All Chapters of 元カレくんごめん、私、結婚した!: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

安田洋(やすだ よう)と付き合ってきた5年目に、彼が浮気をした。別に珍しいことじゃない。もともと彼は、この界隈では有名な女たらしだった。この5年間、彼の周りから女の姿が消えたことは一度もない。でも――今回は違った。今回は、どうやら本気らしい。写真は見知らぬ番号から送られてきた。整った顔立ちの若い女性が洋に寄り添い、幸せそうに笑っていたのが映っている。5年前の私も、きっとあんな笑顔だった。5年という時間を費やした私は、最後にあんな笑顔を見せたのがいつだったのかも思い出せない。写真には、一件の録音データも添えられていた。「洋、お前さ。片山亜希(かたやま あき)と付き合ってもう5年だろ?これからどうするつもりなんだ?」「どうするって?別にこのままでいいだろ」「お前はよくても、あっちはそうはいかないんじゃないか?」洋は鼻で笑った。「お前は分かってないな。亜希は俺の言うことなら何でも聞く。あいつは俺から離れられないんだよ。俺が何をしようと、大人しく俺のそばにいる。まるで尻尾を振ってついてくる犬みたいにな」私はそこで再生を止めた。この5年間、私は彼のどんな振る舞いにも目をつぶってきた。いつか私の想いは伝わる。いつか彼は振り向いてくれる。そう信じ続けてきた。でも彼にとって私は、ただの犬だった。従順で、都合のいい犬。写真や録音を誰が送ってきたのかなんて追及しなかった。そんなことはもうどうでもいい。大事なのは、一つだけ分かったこと――安田洋は変わらない。そして、彼は私を愛していない。荷造りは驚くほど早く終わった。一時間で荷物はすべてスーツケースに収まった。5年も暮らした部屋なのに、自分の物は思ったより少なかった。もちろん、洋はお金の面で私に不自由をさせたことはない。記念日やイベントのたび、高価なプレゼントを贈ってくれた。私はブランド品の出張買取を依頼し、それらをすべて売り払った。持っていても、お荷物になるだけだから。すべて片づけ終えると、私は家で洋の帰りを待った。最後くらい、ちゃんと顔を見て別れを告げたかった。けれど、どれだけ待っても彼は帰ってこなかった。その代わりにかかってきたのは、彼の友人・塩崎和也(しおざき かずや)からの電話だった。「洋が酔い潰れてる
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第2話

私は一瞬だけ足を止めた。そして振り返ることなく、そのまま個室を後にした。家へ戻ると、もう洋を待つことはしなかった。荷物を持ち、そのまま出て行こうとして――ふと足を止める。部屋を見渡した。洋と付き合ってからというもの、私は毎年、いつか彼と結婚できる日を夢見ていた。無理を言って、一緒にウェディングフォトまで撮ってもらった。その写真が、数日前にようやく届いたばかりだった。私は部屋の扉を閉めると、キッチンへ走り、キッチンバサミを手に取った。写真立てを取り出し、床へ叩きつける。ガラスが激しく砕け散る。私はキッチンバサミを握り、写真に写る自分の姿だけを切り取った。安田洋。今日、この瞬間から――私は、人として生きる。もう二度と、あなたの「犬」にはならない。すべて終えた頃には、部屋はひどい有様だった。キッチンバサミをベッドへ放り投げ、私はスーツケースを引いて家を出た。そのまま夜通し車を走らせ、実家へ着いたのは午前2時だった。スーツケースを持って玄関へ入ると、母が驚いた顔で何度も理由を尋ねてきた。「大丈夫。ちょっと疲れただけ。今日はもう寝るね」適当にごまかし、自分の部屋へ入る。ベッドに倒れ込むと、そのまま眠りに落ちた……実家での暮らしは驚くほど穏やかだった。この数年で十分な貯金もできていたから、お金の心配もない。毎日、食べて、眠って。これまで足りなかった休息を取り戻すような日々だった。