龍君の花嫁代わり

龍君の花嫁代わり

last updateDernière mise à jour : 2026-02-28
Par:  白蛇Complété
Langue: Japanese
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――千年の孤独が再び巡り逢いを呼ぶ。 北辺の霊峰・御影山の麓、禁域「龍ノ淵」には龍神が封じられている。 花嫁を捧げねば龍は怒り、この地は雪と災厄に沈む――。 蝦夷の血を引く青年・瑞礼は妹の代わりに贄となることを選んだ。 龍ノ淵へ身を投げた瞬間、彼を包んだのは氷より深く、焔より切ない光。 ――彼を待っていたのは、かつて己が愛した龍神・緋宮。 封印された龍と人として転生を重ねた青年。 愛と咎、祈りと断罪をめぐる三度の輪廻が時を越えて再び結ばれようとしていた。 飛鳥、平安、そして鎌倉。 幾千の雪を越え、瑞礼は祈る―― もう一度、あなたに巡り会えますように。 雪と炎の果てに交わる魂の物語。 ――宿命に抗う、龍と人の永遠の恋。

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Chapitre 1

1話 贄の花嫁

 沈む陽は血のように滲み、雲の裾を妖しく焼いていた。

 冬の空は燃え残る光を孕み、白雪の原をゆるやかに紅へと融かしてゆく。

 都の御代もかげりゆく頃、関を越えた北の果て、御影山みかげやまの頂にして、龍ノ淵りゅうのふちを望む断崖に――。

 斎宮いつきみや瑞礼みれは深藍の衣を纏い、ひとり、沈黙の中に佇んでいた。

 婚礼衣装は異様なほど重く、刺繍ししゅうの朱糸は氷を孕んだように冷たい。細い肩にのしかかるその質量はまるで己ではない、誰かの命を背負わされているかのようだった。

 指先は凍えて震え、血潮は膚の奥で静かに凍りつく。肉体そのものが不可逆の儀式へと供されてゆくのを、瑞礼は黙然もくぜんと受け入れた。

 冠の帳の向こう、世界は蒼く滲み、音だけが異様に澄み切って耳を打つ。

 遠く、古びた社の鐘が三たび鳴った。低く重く、その余韻は肺の底に沈み、魂を縫い留めた。

 背後に蠢く人々の影は誰もが視線を逸らし、祈る仕草の裏に青年の死を容認する冷酷な沈黙を隠していた。

 祭壇の足元には漆黒の淵が沈黙の口を開けていた。崖下では氷に封じられた湖が光を喰らうように広がっている。月も星も届かぬその水面は白く凍った膜の下でかすかに曇り、何かが呼吸するかのように蠢いている。それは――封ぜられし龍神の眠りの息であった。

 風が強まり、瑞礼の裾を宙に攫う。祭壇の石床には古代の文様が刻まれ、朱の液が血のごとく染み込んでいた。

 ――ざわ、と袖の奥で声が擦れた。

「今年は……官の兵がついてるぞ」

「女なら、いつものように……」

「……あれ、顔立ちは――男に見えはせぬか」

「しっ――口を慎め。御役目の前だ」

 しかしその囁きさえ、雪に吸われて消える。

 長老が杖を雪に突き立てた。囁きは吸い込まれ、白い息だけが宙に残る。甲冑の列がかすかに身じろぎし、瑞礼は裳《も》の端を指でたぐる。

「龍神の怒りを鎮めるため――俘囚ふしゅうの贄を捧げよ!」

 長老の声が天を裂く。祝詞であり呪詛じゅそであり、祝福であり断罪。その一声が瑞礼の命を此岸から彼岸へ送り出す刃となった。

――妹の代わりに、この地へ来た。

――たったひとりの家族を守るために。

 彼は視線を足元に落とす。布靴。かつて妹である瑞白みしろのために縫ったもの。針の先に込めた祈りも、指先を包むぬくもりも、本来は彼女の未来を祝福するためのものであったはずなのに――。

