Chapter: 第十六話 交わらない体温 傾きかけた午後の陽光が、流れる車窓を白く飛ばしていく。 後部座席に山のように積まれたブランド品の紙袋が、車の揺れに合わせてかすかに擦れる音を立てていた。 助手席に座っていた|凜《りん》は、長時間の試着と極度の緊張によって、精神的にも肉体的にも疲労の限界を迎えていた。 アイスブルーのシルクのワンピースは肌触りがいいはずなのに、今は見えない鎖のように身体を重く締め付けている。 新品のパンプスの中で、熱を持って|浮腫《むく》んだ足を揉みほぐす。――早く、帰りたい。 無機質で冷たい、あのタワーマンション。それでも、今はあのキングサイズのベッドに身を投げ出したかった。 シートに深く身体を沈め、半ば放心しながら窓の外の景色を眺める。 しかし、流れていく街並みに、凜はふと違和感を覚えた。 六本木へ向かうはずの車は、まったく違う方角を走っている。「あの……」 思わず声が漏れた。「なんだ」 前を向いたまま、|理玖《りく》が短く応じる。「道、違いますよね。マンションは……」「まだやらないといけない事があるだろうが」 理玖の冷ややかな声が、車内の静寂を切り裂いた。「……え?」 凜の鼓動が、嫌な音を立てて早まった。「これから、『明京大学医学部附属病院』に向かう」 その言葉に、凜は弾かれたように顔を上げた。「病院って……まさか、お父さんに会うんですか……?」「当然だろ。これから毎月|莫大《ばくだい》な治療費を出してやるスポンサーとして、一言挨拶しておく義務があるからな」 淡々と告げられた理由に、凜の血の気がすっと引いていく。「でも、父は寝たきりで、それに……」「なんだ。親に俺を紹介するのは不満か?」 理玖がハンドルを握ったまま、ちらりと凜を|睨《にら》んだ。その|漆黒《しっこく》の瞳に
Last Updated: 2026-07-20
Chapter: 第十五話 飾られた人形 無音の車内。滑るように走る|漆黒《しっこく》のEVは、やがて休日の|喧騒《けんそう》に包まれた銀座のメインストリートへと滑り込んだ。 |理玖《りく》は銀座の一等地に構える百貨店の地下にある、VIP専用の車寄せに流れるような動作で車を停める。 待ち構えていたかのように、隙のないスーツを着た百貨店の外商担当と、数人のスタッフが足早に近付いてきて、|恭《うやうや》しく頭を下げた。「黒瀬様、お待ちしておりました。本日は奥様もご一緒とのことで、心より歓迎いたします」 『奥様』という言葉に、凜の胸の奥がざわつく。 外商担当が助手席のドアを開ける。 凜は震える足でパンプスを地面に下ろした。その瞬間――。「――おいで、凜」 頭上から降ってきたのは、耳を疑うほど甘く、優しい声だった。 車を降りた理玖が、凜の腰にそっと右手を回し、自身の身体へと引き寄せたのだ。「え……っ」 凜の口から、裏返った声が漏れた。 ワンピースの布一枚越しに密着した肌から、理玖の熱い体温が伝わってくる。「ほら、足元に気をつけて。履き慣れない靴で疲れただろう」 店員たちの前で完璧な|微笑《ほほえ》みを浮かべる理玖の顔を見て、凜は息を呑んだ。 これまでのような、冷酷な独裁者の顔はどこにもない。そこにいるのは、妻を深く愛し、慈しむ『完璧な夫』そのものだった。 突然の出来事に、頬が熱を持つ。――いつも、こうならいいのに……。 けれど、昨夜の理玖の言葉が脳裏に蘇った。『外では完璧で愛し合っている夫婦を演じろ』 凜は引き|攣《つ》りそうになる頬の筋肉を必死に動かし、店員たちに向けて「……今日はよろしくお願いします」と、口角を上げた。「さぁ、どうぞこちらへ。特別室をご用意しております」 外商担当に先導され、一般客のいない専用のエレベーターに乗り込む。 密室の中で、理玖は凜の腰に回した手を絶対に離そうとしない。それどころか、逃げ出さないとでも言
Last Updated: 2026-07-19