そんな生活が5日も続くと、母はとうとう私を見るたびにため息をつくようになった。今度はお見合いの話を持ってきて、早く結婚しなさいと言い始めた。私と洋のことを家族は何も知らない。ずっと仕事が忙しくて恋愛する暇がないと思っていたのだ。母のお見合い攻勢から逃れるため、私は一度だけ会ってみることにした。待ち合わせはカフェだった。店に入ると、一人の男性が手を振る。その顔を見て思わず目を見開く。「……城石洸太(しろいし こうた)?」中学時代の同級生だった。「まさか、あなただったなんて」向かいに座ると、少し気まずい空気が流れる。3年間同じクラスだったけれど、ほとんど話したことはなかった。彼は当時、成績優秀で容姿端麗、女子から人気者だった。もちろん、私も彼に憧れていた一人だ。卒業
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第3話

それから1か月後。彼は私を友人たちとの集まりへ連れて行った。祝福され、勧められるまま酒を飲み、彼はかなり酔ってしまった。帰りは私がタクシーで彼を家まで送り届けた。彼の両親は仕事で海外暮らし。彼は長年一人暮らしだった。ソファへ寝かせ、濡れタオルで顔を拭いてやる。「お酒弱いなら、こんなに飲まなきゃよかったのに」「俺が飲まなかったら……君が飲むことになってたよ」彼は私の手を握り、潤んだ瞳で見上げる。「君に飲ませたくなかったの」洸太は、こんな甘いことを言う人じゃない。だから余計に胸が熱くなる。「……そんなに私のこと愛してるの?」彼は迷いなく頷いた。「愛してる」そっと唇を重ねた。彼はすぐに私の後頭部へ手を回し、深く口づける。その夜、私は彼にすべてを預けた。彼は私を愛してくれる。恋人らしく笑い、恋人らしく触れ合える。それだけで十分だった。それ以来、洸太はますます私を手放してくれなくなった。私は自然と彼の家で暮らすようになり、両親も反対しなかった。彼は何度も実家へ挨拶に来てくれた。そのたびに両親は上機嫌になり、すっかり彼を気に入っている。あとはいつ結婚するか、それだけを楽しみにしているようだ。けれど、結婚の話になるたび、私は胸の奥が苦しくなった。洋との5年間は、あまりにも濃すぎた。隠し通せるものではない。私は洋と恋人としてできることはすべて経験した。でも、そのことを洸太は何も知らない。洸太に対して、あまりにも不公平な気がした。何度も打ち明けようとした。それでも、いざ口を開こうとすると、言葉が出てこなかった。洋と別れて1か月。電話がかかってきた。相手は向田晴也(むかいだ はるや)だった。洋との共通の知人はほとんどいないが、彼がその数少ない一人だった。「引っ越したって聞いたけど?」「うん」私はフライパンの中の野菜を混ぜながら答える。「急にどうしたの?」「いや、久しぶりに話したくなってさ。それで……戻ってくる気はないのか?」私は火を止め、皿に盛りつける。「戻らないよ。今の生活が気に入ってる。こっちへ来ることがあったら案内するね」「分かった。元気でな。困ったことがあったら遠慮なく言え」「ありがとう」電話を切ると、私は夕
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第4話

これまで二人は何度も喧嘩をしてきた。そのたびに、先に折れるのはいつも亜希だった。だから洋には確信があった。彼女が本当に自分のもとを離れるはずがない、と。そんなふうに強がる彼を見て、晴也もそれ以上は何も言わなかった。晴也はずっと思っていた。洋は、本当の亜希を分かっていないのだと。洋と付き合っている間、亜希は彼が外で女遊びをしても、知らないフリして、ほとんど何も言わなかった。洋はそれを、自分に捨てられたくないから我慢しているのだと思っていた。けれど晴也には、亜希がこの恋に何度も何度もチャンスを与えているように見えていた。そして、そのチャンスが本当に尽きたとき、彼女は洋に完全に愛想を尽かし、二度と戻ってこないのかもしれない。