 今、その靴に足を通しているのは、自分自身。

 雪の中、ひざまずく少女の声が風に融け、かすかな嗚咽となって胸を裂いた。

「瑞白……どうか、幸せに……」

 その声は喉の奥に氷が詰まったようで、掠れて響いた。それでも、呼ばずにはいられなかった――たったひとり残された妹の名を。

 呼ぶ声のたびに胸の内側が静かに凍り割れていった。

 あの子は泣いていた。

「代わりなんて嫌……兄さま、行かないで」と。

 だが彼には選べなかった。あの小さな命を世界の歯車に呑ませることなど――できはしなかった。

 冠を深く引き下ろす。それは瑞白の命を継ぐ証のように重く、額を覆った。布の擦れる微音すら雪の静寂よりも重く胸に響く。

「目を閉じて。……何も見なかったことにしなさい。大丈夫、俺は怖くない」

 それはあからさまな嘘だった。

――怖い。今、この瞬間が。

 瑞礼は悟った。これが人として見る最後の景色なのだと。静かにまぶたを閉じる。

 その刹那、誰かの手が彼の背を突き飛ばした。

 風が耳を裂き、天地が反転する。すべての音が消え、世界は沈黙の棺に封じられる。死が迫る確信だけが胸の内を這い寄る。

「……これが、死か……」

 思考の最奥で冷徹な声が囁いた。

 骨が砕け、水に呑まれ、意識が凍りつく――はずだった。

 けれど崖下の岩も湖も、彼の身体を裂くことはなかった。

 風の中にひとすじの揺らぎが舞った。それは遠い夢の岸辺で一度だけ聞いた声に似て、甘く、そして痛いほど懐かしい気配を孕んでいた。その響きに抱かれるように瑞礼の身体はふわりと受け止められる。まるで氷の花弁に包まれるように、深い水に抱かれたかのように。

 ――次に目を開けたとき。

 雪は声を失い、風は静謐せいひつに縫い止められていた。彼は湖底へ沈むことなく、氷の裂け目に浮かぶ白い島の上に横たわっていた。

 頭上には星なき夜が広がり、けれど星よりも眩い光が散っていた。氷の天蓋は淡く光を透かし、無数の欠片が天の川のように瞬く。息を吸うたび冷気は花の香のように甘く胸を満たし、てる世界を夢のごとく柔らかに彩った。

 その島は現世に属さぬもののように淡く透きとおり、縁の薄氷がかすかな光を孕んできらめいている。

 瑞礼の周囲には同じような白い浮島が幾つも漂っていた。それらは闇の海に散らばる星々のように孤絶し、互いに手を伸ばすこともなく、ただ夢の断片のように浮かんでいる。それでも、息をするたびに胸が痛んだ。

 凍った湖面にはひび割れが走り、その下で赤と青の光が絡み合い、脈打つ心臓のように明滅している。それは村で語られた「封じの綻び」を思わせた。――わずかな亀裂から滲む光こそ、龍神の眠りが乱れ始めた兆なのだと。

