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捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く
捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く
Author: 麻木香豆

第一話

Author: 麻木香豆
last update publish date: 2026-07-01 05:44:58

 利き手だった右手の古傷が疼く夜は、決まって嫌な予感がした。

 降谷圭は、予定より一日早く出張から帰宅した。

……それは深夜二時。

 静まり返ったマンションの廊下で、右手首を無意識にさする。

 三年前の事故以来、この手は冬の冷気や雨の気配に敏感に反応し、微かな震えを繰り返すようになっていた。

 今日は朝から嫌な疼きが続いていた。出先でもどこにいても何度右手を握っても、落ち着かなかった。

(早く帰ろう)

 そう思った。

 理由はなかった。ただ無性に宙の顔が見たかった。

 駅で宙の好きな洋菓子店が期間限定で出店していた。甘いものはあまり食べないくせに、その店のフィナンシェだけは「これだけはうまい」と珍しく笑っていたことを思い出し、小さな箱を買った。

 こんな時間ではもう寝ているかもしれない。

 それでも朝になれば喜んでくれるだろう。

 そんな些細なことを考えながら帰ってきた。

 だが、リビングの扉を開けた瞬間、空気の重さが違うことに気づく。

 床に脱ぎ散らかされた高価なジャケット。

 その横には、見覚えのない派手なシャツが無造作に重なっていた。

 まず鼻をつく甘い香水。そして寝室から漏れ聞こえる、熱を帯びた吐息と、肉体がぶつかり合う生々しい音。

 圭は静かに目を閉じた。

 ……やっぱり。

 嫌な予感は、外れなかった。小さく息を吐く。

 三年前。

 倒壊しかけた資材から神山宙を突き飛ばし守った、あの日。

 圭の建築家、デザイナーとしての未来は、粉々に砕け散った。

 かつては一本一本の線にまでこだわり、誰よりも丁寧な図面を描いていた。

 建物を使う人の生活を想像しながらデザインを考える時間が、何より好きだった。

 だが今では、ペンを握るだけで右手は震える。

 正確な図面どころか、一本の直線すら思うように引けない。

 ラフスケッチさえ満足に描けなくなってしまった。

 事故の翌日。白い病室で、医師から現実を告げられた。

「以前と同じような精密な作業は難しいでしょう」

 その一言で、世界から音が消えた。

 設計士になるためだけに生きてきた。

 徹夜で図面を描き、賞を取り、努力を積み重ねてきた人生だった。

 それが、一瞬で終わった。

 何も言えず俯く圭の右手を、宙は強く握った。

「一生、俺が面倒を見てやる」

 涙を滲ませながらそう告げた宙を見て、圭は心から救われた。

 夢は失った。

 それでも、この人と生きていけるならいい。

 本気でそう思った。

 その言葉を、一度も疑ったことはなかった。

 だが。寝室の扉の隙間から見えたのは、残酷な現実だった。

 圭を抱く時、一度としてキスをしなかった男。

 少しでも声を漏らせば「うるさい」と突き放した男。

 その宙が、見知らぬ男の項へ顔を埋め、愛おしそうに名前を呼び、隠そうともせず執着を滲ませている。

(……ああ、そうか)

 胸の奥で、何かが静かに音を立てて崩れた。

(俺だけだったんだな)

 宙は「男が嫌い」なのではなかった。

 ただ、自分だけが違ったのだ。

 自分を救うために未来を失った圭は、重荷でしかなかった。

 恩を返さなければならない相手。

 正視するたび罪悪感を思い出させる、不快な借金。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 圭は静かに扉を閉め、ソファへ腰を下ろした。

 膝の上で、制御の効かない右手がガタガタと震え始める。

 左手で押さえ込む。

 骨が軋むほど力を込めても、震えは止まらない。

(この手さえ……)

 この手さえ動けば。

 設計士を続けられていたなら。宙はまだ自分を見てくれたのだろうか。

 そんな卑屈な考えが浮かぶ自分を、いっそ殺してしまいたかった。

 三十分後。

 寝室の扉が開き、見知らぬ男が姿を現した。

 男はソファに座る圭を見ると、勝ち誇ったように笑う。

「……相当溜まってたようだよ。あんた、そんな不自由な手じゃ、満足に奉仕もできないだろ?」

 心ない言葉だけを残し、男は去っていく。やがてシャツを羽織りながら宙が歩いてきた。圭の姿を見ても、驚く様子はない。

「帰ってたのか」

 低く、冷え切った声。

「ああ……宙、話がある」

「明日にしろ。疲れてる」

 宙は圭の横を通り過ぎ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。

 水を飲むその横顔には、罪悪感も、気まずさも、一欠けらもなかった。

「宙」

 圭は立ち上がる。

 震える右手を背中へ隠し、ゆっくりと息を吸った。

「別れよう」

 水を飲む手が止まる。宙はゆっくり振り返った。

「……は? 今、なんて言った?」

「ここを出ていく。あんたとの約束は、もう終わりにする」

「ふざけるな」

 圭は真っ直ぐ宙を見つめ返した。もう逸らさない。もう誤魔化さない。

 三年間、言えなかった言葉を、ようやく口にする。

「……もう、疲れたんだ」

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