Chapter: 第十四話 ローズレッドの仮面「ごちそうさまでした」 |凜《りん》が小さく手を合わせて薄い皿を重ねた、その時だった。 静かな部屋に、無機質なインターホンの電子音が鳴り響いた。 |理玖《りく》は壁掛け時計を|一瞥《いちべつ》して、残っていたコーヒーを飲み干し、立ち上がる。「……遅かったな」 そう小さく呟き、理玖が玄関へと向かう。 |暫《しばら》くしてリビングに戻ってきた彼の背後には、見覚えのある人影が続いている。 凜をこのタワーマンションへ連行した、理玖の筆頭秘書、高遠|希美《のぞみ》だった。 昨夜と同じく、隙のないパンツスーツを着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばした希美の姿に、凜は反射的に肩を|竦《すく》めた。 今の自分は、理玖に与えられたサテン生地のパジャマ姿で、しかも化粧すらしていない。 だが、希美は凜の姿を見ても表情一つ変えることなく、深く一礼した。「おはようございます、社長。白鳥様。ご指示の品をお持ちいたしました」 淡々とした、ビジネスライクな声。 凜は目を伏せながら、小さくお辞儀を返す。 希美の手には、高級ブティックのロゴが入った黒い紙袋と、黒い小さなポーチが握られていた。「ご苦労。今日は出社しない。何かあったら連絡してくれ」「承知いたしました」 理玖が荷物を受け取ると、希美は再び一礼し、足音一つ立てずに部屋を後にした。 少し遅れて重い扉が閉まり、重苦しい空気だけが残された。 理玖は紙袋とポーチを、ソファ脇に置いた。「とりあえず、これに着替えて準備して来い」「……え?」 唐突な指示に、凜は目を|瞬《またた》かせる。「服を買いに行くと言っただろうが。俺の隣を歩くのに、化粧もせずパジャマのまま行くつもりか」 理玖の視線が、凜の化粧気のない顔を冷たく一瞥する。「とりあえず、今日着ていく最低限の分は高遠に手配させた。サイズは……我慢しろ」「でも、こんないきなり…
Last Updated: 2026-07-18
Chapter: 第十三話 無機質な朝 スマートフォンの目覚まし音に、|凜《りん》は重い|瞼《まぶた》を薄く開き、時刻を確認する。――遅刻する! スヌーズ機能で鳴り続けていた目覚ましを止め、飛び起きた。 だが、視界に飛び込んできたのは見慣れない風景だった。黒いシーツ。白い壁。 一瞬、凜の思考が止まった。 肌を滑るサテン生地の感触に、ようやく昨夜のことを思い出す。――今日、休めって理玖に言われたんやった……。 凜は反射的に隣を確認した。 だが、キングサイズのベッドの右半分は冷たく平坦なままで、枕には|皴《しわ》一つない。 ほっと小さく吐き出した息に、胸の奥がちりと|軋《きし》む。「……俺のものだって、言ったくせに」 無意識のうちにぽつりと口から零れた言葉を否定するように、頭を振る。 気密性の高い部屋に、空調の音すら響かない左耳がじんと熱を持った。 慣れないベッドのはずだが、寝起きの身体は妙に軽かった。ただ、思考だけが追い付かない。――服買いに行くって言ってたのに、仕事行かはったんかな。 慣れない部屋の、どこか冷ややかな空気の中をリビングへ向かう。 扉を開けた瞬間、凜の身体が固まった。 カーテンの隙間から差し込む朝陽の中で、ソファに|窮屈《きゅうくつ》そうに身を横たえる理玖の姿があった。「……凜」 かすかな呟き。聞き間違いかと思うほど小さな、けれど懐かしい響き。 凜は確かめようとして、吸い寄せられるように傍らへ歩み寄った。右耳を口元へ近付け、彼の顔を覗き込む。 静かな部屋に、凜の吐息と、彼の小さな寝息が重なった。 整った寝顔。昨夜のような冷酷さはなく、どこか幼さすら残るその姿に、また胸がちくりと痛んだ。「……何をしている」 突如響いた低い声に、凜の肩が跳ねた。 閉じていたはずの理玖の目が、鋭く凜を射抜いている。|咄嗟《とっさ》に逃げようとした手首を、熱い手のひらが逃