 だが同時に、その光景は世界そのものが、ひとつの巨大な宝石であるかのように妖しく輝き、瑞礼はその美に酔いながらも、恐ろしくて目を逸らしたくなった。

 湖そのものが天空に漂う幻の大陸であるかのようだった。古代の幻夢げんむがひととき形を結んだかのように。――美はときに、死より深く人を縛る。

 その光景はこの世の理を逸していた。

 ――あまりに美しく、あまりに恐ろしくて、呼吸さえ夢の続きのようだった。

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1話 贄の花嫁
 沈む陽は血のように滲み、雲の裾を妖しく焼いていた。  冬の空は燃え残る光を孕み、白雪の原をゆるやかに紅へと融かしてゆく。 都の御代も翳りゆく頃、関を越えた北の果て、御影山の頂にして、龍ノ淵を望む断崖に――。  斎宮瑞礼は深藍の衣を纏い、ひとり、沈黙の中に佇んでいた。 婚礼衣装は異様なほど重く、刺繍の朱糸は氷を孕んだように冷たい。細い肩にのしかかるその質量はまるで己ではない、誰かの命を背負わされているかのようだった。  指先は凍えて震え、血潮は膚の奥で静かに凍りつく。肉体そのものが不可逆の儀式へと供されてゆくのを、瑞礼は黙然と受け入れた。 冠の帳の向こう、世界は蒼く滲み、音だけが異様に澄み切って耳を打つ。  遠く、古びた社の鐘が三たび鳴った。低く重く、その余韻は肺の底に沈み、魂を縫い留めた。 背後に蠢く人々の影は誰もが視線を逸らし、祈る仕草の裏に青年の死を容認する冷酷な沈黙を隠していた。 祭壇の足元には漆黒の淵が沈黙の口を開けていた。崖下では氷に封じられた湖が光を喰らうように広がっている。月も星も届かぬその水面は白く凍った膜の下でかすかに曇り、何かが呼吸するかのように蠢いている。それは――封ぜられし龍神の眠りの息であった。 風が強まり、瑞礼の裾を宙に攫う。祭壇の石床には古代の文様が刻まれ、朱の液が血のごとく染み込んでいた。 ――ざわ、と袖の奥で声が擦れた。 「今年は……官の兵がついてるぞ」 「女なら、いつものように……」 「……あれ、顔立ちは――男に見えはせぬか」 「しっ――口を慎め。御役目の前だ」  しかしその囁きさえ、雪に吸われて消える。 長老が杖を雪に突き立てた。囁きは吸い込まれ、白い息だけが宙に残る。甲冑の列がかすかに身じろぎし、瑞礼は裳《も》の端を指でたぐる。「龍神の怒りを鎮めるため――俘囚の贄を捧げよ!」 長老の声が天を裂く。祝詞であり呪詛であり、祝福であり断罪。その一声が瑞礼の命を此岸から彼岸へ送り出す刃となった。――妹の代わりに、この地へ来た。 ――たったひとりの家族を守るために。 彼は視線を足元に落とす。布靴。かつて妹である瑞白のために縫ったもの。針
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2話 氷湖の哭声
 幽玄。幻想。神秘。――そして、静寂だけが残った。 雪はいつの間にか息を潜め、風は凪いで、音さえその役を終えたかのように消えていた。世界そのものが呼吸を止め、ただ一人の来訪者を待ち構えているようだった。  青白い霧がゆらり、ゆらりと漂う。地と空の境を融かし、深海と星空をひとつに溶かしたような冷たき光を孕んでいた。  瑞礼はひとつの夢の奥に迷い込んだかのように、そこに立っていた。――この世に、もう自分ひとりしかいない。  そんな感覚が胸を抉る。 眼下に広がるは氷に閉ざされた湖。  音すら吸い込む湖底では、白く凍りついた膜の下に淡い紅の靄が揺らめいていた。まるで封じられた神の血脈が今まさに地の底で脈打っているかのように――。  死の中にあってなお、呼吸する何かの鼓動が氷の皮膜を曇らせていた。 湖底には幾枚もの婚礼衣装が沈んでいた。白無垢は百合のように、深紅は牡丹のように、金襴は菊のように、緑青は睡蓮のように――。