جميع فصول : الفصل -الفصل 10

10 فصول

第1話 姉の身代わり

「あなた、西園寺真帆さんじゃありませんよね?」その一言で、心臓が止まった。白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。どうして?どうしてバレたの?「……何のことでしょうか」かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。「無理に誤魔化さなくて結構です」向かいに座る男──黒瀬グループの社長である黒瀬柊は、こちらをまっすぐ見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見透かすような目で。ガラス張りの窓の向こうに、青々とした四月の葉桜が風に揺れている。三週間前に初めて会った日は、雨だった。「本当のお名前を、教えてもらえますか?」低く、落ち着いた声だった。急かさない、追い詰める口調でもない。なのに、息が苦しい。──無理だ。この人の前では、どんな嘘も薄っぺらく見えてしまう気がした。窓の外で、鮮やかな緑の葉がひとひら、風に弾かれた。「……安心してください」私が口を開く前に、黒瀬さんが言った。「今すぐ責めるつもりはありません」そこで一度、言葉が途切れた。コーヒーカップをソーサーに置く。迷いのない動作だった。「ただ──非効率なことが、嫌いなので」黒い瞳が、まっすぐ私を捉える。「あなたが誰なのか、教えてもらった方が話が早い」背筋を、氷で撫でられたような感覚が走った。四月の嘘は、桜と一緒に静かに散るはずだった。なのに、花が落ちて鮮やかな青葉が芽吹いても、私はまだ偽物の仮面を剥がせずにいた。……こうなったのには、理由がある。三週間前。姉からかかってきた一本の電話が、すべての始まりだった。◇三週間前──四月最初の日曜日、朝七時。けたたましい着信音で目を覚ました私は、スマホの画面を見て顔をしかめた。《真帆お姉ちゃん》嫌な予感しかしなかった。「……もしもし」『ねえ。今日のお見合い、あたしの代わりに行ってきて』開口一番、それだった。「そんなの、無理に決まってるでしょう」布団から起き上がりながら、即答する。お姉ちゃんの代わりにお見合いだなんて、冗談じゃない。カーテンの隙間から見えた空は、どんよりとした曇り空だ
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第2話 偽物の名前

ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。祖父に叩き込まれた所作が、体の奥から反射的に出てくる。没落した西園寺家に残ったのは、このプライドと礼儀だけだった。──『柚葉、どんな時でも礼儀だけは失うな。身につけた所作は、お前を裏切らない盾になるから』まさか姉の身代わりのお見合いで、この盾に救われるとは思っていなかったけれど。ああ、早く帰りたい──そう思い、心臓がうるさく波打ったその時だった。ラウンジの入り口に、背の高い男の影が現れた。黒に近い濃紺のスーツが、均整のとれた体に沿っている。短く整えられた黒髪。彫刻のように高い鼻筋。そして、冷徹なまでに鋭い切れ長の目。彼が姿を現した瞬間、ざわついていたラウンジの空気が、すうっと凪いだ。綺麗な人だ、と思った。それと同時に、あ、これは敵わない、とも。周囲の視線がさりげなく吸い寄せられる中、その男は一瞥もくれず、脇目も振らずこちらへ歩いてくる。一歩、また一歩。近づいてくるにつれて、全身の緊張がひとつ上がっていく気がした。──これが、黒瀬柊との最初の対面だった。彼は私の席の前で足を止めた。上から下まで、一秒もかけずに視線が通り過ぎる。品定めでも関心でもない。ただ事実を確認する、それだけのような目だった。「定刻通りですね」短い確認だった。それだけで視線を手元の書類へ戻す。こちらを見ようともしない。「……始めましょう」向かいの席へ腰を下ろしながら、彼は当然のようにメニューを手に取った。待つことも、愛想を作ることも、どこにもない。時間を無駄にしないための動作だけが、そこにあった。「は……はい。西園寺……真帆です」名乗ろうとして、喉が詰まった。自分のもの
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第3話 見透かされる嘘

それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感じながら、テーブルの一点を見つめた。「そうですか」黒瀬さんは、それだけ返した。責めない。訂正しない。不審がる素振りすら見せず、コーヒーカップを口へ運ぶ。その静けさが、かえって怖かった。◇しばらくして、リゾットが運ばれてきた。「ここのリゾットは悪くない」黒瀬さんが短く言った。一口食べて、確かめるように。それ以上の感想はなかった。私も口にした途端、思わず声が出た。「本当ですね。……あ」うっかり、素の声が出た。「おいしいものを食べた時、そういう顔をするんですね」「……え?」「目が、笑う」低く、静かな声だった。私は何も言えなくなって、ただグラスへ視線を落とした。「お仕事、楽しいですか?」問いが来たのは、その直後だった。「……はい。大変なことも多いですが、チームで必死に考えたアイデアが形になって、誰かに届く瞬間が、私は──」答えてから、唇を強く噛んだ。今のは完全に、西園寺柚葉の言葉だった。モデルの仕事をしている人間が、チームで練るアイデアの話をするはずがない。「理想論ですね」一言だけ。それ以上、掘り下げるつもりはない、とでも言うように、黒瀬さんはコーヒーカップへ目を落とした。沈黙が、重くのしかかる。──諦めて視線を外そうとした、その時だった。「それで?」低く、穏やかな問いだった。うそ。まさか、聞き返してくるなんて。「……先程は、モデルの裏方と聞きましたが。今のお話は、少し違いますね」続いた言葉も、静かだった。責める口調ではない。ただ事実を確かめるような、それだけの声。その静けさに、言い訳の余地も誤魔化す隙間も、どこにもなかった。
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第4話 終わったはずが

『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。相手の都合を最初に確認して、自分はそこに合わせる。それだけのことを、この人は迷わずやる。なのに、その「だけ」が、妙に信用できた。断らなければいけない。これ以上、嘘を重ねるのは危険すぎる。そうわかっているのに、気づいた時には、指がキーボードを叩いていた。姉の脅しが怖かったから、というだけじゃない。それだけじゃない、ということだけは──自分でも分かっていた。『こちらこそ、ありがとうございました。来週の週末でしたら、少しだけお時間を作れます。西園寺真帆』送信ボタンを押した瞬間、スマホをベッドに伏せた。心臓が、うるさく波打っている。……まあ、なんとかなるか。口癖みたいにそう呟いてきた言葉が、今夜ばかりはちっとも頼もしく聞こえなかった。数秒後。伏せたスマホが、また短く震えた。そっと画面を持ち上げると、同じ番号からの通知が光っていた。『了解しました。楽しみにしています。──黒瀬柊』送信から、まだ一分も経っていなかった。『もう一点。先ほどの話、続きを聞かせてください』黒瀬さんから、追加のメッセージが届く。……先程の話の続き?モデルの話?それとも――お見合いの席で、モデルとは関係のない仕事の話をうっかり口にしてしまった、あの瞬間のこと?そこでメッセージは終わった。
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第5話 鳴らないはずの電話

一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。終わるどころか、もっと深みにはまっている。なのに──画面の中の『楽しみにしています』という一文から、どうしても目が離せなかった。◇月曜日、火曜日と、仕事をこなしながら、私はずっと考え続けていた。どうやって終わりにするか、を。私が勤める広告代理店、ライトワークスは、渋谷駅から徒歩八分のビルの六階にある。電話の声とキーボードの音が交差する企画部のフロアで、私は毎日、画面に向かってアイデアを絞り出している。「西園寺。例のドラッグストアの件、クライアントから修正入ったぞ」隣のデスクの先輩、村田さんが資料を放ってくる。「はい」受け取って広げると、赤ペンのコメントがびっしり入っていた。ターゲット層の設定を見直してほしい、コピーのトーンが硬い、もっと「手に取りたくなる感じ」で──。私の仕事は、クライアントが言語化できていない要望を言葉の奥から掘り起こして形にすること。面倒で地味で終わりが見えない作業だけれど、嫌いじゃない。なのに今日は、いつもより画面に集中できなかった。カーソルが同じ場所で止まる。文章を考えていたはずが、気づくと別のことを考えている。タクシーの窓を流れていた、春雨。ラウンジに現れた、濃紺のスーツの背筋。「目が、笑う」と言った、あの声。──やめろ、と自分に言い聞かせる。仕事に戻りなさい、柚葉。カーソルを動かそうとした瞬間、デス
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第6話 過去からの足音

