LOGIN恋人を庇った事故で右手に後遺症を負い、設計士としての夢を絶たれた降谷圭。 「一生面倒を見る」という恋人・宙の言葉を信じていたが、彼の裏切りによって、自分が大切にされていなかったことを知る。 宙のもとから逃げ出した圭が頼ったのは、大学時代の先輩・時田。海外で活躍する彼に保護される中で、圭は忘れていた初恋を思い出していく。 しかし、圭を失った宙は今さら執着を見せ始める。
View More利き手だった右手の古傷が疼く夜は、決まって嫌な予感がした。
降谷圭は、予定より一日早く出張から帰宅した。 ……それは深夜二時。 静まり返ったマンションの廊下で、右手首を無意識にさする。 三年前の事故以来、この手は冬の冷気や雨の気配に敏感に反応し、微かな震えを繰り返すようになっていた。 今日は朝から嫌な疼きが続いていた。出先でもどこにいても何度右手を握っても、落ち着かなかった。 (早く帰ろう) そう思った。 理由はなかった。ただ無性に宙の顔が見たかった。 駅で宙の好きな洋菓子店が期間限定で出店していた。甘いものはあまり食べないくせに、その店のフィナンシェだけは「これだけはうまい」と珍しく笑っていたことを思い出し、小さな箱を買った。 こんな時間ではもう寝ているかもしれない。 それでも朝になれば喜んでくれるだろう。 そんな些細なことを考えながら帰ってきた。 だが、リビングの扉を開けた瞬間、空気の重さが違うことに気づく。 床に脱ぎ散らかされた高価なジャケット。 その横には、見覚えのない派手なシャツが無造作に重なっていた。 まず鼻をつく甘い香水。そして寝室から漏れ聞こえる、熱を帯びた吐息と、肉体がぶつかり合う生々しい音。 圭は静かに目を閉じた。 ……やっぱり。 嫌な予感は、外れなかった。小さく息を吐く。 三年前。 倒壊しかけた資材から神山宙を突き飛ばし守った、あの日。 圭の建築家、デザイナーとしての未来は、粉々に砕け散った。 かつては一本一本の線にまでこだわり、誰よりも丁寧な図面を描いていた。 建物を使う人の生活を想像しながらデザインを考える時間が、何より好きだった。 だが今では、ペンを握るだけで右手は震える。 正確な図面どころか、一本の直線すら思うように引けない。 ラフスケッチさえ満足に描けなくなってしまった。 事故の翌日。白い病室で、医師から現実を告げられた。 「以前と同じような精密な作業は難しいでしょう」 その一言で、世界から音が消えた。 設計士になるためだけに生きてきた。 徹夜で図面を描き、賞を取り、努力を積み重ねてきた人生だった。 それが、一瞬で終わった。 何も言えず俯く圭の右手を、宙は強く握った。 「一生、俺が面倒を見てやる」 涙を滲ませながらそう告げた宙を見て、圭は心から救われた。 夢は失った。 それでも、この人と生きていけるならいい。 本気でそう思った。 その言葉を、一度も疑ったことはなかった。 だが。寝室の扉の隙間から見えたのは、残酷な現実だった。 圭を抱く時、一度としてキスをしなかった男。 少しでも声を漏らせば「うるさい」と突き放した男。 その宙が、見知らぬ男の項へ顔を埋め、愛おしそうに名前を呼び、隠そうともせず執着を滲ませている。 (……ああ、そうか) 胸の奥で、何かが静かに音を立てて崩れた。 (俺だけだったんだな) 宙は「男が嫌い」なのではなかった。 ただ、自分だけが違ったのだ。 自分を救うために未来を失った圭は、重荷でしかなかった。 恩を返さなければならない相手。 正視するたび罪悪感を思い出させる、不快な借金。 それ以上でも、それ以下でもなかった。 圭は静かに扉を閉め、ソファへ腰を下ろした。 膝の上で、制御の効かない右手がガタガタと震え始める。 左手で押さえ込む。 骨が軋むほど力を込めても、震えは止まらない。 (この手さえ……) この手さえ動けば。 設計士を続けられていたなら。宙はまだ自分を見てくれたのだろうか。 そんな卑屈な考えが浮かぶ自分を、いっそ殺してしまいたかった。 三十分後。 寝室の扉が開き、見知らぬ男が姿を現した。 男はソファに座る圭を見ると、勝ち誇ったように笑う。 「……相当溜まってたようだよ。あんた、そんな不自由な手じゃ、満足に奉仕もできないだろ?」 心ない言葉だけを残し、男は去っていく。やがてシャツを羽織りながら宙が歩いてきた。圭の姿を見ても、驚く様子はない。 「帰ってたのか」 低く、冷え切った声。 「ああ……宙、話がある」 「明日にしろ。疲れてる」 宙は圭の横を通り過ぎ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。 水を飲むその横顔には、罪悪感も、気まずさも、一欠けらもなかった。 「宙」 圭は立ち上がる。 