褪せた彩りは水底に根を張った花々のように咲き乱れ、ひとつひとつが散りゆく命の残影を纏いながら、静謐の中でなお眩しく視界を覆った。  水のゆらぎが衣の裾を撫でるたび、花弁のようにひらめき、湖底はまるで極彩の庭園のように変じていた。 足元の氷の島にひとひらの裂け落ちた衣が流れ着いていた。白布は凍りつくことなく、まるで誰かのぬくもりをまだ宿しているかのように淡く光を吸い込んでいる。  瑞礼がその裂け目に落ちた一枚へと手を伸ばした瞬間――胸の奥に冷たき圧が走り、心臓が握り潰されるように脈打った。「……これらは、すべて……」 名もなき贄たちの――祈りの残響。この地に落とされ、花嫁として捧げられ、そして断たれた命の記憶。 風のないはずの空間にひとひらの声が混じった。『やめて……押さないで……』  雪に滲む墨のように朧な声。 『どうか……哀れみを……』  怒りも恨みも悲しみも超え、ただ無音の叫びだけを残した亡霊の響き。  瑞礼は身を竦め、視線を泳がせる。 霧の裂け目から半透明の人影がひとつ、またひとつと現れる。声を持たぬ口が動き、涙を知らぬ瞳が瑞礼を射抜いていた。泣き声。嘆き。祈り。そのすべてが責めるように、哀願するように重なり合った。 やがて―― 彼ら
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3話 龍神との邂逅
 沈黙のまま、時だけが凍りついたように流れていた。「やっと、来たな」と告げた男――石階の頂に立つその影はそれ以上言葉を紡がず、ただ瑞礼を見下ろしていた。 目を逸らしたい。だが、逸らせなかった。  紅を孕む金の瞳に射抜かれ、膝はかすかに震え、呼吸は浅く乱れた。思考は雪嵐のように舞い荒れ、身体だけが本能的に「ここにいてはならない」と警鐘を鳴らしていた。「……誰、なのです……」 かすれた声が喉から零れる。寒さのせいではない。胸奥に押し潰された恐怖と熱が、かろうじて形を紡いだ言葉に過ぎなかった。 男は応えない。ただ一歩、石階を降りた。――その一歩が世界の重心を傾ける。  瑞礼の心臓は跳ね、視界が揺らぐ。反射的に身を翻した。ここから逃げねば――もしかしたら生者として還れるかもしれない、と。しかし、氷上へ駆け出そうとした足は、見えざる力に絡め取られた。 胸が見えぬ糸に引かれた。いや、魂そのものを撫でる甘く、鋭い圧。瑞礼は足をもつれさせ、ふらりと――落ちた。 段差などない。だが空気が形を変え、瑞礼を抱き留めた。気づけば瑞礼は男の懐にいた。 抱擁ではなかった。だが、わずかに開いた腕の内側で確かに囲まれていた。男の手が一度だけ震えた。それでも指先は触れない。触れたいという願いだけが空気の密度となり、彼を包んでいるようだった。「……っ」 瑞礼は慌てて身を捩る。だが男は静かにその片手を取った。冷たい指。けれど、ぬくもりを待ち焦がれたような懐かしさが宿っていた。「……来い」 短く低い声。命令とも囁きともつかぬ、奇妙に抗いがたい響き。 瑞礼は抗う間もなくその手に導かれ、歩んでいた。ふと足元を見た瞬間、息を呑む。 ――氷の湖の上を、歩いていた。  透明な水鏡の氷面に影が映る。――いや、影ではない。瑞礼に似た人影がそこに立っていた。 ひとつ、ふたつ―― 髪の長さも、衣の色も、時機すら異なる。だが、確かに瑞礼の面影を宿していた。 影は目を伏せ、唇を閉ざし、ただ静かに佇む。その傍らには同じように、目の前を歩む男の影が寄り添う。恋人のように――あるいは、守護者のように。 喉がひとりでに鳴る。胸の奥で何かが崩れるように音を立てていた。「……これは、何なのですか……」 男は応えない。握る手の力をわずかに強め、石段に足をかけた。 やがて石階を上りきる
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4話 名を告げるもの
