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All Chapters of 十年後の初恋: Chapter 1 - Chapter 5

5 Chapters

第1話 卒業式前夜

体育館の裏、桜の蕾もまだ固い三月の夜だった。 早坂有紗《はやさかありさ》は、コートの前をかき合わせながら、校舎の非常階段に座っていた。明日には卒業式がある。制服を着るのも、あと一度きりだ。 「こんなところにいたのか」 声に振り返ると、桐生篤《きりゅうあつし》が息を切らして立っていた。前髪が汗で額に張りついている。きっと教室から探し回ってくれたのだろう。 「……何か用?」 有紗は、努めて何でもない声を出した。篤が何を言おうとしているのか、わかっていた。わかっていたからこそ、逃げてきたのだ。 篤は階段を三段のぼり、有紗より少し高い位置で足を止めた。夜風が二人のあいだを通り抜けていく。 「有紗、俺──」 「篤くん」 有紗は先に言葉を挟んだ。続きを言わせてはいけない、と思った。もし篤が想いを口にしてしまえば、自分はきっと頷いてしまう。頷いてしまえば、後戻りできなくなる。 母の病気のことは、誰にも話していなかった。話せば「かわいそうな子」になる。同情されるくらいなら、いっそ誰にも知られたくなかった。そしてもし篤と付き合うことになれば、いずれ知られてしまう。母を支えながら誰かと恋をする余裕なんて、自分にはない。そう思い込んでいた。 「わたし、進路変えたの。東京の専門、やめた。地元の花屋さんで働くことにした」 用意していたわけではない言葉が、するりと口から出た。篤の表情が固まる。 「……急だな。何かあったのか」 「別に。ただ、地元の方が向いてる気がしただけ」 嘘だった。篤はしばらく有紗の顔を見つめていたが、それ以上は踏み込んでこなかった。誠実な人だから、有紗が「それ以上聞かないで」と背中で語っているのを、感じ取ってしまったのだろう。 「そっか」 短い言葉だけを残して、篤は階段を下りていった。振り返ることはなかった。 有紗は、篤の背中が見えなくなるまで動けなかった。言えなかった。母のことも、本当は自分がどう思っているかも。 ──ごめんね。 声にならない謝罪だけが、三月の夜に溶けていった。 十年後。 「有紗ちゃん、そこの薔薇、もう少し前に出したほうが目立つんじゃない?」 「あ、ほんとだ。ありがとう沙織《さおり》」 早坂有紗は花束の位置を直しながら、開店準備の手を止めなかった。商店街の一角
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第2話 ぎこちない再会

名刺を持つ手が、少し汗ばんでいた。 「都市開発一課……篤くん、そういう仕事してたんだ」 有紗はどうにか声を絞り出した。店の奥から様子をうかがっていた沙織が、気を利かせたのか、「じゃあ有紗ちゃん、あたし戻るね」と小声で言って美容室に消えていった。残されたのは、十年ぶりに向き合う二人と、開店したばかりの静かな店内だけだった。 「うん。設計事務所に入って、今は再開発プロジェクトの担当をしてる。今日はこの通り一帯の現地調査で」 篤は言葉を選びながら話した。有紗の店の中を、ちらりと見回す。棚に並んだ花たちに、少しだけ表情が緩んだ。 「有紗が花屋になるとは、思わなかった」 「わたしも、篤くんがこの仕事してるとは思わなかったよ」 あ有紗は苦笑しながら、カウンターの内側に戻った。何か作業をしていないと、落ち着かなかった。花鋏を手に取り、余分な葉を落とす作業を続ける。 「あの……この店主って、有紗、なんだよな」 「そう。三年前から」 「一人で?」 その一言に、有紗の手が一瞬止まった。 「一人で、というか……母と、ときどき パートさんに手伝ってもらいながら」 「お母さん、元気にしてる?」 何気ない問いのはずだった。だが有紗は、どこまで話すべきか一瞬迷った。十年前、篤には何も話さなかった。今さら詳しく話す必要もない。 「元気だよ。ちょっと、体調崩しやすいけどね」 曖昧に濁して、有紗は笑った。篤はそれ以上聞かなかった。昔から、そういうところがある人だった。踏み込みたいのに、踏み込めない。有紗が壁を作れば、そっと引く。十年前の階段の夜と、同じだった。 「今日は、その……調査だけ?」 「うん。区域の店舗を一軒ずつ回って、簡単な聞き取りをしてる。近いうちに住民説明会があるんだけど、案内、届いてる?」 「あ……回覧板で見た気はする。ちゃんと読んでなくて」 「時間あるときでいいから、目を通しておいてもらえると。この商店街、正直、対象区域の中心に近いから」 篤の口調が、少しだけ仕事の顔に戻った。有紗はその変化に、かすかな違和感と同時に、妙な安心も覚えた。個人的な感情のまま踏み込まれるより、今はそのほうが楽だった。 「わかった。読んでおく」 「じゃあ、また」 篤は小さく頭を下げ、店を出て行った。ドアベル
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第3話 事業者と住民代表

