午前の研究室は、ひなたのタイピング音と、インキュベーターの低い唸りだけが鳴っていた。 スクリーンの中央に、昨夜のメモが点滅している。 【仮変数】scent_flag ∈ {blind, mask, pseudo} 【指標】心拍、皮膚伝導、呼気CO₂、視線停留 ——香りは、合図になり得るか。 ページを下に送るたび、行間に昨夜の柑橘がひそむ。名刺の角を撫でたときの、あの小さな熱。理性の枠の外側から、こちらを覗く何か。 ノックが二度。「朝比奈先生、今日の予備実験、設備押さえました」 学生の声に頷き、ひなたはスプレッドシートを開いた。条件、手順、誤差の見込み。 誤差——と打ち込んだ瞬間、脳裏で別の単語がちらつく。 誤差、より、人差。 慌てて削除する。研究者の指は、迷いを消すためにある。 もう一つ、ノック。 控えめな、でも躊躇のないリズム。「失礼します。ご相談と、ご提案を——」 灯川ユナが顔を出した。白いシャツ、銀のピン、名札。 入室の空気が、半度だけ上がる。インキュベーターの唸りが後ろへ下がり、キーボードの音が前に来る。「合図の件、先生のプロトコル拝見しました。香り条件、盲検・マスク・擬似の三段。すごく、好きです」 好きがまた沈む。「ありがとうございます。今日は心拍と皮膚伝導だけ先に——」「できれば、視線も。停留が、いちばん嘘をつかないときがあるから」 嘘をつかない。ひなたは画面の端を指で叩いた。「倫理審査の範囲でいきましょう。合図は、薄く。過剰な誘導は除外」 ユナは頷くと、実験室の手順表に視線を滑らせた。「被験者は、先生と私でローテーション。相互観測。観測者/被観測者の切り替えも、入れます」 観測者/被観測者——ひなたの胸の内側の糸が、かすかに鳴る。「では、先に私が観測側に入ります。灯川さんは——」「見られる側、で」 理性は頷いたが、心拍は別のリズムを刻んだ。⸻ 実験室には、白い光がよく回る。 ユナが椅子に座り、手首にセンサー。指先は温かい。 柑橘は持ち込まない。これは“香りそのもの”ではなく、“香りに似た合図”の検証だ。 ブザー、静寂、短い音楽、風。擬似合図を、規定の間隔で配置する。「はじめます」 ひなたはモニターに目を落とし、時間の列に印を打っていく。 視線停留が、最初は均一に散って、次第に偏
Dernière mise à jour : 2026-07-06 Read More