 扉が静かに閉じた瞬間、外の冷たさが断たれ、異様な静謐だけが空間を満たした。音さえ息を潜め、その静けさは目に見えぬ圧のように瑞礼の肌を包んだ。  瑞礼は思わず息を呑む。天井から垂れる白絹の帳、壁や柱に埋め込まれた水晶がほのかな光を放っていた。石と水で編まれた世界の中心に、人の宮廷めいた寝殿が不自然なほど静かに息づいている。 帳の向こうに数人の女がいた。――かつて花嫁として差し出され、この地に留まった者たち。 男は歩を止めず、背を向けたまま言った。 「ここへ連れて来られた娘は、みな世の外へ追いやられた。  途上で暴に晒され、辱められ、名を失い、そして淵に届かず果てた」 低い声が広間の虚を震わせ、灯火の揺れさえその響きに従った。「――それでも生き延びた者を、ここに迎えた。  彼女らを匿い、自由を与えた。今は守や侍女として、この殿に仕えてくれている」 女たちは言葉を持たず、ただ男を仰いだ。その瞳には怯えではなく、救い主への崇拝にも似た光が宿っている。虐げられ、地獄の運命を辿った末に、唯一この男の庇護だけが彼女らに残された安息であったのだ。――この男は怪物ではない。けれど、人ではありえない。  瑞礼は瞬いた。これが真実なら、村で語られた断末魔の像とはいったい何だったのか。安堵のはずが、胸の奥では氷と火がせめぎ合うように疼く。 湖に漂う声はこの男への怨嗟ではなかったのだ。――それは、世という名の理不尽へと放たれた慟哭。その叫びの残響がこの静寂の奥でまだ息づいている気がした。  瑞礼の喉はひとりでに鳴り、息が詰まる。 怪異と恐れられた龍神はいま目の前に在る。畏怖を越えた熱が瑞礼を貫き、胸の奥の氷をひとすじずつ溶かしていった。 布越しに指先が瑞礼の顎をかすめた。刹那、稲妻のような熱が走る。触れたか否かさえ定かでない。けれどその微細な距離に、世界のすべてが凝縮されたように感じられた。「……っ」 恥じらいと戸惑いが頬を染める。震える声で瑞礼は口を開いた。「あなたには……もう、多くの伴侶が……いるのでしょう」 金紅の瞳がわずかに細められ、一瞬だけ微笑が走る。それは冷笑ではなく、深い哀しみを孕んだ翳り。「伴侶……?」  低く反芻するように呟き、静かに首を振る。「彼女たちは救った。そ
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5話 鎖された記憶
「……時が、動き始めた……? それはどういう意味なのですか」 瑞礼は凍える声で問い返した。胸の奥で氷と炎がひたひたと絡み合い、不安と熱が静かに軋んでいた。 まだ床には侍女の亡骸が横たわり、闇に滲んだ黒の印がじわりと染み広がっていた。その死の傍らで、男は一片の悲嘆も見せぬまま静かに――あまりに静かに、「時間がない」と言ったのだ。 緋宮がゆるやかに視線を返す。金の瞳に宿る紅はまるで夕暮れに溶け残った血潮のようだった。静謐のうちに燃えるそれは、焦燥と宿命の影を深く宿している。「……封印が歪み始めている。奴らは、その綻びを縫い直し、再び俺を利用しようとするだろう」 その声音は凍てつくほどに冷たく、それでも奥には燃え残る怒りと焦りの火が蠢いていた。瑞礼には意味が掴めなかった。ただ、その響きは湖の底に広がる牢獄の嘆きのように思えた。「――都の者どもは、俺の力をいまだに政の具とするつもりなのだ」 緋宮の声は淡々としていたが、その底には深い憎悪と諦念が滲んでいた。 瑞礼はその言葉の意味を掴めぬまま、胸の奥に重い予感だけを残した。「政……? 都の者……?」 その問いは寝殿の湿った空気に溶け、やがて闇に飲まれて消えた。「瑞礼……おまえは――なにも、覚えていないのだな」 名乗った覚えなど、ない。この場に自分の名を呼ぶ者などいるはずがなかった。その一語に瑞礼の胸は強く波立ち、鼓動が喉を打った。「……なぜ……わたしの名を……?」 胸のうちに冷気と熱が奔る。