土曜日の午後、公民館の大会議室には、思った以上の人数が集まっていた。商店街の店主たちだけでなく、近隣の住民らしき顔ぶれも多い。パイプ椅子が隙間なく並べられ、正面のスクリーンには「〇〇駅前地区再開発事業 住民説明会」の文字が映し出されている。 有紗は、商店街組合の役員に頼まれ、急遽「若手代表」として前列に座らされていた。隣には、乾物屋の三代目である幼なじみの健太が、腕組みをして眉根を寄せている。 「有紗ちゃん、これマジで店なくなるかもって話だぞ」 「え、そこまで決まってるの?」 「いや決まってはないけど……とにかく雲行き怪しいって、うちの親父が言ってた」 ざわめきが収まらないまま、スクリーンの前に数人の担当者が並んだ。その中に、篤の姿があった。スーツにネクタイ、資料を抱えた立ち姿は、店で見たときとはまるで別人のように見えた。 「本日はお忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます」 司会役の年配の男性が挨拶を始め、続いて事業概要の説明に移った。駅前から続く商店街一帯を含む区域を、歩行者中心の再開発地区として整備する計画。老朽化した建物の建て替え、道路の拡幅、新しい商業施設の誘致──スライドが次々と切り替わっていく。 「対象区域には、皆さまの店舗も含まれております。詳細な補償や移転のスケジュールについては、今後個別に説明の機会を設けさせていただきますが……」 篤がマイクを受け取り、説明を引き継いだ。 会議室の空気が、一段と張り詰めた。 「補償って言うけど」 会場の後方から、誰かが声を上げた。 「うちは先代から五十年続けてる店だぞ。金で片付けられても困るんだよ」 「その通り!」 同調する声があちこちから上がる。篤は一瞬言葉に詰まったが、すぐに姿勢を正した。 「おっしゃる通りです。長く続けてこられた 店舗があることは、私たちも重々承知しています。ですから今回の計画では、可能な限り現在の営業を継続しながら──」 「口ではなんとでも言えるだろう」 健太が思わず立ち上がりかけたのを、有紗はとっさに袖を引いて止めた。 「健太、まだ話の途中だから」 「でも有紗ちゃん……」 「座って。聞いてから言おう」 有紗自身、内心は穏やかではなかった。フルール・アリサも対象区域に含まれている。母の入
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第4話 雨宿り

