しい葛藤が渦巻いているのが見て取れた。だが結局、彼はそれ以上無理に迫ることはせず、そっと身を引いた。その深い瞳に大人の色香を漂わせながら、静かに問いかける。「昨日の夜、俺をお前の父親と勘違いしていただろう。結安、俺はそんなに老けて見えるか」結安の父親なら、少なくとも四十代だ。それに引き換え、自分はまだ三十代に入ったばかり。男として最も脂が乗っている年齢だ。アヒルは本当に男を見る目がない。二人はそれぞれベッドから起き上がった。結安が気まずさを隠せるはずもなかった。彼女は胸元を小さく押さえながら、逃げるようにバスルームへと駆け出す。「学校、遅刻しちゃう……」章真は手首を返して時計に目をやった。――いや、もう完全に遅刻だ。時計の針はすでに八時を回っている。結安が身支度を終えて寝室に戻ると、ベッドの上はすでにもぬけの殻だった。思わず安堵の息を漏らすと同時に、どこかぽっかりと胸に穴が空いたような感覚に囚われる。章真が何を考えているのか、彼女にはさっぱり分からなかった。ただ、彼に対する恐怖心だ
蝋燭の火が吹き消される。途端に、辺りは闇へ包まれた。視界を失った分だけ、感覚が妙に鋭くなる。その瞬間だった。温かな唇がそっと額へ触れる。そして低く落ちる声。「――誕生日おめでとう」結安は完全に固まった。もう子どもじゃない。今日から、自分は十八歳の大人だ。そして章真も、もう保護者ではない。血の繋がりもない、ただの成人男性。そんな男が自分へ口づけを落とした。額とはいえ――あまりにも近すぎる。結安はその場で息を呑む。幸い、暗闇が彼女の震えを隠してくれていた。細い身体が男の腕の中へ閉じ込められる。近い。近すぎる。やがてケーキのクリームが章真の頬へ付けられ、再び照明が灯った。結安は顔を上げる。すぐ目の前に章真がいる。周囲には食器の触れ合う音や笑い声があるのに、不思議なくらい遠かった。気づけば彼女はダイニングテーブルへ座っていた。隣には章真。蝶野が年代物のワインを持って来る。結安は酒を飲んだことがない。だが章真は自然にボトルを受け取った。黒い瞳が結安を見つめる。小さな音と共にコルクが抜かれ、二つのグラスへ赤い液体が注がれる。芳醇な香り。結安はグラスを見つめ、それから蝶野や使用人たちへ目を向けた。みんな忙しそうに動き回っている。自分のために。――今夜だけ。今夜くらい、少しだけ流されてもいいかもしれない。どうせいつか、この場所を離れる。そのいつかの先に未来があるかすら分からない。結安はそっとワインを口へ運ぶ。酸味と渋みが広がった。まるで、十八歳という年齢そのものみたいだった。眉を寄せ、小さく舌を出す。その仕草を見た章真は思わず目を細めた。――面倒なほど幼い。会社の女たちは皆、男顔負けに酒が強い。こんな青臭い小動物みたいな子は彼の人生に一人もいなかった。いや。そもそも、こんな存在自体が初めてだった。それに蝶野が選んだあのドレス。似合いすぎる。今後パーティーへ出る時、絶対にあんな格好はさせられない。男たちの視線が集まるに決まっている。ボディガードを八人くらい付けるべきかもしれない。二十四時間体制で。そんなことを真顔で考えている自分に、章真は内心で呆れた。互いに違うことを