戦慄にも似た震えと、遠い夢を思い出すような懐かしさが細胞の奥でせめぎ合う。「……まぁ、良い」 緋宮の唇にわずかな陰翳が射す。「お前は、今どのような暮らしをしているのだ?」 唐突な問いに、瑞礼はまばたきを繰り返した。だが緋宮の声は深い水底から響いてくるようで、抗うことなどできなかった。自然に唇がほどける。「……両親は、幼いころに亡くなりました。それからは、妹の瑞白とふたりで……互いに支え合いながら……」 語るごとに、雪に沈む村の情景が胸裏に降り積もっていく。囲炉裏の火は頼りなく、それでも寄り添って、布を縫い、湯気の立つ粥を分け合った夜々。瑞白の細い笑みだけがすべての冷えと孤独をやわらげてくれた生活。「けれど……村人たちは、
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6話 血と雪の記憶
 瑞礼の脳裏に村で幾度となく囁かれた言い伝えが甦る。 ――龍神は恐ろしい。怒れば山を裂き、血の雨を降らす。  ――龍神に嫁がされた花嫁は帰らぬ。魂までも、喰らい尽くされる。 幼き日の耳に刷り込まれたその物語は白雪より冷たく、闇より深い恐怖として骨髄にまで刻まれていた。 実際に飢饉が訪れ、田畑が灰のように枯れたときも。あるいは疫が流行り、子らの亡骸が雪の上に並んだときも。  人々はそれを龍神の怒りと恐れ、炎を掲げて火送りを行い、獣の血で雪を染めた。 煙と血の匂いが入り混じるその光景を、幼い瑞礼はただ震えながら見ていた。しかし祈りは天に届かず、血は大地に吸われるだけだった。それでも大人たちは、そうすることでしか災いを退けられぬと信じていた。 やがて成長した瑞礼はいつもその後始末を命じられた。斬り裂かれた獣の臓腑を雪から拾い、腐った肉を土に埋め、血の染みた藁を運ぶ。  凍える指にこびりついた鉄の匂いは幾度洗っても落ちず、夜ごと夢の底で再び鼻を刺した。 大人たちはそれを当然の務めとし、誰ひとり哀れむことはなかった。  幼い瑞礼の心には龍神への恐怖と共に、村から押しつけられた深い屈辱が刻みつけられていった。――村のため、龍神様のため……。  そう己に言い聞かせ、歯を噛み砕くほどに耐えてきた。 だが瑞白の名が告げられたその瞬間、瑞礼の支えは音を立てて崩れた。彼は長老の足元に崩れ落ち、必死に跪いた。「妹だけは……! どうか、妹だけは助けてください!」  白い息が夜に散った。涙は雪に触れて凍り、声は血を吐くように裂けた。 しかし長老は氷像のごとく動かず、ただ冷ややかに首を振るだけだった。 「掟は掟だ。龍神様に背けば、村は滅びる。それに……お上の命に抗うことなど叶わぬ」 その言葉に、瑞礼の胸は裂けた。村のために耐えてきた瑞礼を、村は一片たりとも顧みなかったのだ。長老も、村人も、誰ひとりとして妹を庇おうとはせず、冷たい雪のように沈黙し、背を向けた。 瑞礼の胸裏には絶えず瑞白の姿が去来していた。 ――あの子は無事に雪の闇を越えられただろうか。小さな背が闇に呑まれはしなかっただろうか。 旅立つ前、瑞礼は妹に告げた。 「平泉の在地領主の元を訪ねよ」  もうこの世にいない両親が
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7話 闇の御堂の契り
 時は1187年。 平家は壇ノ浦に滅び、都はなお雅を纏いながらも、その威は日に日に痩せていた。 院宣も詔も坂東の荒武者には紙切れにすぎず、後白河法皇は老獪な策を巡らせながらも、胸奥に頼朝の影を恐れていた。 その鎌倉では、頼朝が政を断ち始めていた。政所、問注所を置き、坂東一円を手のひらに握しつつ、その威は西国へ、そして北の奥州へと忍び寄る。 奥州はなお健在で、奥州藤原氏の長である藤原秀衡のもと、砂金と北の交易に支えられた独自の繁栄を誇っていた。平泉を治め、北方の王とも称された男である。豪胆にして沈着、戦よりも策を好むその気質は南都の貴族さえ一目置いていた。