たとえば今回のように。彼女はもう丸1か月も家を出たままで、その間、洋に一度も連絡していない。以前の亜希なら、絶対にしなかったことだ。晴也は勘づいた。洋は、もしかすると本当に彼女を失うのかもしれない。酒を飲み終えて家に戻ると、洋はソファに腰を下ろした。がらんとした部屋を見つめていると、なぜか胸の奥がざわついた。以前なら、彼が酔って帰るたび、亜希は必ず二日酔いに効く味噌汁を作って持ってきてくれた。たとえ彼がいらないと言っても、優しい言葉で飲むように勧めてくれた。けれど今、この家は冷えきっている。残っているのは、彼一人だけだった。洋は寝室へ向かい、ドレッサーの引き出しを開けた。中から取り出したのは、指輪だった。亜希の誕生日に、彼女にせがまれて買ったペアリング。彼の指にはまっているものと対になっている。買ってから、二人はずっとそれを身につけていた。あの日、亜希が出て行ったあと、彼が家に戻ると、部屋はひどく荒れていた。そしてこの指輪だけが、リビングのテーブルの上に置かれていた。まるで、二人の最後のつながりまで断ち切るように。洋はスマートフォンを取り出し、亜希とのトーク画面を開いた。何度もメッセージを打とうとして、何度も消した。「そんなのあり得ない。あいつは必ず戻ってくる。俺から離れられるはずがない。すぐに帰ってくる」……夕食を終えると、洸太が自分から皿洗いを引き受けてくれた。私はその間にお風呂へ入った。湯上がりに浴室を出ると、洸太が後ろ
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第5話

洋が、事故に遭った。私は彼と付き合って一年目の出来事を思い出した。彼はある女性を家まで送る途中で交通事故を起こした。私は夜通し病院へ駆けつけたのに、そこには彼のそばで涙を流す女性がいた。あのときの私は、彼の隣に立つ場所さえ見つけられなかった。彼に必要だったのは私ではない。ただ、そばで甲斐甲斐しく世話をしてくれる人間だったのだ。「亜希、何を迷ってるんだ?今回はかなりひどい怪我なんだ。早く病院に来てくれ」私が黙っていると、晴也は焦ったように言った。私は深く息を吸い、笑って答えた。「行かないよ、晴也。私と洋はもう完全に終わったの」晴也は少し驚いたようだった。しばらく沈黙してから、ゆっくり口を開く。「亜希、お前は洋と長かったんだから、あいつがああいう性格だって分かってるだろ。実際、あいつなりにお前のことは大事にしてたと思う」大事にしていた?本当に大事なら、私を犬みたいに呼びつけたり、追い払ったりしなかったはずよ。「彼がどうなろうと、もう私には関係ない。晴也、私は彼のそばで長すぎる時間を使ってしまった。今は、自分の人生を生きたいの」私は電話を切った。その件に、それ以上気を砕くことはなかった。夜になり、いつもなら洸太が帰ってくる時間になっても、彼は戻らなかった。テーブルに並べた料理を見つめながら、私はメッセージを送った。【今日は帰ってこないの?】すぐに返信が来た。【少し遅くなる。待ってて】返事を見て、私は安心した。部屋を少し片づけ、汗をかいたのでシャワーを浴び、服を着替える。汚れた服を洗濯機に入れたところで、玄関でドアの開く音がした。私は笑顔で迎えに行った。ドアを開けると、目の前に大きな赤いバラの花束があった。「これは?」バラが少し下がり、その向こうから洸太の顔が現れる。「君に。気に入った?」「気に入ったわ。でも、どうして急にこんな大きなバラを?」私は笑いながら花束を受け取った。私は花が好きだ。けれど洋と一緒にいたこの数年、一度も花をもらったことはなかった。洋は言っていた。花なんてすぐ枯れるし、買っても意味がない、と。でも彼は、私のことを何も分かっていなかった。私は花が咲き誇っている、その美しい瞬間が好きなのだ。美しく咲いた。それだけで十分だっ
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第6話