会社から歩いて三分のカフェに入り、私は窓際の奥の席に座った。大学からの友人、高坂葵に連絡したのはオフィスを出る直前だった。『今から電話できる?』既読がついて、十秒もしないうちに返信が来た。『できるできる。どうしたの?』葵は、同じ会社の別の部署に勤める同僚でもある。普段はメッセージで他愛ない話をするくらいで、込み入った話になる時だけ、決まって電話になった。私が「まあ、なんとかなるか」と言うたびに「なんとかならなそうな顔してるじゃん」と即座に突っ込んでくる。私の言葉の「裏」を読む、唯一の人だ。◇ブレンドコーヒーが届いた頃、私は発信ボタンを押した。二コール目で繋がる。『はい、高坂葵でございます』「……普通に出てよ」『あはは。どうしたの、昼から電話なんて珍しい』「ちょっと、聞いてほしいことがあって」葵の気配が変わる。『何、どうした。仕事?』「……違う。お見合い」一瞬の沈黙があった。『は?お見合い?柚葉が?』「姉の身代わりで」また沈黙。今度は少し長い。『……え、ちょっと待って。お姉さんの身代わりで、柚葉がお見合いに行ったってこと?なんで?』「断れない理由があって」『何、それ』「……今は言えない」葵が、うーんと考える気配がした。『まあ、言いたくなったら言ってよ。で?そのお見合い相手は、どんな人だったの』「……黒瀬グループの、社長」『えっ、黒瀬グループ!?』「三十四歳。背が高くて、スーツが似合って、冷静で、あまり喋らない」『顔は?』私はコーヒーカップを持ったまま、少し間を置いた。「……悪くはなかった」
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第7話 南青山の夜

日曜日の夕方──二度目の食事の約束の日、私はクローゼットの前で途方に暮れていた。黒瀬さんから指定されたのは、南青山のイタリアンレストランだった。店名を検索した瞬間、画面の向こうから漂ってくるような気品に、思わず顔が引きつった。ミシュランの星つき。完全予約制。ドレスコードあり。前回のホテルのラウンジより、さらに格が上だ。悩んだ末、選んだのはネイビーのドレスだった。シンプルなAラインで、決して安物ではないけれど、今夜の店に並ぶであろうドレスたちと比べたら、きっと見劣りする。鏡の前に立って、自分で施した化粧を確認する。今夜こそ、完璧に演じきる。仕事の話をされても、モデルの仕事一本で通す。本音は、絶対に出さない。姉からの電話が、昨日もあった。「もたもたしないで」という声が、まだ耳の奥に残っている。◇タクシーを降りた瞬間、空気が変わった。表参道の喧騒から一本路地に入っただけで、街の音がすうっと遠のく。石畳の細い道の突き当たりに、控えめな照明に照らされた木製の扉があった。店名のプレートは小さくて、知らなければ通り過ぎてしまいそうなほど目立たない。店の前には、黒いセダンが一台、静かに停まっていた。扉を開けた瞬間に広がった光景は、外の静けさとは別の種類の格を持っていた。天井が高く、間接照明が白いリネンのテーブルクロスをやわらかく照らしている。誰かが話し、時折グラスがかすかに鳴る。それだけの音が、この空間ではひどく上品に聞こえた。鼻先に漂うのは、バターとハーブの香り、それから微かにワインの香り。完全に場違いだ、と思った。足が一瞬止まる。でも、止まっている場合じゃない。今夜の私は、真帆だ。ウェイターの案内に従って奥へ進むと、黒瀬さんはすでに席についていた。濃紺ではなく、今夜は深いグレーのスーツだった。こちらに気づいた瞬間、彼が立ち上がる。その一連の動作が無駄なく、自分のヒールの音がやけに耳についた。
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第8話 止まったフォーク

温かいスープが運ばれてきた頃には、私はすっかり疲弊していた。真帆を演じることに、ではない。嘘に嘘を重ねながら、この人の真摯な問いに答え続けることに。張り詰めた緊張感のせいで、せっかくの美しいスープの味もほとんど喉を通らなかった。「先程の話ですが」黒瀬さんが、ワイングラスを置きながら言った。「友人と仕事の話をされる、とおっしゃっていましたね」「……はい」「楽しそうに話されていた」「え?」「友人と話す時の、表情をされていました」気づいていなかった。答えながら、自然と葵のことを頭に浮かべていた。「代わりに言ってあげたの」という声。それが顔に出ていた。偽物の「西園寺真帆」としてではなく、ただの「私」として、大切な親友を思い浮かべていた瞬間の顔を、この人は見逃さなかったのだ。「……そう、でしょうか」「ええ」少しの間、沈黙が流れた。カトラリーが触れ合う微かな音と、他のお客たちの楽しげな話し声が、遠くの方で聞こえる。「大切なお友達なんですね」責めるでも探るでもなく、ただそれだけのことを言った。その瞬間、黒瀬さんの目がほんの一瞬だけ細まった。温度のない目ではなかった。何かを、確かめるような。すぐに元の表情へ戻った。あまりにも自然に。気のせいだったかもしれない。「……そうです」今度は、嘘じゃなかった。◇スープの器が下げられ、運ばれてきたパスタに手を付けた頃、黒瀬さんが間を置いてから口を開いた。「……ひとつ、聞いてもいいですか」「はい」「あなたは今、楽しいですか」意味がわからなくて、一瞬固まった。「……楽しい、とは」「今夜の食事が、という意味ではなく」黒瀬さんが、続けた。「日々の生活が、という意味です」なんで、そんなことを聞くんだろう。お見合いの席で、そんなことを聞く人がいるだろうか。私のプロフィールや、西園寺家の家柄ではなく、私の『人生そのもの』に踏み込んでくるような問い。そのまっすぐな響きに、胸がひどくざわついた。「……はい、楽しいです」反射的に、そう答えてしまった。「そうですか」黒瀬さんは一度頷いて、またワイングラスを持ち上げた。「……あの」気づいたら、私は口を開いていた。「どうして、そんなことを聞くんですか」黒瀬さんのフォークが、ぴたりと止まった。一秒。二秒。彼がこちらを向く。視線が、一点も
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第9話 人の失敗にしない人

