LOGIN「お姉ちゃん。この前話してくれた人、会ってみようかなって思ってるんだけど」 電話の向こうで、姉の鈴木奈津美(すずき なつみ)が少し驚いたようだった。「どうしたの、急に?この間まで、智也じゃなきゃ絶対に嫌って言ってたのに」 鈴木彩花(すずき あやか)は数日前に自分が言ったことを思い出し、自分がどれだけ馬鹿だったかと、後悔する。 「目が覚めたの。それだけ」 「わかった。その人、ちょうど来月の頭に帰ってくるらしいから、また連絡するよ」 電話を切った彩花は、すぐにスマホに予定を書きこんだ。 来月の頭まで、約2週間。 夢を見るのは、もうおしまい。しっかり、現実を見なくては。
View Moreどうやら智也はお金を出す気がないみたいだ。お金もくれない男なんかに、媚を売る必要なんか無い。だから綾香は、下手に出るのをやめた。そして、遠慮なく罵り返す。「あなただって、ろくでもないくせに。彼女がいながら、私との関係は続けて。浮気してないって口では言うけど、あの時あなたがどんな気持ちでいたか、私が言ってあげようか?ん?智也。本当に自分が悲劇の主人公かなにかだとでも思ってるわけ?身代わりごっこなんて……まあ、まだ私は死んでないんだけどさ」ひとたび綾香が本性を出せば、勝てる人などいなかった。その場にいた智也は、一言も言い返せない。智也は怒りで胸を上下させる。口論でも勝てず、罵り合いでも負け、結局は、「少しは反省しろ」という言葉を捨て台詞に、留置所を後にすることしかできなかった。……3ヶ月後、地元の街に戻っていた智也のもとに、深津市から一通の招待状が届いた。招待状には、彩花と健二の結婚写真が印刷されていた。二人は幸せそうに寄り添い、その笑顔は心からのものだった。彩花にはこんなに美しい一面があったんだと、この時、智也は初めて気づいた。ただ残念なことに、彩花はもう自分のものではない。その日の夜、智也はバーへ行き、酒に溺れようと思った。しかし飲めば飲むほど、意識ははっきりしていく。事情を知った友人たちも、次々と彼をなだめにやって来た。「別れてからもうずいぶん経つだろ。もう忘れろって。それに、元カノが結婚するだけだろ?そんなに落ち込むなよ」「まあ、もうどうにもならないんだからさ。でもこれから会ったら……ちょっと気まずいよな」「もう3ヶ月だぞ。深津市から帰ってきてから、お前毎日こんな調子じゃないか?このままだと、人間じゃなくなっちまうぞ……」どの言葉も、智也の心をえぐるナイフのようだった。彼は強い酒のボトルを開け、そのまま直接流し込む。隣にいた友人が止めようとしたが、智也はその手を振り払った。そして、ぼやけた視線で言う。「俺はまさにここで、あいつを完全に失ったんだ」事情を詳しく知っている友人が、「家に帰って飲んだらどうだ?」と声をかけた。「家?俺に家なんてないよ。あれはただの箱だ。彼女がいない場所なんか――」智也の言葉はそこで途切れた。理性が完全にアルコールに負け、彼はテーブルに突っ伏した。友人は智
だだっ広い駐車場に、時々冷たい風が吹き抜ける。彩花は思わず自分の肩を抱いた。すかさず智也が上着を脱いで掛けてあげようとしたが、彼女はそれを断った。彩花は彼に釘を刺す。「5分だけだから」智也は苦笑いを浮かべた。「もう全部わかったって、ただ伝えたかっただけなんだ。それに、綾香は俺が思っていたような女じゃなかった。今は、お前と一緒にいた時間が、すごく恋しい」智也は本気で後悔しているようだったが、彩花は言った。「もしかしたら、あなたが想像してるその人って、そもそも存在しなかったんじゃないかな?だって、私にとってのあの頃はいい思い出じゃなくて、ただの傷跡だから。でも、私は今、ちゃんと前を向いてる。だから、あなたにもそろそろ幻想から抜け出して、現実を生きてほしいの」それが、彼女が智也に贈ることのできる、最後の言葉だった。智也は胸を痛めながら問いかける。「じゃあ……健二さんを選ぶの?」「考えてる」彩花に彼を騙す理由はなかった。智也がさらに何かを言う前に、彩花は腕時計を見て言った。「もう5分だよ。健二さんが戻ってくるから」そう言ったとおり、遠くから健二が戻ってくるのが見えた。まさに時間ぴったりだった。彩花は一度も振り返らず、智也のもとを去った。