事故に遭うと、洋はすぐに病院へ搬送された。病室のベッドでスマートフォンの連絡先を何度も見返したが、呼べる相手は亜希しか思い浮かばない。だが、家を出ていったあの日、彼女がウェディングフォトをめちゃくちゃにして去っていったことを思い出すと、どうしても自分から電話をかける気にはなれなかった。結局、彼は晴也を呼んだ。病院に駆けつけた晴也は、洋の脚のけがを見るなり、呆れたようにため息をつく。「坊ちゃま、一体どうしたんだよ。長年運転してきて、一度も事故なんて起こしたことなかっただろ?」「介護を手配してくれ」ベッドにもたれたまま、洋は不機嫌そうに言った。晴也は椅子を引いて腰を下ろし、スマートフォンを取り出し、連絡先を開いた。「でもさ、どんな介護士よりも、心配してくれる人が一番だろ。亜希に電話してみるよ」晴也は、亜希が洋をどれほど大切に思っていたかを知っていた。事故に遭ったと聞けば、きっとすぐ病院へ駆けつける。そう信じて疑わなかった。ところが、電話をかけてみると、亜希は見舞いに来る気配すら見せず、「私と洋はもう完全に終わったの」と繰り返すばかりだった。電話を切ると、晴也は気まずそうに洋を見た。「……亜希は何て?」洋が低い声で尋ねる。晴也は肩をすくめた。「もう終わった関係だから、来ないってさ」その言葉を聞いた瞬間、洋の表情はさらに険しくなった。「……そうか。いい度胸だな、片山亜希」晴也は苦笑する。「だから前から言ってたじゃないか。もう少し亜希を大事にしろって。ほら、とうとう愛想を尽かされただろ。で、いつ迎えに行くつもりなんだ?」それでも洋は、亜希が本当に自分のもとを去るとは思っていなかった。ただ少し意地を張っているだけ。そのうち機嫌が直れば、自分から戻ってくる。そう思っていた。だが今回は違った。これほど長い間、彼女は一度も帰ってこなかった。――そうか。羽が生えたように自由になって、ずいぶん度胸もついたじゃないか。「迎えになんか行くか。そのうち気が済めば、自分から帰ってくる」晴也は小さく眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。洋は昔からそういう男だ。強情で、素直になれない。亜希への気持ちが本物になっていることすら、認めようとしない。――いつかきっと、
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第7話

言い終えた瞬間、胸の中が不安でいっぱいになった。今はもう、恋愛経験があるからといって責められる時代ではない。それでも、洸太がどう受け止めるのかだけは分からなかった。彼はしばらく私を見つめていた。そして、ふっと笑った。「なんだ、そんなことだったのか。結婚の話になるたびに亜希が曖昧な顔をするから、まだ誰か忘れられない人がいるのかと思って心配してたの、まさかこんなことで悩んでいたとは」私は小さく頷いた。「うん。このことは、ちゃんと話しておかなきゃいけないと思って」「話してくれてよかった」洸太は優しく笑い、私の鼻先を軽くつついた。「でも、俺は気にしない。俺にとって亜希は、これから先も一緒に歩いていきたいと思えた、たった一人の人だから」彼はもう一度、私の前に指輪を差し出した。「片山亜希さん、俺と結婚してくれる?」その言葉を聞いた瞬間、涙が頬を伝った。私は何度も頷いた。「はい……お願いします」洋との恋愛は、私に恋も結婚も怖いものだと思わせた。それでも、洸太は違う。この人なら、人生を預けてもいい。そう思えた。プロポーズを受けたあと、私はすぐ両親に電話をした。結婚することを伝えると、二人は心から喜んでくれた。両親はもともと洸太をとても気に入っていたから、すぐに結婚式の準備を始めようと言い出した。洸太も両親に報告した。彼の両親はまだ私に会ったことがなかったけれど、この結婚には賛成してくれた。仕事の都合をつけて、近いうちに帰国するとも言ってくれた。