Last Updated: 2026-07-17
Chapter: 第十二話 広すぎる黒いベッド『これで、お前は俺のものだ』 |理玖《りく》の残した言葉が、大理石の床にいつまでも重く|這《は》い広がっていた。「こっちに来い」 理玖に命じられ、凜は鉛のように重い足を引きずって後を追う。 案内されたのは、メインの寝室だった。 広すぎる部屋の中央に、黒いシルクのシーツが掛けられたキングサイズのベッドが一つだけ、冷たく|鎮座《ちんざ》している。「この家にあるものは勝手に使っていい。風呂もな」 理玖が壁一面のクローゼットを開ける。 彼自身の高級スーツが整然と並ぶウォーキングクローゼットの中から一着を取り出し、凜に無造作に手渡した。 薄いピンク色の、サテン生地のパジャマだった。――なんで女物のパジャマが……。 指先に触れた滑らかで|艶《つや》やかな感触を、胸の前に抱きしめるようにして、ただ|俯《うつむ》く。 よく見ると、襟元にタグが付いたままだ。――新品のパジャマ……?「明日はお前の服を買いに行く。バイト先にもそう言っておけ。それと、そのパーカーも捨てろ」 混乱する凜には気もくれず、理玖はそう言い残して|踵《きびす》を返し、寝室を出て行こうとした。「あの……どこへ?」「俺はまだやることがあるから、お前は先に寝てろ」 理玖の手には、先ほどの『契約書』と、タブレットが握られていた。 慌てて理玖の背中を追いかけようとしたが、足が|縺《もつ》れた。 理玖は既に寝室のドアを閉めようとしている。「……おやすみ、なさいませ」 か細い声が、唇から零れ落ちた。 重厚なドアが閉じる直前、理玖がほんのわずかに振り返った。 その表情に、ほんの少し昔の|面影《おもかげ》を感じたのは、気のせいだろうか。 カチャリと冷たい金属音が響き、完全な静寂が落ちる。 分厚い扉一枚で|隔絶《かくぜつ》された薄暗い寝室に取り残された凜は、|艶《つや》やかなパジャ
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第十一話 歪な契約「お前は――俺のものになれ」 低く、地を這うような|理玖《りく》の言葉が、白と黒の大理石で統一された無機質なリビングに重く反響していた。 凜は息をするのも忘れ、目の前の男を見上げた。 理玖の鋭い視線と交わる。「……っ」 喉の奥で、ひゅっと乾いた音が鳴った。――断れば、どうなるんやろ……。これまで通り? いや、それも既に限界が近いことは分かってる……。 父の高額医療費を|捻出《ねんしゅつ》し続ける道など、最初からどこにも用意されていなかったのだ。 理玖の|漆黒《しっこく》の瞳が、凜を射抜いたまま離さない。 背後のドアを塞ぐ長い影が、凜の逃げ場を完全に消し去っていた。「返事は?」 理玖の声が、冷たい床に鋭く反射する。 凜はビクリと肩を跳ねさせた。「私と結婚、なんて……。やっぱり、おかしいです……」「おかしいのはお前の頭だ。いつまで意地を張るつもりだ? 今の生活が続けられると思ってるのか」 絶対零度の声が、凜のわずかな抵抗すらも切り捨てる。 左耳の奥に薄い膜が張ったように、全ての音が遠のいていくようだった。 脳裏に、病室の白い天井がフラッシュバックする。 |痩《や》せ細った父の腕。規則的な電子音。親友である|菜央《なお》の、心配そうな顔。 全てが頭の中を駆け巡り――凜の中で、八年間張り詰めていた糸が、音もなくぷつりと切れた。 これ以上、泥水をすすって|足掻《あが》く力など、もう一滴も残っていなかった。「……分かり、ました」 風に|掻《か》き消されそうなほど細い声が、大理石の床に力なく落ちた。 その瞬間、理玖の骨張った喉仏がわずかに上下した。 だが、彼の表情はすぐに冷徹な仮面へと戻る。「……なります。……あなたの、言う通り
