高瀬悠真は、怒鳴らない男だった。 それは優しいからではない。 怒鳴る前に、数字を見るからだ。 東京都千代田区。 丸の内の高層ビル群を見下ろす二十七階に、株式会社ネクストリンクの本社はあった。 法人向けクラウド管理システム、営業支援AI、企業内データ連携プラットフォーム。 十年前、六畳一間の古いマンションで始めた会社は、いまでは従業員三百十二名、年商百八億円の中堅IT企業になっていた。 上場準備にも入っている。 銀行も、監査法人も、証券会社も、ネクストリンクを「次に伸びる企業」と見ていた。 その会社の創業社長が、高瀬悠真だった。 三十五歳。 黒髪を短く整え、余計な装飾を嫌い、いつも白いシャツに濃紺のスーツを着ている。 派手な経営者ではない。 メディアで夢を語るより、契約書の一文を直す方を好む男だった。 そして、ネクストリンクの議決権の七十八%を保有する、絶対的なオーナーでもあった。 その日も、悠真は朝七時半には出社していた。 役員フロアの社長室。 ガラス越しに見える東京の朝は、妙に澄んでいた。 机の上には、三つの資料が並んでいる。 一つは、月次売上報告書。 一つは、上場準備に関する監査法人からの確認事項。 そしてもう一つは、封をされた茶色の調査報告書だった。 差出人は、青葉総合調査事務所。 悠真が二週間前に正式契約した、探偵事務所である。 悠真はその封筒にはまだ触れなかった。 先に売上報告書を開いた。 第一事業部、前年比一二八%。 第二事業部、前年比一一六%。 営業本部、新規案件獲得数は多い。 だが、利益率が落ちていた。 特に営業本部長である桐谷健吾が決裁した案件に、妙な接待費と旅費交通費が増えている。 偶然ならいい。 だが、偶然が同じ方向に三度続けば、それは数字の悲鳴だ。 悠真は赤ペンで資料の端に小さく丸をつけた。 その時、社長室のドアが控えめにノックされた。「社長、よろしいでしょうか」 入ってきたのは、秘書室長の神谷玲奈だった。 三十二歳。 長い髪を後ろでまとめ、薄いグレーのジャケットを着ている。 秘書という肩書きだが、実質的には社長室の番人だった。 予定管理、社外調整、役員会資料の確認、株主対応の下準備までこなす。 悠真が創業五年目に採用した人材で、会社の裏側を誰よりも冷静に見
Last Updated : 2026-07-14 Read more