その後、両家で顔合わせの食事をした。洸太の両親は私にとても優しく、結婚式のこともすべて私たちの希望を尊重してくれた。費用は出すけれど、口は出さない。そう言ってくれた。式の日取りは、思っていたよりも早く決まった。私は洸太の家を出て、いったん実家へ戻り、両親とこの時間を過ごすことにした。洸太は一日でも早く私を妻にしたいらしく、式は3か月後に決まった。日付を見て、私は思わず笑った。「洸太、そんなに急いで私をお嫁さんにしたいの?」洸太は私のベッドに寝転がったまま、嬉しそうに笑った。「もちろん。早く亜希を、正式に俺の妻にしたい。そうしないと、誰かに連れていかれそうで怖いから」彼は目を細める。「いいな。もうすぐ亜希が俺の
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第8話

晴也は招待状を受け取ると、真っ先に洋のもとを訪れた。「亜希が結婚する。式は3日後だ」その言葉を聞いた瞬間、洋は晴也のスマートフォンをひったくった。画面に表示された招待状を見た途端、その顔色が変わる。次の瞬間、スマートフォンは床へ叩きつけられていた。「片山亜希……俺に隠れて、ほかの男と連む気か!」晴也は眉をひそめる。「洋。友達として言わせてもらうけど、今回、お前は亜希を本当に傷つけた。覚悟しておいたほうがいい。彼女はもう、お前のところへは戻ってこないかもしれない」「そんなわけない」洋は即座に言い返した。「片山亜希は俺のものだ。ほかの男と結婚なんて、俺が認めるわけない」……私は、もう一度洋と会うことがあるとすれば、何年も先、またあの都市を訪れたときだと思っていた。まさか、結婚式の前日に彼が私の地元まで来るなんて、想像もつかなかった。母と話をしていると、スマートフォンが鳴った。画面に表示された名前は――安田洋。まさか彼から電話してくるなんて。洋はプライドが高く、自分から折れるような人ではない。だからこそ、家を出るときも、私は彼をブロックしなかった。どうせ、電話なんてかかってこないと思っていたから。少しためらったあと、私はベランダへ出て電話に出た。「もしもし」「今、お前んちの前にいる。降りてこい」私は思わず身を乗り出した。見下ろすと、本当に洋の車が家の前に停まっている。「……どうして実家の場所を知ってるの?」「いいから降りてこい」低く抑えた声だった。怒りを必死に押し殺しているのが伝わってくる。以前の私なら、きっと何も考えずに駆け下りていただろう。でも、もう違う。私は彼との関係に、自分で終止符を打った。もう、彼の言葉に従う理由はない。「安田さん」私は静かに言った。「私たちは、とっくに別れています。それに明日は私の結婚式です。今さら二人で会うのは適切じゃありません。用件があるなら、このまま電話でお願いします」その言葉が洋を不快にさせた。「片山亜希、俺はわざわざ頭を下げに来たんだ。今すぐ降りてこい。そうしたら全部元どおりだ。お前はこれまでどおり、俺の彼女でいれる」私は思わず笑いそうになった。この人は、今でも本気でそう思っている。自分さえ折れれば、
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第9話

そう言って電話を切り、私はホテルのエントランスへ向かった。遠くからでも、洋の姿はすぐに分かった。私が近づくと、彼はじっとこちらを見つめている。私は彼の前で立ち止まり、声を潜めた。「今日は私の結婚式なの。お願いだから、邪魔だけはしないで」「亜希」洋は私の手首を強くつかんだ。「帰るぞ。俺がお前を連れて帰る」私は手を振りほどこうともがく。「放して。私には、もう帰る家があるの。お願いだから放して」その瞬間だった。「手を離せ」低く落ち着いた声が割って入る。洸太だった。彼は足早に私たちのもとへ駆け寄ると、私を自分の後ろへかばい、洋の手を払いのけた。「安田さん、これ以上、私の妻につきまとわないでください」その一言で、洋の表情が一変する。