Last Updated: 2026-07-13
Chapter: 117話 千年の桜(最終話)|龍泉《りゅうせん》神社の境内は、しん、と静まり返っていた。 雪解けの水音だけが響く中、突如として上空から光の風が舞い降りた。 風圧に煽られ、積もっていた雪が桜の花びらのように舞い上がる。その中心に、二つの影が音もなく降り立った。「……あ……」 拝殿の掃除をしていた|瑞白《みしろ》が、手にした桶を取り落とした。 カラン、と乾いた音が響く。彼女は目を見開き、腰を抜かしたようにその場へ座り込む。 視線の先には、兄である瑞礼と、その腰を抱いて支える、人ならざる美貌の男――緋宮がいた。「兄、さま……?」 瑞白の声が震える。兄が無事だったことへの安堵よりも先に、その隣に立つ圧倒的な存在への畏怖が勝っていた。白衣をまとい、金紅の瞳を持つその男は、美しくも恐ろしく、人の世の者とは思えなかったのだろう。「瑞白、怖がらないで」 瑞礼が緋宮の腕から離れ、妹の元へ駆け寄った。「俺だ、瑞礼だ。……約束通り、戻ってきたよ」「兄さまっ!」 瑞白は兄の胸に飛び込み、その温かさを確かめるようにしがみついた。「よかった……本当によかった……! でも、あの方は……?」 瑞白が恐る恐る視線を向けると、緋宮はふっと表情を緩め、穏やかに言った。「……驚かせてすまぬ。俺は緋宮。お前の兄の……連れ合いだ」「つ、れあい……?」 瑞白が目を丸くする。 その時、社務所の奥から出てきた老神職が緋宮の姿を見るなり、はっと息を吞み、その場に深く平伏した。「……まさか、伝説の龍神様ご自身であらせられますか」 震える声に、緋宮は穏やかに頷いた。 その言葉に、瑞白は息を呑んだ。「りゅう、じん…&helli
Last Updated: 2026-02-28
Chapter: 116話 雪解けの春 水の音がする。 ぽちゃん、ぽちゃんと、岩肌を伝う雫の音。 それはかつて、石室の|御井《みい》を想わせる絶望の響きだった。けれど今は、母の胎内にいるような安らぎを帯びて聞こえる。 気がつくと瑞礼は寝台の上に横たわっていた。 胸の傷口に、温かい手のひらが当てられている。そこから流れ込む熱流が、砕けた骨を繋ぎ、裂けた肉を塞ぎ、失われた血を補っていく。「……眠れ、瑞礼」 耳元で、愛しい声が囁いた。「傷など、俺が塞いでやる。目が覚めた時、痛みはすべて過去の雪解け水となって消えているだろう」 その声の主を確認しようとまぶたを持ち上げようとしたが、心地よい睡魔がそれを許さない。――ああ、暖かい。 芯まで凍りついていた身体が、春の日差しに晒された氷柱のように、溶かされていく。 瑞礼は抵抗をやめ、深く、長い眠りの底へと落ちていった。それは、この世に生を受けてから初めて味わう、本当の意味での安眠だった。* * * ふと、ひんやりとした感触で目が覚めた。 額に乗せられた濡れ布巾が、熱を持った頭を心地よく冷やしてくれている。 鼻をくすぐるのは、カビや湿気の臭いではなく、干したばかりの布団のような日向の匂い。 瑞礼はゆっくりと目を開けた。 見慣れた天井。緋宮と夜を過ごした、|龍ノ淵《りゅうのふち》の寝殿だ。 だが、かつてのような陰鬱な空気はない。部屋の隅々まで清浄な気が満ち、|几帳《きちょう》の向こうからは柔らかな水晶の光が差し込んでいる。「……お目覚めですか」 鈴のような声と共に、額の布巾が交換された。瑞礼が視線を向けると、そこには一人の侍女が控えていた。 この地に花嫁として訪れた日、寝殿を案内してくれた女。 だが、その姿は以前とは違っていた。 秀衡の屋敷で見た、あの泥にまみれた|悍《おぞ》ましい|傀儡《くぐつ》の面影はない。その身体は淡い光を帯び、どこか誇らしげで、そして嬉しそうに微笑んでいる。
Last Updated: 2026-02-27