章真の表情を見た瞬間、結安は理解した。――偽物だと気づいていない。彼女は胸を撫で下ろす。嬉しそうにバッグへ触れる章真を見上げながら、どこか現実感のない気持ちになっていた。その時、扉がノックされる。章真は機嫌良さそうに振り返った。「入ってくれ」蝶野が箱を抱えて立っていた。「結安ちゃんのお誕生日だから、私たちで少しお金を出し合ったんです。何を買えばいいか分からなくて、清水さんの娘さんがオーストラリアで選んでくれたドレスなんですよ。絶対似合うと思って。着てみてくれません?」ドレスは二十万円近い品だった。蝶野の給料は決して悪くない。けれど彼女は普段かなり質素な生活をしている。それでも、このくらい良い物じゃないと結安には釣り合わないと思ったのだ。結安はその気持ちをちゃんと理解していた。くすみがかったローズカラーのドレス。ヌードベージュのヒール。その優しさが嬉しくて、胸が少し痛む。それでも蝶野を喜ばせたくて、結安は素直に試着することにした。ドレスは露出が激しいわけではない。けれど胸元は深めに開いていて、白い肌が大きく覗いていた。まだ幼さの残る柔らかな肩。朝露を纏った蕾みたいな、危うい美しさ。そこへヒールを履くと、結安はほとんどまともに歩けなくなった。やっとの思いで部屋を出る。その頃、章真は蝶野と夕食の話をしていた。「……葉山叔父さん」幼い響きを含んだ声に、章真が振り返る。そして、そのまま視線を逸らせなくなった。アヒルが綺麗なのは前から知っていた。けれど、身体のラインをなぞるようなドレスを着た姿が、ここまで破壊力を持つとは思わなかった。華奢なのに、隠しきれない艶がある。こんな姿で外へ出れば、どれだけの男が欲望の目を向けるのか。章真は無言のまま見つめ続ける。その視線に、結安は本能的な危うさを感じた。下品な目ではない。けれど――侵食されるみたいだった。胸がざわつく。どうにか不安を押し隠し、小さな声で尋ねる。「……似合いませんか?」章真の声が急に低くなる。「似合う。すごく綺麗だ」蝶野は感嘆の声を漏らした。「まあ、本当にお姫様みたい……!映画女優さんより、うちの結安ちゃんの方がずっと可愛いですわ」そして楽しそう
食事を終えると、章真は仕事があると言って外出した。その瞬間、結安はすぐ二階へ駆け上がる。寝室のドアを閉め、背中を扉へ預けた。やがて階下の庭からエンジン音が聞こえる。――章真が出て行った。その音を確認した途端、結安の心臓は激しく跳ね始めた。彼女は急いで隠し場所へ向かう。改めて札束を見る。まだ信じられない。この金が、本当に自分の物になったなんて。結安は札束を胸へ抱き寄せる。けれど、このままここへ置いておくわけにはいかなかった。成人したら部屋を借りる。金庫も買う。それから少しずつ口座へ移していく。何もかも慎重に進めなければならない。――そして、章真への誕生日プレゼント。それは高級ブランドの精巧なコピー品で十分だった。十万円程度。それで問題ない。……それからしばらくの間、二人の関係は驚くほど穏やかだった。あの手紙以来、章真は結安を本当に可愛がるようになった。時間がある日は学校まで送り迎えをし、一緒に食事を取り、時には一ノ瀬家や周防家の食事会へ連れて行くこともある。もう「アヒルを追い出そう」などとは思わなくなっていた。ちゃんと育てて、将来は良い相手へ嫁がせてやろう。その時には、帰って来られる実家の一つくらい残してやってもいい。そう考えながら、章真は内心で満足していた。――やっぱり自分は善人だ。だからアヒルも、こんなに懐くのだろう。転機が訪れたのは十二月の半ばだった。結安が十八歳になったのだ。つまり――成人。この日を境に、章真は法的な保護者ではなくなる。結安は真新しいマイナンバーカードを指先で撫でる。これで自分一人で口座を作れる。部屋も借りられる。結安は高級マンションの一室を契約した。家賃は月百万円。さらに貸金庫も手配する。一千万円近い現金を何度かに分けて運び込み、その後マーケットで精巧なエルメスのコピー品を購入した。本物と見分けがつかないほど精巧なビジネスバッグ。店を出たところで、スマホが震える。章真からだった。低く甘い声が耳へ落ちる。「今日は早めに帰る。誕生日、ちゃんと祝ってやるからな。プレゼントも用意した。結安、絶対気に入るぞ」結安は手元の偽物のエルメスを見下ろす。そして静かに答えた