だがその繁栄もまた、頼朝の覇気の風に晒されつつあった。秀衡は「従うな」と家中に命じ、最後の均衡を保とうとしていた。 そして、その表の時代の水面下で、さらに深い闇の策が蠢いていた。* * * 夜の院。御所のさらに奥、所在を知る者すら限られた御堂。金泥の剥げた仏画は闇を孕み、香炉の煙は蛇のように身をくねらせながら、天井の闇へと溶けていく。 甕の水は墨のように黒く、泡が浮かんでは消え、水鏡にかすかな皺をつくっていた。 御簾の向こうに坐すは後白河法皇。朱衣の下、骨ばった指が数珠を弄ぶ。指節の鳴る音がまるで堂の影を操るように遅れて軋ませた。 その前へ藤原秀衡が膝を進める。武の香と土の匂いを纏い、眼は冷ややかに燃えている。「……贄の用意、すでに整え申した。これにて封は必ずや揺らぎましょう」「頼朝の影は、日に日に長うなっておる。院宣も詔も、すでに坂東の風には届かぬ。……世はもはや、儂の手のひらを離れた。――そなたの望み、すでに見えておる。――申せ」 法皇の声は低く、水際で返る波のように暗く響いた。その胸裏では京の威が日に日に痩せ細り、頼朝の影に飲まれる恐怖が脈打っているようだった。帝を戴く都も、いまやその光を保ちえぬほどに脆く見えた。
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8話 絡みつく視線
 瑞礼は水晶と蝋燭のほのかな輝きに導かれ、静まり返った寝殿の広間へと歩を進めた。ここには、朝も夕もなかった。柱に埋めた水晶が絶えず淡い光を宿す。月のように柔らかなその光が石の柱と几帳の縁を撫で、広間は夢の膜に包まれていた。 光に包まれた卓には質素ながらも整えられた膳が静かに並んでいた。焼いた根菜、ほろ苦い野蒜、湖で獲れた小魚の干物、そして麦と粟を煮た温かな粥。 侍女たちは瑞礼が膝を揃えるのを待ち、花のほころびのように笑みを洩らし、深く頭を垂れた。  ――彼女らはかつて龍の怒りを鎮めるため、村から差し出された贄の娘たち。  人々にとっては『犠牲となり、二度と戻らぬはずの命』だった。だがこの場所で畑を耕し、糸を紡ぎ、衣を織りながら、静かに日々を営んでいる。 その事実に胸が軋む。伝承の恐怖と現実の温が、氷と炎のように胸内で交わった。 匙に手をかけた瑞礼の目に、不意にひとつの皿が映った。――焦げ目の走る焼き栗。かすかな香ばしさが鼻をかすめた瞬間、胸の奥に遠い日が甦る。妹と分け合った、故郷の味。  龍ノ淵の底で、これに再び巡り会うはずはない。 「……どうして、こんなものが」  瑞礼の声はかすれて震えた。 緋宮は静かに箸を取り、金紅の瞳で瑞礼を縫いとめた。その眼差しは夜の湖面に映る炎のように揺らぎながら、どこまでも深い。 「お前は、昔からそれを好んだ」 瑞礼は息を呑んだ。妹にさえ告げたことのない、ささやかな好みだった。知り得るはずのない記憶が、この男の口からあまりに自然に紡がれる。 「……知っているはずが、ない」  歯で割ると甘い粉がほどけた。舌の上で栗が静かに溶け、遠い秋が戻る。瑞礼は胸の奥でひとつだけ名を呼んだ。声にはならない名を。 緋宮の唇に淡い微笑が浮かぶ。光を映したその笑みはぬくもりと同時に、抗えぬ異質さを孕んでいた。 「人の癖や好みは、幾度の時を経ても変わらぬものだ」 同席していた侍女のひとりが冗談めかして「緋宮様はよくご存じで」と笑った。また別の侍女が囁くように「瑞礼様が来られる日を、緋宮様はどれほど待ちわびておられたか」と洩らす。 瑞礼の頬は熱に染まり、慌てて粥をすくって口に運ぶ。懐かしい味が舌に広がる。しかし、緋宮の「変わらぬ」という一言が、味わいの底に苦い余韻を残していく。 
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9話 几帳の内、畏と火