Chapter: 115話 泥土の晩餐 猛吹雪の中、|秀衡《ひでひら》は後退った。顔からは血の気が失せ、唇は恐怖で青ざめている。だが、その眼光だけはまだ死んでいなかった。 長年、権謀術数渦巻く乱世を生き抜いてきた男の執念が、恐怖をねじ伏せている気配。「侮るなよ……! 儂はこの地の主ぞ! 畜生ごときに屈してたまるか!」 秀衡は両手を地面に突き立てた。 指先からどす黒い気が大地へと注入される。「起きろ! この地の底に眠る無念どもよ! 貴様らの怨みを形にせよ!」 地面が音を立てて隆起し、汚泥が噴き出した。 それはただの土砂ではない。腐った肉と脂が混じり合い、無数の人の手、人の顔が浮かび上がった冒涜的な濁流だった。地脈を穢して行使する外法。この土地そのものを人質にとった、秀衡の切り札。 泥の波が、鎌首をもたげた大蛇のように緋宮へ襲いかかる。鼻が曲がるような死臭が、雪の冷気を汚染していく。 だが、緋宮は動かなかった。 避けることもしない。ただ、冷徹な金紅の瞳で、迫りくる泥を見下ろしている。「……汚らわしい」 緋宮が指先を軽く振るう。 |鎌鼬《かまいたち》のような風が走り、泥の大蛇を真っ二つに切り裂く――いや、違う。 泥が、空中で停止した。 襲いかかろうとした形のまま、瞬時に凍結したのだ。無数の怨念の手も、叫び声を上げる顔も、すべてが氷の彫像へと変わり果てる。「なっ……!?」「次はお前の首だ」 緋宮の瞳孔が縦に裂け、人の形を保ったまま、その影が巨大な龍の形へと歪む。 圧倒的な捕食者の気配。 緋宮の手のひらに、蒼白い冷気の槍が形成される。それを放てば、秀衡の体は魂ごと氷砕され、永遠に輪廻の輪から外されるだろう。「ひっ、ま、待て……!」 秀衡は腰を抜かし、這いずって逃げようとした。 その背が、屋敷の板塀にぶつかる。「やめろ……! 儂はこの奥州を治めて
Last Updated: 2026-02-26
Chapter: 114話 龍の逆鱗「瑞礼……っ!」 緋宮の腕が、崩れ落ちる瑞礼の身体を抱き止めた。 その感触は夢ではない。確かな質量と、凍えるような冷気の中に混じる、焦げるような体温がそこにあった。「……ひぐう、さま……」 瑞礼は名を呼ぼうとしたが、喉の奥からごぼりと熱いものが溢れ、言葉を塞いだ。 視界が赤い霧に覆われていく。 自ら引き抜いた刃の傷口から、命がどくどくと流れ出しているのがわかる。左肩の刻印が放つ熱だけで、かろうじて魂を肉体に繋ぎ止めている状態だ。 指先ひとつ動かせない。 瑞礼は緋宮の胸に力なく頭を預けた。 耳元で、緋宮の心臓が早鐘を打っているのが聞こえる。それは恐怖の動悸ではない。千年の封印を内側から食い破り、噴出点を探して暴れ狂う、破壊神の脈動だった。「……しっかりしろ、瑞礼! お前はいつもっ……」 緋宮の声が震えている。 彼は瑞礼の胸の空洞を認めると、一瞬息を呑み、次いでその顔が能面のように凍りついた。 哀しみではない。それは、世界そのものを呪うような、絶対零度の憤怒。 緋宮がゆっくりと顔を上げる。 その金紅の瞳の先には、腰を抜かして後退る兵たちと、青ざめた顔で立ち尽くす|秀衡《ひでひら》の姿があった。「お、お前ら! あの二人を取り押さえよ! 龍神は手負いだ!」 秀衡が焦りを滲ませた声で叫ぶ。 だが、兵たちは誰一人として動けなかった。彼らの生存本能が警鐘を鳴らしているのだ。目の前にいるのは、手負いの獣などではない。決して触れてはならぬ天災そのものであると。「……貴様ら、もう許さん」 緋宮の声は低く、地獄の底から響く地鳴りのようだった。 ふっ、と周囲の音が消えた。風の音も、兵士の呼吸音も、すべてが凍りついたかのような完全なる静寂。 屋敷の庭の温度が一気に下がる。吐く息が白く凍り、瑞礼の流した血だまりが瞬時に赤黒い
Last Updated: 2026-02-25