──そんなわけはない。脳裏をよぎった甘い予感を、私はすぐに打ち消して唇を噛んだ。この人が見ようとしているのは、西園寺真帆の顔だ。本当の私じゃない。すぐさま否定しようとした。無理なんてしていない、と。けれど、言葉が出てこなかった。喉の奥で何かが引っかかって、そこから先へ進めない。沈黙が、テーブルの上に積もっていく。黒瀬さんは急かさなかった。ワイングラスをゆっくりと置いて、ただこちらを見ている。「……あの」先に口を開いたのは、私の方だった。「黒瀬さんは、仕事で煮詰まることはありますか」話題を変えようとしたのか、それとも本当に聞きたかったのか、自分でもよくわからなかった。黒瀬さんは少しだけ間を置いた。それから、短く答えた。「……あります」「そういう時は、どうされるんですか」「歩きます」「歩く、ですか?」思わず聞き返してしまった。黒瀬グループの若き社長なのだから、プライベートジムで汗を流すとか、高級外車を走らせるとか、そういうものを想像していたのだ。「どこでもいい。ただ歩くんです。目的地も決めずに、足の向くままに」「なるほど」「考え続けても答えが出ない時はあるので。無駄な感情を整理するには、その方が早い」そう言って、黒瀬さんはふっと口元を緩めた。「意外、ですか?」「あ、いえ。……この人も手放す方法を知っているんだな、と思って」「手放す?」「あ……」また、プランナーとしての私の言葉が出てしまった。けれど黒瀬さんは不審がる様子もなく、私の言葉をゆっくりと咀嚼するように頷いた。「……手放す、ですか。そんな風に言われたのは、初めてです」短いやりとりだった。ただ、その一言を聞いた瞬間、黒瀬さんの目が僅かに変わった。冷静な観察の目ではなく、もっと内側から来るような、静止した光。それは本当に一瞬
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第10話 雨の夜と傘

「いえ。傘、持ってきていなくて」「では」一言だけ言って黒瀬さんが半歩前へ出ると、店の前に停まっていた黒いセダンから、物静かな印象の男性が素早く近づいてきた。秘書だろうか。三十代前後。黒瀬さんの動線を先読みするように動く人だった。黒瀬さんが「城島」と呼ぶと、男性は無言で傘を差し出した。黒瀬さんがその傘を受け取り、こちらへ差し出す。「どうぞ」「でも、黒瀬さんは──」「そこに車を待たせてあります」石畳の先に、黒い高級車がすでに横付けになっていた。城島さんが、後部座席のドアを開けて待っている。「……ありがとうございます」傘を受け取ろうとした時、柄をまだ持っていた彼の指と、私の指が重なった。ほんの一瞬。それなのに、雨が地面を叩く音も、夜の街の気配も、すべてが遠のくような奇妙な錯覚に囚われる。「西園寺さん」「はい」「送ります」有無を言わせない、端的な声だった。◇車内では、ワイパーが一定のリズムで雨を弾いていた。後部座席に並んで座ると、レストランのテーブル越しにいた時よりも、はるかに彼の存在を近くに感じる。衣服の擦れる音や、ほんのりと漂う品のある香水の香りに、私の心臓はさっきからうるさい。黒瀬さんは窓の外を向いたまま、何も言わない。前を向く城島さんの背中。雨粒が窓ガラスを滑り落ちていく音だけが、車内に満ちていた。何か話さなければ、と思う。でも何を話せばいいのかわからなくて、私も窓の外を見つめた。夜の表参道が、雨に濡れて光を反射している。傘を差した人たちの影が、揺れながら通り過ぎていく。黒瀬さんも、同じ方向を見ていた。二人で同じ雨を見ている、という妙な感覚があった。「雨の日は、苦手ですか」不意に、黒瀬さんが言った。窓の外を見たまま。「いえ、わりと好きです」答えると、黒瀬さんがわずかに間を置いた。「そうです
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