ログイン「退屈な日常が、いっそ歪んでしまえばいい──」 気だるげな高校生・浅生輝流が抱いた破滅的な願いは、禁足地『神鳴山』で、最悪の形で現実となる。 軽い気持ちで参加した肝試しをきっかけに、彼は山を支配する怪異『百貌様』と、理不尽な縁を結ばされてしまうのだ。 その日から、輝流の日常は歪み始める。 手には、捨てても戻ってくる呪いの証『涙型の黒曜石』。 そして、これまで見えなかった、この世ならざるモノたちを視る『目』。 彼は、神の『所有物』となった。 神の謎を解き明かす『標』とは何か。 理不尽な運命を断ち切り、少女を救い出すことはできるのか。 これは、神に選ばれてしまった少年の物語。
もっと見る静寂は、絶望によく似ていた。 病院の廊下は、気味が悪いほど白かった。壁も、床も、天井の蛍光灯も、何もかもが清潔で、冷たくて、そのくせ俺たちの中に沈んだ汚泥みたいな感情だけは、少しも洗い流してくれなかった。 そっと置いた俺の手の下で、智哉の肩がかすかに震えている。 その震えだけが、こいつがまだ石のように固まってしまったわけじゃないと教えていた。 ガラスの向こうから、心電図の電子音が聞こえる。 ピッ、ピッ、ピッ。 無機質で、正確で、冷たい音だった。まるで止まった時間の背中を、無理やり針で突いて進ませているみたいに。 「……智哉」 喉に張りついた声を、どうにか引き剥がす。 「燈子に……何があったんだ」 自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているようだった。 悪い夢なら、そろそろ覚めてくれてもいい。そんな都合のいい願いが、頭の隅にまだ残っていた。 だが、ガラスの向こうに横たわる小さな身体が、それを許さなかった。 無数のチューブに繋がれ、白い包帯に巻かれた燈子。 知っている姿とは、あまりにも違いすぎた。 知らなければならない。 何が起きたのか。 どうして、こんなことになったのか。 もう、目を逸らして済む段階ではなかった。 「わ、わかんねぇ……」 ようやく返ってきた智哉の声は、ひびの入ったガラスみたいに細かった。 虚ろな目はガラスの向こうを見ているのに、燈子を見ているようには思えなかった。もっと遠い、何も届かない場所を彷徨っている。 「わからないって……様子が普段と違ったとか、そういうのもなかったのか」 言葉を選ぶ。 薄氷を踏むみたいに、慎重に。 今の智哉に問い詰めるような言い方はしたくなかった。けれど、聞かないわけにもいかなかった。 「ああ……。全然、いつも通りだった。朝だって、普通に……『行ってきます』って……」 そこまで言って、智哉の声が折れた。 「それなのに……っ」 言葉の先が、嗚咽に変わる。 震えが強くなる。 俺は智哉の肩を、もう一度強く握った。 何かを言ってやりたかった。 大丈夫だ、とか。 助かる、とか。 そんなありきたりな言葉でも、何も言わないよりはましなのかもしれない。 でも、言えなかった。 今の俺に言えるそれは、祈りではなく嘘に近
――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。
「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう
憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ
泥は、思ったより冷たかった。 スマホのライトを足元へ向けるたび、黒い水を含んだ土が鈍く光る。田んぼの畦道は狭く、少し足を踏み外すだけで靴底がぬかるみに沈んだ。制服の裾はとっくに汚れている。手も、膝も、ひどい有様だった。 それでも、俺たちは探し続けていた。 かつて線路が走っていた場所。 もう電車の音はしない。踏切も、レールも、まともな形では残っていない。廃線になったその周囲には、田んぼと暗闇だけが広がっている。 ここで、叶は死んだ。 そして、その時まで身につけていたはずの指輪が消えた。 手記には、そう書かれていた。 「……くそ」 俺は畦道の端にしゃがみ込み、ラ
それから、どれくらい経ったのだろう。 三十分は過ぎていた気がする。 けれど、正確な時間は分からなかった。 書庫の壁に掛かった古い時計は、針が止まっている。 スマホを確認しても、なぜか圏外の表示が出ているだけだった。時刻を見ることはできるはずなのに、画面の数字さえ信用できないような気がした。 この家に入ってから、時間の感覚が少しずつ曖昧になっている。 それは、俺たちが必死に探し続けていたせいかもしれない。 本棚を端から確認し、机の引き出しを開け、古い書類の束をめくる。 埃が舞い、喉の奥がざらつく。穂乃果は何度も小さく咳き込みながら、それでも手を止めようとはしなか
――探すべきなのは、叶さんの母親が残したものだ。 そう考えた瞬間、俺は日記から顔を上げた。 けれど、すぐには動かなかった。 先に、やらなければならないことがあった。 「穂乃果」 「……なに?」 穂乃果は、まだ青ざめた顔をしていた。 怖がっている。それなのに、俺の隣から離れようとはしない。 俺は少しだけ迷ってから、彼女と正面から向き合った。 「やっぱり、お前は――」 「帰れ、って言うんでしょ?」 俺の言葉を遮るように、穂乃果が言った。 その声は震えていた。 けれど、弱くはなかった。 「……ああ」 俺は短く認める。 「お前も分かってるだろ。この
部屋の中は、嫌なほど静かだった。 古い紙の匂い。 埃の積もった机。 閉じられた日記。 それらの全部が、俺たちの前で黙っている。 けれど、黙っているだけで、何も語っていないわけじゃない。 むしろ逆だ。 ここに残されたものは、あまりにも多くを語りすぎていた。 「……一回、整理しよう」 俺がそう言うと、穂乃果はびくりと肩を揺らした。 「整理……?」 「ああ。このままだと、情報が多すぎる」 俺は叶の日記に手を置いたまま、できるだけ落ち着いた声で続けた。 「まず、叶さんは六月二十六日に、黒い人影を見てる」 「うん……」 「その時点では、まだ気のせいかもし