夫・一ノ瀬義治(いちのせ よしはる)が、彼の愛人・桜井彩葉(さくらい いろは)との関係を継続する「愛人契約」の更新をする代わりに、母の入院と手術の費用を支払ってくれる。そういう約束が私との間にあった。しかし今回、義治はもうすぐ出産を控えた私・一ノ瀬澄花(いちのせ すみか)を気にかけたせいで、その愛人とのデートに1分だけ遅れてしまった。怒った彩葉は「澄花さんの子供をおろさせない限り、契約を更新しない」と駄々をこねた。義治は、中絶同意書と6億円の小切手を私の前に差し出した。「ほら。サインしろ。子供なんてまた作ればいい。彩葉のような若い子が泣きすぎると、顔にシワができちまう」義治の態度は落ち着いていて、まるで今日の天気のことを話しているかのように軽々しかった。私は信じられない思いで、顔を上げて彼を見た。長い沈黙のあと、私は震える指先で同意書にサインした。涙を拭うと、小切手を彼に突き返した。そして、最後に一つだけ条件を伝えた。「この前の形だけの離婚届、本当のものに替えてちょうだい」彼の工面してくれた手術費なんて、母にはもう使うチャンスがなくなった。それに、今の私だって、もう彼なんて必要ないのだから。返された小切手を見て、義治は眉をひそめた。「お母さんの容態を気にしていたんだろう?病院とは話が済んでいる。金さえ払えばすぐにでも手術できるんだ。澄花、そんな意地を張ってあとから後悔するぞ」胸の奥が締め付けられるように痛んだ。数日前、彩葉が義治との仲睦まじい写真を母に送りつけたせいで、母はショックで容態が悪化した。母の命は風前の灯で、もう義治の金で救える状態ではなくなった。義治は強引に小切手を私の手元に押し付けると、スマホを掴んで部屋を出た。「お待たせ、澄花サインしたよ。すぐに行く。これからは更新がいらない契約を結ぼう」普段の冷淡さはどこへやら、彼は初めて恋に落ちた少年のように浮かれていた。彼を引き止める衝動を必死で抑え、叫びたくなる気持ちを飲み込んだ。頬の涙が乾く間もなく、義治からの電話が鳴った。「手術はまだなのか?早くしろ。彩葉が待ちくたびれているんだ。中絶の様子を撮影して、送ってくれ」昔に流産した私を抱えて、廊下で医師を呼び叫んだ時と、まったく同じ焦り方だった。
Read more