結安の瞳には、まだ怯えが残っていた。けれど彼女は分かっていた。――この勝負は自分の勝ちだと。章真の目には、疑いではなく感動が浮かんでいる。それどころか、嬉しそうですらあった。たった一通の手紙で、ここまで機嫌が変わるなんて。あれほど冷酷な男でも、結局は家族の温もりに飢えているのか――結安は胸の奥で、どこか白けたように笑う。その時、桐生が駆けつけてきた。蝶野も、様子を窺うように後ろから現れる。二人は扉の前で恐る恐る声を掛けた。「葉山社長……」だが、先ほどまでの怒気は完全に消えていた。いや、むしろ機嫌がいい。章真は振り返り、穏やかに言う。「もう大丈夫だ。二人とも下へ行ってくれ」蝶野は不安でたまらない。結安は縛られ、口まで塞がれていたのだ。こんな乱暴な扱いをされて、心に傷が残らないはずがない。何か言おうとしたが、桐生にそっと腕を引かれる。廊下へ出たあと、桐生は小声で言った。「葉山社長が本気で怒ったら、誰にも止められません。下手に口を挟むと余計悪化します。でも今は……たぶん大丈夫です」蝶野は青ざめたまま頷き、渋々その場を離れた。……ウォークインクローゼットには、まだ湿った空気が残っていた。結安の涙のせいだ。カーペットには札束が散乱している。そしてあの手紙は章真が回収していた。丁寧に畳み、胸ポケットへしまっている。――まさかアヒルが、あそこまで自分を慕っていたなんて。章真はソファの前へしゃがみ込む。結安は半ば崩れるように膝をついたまま、両手をネクタイで縛られていた。口にはまだ彼のポケットチーフ。涙でぐしゃぐしゃになった顔は見るからに痛々しい。章真はゆっくり布を外してやる。そのまま髪を撫でながら、これまでにないほど優しい声で言った。「プレゼントを買いたかったなら、最初から俺に言えばよかっただろ。服は全部お前の物なんだから。売ったら着る物がなくなるぞ?」声には呆れと――満足感が滲んでいた。結安はようやく危機が去ったことを理解する。全身から力が抜けた。そのまま崩れるようにソファへ座り込む。額が章真の膝へ触れた。起き上がろうとしても身体に力が入らない。もしあの場を切り抜けられなければ、自分の未来は終わっていた。学
結安は顔を上げた。突然戻ってきた章真を見つめ、大きな瞳を揺らす。無意識に両手を背中へ隠す仕草。問い詰められている最中だというのに、章真はその瞳を見て思ってしまう。――本当に綺麗な目だ。潤んだような大きな瞳。立花夫婦も、まったく無能だったわけじゃないらしい。少なくとも、この娘を生んだことだけは価値がある。見ていて気分がいい。だが、可愛いだけでは意味がない。ようやく会社を手に入れた今、アヒルに逃げられるわけにはいかなかった。もし問題を起こされれば、自分の評判に傷がつく。だからこそ――確認しなければならない。結安はなおも同じ言い訳を繰り返した。「……今日は暑かったので」章真は笑った。「十一月だぞ。どこの世界が暑いんだ?」考えれば考えるほど怪しい。次の瞬間、章真は少女の腕を掴み、そのまま衣装部屋へ引きずっていく。――まさか。自分の物を盗み売りしながら、表では愛想よくしていたなんて話だったら笑えない。二人は揉み合いながら進む。結安が怯えれば怯えるほど、章真の疑念は深まっていった。ウォークインクローゼットへ入ると、ずらりと並ぶ服やアクセサリー。だが章真は何をどれだけ買ったか把握していない。そこで彼はスマホを取り出し、桐生へ電話を掛けた。