智也は、彼女の姿が見えなくなるまで、ただその場に立ち尽くしていた。健二は彩花を自分の車に乗せると、口を開いた。「実はさっきの電話、取引先からじゃなくて警察からだったんだ。君に話した事件、覚えているかな?夫が夫婦の共有財産を愛人に使い込んだことを、妻が訴えたあの件」「覚えてる。でも、あの裁判は勝ったんでしょ?何か予想外のことでもあったの?」「うん」と健二は穏やかな声で答えた。「その妻に渡るはずだった財産は取り返せたんだ。でも、妻に渡る前に、夫の愛人の方が、その金で世界旅行とかして、派手に使い込んじゃってたみたいで。もう返せるお金がないっていうんだよ」その話を聞いて、彩花はふとある人物を思い浮かべた。「じゃあ、その愛人はどうなるの?」健二は丁寧に説明する。「まず裁判所が彼女名義の財産を全て差し押さえるだろう。それでも足りなければ、刑務所に入ってもらうことになるはず。さっき警察から連絡があったのは、その愛人が海外に高飛びしようとしたところを捕まえた、っていう報告だったん
数日後、彩花はベストセラー作家として、深津市のテレビ局であるトーク番組の収録に参加した。健二は、やっと公認の彼氏になれたので、堂々と彩花を車で送って行った。彩花も彼の気持ちを分かっていた。だから、収録を見守ってもらえるように、あらかじめ観客席のチケットを用意しておいた。この前のサイン会での、彩花の「もうお別れしたんです」という一言が、ちょっとした騒ぎを巻き起こしていた。だから、今回のトーク番組で、司会者がこのネタを見逃すはずがなかった。司会者はやり方を変えて、遠回しに探りを入れてくる。「鈴木さん。読者の方なら皆さんご存知ですが、この本は長年の彼氏との恋愛がモデルになっていると。執筆中、彼もすごく支えてくれたんじゃないですか?きっとラブラブだったんでしょうね」「いえ、そんなことはありませんでした」彩花は司会者の狙いが分かっていたので、回りくどいことは言わず、はっきりと否定した。「この本を書いていた時、いい関係が築けていると思っていたのは私だけだったみたいです。だから最後も、いい結末にはなりませんでした。でもこの経験があったからこそ、私は――」彼女が言葉を続けようとした時、観客席の入り口から大きな声が響き、その言葉を遮った。「待ってくれ!」会場中の視線がその声の主に集まり、みんな誰だろうとざわつき始めた。健二だけがその人物が誰か分かった。それは、さらにやつれた様子の智也だった。「まだ間に合うはずだから」智也はステージ上の彩花を見上げながら言った。「彩花、やり直そう。現実の世界でも、この物語をハッピーエンドにしようよ」かつては彩花の前で決して頭を下げようとしなかった男が、大勢の人の前で許しを求めている。以前の彩花なら心を動かされたかもしれない。でも、今の彼女にとってはただの迷惑でしかなかった。司会者はおもしろい展開になってきたとばかりに、これを止めようとはしなかった。それどころか、ディレクターにカメラを向けるよう合図を出す。観客席のひそひそ話はもう隠せないくらい大きくなっていた。「これってリアル修羅場?」「顔はかっこいいけど、収録現場まで乗り込んでくるなんて、ちょっと執着しすぎじゃない?そりゃ別れるよね」「ああいうタイプは恋愛相手としてはいいけど、結婚するならサイン会に来てたあのイケメンの方が絶対いい
健二の震える声を聞いているうちに、彩花は忘れていた記憶の断片を思い出していた。もしかしたら、今までが少し遠回りしていただけで、これが本来あるべき道だったのかもしれない。時を同じくして、智也はマンションの下で一晩中彩花を待っていた。彩花が家に戻ったら、一度くらいは下を気にするはずだ。その時に二人きりで話せるチャンスがある、そう思っていた。しかし、彩花が窓から顔を出すことはなかった。まるで彼の存在など、すっかり忘れてしまったかのように。こんな風に無視されたのは初めてだった。意地になった智也は、仁王立ちで一晩中そこに立っていた。疲れて立てなくなると、今度はスーツケースに腰を下ろす。翌朝。初めて鈴木家に泊まった健二と一緒にマンションから出てきた時、彩花はやつれた顔の智也と鉢合わせた。一晩経っただけなのに、いつも自信に満ち溢れていた智也が、まるで別人のように変わり果てていた。