「亜希はお前の妻じゃない。俺のだ」洸太は表情一つ変えなかった。「今日は私たちの結婚式です。お祝いに来てくださったのであれば歓迎します。でも、邪魔をするつもりなら、お引き取りください。容赦はしません」二人の間に張りつめた空気が流れる。今にも殴り合いになりそうな気配に、私は慌てて洸太の腕をつかんだ。「洸太、今日は私たちの大切な日だから、落ち着いて」彼は私の言葉を聞き、やがて冷静になった。「……分かったよ。亜希、ここは俺に任せて、控室へ戻ってて」「ううん、私が話す」そう言って私は一歩前へ出る。洋の前で足を止め、静かに口を開いた。「私はずっと、あなたと結婚する日を夢見てた。一緒に指輪を買ってもらったのも、ウェディングフォトを撮ったのも、そのためだった。でも洋、あなたは、一度でも私と結婚したいと思ったことがあった?」その問いに、洋は顔を強張らせた。「亜希、俺は……」「あなたは私を愛していたんじゃない。ただ、私がいる生活に慣れていただけ」私は俯き、苦笑いがこぼれた。「今さら私を取り戻そうとしているのも、失って初めて不便だと感じたからでしょう?でも私は、あなたが慣れているからという理由だけで、一生その場に立ち止まって待ち続けることはできない。洋、もし少しでも私を大切に思ってくれたことがあるなら、もう私の前には現れないで」洋は黙って私を見つめ続けた。やがて小さく息を吐く。「……悪かった。今までお前をない
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第10話

――安田洋 番外編――俺は片山亜希のことが好きだったのか。愛していたのか。その問いに、今でもはっきり答えることはできない。付き合い始めた頃の俺は、ただ一つだけ思っていた。こいつは、本当によくできた彼女だ、と。俺が外で何をしても、責めない。泣いて縋ることも、ヒステリックに騒ぐこともない。ただ静かに、俺のそばにいてくれた。そんな彼女がいる生活は、居心地がよかった。家に帰れば、自分のことを気にかけてくれる誰かが待っていてくれる。日常生活の面倒を全部見てくれる。それだけで十分だった。しかも、俺の交友関係に口を出すこともなければ、自由を縛ろうともしない。俺はそんな生活を、当たり前のように享受していた。亜希は毎日、俺の世話をしてくれた。酔って帰れば、必ず酔い覚ましの味噌汁を作ってくれる。翌朝になれば、温かい朝食が食卓に並んでいる。そんな毎日が、ずっと続くものだと思っていた。亜希が結婚したがっていることにも気づいていた。何度も遠回しに伝えてきたし、時にははっきり口にしたこともある。ペアリングを買いに行こうと言われたときも、断らなかった。そんなのただの指輪だ。何かを意味するわけじゃない。彼女がそれで喜ぶなら、それでいいと思った。ウェディングフォトを撮りたいと言われたときも同じだ。着替えて写真を撮るくらい、大したことじゃない。だから付き合った。俺なりに、亜希の気持ちを受け入れているつもりだった。なのに、彼女はどこか満たされないままだった。そしてある日の喧嘩を境に、彼女は家を出て行った。荷物を全部持って。俺は追いかけなかった。その必要はないと思っていたからだ。それまでだって何度も喧嘩をした。そのたびに放っておけば、数日後には何事もなかったように戻ってきた。今回も同じだと信じていた。―――けれど違った。何日経っても、何週間経っても、亜希は戻ってこない。電話もない。連絡もない。まるで俺の人生から本気で消え去ろうとしているかのように、姿を消した。その頃の俺は、自分を麻痺させたく、毎日のように酒を飲んでいた。そんなある日、事故に遭った。病院のベッドで連絡先を開いてみても、呼べる相手なんて亜希以外に一人もいなかった。だけど、自分から連絡するのは癪だった。だから晴也に電話
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