購入リストを持って来させ、全部確認するつもりだった。これで不足があれば分かる。電話越しの桐生は空気の異変を察したが、すぐこちらへ向かうと答えた。その頃には結安の服は汗でぐっしょりだった。章真はさらに靴棚まで確認しようとする。すると結安が悲鳴混じりに止めた。下の階で様子を窺っていた蝶野も、さすがに不安になり、恐る恐る二階へ上がって来る。だが部屋の入口へ着いた瞬間。章真の低い声が飛んだ。「下へ行け」蝶野は震えながら言う。「でも結安ちゃんはまだ子どもですし……叱るにしても、ちゃんと話して――」章真は冷たく笑った。――子ども?こいつ、頭の中は相当だぞ」そう思って結安の腕を掴み、横へ突き飛ばす。だが次の瞬間。小さな身体が背後から彼へしがみついた。細い腕で必死に腰へ抱きつき、顔を背中へ押しつけながら泣きじゃくる。「葉山叔父さん……お願い、見ないで……っお願いです……見ないで……!」
深夜、寒真は一人テラスで煙草を吸っていた。彼は指先で遊んでいるピンクダイヤモンドを見つめた。何の意味もないように思えた。わずか二、三ヶ月で、夕梨の心から彼は消え去った。あの愛に溢れた日々は、彼女にとっては遠い記憶でしかなかった。彼女は新しい生活を始めている。なぜ自分にはそれができないのか?寒真の喉が動き、心臓がズキズキと痛んだ。彼は手を振り上げ、ダイヤの指輪を裏庭の芝生へと投げ捨てた。……その後、彼らの接点は一切なくなった。彼は仕事に没頭し、玲丹は頻繁にマンションを訪れて手料理を振る舞った。実際、彼女の料理の腕は悪くなく、恋人としては夕梨よりもあらゆる面で優れて
寒真は呆然とした。彼は夕梨に、これっぽっちの実力しかないと思われるのを恐れ、彼女の頬にキスをして、低い声で約束した。「宴会が終わったら、絶対に満足させてやるから」夕梨は我に返り、頬をガラスケースに押し付け、少し目を閉じた。「チャンスがあるとは限らないわ、最近ひかりは夜に二回起きるもの」寒真は彼女の耳たぶを揉んだ。「俺があいつを寝かしつける。存分に楽しもう」夕梨はそれ以上答えなかった。時間が迫っており、二人はすぐに身支度を整えた。女の額には細かい汗が滲んでいる。男は近づいて優しくそれをキスで拭った。……十二月中旬、クリスマスの十日ほど前。ひかり
寒真は分かっていた。彼女が「好き」「愛していた」と言ったのは、よりを戻すためではない。ただ、あの心残りを口にしたかっただけだ。夕梨にとっては心残りだが、寒真にとっては、尽きることのない悔恨だった。誰を恨む?自分自身を恨むしかない。彼自身がすべてを台無しにし、夕梨を失ったのだ。そうでなければ、今頃二人は息子と娘に囲まれていただろう。静寂な深夜、二人はキッチンで抱き合っていた。彼女の情緒が落ち着くのを待って、寒真はとても小さな声で言った。「やっぱり許せない、そうだろう?」彼女は彼の好意を知っているし、彼は彼女の苦悩を知っている。そして彼は、彼女を苦しめたくない。
彩望は歩み寄ると、人数を確認した。よし、揃っている。彼女は手首のダイヤモンドウォッチに目をやり、赤い唇から毒を含んだ言葉を吐き出した。「今は十時十分。あと一時間三十分で、あの子のフライトは米国へ向けて飛び立つわ。その前に、監督にお祝いを言わなきゃね。来年は花婿になるんですって?霧島玲丹もおめでとう」彩望の笑顔は残酷なまでに美しかった。彼女の細くしなやかな指が、輝くトロフィーの間を滑る。「私ね、実はあの子のこと、嫌いじゃなかったの。綺麗だし、純情で一途だし。私が男だったら、あんな子と恋愛して結婚できたら、それこそ至宝を手に入れたようなものよ。それなのに、朝倉監督はプライド