震える右手を背中へ隠し、ゆっくりと息を吸った。 「別れよう」 水を飲む手が止まる。宙はゆっくり振り返った。 「……は? 今、なんて言った?」 「ここを出ていく。あんたとの約束は、もう終わりにする」 「ふざけるな」 圭は真っ直ぐ宙を見つめ返した。もう逸らさない。もう誤魔化さない。 三年間、言えなかった言葉を、ようやく口にする。 「……もう、疲れたんだ」パソコンのメールアプリに通知が出て圭は全てをログオフし、精算を済ませ慌てて外へ出る。 さっきまで室内にいたのだが外に出ると夜風は冷たく、右手首の古傷がじくりと疼いた。左手でそっと押さえながら視線を上げる。 すると漫画喫茶の前に止まったタクシーの後部座席から、一人の男が颯爽と降り立った。 「……時田先輩」 三年ぶりの再会だった。海外生活が長いせいか、以前よりも洗練された雰囲気をまとっている。上質なスーツに身を包み、革靴は磨き上げられ、手には海外ブランドらしい落ち着いた色合いのバッグ。 大学時代は「そのうち世界で仕事をする」と冗談のように笑っていた人だった。 その言葉を、本当に実現してしまったのだ。彼の言霊はすごい、そう思うほどだ。 だが彼が圭を見つめる眼差しだけは、学生時代と何一つ変わっていなかった。 「圭、待たせたね」 名前を呼ばれた瞬間、張り詰めていた糸が少しだけ緩む。 「……すみません」 口から出たのは、その一言だけだった。時田は何も言わず、ゆっくり圭の前まで歩み寄る。 そして、顔を覗き込んだ。 「……痩せたな」 返事はない。ごもっともではあるが。 「顔色も最悪だ。ちゃんと飯食ってるのか?」 圭は曖昧に笑ってごまかそうとした。しかし、その笑顔はあまりにも弱々しかった。 「他の体調はどうだ。ちゃんと眠れてるか?」 「……大丈夫です」 「大丈夫には見えない」 短く返される。時田の視線が、ふと圭の右手に止まった。 震えている。指先が、小刻みに。 その光景に時田の表情が固まる。大学時代、圭の右手は誰よりも繊細な線を引く手だった。図面を描き始めると何時間でも机に向かい続ける、あの右手。 それが今は、自分の意思とは関係なく震えている。 「……右手、まだ悪いのか。あれから3年経ってるだろ」 圭は慌てて左手で隠す。時田も3年前の事故のことは知っている。 「……大丈夫です。筋肉が少し疼くだけで……いつものことですから」 「……」 「本当に何でもないんです」 「何でもなくて、そんな顔になるか」 静かな声だった。責めるわけでもない。ただ、本気で心配している声だった。 圭は何も言えなかった。視線を落としたまま、小さく唇を噛む。 時田は小さく息を吐いた。
宙が鍵を握り締めたまま、何もない部屋で立ち尽くしている頃……。 圭はリュックを背負い深夜の街をあてもなく歩いていた。右手のせいで荷物は最小限になってしまったが後悔はない。しかしこの後どこへ行けばいいのか、自分でもわからない。 ただ一つだけわかっているのは、もうあの部屋には戻れないということだった。 夜風は思った以上に冷たかった。右手首がじんわりと疼く。無意識に左手で包み込むが、痛みは消えない。震えも自然と出てくる。そして振り返る。誰もいない。 それでも足音が聞こえるたび、宙が追い掛けてきたのではないかと心臓が跳ね上がった。 怖い、そんな感情が込み上げてくる。逃げてきたはずなのに、まだ自由になれないのかと。 するとタクシーが一台、目の前で止まる。 「お客さん、乗りますか?」 運転手に声を掛けられ、圭は立ち止まった。そんな偶然あるものかと思いつつも優しげな中年の運転手であった。 「……」しかし圭はどこへ行くのか。その問いに答えられない。行き先なんて、どこにもない。 「すみません……」 小さく頭を下げ、再び歩き出した。 「気をつけなよ、この辺ひったくりとかぼったくりのタクシーとかいるからよ。一人でウロウロしてると車にも轢かれるからな」 知らない人からそう声かけてもらえるとは思わなかったが自分は外から見たらそういう隙のない人間に見えたのであろう。気をつけなくては……圭は去り行くタクシーに軽く頭を下げた。 しばらく歩き続けた先で、二十四時間営業の漫画喫茶の看板が目に入る。さっきまでなかった無数のネオンに頭までもが痛くなる。こういうところを利用したのはいつのことだったろうか。宙と一緒になる前だろうか。 しばらくはなかったが系列のポイントカードとここの利用カードが紐づいていることを思い出した。だいぶ前に利用したことがあったものでデータも古いだろうがいけるだろうか。ここなら、しばらく身を隠せる。それだけで十分だった。 受付で会員証を差し出す左手が、小刻みに震えていた。使えるかどうか。 「はい、ありがとうございます。お部屋はどうされますか? シート、個室でしたらお一人様にお勧めできます」「……では個室で」 「かしこまりました。時間はいかがされますか?人気の朝までコースはいかがですか?」 「は、はい……」言われるがままで