説明会から一週間、篤の姿を見ることはなかった。 有紗は店の仕込みをしながら、自分がどこかで彼を待っているような感覚に、時折戸惑った。あんな言い方をしたのだから、気まずくて当然だ。むしろ、もう店に来ないほうが自然なのかもしれない。そう思おうとするたびに、心のどこかがちくりと痛んだ。 その日は、朝から怪しかった空が、昼過ぎに本降りになった。有紗は店先の鉢植えを慌てて軒下に避難させていたところで、傘も差さずに走ってくる人影に気づいた。 「わっ、篤くん?」 「すみません、近くにいたら降られて……ちょっとだけ、いいですか」 篤はずぶ濡れの資料鞄を庇いながら、店先に飛び込んできた。有紗はとっさにタオルを差し出す。 「ばか、風邪ひくよ。奥、上がって」 「いや、店先で大丈夫。仕事中だし」 「濡れたままの人を店に置いとくほうが困るの。座って」 有紗は少し強引に、店の隅にある小さな作業台の椅子に篤を座らせた。タオルで髪を拭く篤を横目に、湯気の立つお茶を淹れる。手を動かしていないと、二人きりの気まずさに耐えられなかった。 「この前は、ごめん」 篤が先に口を開いた。 「有紗の言う通りだった。持ち帰ります、で終わらせるのは、無責任だったと思う」 「……ううん。わたしも、ちょっと言い過ぎたかなって、あとで思った」 「いや、言われて当然のことだった。俺、現場の人の生活のこと、頭ではわかってるつもりで、実は全然わかってなかったんだと思う」 有紗は湯呑みを篤の前に置いた。窓の外では、雨が商店街のアーケードを叩き続けている。 「篤くんって、変わってないね」 「そう?」 「昔からそう。ちゃんと自分が悪いと思ったら、ちゃんと謝る人だった」 篤は少し照れたように視線を逸らした。その仕草も、十年前と同じだった。 「有紗こそ、変わってないよ。というか……前より、はっきり物を言うようになった気がする」 「そうかな。昔は、言いたいこと全然言えなかったから」 言ってから、有紗ははっとした。十年前のことを、思わず 匂わせてしまった。篤の表情がわずかに動いたのを見て、慌てて話を逸らそうとした。 「あ、そうだ、この花、見て」 有紗はカウンターの端に置かれた小さな花瓶を指した。淡い紫色の小花が、いくつも束ねられている。 「これ、忘れな草っていうの。今日ちょうど仕入れたば
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第5話 東京にて

 東京都内、高層ビルの三十二階。窓の外には夕暮れの街並みが広がり、ビルのガラスに橙色の光が反射していた。だが、三浦かすみの視線はノートパソコンの画面に貼りついたままだった。  広報部のオフィスは、金曜の夜だというのにまだ半分ほど人が残っている。資料の締め切りが重なっている時期とはいえ、いつもより静かな空気が漂っていた。キーボードを叩く音が、やけに乾いたリズムで耳に残る。 かすみは資料の最終チェックを終えると、ふと隣の部署──都市開発一課のフロアに目をやった。篤のデスクは、やはり空いていた。  椅子の背もたれに掛けられたジャケットもない。机の端に置かれていたはずの水筒も見当たらない。まるで、ここ数日で彼の痕跡が少しずつ薄れていっているように感じられた。「三浦さん、桐生さんなら今日も現地出張じゃないですか」 通りすがりに声をかけてきた後輩の女性社員が、気遣うように微笑んだ。「ああ、そうだったね。ありがとう」 かすみは頷きながら、胸の奥で小さな違和感が膨らむのを感じていた。  篤が例の駅前地区の担当になってから、もう三週間になる。都市開発の部署では出張自体は珍しくない。だが、最近の篤は、明らかに様子が違っていた。 会話の途中でふと言葉が途切れることが増えた。  休日に連絡をしても、返信が来るまでの時間が少しずつ長くなっている。  先週、二人で会った時も、篤はどこか上の空だった。「ねえ、最近の担当区域、何か問題でも?」 そう尋ねた時、篤は少しだけ視線を逸らした。「いや、特には。ちょっと住民の反発が強くて、対応に苦労してるだけ」 その表情は、以前の彼と変わらないはずだった。  だが、かすみは長年広報という仕事柄、人の些細な変化を見逃さない訓練を積んでいる。  あれは、単なる仕事の疲れの色ではない。 かすみはパソコンを閉じ、コーヒーを淹れに給湯室へ向かった。  廊下の照明は夜モードに
last updateLast Updated : 2026-07-31
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