顔は青白く、立ち上がる足取りもおぼつかない。「彩花……」かすれた声で、智也はすがるように言った。「監視カメラの映像は全部見たんだ。俺がお前を誤解してただけだった……」その言葉で、彩花はようやく足を止める。しかし、智也の方を見ようとはせず、ただこう言っただけだった。「私の潔白を信じてくれてありがとう」その言い方は、あまりにも皮肉に満ちていた。そもそも彼女は何も悪いことなどしていなかったのだから。しかし、智也はそこにわずかな希望を見出し、たたみかける。「もう一度だけ、チャンスをくれないか?すぐにプロポーズする。俺たち――」彩花はその言葉を冷ややかに遮った。「悪いけど、もうつきまとうのやめてくれないかな?」彩花は今まで、数えきれないほどのチャンスを智也に与えてきた。でも、その想いを踏みにじったのは、いつも彼の方だった。もう、これ以上許すことはできない。智也はなおも彩花を追いかけて話を続けようとした。だが、健二が智也の前に立ちはだかる。「僕たちはこれから用事があるから、君に来られては困るんだよ」健二を恋敵だと見なしている智也は、怒りに満ちた目で健二を睨みつけた。しかし、健二はそんな視線など全く意に介さなかった。ただ、智也とは叔父と甥であったので、こう忠告した。「もうこんなことに時間を使うのはやめた方がいい。家に帰りなさい」そう言うと、健二は紳
翌朝早く、彩花はなっちゃんを連れて、最後のワクチンを打ちに行った。ワクチン接種証明書を受け取ると、獣医がこう言った。「なっちゃんのワクチンはこれで全部終わりです。これからは他のわんちゃんと普通に遊べますよ」彩花は尋ねた。「なっちゃんくらいの年齢は、長距離の飛行機に乗っても大丈夫ですか?」「貨物室に?」「はい」「なっちゃんはまだ小さいですし、それに野良だった過去もあるので、少し分離不安の傾向があります。だから、飼い主さんと長時間離れるのは、なるべく避けた方がいいかもしれませんね」彩花は少し困った顔をした。「もうすぐ他の街に行くので、どうしても一緒に連れて行きたいんです」
週末、智也の同窓会があった。本当は一緒に来たくなかった彩花だったが、智也が何年も想い続けている女が気になってしまい、結局着いてきたのだった。二人が着いたとき、カラオケボックスの中はもうすごく盛り上がっていた。智也の親友、柴田翔(しばた しょう)が彼の首に腕を回す。「智也!遅いぞ!綾香が帰ってきたんだろ?お前の長年の片思いもやっと報われるってもんだな……」智也は少し慌てて、絡んでくる翔の手を振り払った。「変なこと言うなよ」「変なことって何だよ?お前が綾香のこと好きだったのは、クラスの奴らみんなが知ってることだろ?」そう話していた翔の視界の隅に、智也の後ろにずっと立っていた
彩花は一晩かけて、荷物を全部整理した。自分の服や本、それにこの数年で少しずつ買い足してきた小物や絵も全て片付けた。この家はいつか自分のものにもなるのだと、信じていた。だから、すごく心を込めて部屋を飾ってきたのに。今は、その物たちも、主である自分と同じように、ここから消えるべきなのだ。その夜は、一晩中雨が降っていた。智也が帰ってきたのは、次の日の朝だった。白いシャツ一枚だけで、ずぶ濡れになっている。彩花の顔を見るなり、彼はやましいことでもあるのか、気まずそうに目をそらし、ぎこちなく笑った。「こんなに早く起きるなんて、どうしたんだ?もっと寝てればいいのに」彩花は答える。
「お姉ちゃん。この前話してくれた人、会ってみようかなって思ってるんだけど」電話の向こうで、姉の鈴木奈津美(すずき なつみ)が少し驚いたようだった。「どうしたの、急に?この間まで、智也じゃなきゃ絶対に嫌って言ってたのに」鈴木彩花(すずき あやか)は数日前に自分が言ったことを思い出し、自分がどれだけ馬鹿だったかと、後悔する。「目が覚めたの。それだけ」「わかった。その人、ちょうど来月の頭に帰ってくるらしいから、また連絡するよ」電話を切った彩花は、すぐにスマホに予定を書きこんだ。来月の頭まで、約2週間。夢を見るのは、もうおしまい。しっかり、現実を見なくては。ちょうどその
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