寝室の空気は、重く澱んでいた。 ベッド横で、駆けつけた医者が静かに荷物をまとめる。その視線には、淡々とした仕事への自負と、目の前の「飼い主」に対する隠しきれない軽蔑が混じっていた。「……処置は終わりました」 宙の知人であるその医者は、深く眉を寄せ、寝椅子に座り込む宙を冷ややかに見下ろした。「身体もですが、精神的なショックの方が深刻です。今はただ、眠らせるしかない」 精神的。その言葉が、鋭い棘となって宙の胸に突き刺さる。 タバコを取り出す。手は震えるが何とかして火をつけ吸い、大きく吐き出した。 圭は、いつも静かだった。 この三年。無理やり自分の思い通りにし、そのたびに医者を呼んだことは一度や二度ではない。 行為のあとに圭が意識を失うことも、今さら珍しいことではなかった。 以前、医者に言われた言葉が脳裏をよぎる。『あなた自身にも問題があるのかもしれません』 宙は苛立たしげに眉をひそめた。(俺のせいだとでも言いたいのか) 最初からわかっていたはずだ。自分は愛しているなどと言ったことはない。 一生面倒を見るとは言った。 だが、それ以上のものを期待したのは圭のほうだ。 離れる機会だって、いくらでもあった。 それでも隣にいることを選んだのは圭自身だ。 だから、自分だけが責められる理由はない。(面倒なことになったな……) 小さく息を吐く。圭は昔から頑固だった。 何も言わないくせに、勝手に傷ついて、勝手に抱え込む。 今回だってそうだ。 別れようと言い出したのも、急に反抗し始めたのも圭のほうだった。 宙はベッドの上で眠る圭を見下ろした。青白い顔に閉じた瞼。 胸の奥が、僅かにざわつく。 だが、その違和感の正体には気づかないふりをした。(……どうせ、目を覚ませば元通りだ) これまでもそうだった。 少し時間を置けば、圭はまた何事もなかったように隣にいる。 そうやって三年間過ごしてきたのだから。 宙は無意識にベッドへ視線をやる。細い指先が目に入った。 一瞬、何かを確かめるように手を伸ばしかけて……止める。 すぐにその手を引っ込めた。別に心配しているわけではない。 ただ、医者が来るまでこのまま放っておくのも気分が悪いだけだ。 そう自分に言い聞かせながら、宙はソファへ腰を下ろした。 静まり返った部屋の中で、時計の秒
圭は一瞬固まったがスマートフォンを手に取り「時田先輩! 連絡待っていました……」 と声を発すると電話先から少し遅れて懐かしい低い声が聞こえてきた。『おう、圭! 元気してるか?』 その返事をしようとした圭の手元からスマホが取り上げられた。 そしてそのスマホは床に叩きつけられた。「そういうことか、この荷物を片付けてるのは他所で男ができたからか!!!」 圭はスマホをとろうとするがジリジリと近づいてくる宙の姿にうまく動けない。 右手も動かせれば……すぐ届いたのに。「ふざけんなよ」 地を這うような低い声とともに、宙は圭の細い手首を掴み上げた。「っ……! 離して、宙……」「嫌だね」 半ば乱暴に引き寄せられ、圭の身体がソファへと倒れ込む。 右手に鋭い痛みが走り、圭は思わず顔を歪めた。 だが、宙はその苦痛さえも所有の証であるかのように、さらに強く肩を押さえつけた。「お前、最近おかしいんだよ。急に別れるだの、荷物を捨てるだの……。そういうことか。全部繋がった……」 宙は思い出した。過去に時田を見たことがあった。圭が他の人よりもやけに馴れ馴れしく接してるのを見たことがあった。 自分には紹介されず、誰かわからなかったが圭が時田さん時田さんと何度も言いその時田という名字が頭の片隅に残っていた。 なるほど……と宙はニヤっと笑った。 次の瞬間、逃げ場のないソファの上で、圭は宙の体重に押し潰された。「っ、やめ……て、宙!」「黙れ。おとなしくしろ」 宙が圭の上に覆いかぶさる。自由に動かせるのは上半身だけだった。 圭は必死に左手で宙を押し返そうとした。だが、その細い手首は簡単に掴まれてしまう。 右手は震え、力が入らない。「宙……痛い……っ、やめて……!」「痛くて当然だろ」 低く落ちた声に、圭の肩が震えた。「お前が俺を怒らせたんだ」 宙の瞳は、少しも笑っていなかった。その瞬間、圭は本能的に悟る。 宙は怒っているのではない。怖がっているのだ。自分を失うことを。 だから、こんな形でしか繋ぎ止められない。 けれど、それがわかったところで、どうすることもできなかった。 これまでの圭なら、もう少し早く抵抗をやめていただろう。 少し荒っぽくても、宙が満足するなら。自分が我慢すれば、この人は落ち着くから。 そうやって、自分を納得させてきた。