 几帳の閉じられるかすかな音が瑞礼の耳に残った。 侍女は深く頭を垂れ、「どうぞごゆるりとお休みくださいませ」とだけ答えると、静かに下がっていった。 残されたのは緋宮とふたりきり。広間より狭いこの空間では灯の揺らぎに、彼の存在が息づくように濃く感じられた。 緋宮は几帳の傍らに腰を下ろし、衣の裾を整えると瑞礼を見やった。「恐れることはない。……取って食おうなどと思ってはいない」 瑞礼は唇を噛みしめた。「……ならば、教えてくれ。龍神とは、何なのだ」 声は震えていた。「村では、怒れば山を裂き、血の雨を降らすと語り継がれてきた。花嫁はその怒りを鎮めるために捧げられるのだと……。 だが、あなたは違うと言う。……あれは、ただの虚言だったのか?」 緋宮の瞳が静かに揺れた。「虚言ではない。人は飢えも疫も、すべて俺の祟りに仕立てあげた。そうして恐怖を祀り上げ、己らの行いを正当化してきたのだ」 低い声が灯火に滲む。「……いいだろう、すべて話そう」 緋宮は細く息を吐き、灯火を見つめながら言葉を継いだ。「その昔――まだ国が貌を得ぬ頃の話だ。俺は天と水を司る龍であった。だが若き日の俺は、あまりに奔放であった。大海を揺らし、嵐を呼ぶことを戯れのように繰り返した。 やがてその奔放は神々の目にも余り、俺はこの地に置き去りとされた……。祈りの声も風のざわめきも遠ざかり、残されたのはこの地の淵だけだった。 今となっては、若さゆえの驕りと笑うしかない。だがその隙を、人は逃さなかった。 飢えや疫も、すべて俺の祟りと呼ばれ、血で恐怖を鎮めようとした。……そのために俺を、この龍ノ淵に封じたのだ」 その声には自嘲のような照れが滲んでいた。「それだけならまだ良かった。――だが人は畏れよりも、
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10話 夢の残滓と土の匂い
 夜の静けさに飲み込まれたはずの瑞礼の意識は、いつしか別の景色へと落ちていた。 ――焚火の淡い光。 白布を纏った瑞礼は緋宮の肩に身を寄せた。外は風が荒ぶのに、その一角だけは深い静謐に守られていた。 緋宮の長い銀髪が頬に触れ、彼は穏やかに笑っていた。指先が瑞礼の髪を梳き、吐息が耳をかすめる。遠くで鹿の啼く声が聞こえた。篝火に白布がふわりと舞い上がる。 ――それは相愛の記憶。 次の瞬きで景は朱に染まった。 ――戦の轟き。 武装を纏った瑞礼は荒野に立っていた。空は曇天に閉ざされ、湿った風に血と鉄の匂いが混じる。 対峙するのは緋宮。その瞳はかつての優しさを宿してはいなかった。龍鱗を思わせる甲冑に光を纏い、冷たく瑞礼を見据えている。 叫び声、矢の唸り、地を震わせる蹄音――すべてが渦となり、瑞礼の胸を締めつけた。 剣を構えた腕が震える。それでも視線を逸らせなかった。 ――それは相克の記憶。 火と血の断片が交互に揺れ、愛と憎の境が滲む。 ――緋宮、いや、一柱の龍が天に向かって吠えた。 それは怒りでも、歓喜でもなく、ただ哀しみのみを伝える咆哮だった。空そのものが震え、曇天を裂くように声は広がり、瑞礼の胸を深く抉った。 瑞礼は声をあげようとした。――わたしはここにいる、と。 だが、夢の中の己の唇は音を結ばず、その叫びは赤と黒の影に呑まれ、虚空に吸い込まれていく。残ったのは耳鳴りのような沈黙だけ。 瑞礼は浅い眠りから目を覚ました。 夢の残滓がまだ胸の奥で渦を巻いていたが、隣にあったはずの気配はもうなかった。手を伸ばしても布団は冷えており、緋宮の姿はどこにも見えない。胸の内で赤と黒がまだ燻っていた。息を深く吸う。遠い水音が夢を現へ引き戻す。 几帳の外で静かに人の気配がした。 侍女が深く頭を下げて告げる。「緋宮様は淵の奥深くで、龍としての務めを果たしておられます。瑞礼様は、どうかご自由にお過ごしください
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