Chapter: 113話 雪上の覚醒 - 第三世 ――しゃらん。 胸元の小鈴が、外界の音ではなく、魂の深淵で鳴り響いた。 その清冽な音色は波紋となり、死へと沈みかけていた意識を強引に引き上げる。 刹那、雷に打たれたような衝撃が、止まったはずの心臓を内側から殴りつけた。 鼻孔を満たしていた泥と鉄の腐臭が吹き飛び、肺腑に流れ込んできたのは、針のように冷たく澄んだ雪の匂い。 戦場の熱狂も、叫びも、燃える森の記憶も、遠い夢のように霧散した。 代わりに戻ってきたのは、胸を焼く灼熱の激痛と、血管を駆け巡る奔流のような生命の熱さだ。 瑞礼は、ゆっくりと目を開いた。 視界にあるのは、どこまでも白い雪空。 そして、数歩先で鎖に繋がれたまま呆然と立ち尽くし、頬を濡らしている緋宮の顔。 己の胸には、未だ白刃が深々と突き刺さっている。 心臓を貫いた刃は、確実に生命の糸を断ち切ったはずだった。肉体という器は壊れ、本来ならば、今は冷たい骸となっているはずだった。 ――だが。 瑞礼の意識は、かつてないほどに研ぎ澄まされ、冴え渡っていた。 どくん、どくんっ。 心臓が、破壊された肉の檻を叩き直すかのように、力強く脈打ち始める。 かつての蝦夷の里。泥にまみれた戦い。 不器用な龍神との口づけ。そして、冷たい淵の底で交わした、魂を焦がすような最期の約束。『龍ノ淵で……待っていて』 瑞礼の瞳に、誓いの光が戻った。 それは死に行く者の虚ろな光ではない。悠久の時を彷徨い、泥と血の底から這い上がり、ついに己が半身を見出した、揺るぎない覚悟の|赫灼《かくしゃく》たる輝きだった。「……ぐ、ぅ……」 瑞礼の口から、血の泡と共に呻きが漏れた。――死んでなるものか。 こんなにも長い間、緋宮を待たせたのだ。あんなにも暗く冷たい水底で、狂うほどの孤独に耐えさせたのだ。 ここで死んでしまえば、あの約定はどうなる。緋宮の千年の献身が、すべて無駄になってしまう。「……ほう」
Last Updated: 2026-02-24
Chapter: 112話 千年の契約 - 第二世 完 世界が、凍りついていく。 緋宮の口から吐き出される冷気そのものが、|龍ノ淵《りゅうのふち》の闇を切り裂いた。 それは慈悲なき断罪を思わせる白い光を放っていた。彼を中心に発生した冷気が物理法則を無視して爆発的に膨張し、崖上の朝廷軍までをも飲み込む。「ひっ、あ、あ……っ!?」「に、逃げろ! 退却だっ!」 逃げようと背を向けた兵士たちが、次々と氷像に変わる。悲鳴さえも凍結し、砕け散る。 崖の上で呪文を唱えていた陰陽師たちも、自らが展開した結界ごと凍りつき、玻璃細工のように崩れ落ちていった。 ――圧倒的な蹂躙。戦いですらない。神が、不敬な人間という種を間引きしているだけの、一方的な災害だった。「|虫螻《むしけら》どもが……滅びよ」 緋宮が冷徹に告げる。 その身体はすでに半ば龍へと変じていた。赤金の鱗が陽光を弾き、金紅の瞳がこの世のすべてを見下ろしている。 彼の腕の中には、事切れた瑞礼が抱かれている。その亡骸だけが、この凍てつく地獄で唯一、優しく守られていた。「我が半身を奪った報いだ。……この国ごと、氷の底に沈めてやる」 緋宮が片手を掲げる。 大気が悲鳴を上げた。上空に渦巻く猛吹雪が凝縮され、巨大な氷の塊――都市ひとつを粉砕できるほどの質量を持った隕石となって顕現する。 これを落とせば、胆沢の地は消滅する。いや、その余波は日ノ本全土を冬の時代へと閉ざすだろう。「待ってくれ……! 鎮まりたまえ、龍神よ!」 氷の嵐の中、ただ一人立っている男がいた。 |坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》だ。 彼は全身に氷柱をぶら下げ、弓を杖にして辛うじて立っていた。その顔には、初めて恐怖と後悔の色が浮かんでいた。「これ以上の殺戮は……瑞礼殿とて望んではおらぬはずだ!」 田村麻呂の必死の叫びが、暴風にかき消されかけながらも、緋宮の耳に届く。 緋宮は侮蔑
Last Updated: 2026-02-23