로그인「おはようございます、先輩……じゃなくて」 起きたばかりの圭は照れくさそうに笑う。「……海斗さん」 洗面所から出てきた時田は、すでにシャワーを浴び終え、身支度まで済ませていた。「おはよう、圭」 柔らかく笑う。「シャワー浴びておいで。その間に朝ご飯を作るから」「はい」 こんな朝が、もう二年も続いている。 以前なら想像もできなかった穏やかな日々。 それなのに昨夜は、また宙のことを思い出してしまった。 そのことが少しだけ申し訳なくて、圭は足早に浴室へ向かった。 シャワーを終えて戻ると、テーブルには朝食が並んでいた。 焼きたてのパン。温かなスープ。サラダにフルーツ、シリアル。コーヒーと牛乳まで用意されている。「……完璧」 思わず声が漏れた。明日は自分が少し早起きして作ろう。そんな気持ちになる。「ほら、立ってないで」「はい」 席へ着くと、海斗がじっとこちらを見ている。「……海斗さん?」「ん?」「さっきから笑ってますよね」「笑ってる?」「笑ってます」 海斗は照れたように頬をかく。「だって、名前で呼んでもらえたから」「それだけでですか?」「それだけで」 嬉しそうに笑う海斗につられ、圭も笑ってしまう。「でも会社では今までどおりですよ」「もちろん」「間違えて海斗さんって呼んだら大変ですし」「いや、それは困る」「どっちなんですか」 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。 オフィスへ着くと、いつものように英語が飛び交う。 すっかり慣れた光景だった。 間もなく珠那とのリモート会議が始まり、日本語が聞こえてくるだけで少し肩の力が抜ける。「ごめんなさい。完成まであと少しです」『急がなくていいわ』 画面越しの珠那は微笑んだ。『もうイメージは十分伝わってる。それに、あなたは最後までこだわる人でしょう?』「ありがとうございます」『それともう一つお願いがあるの』 圭は姿勢を正す。『実家から連絡があったのよ』 珠那は少し笑う。『勘当されたようなものだったのに、やっぱり親って放っておけないものね』 圭は静かに頷いた。自分の両親も同じだ。海外で頑張ることを応援してくれている。 それでも、本当は帰ってきてほしいと思っていることも伝わっていた。『父の土地に、日本一号店を出さないかって話になったの』「それって
リモートでの打ち合わせを重ねるたび、珠那の店舗デザインは少しずつ形になっていった。 もちろん仕事はそれだけではない。国内外から次々と依頼が舞い込み、圭のデスクには図面が積み重なっていく。 それでも不思議と左手は止まらなかった。以前よりも自由に、思い描いた線を描ける。「睡眠時間は削らない」 湯気の立つお茶を机へ置きながら、時田が圭の腕時計を操作する。 睡眠データが表示され、赤い警告マークが目に入った。「ほら。昨日も四時間しか寝てない」「分かってます。でも珠那さんの案件も大詰めですし、他の仕事も順調なんです。右手も最近はほとんど震えません」 そう言って右手を軽く握ってみせる。時田は苦笑した。「君は昔から走り出したら止まらない性格だったな」「そこが欠点なんですよね」 圭も照れ笑いを浮かべる。 学生時代は、思いつくままに何十枚もデザインを描いていた。 事故のあと。宙と暮らしていた頃は、そんな自分が嘘だったように何も描けなくなった。 描こうとするたび右手が震え、自分にはもう何も残っていないと思い込んでいた。 けれど今は違う。利き手は左へ変わった。それでも描きたいものは次から次へと浮かんでくる。「珠那さんも驚いていました」 圭が笑う。「聞いていた僕と全然違うって」 その言葉に、胸が少し痛んだ。 宙の周囲の人間は、自分を”宙の犬”、“言いなりの男”と呼んでいた。 否定はできない。あの頃の自分は、宙の機嫌だけを見て生きていた。 逆らえば拒絶される。応えれば必要としてもらえる。そう思い込んでいた。 今なら分かる。あれは愛情ではなく、支配だった。逃げられないように心まで縛られていたのだ。 それでも……。(どうして……) ふと宙の顔が浮かぶ。自分を押し倒した夜も。優しく髪を撫でた朝も。 良い記憶と悪い記憶が絡み合って離れない。(違う……戻りたいわけじゃない。もう二度と、あの頃には) それなのに胸の奥がざわつく。 穏やかな毎日。怒鳴り声もない。怯える夜もない。 本来なら、それだけで十分幸せなはずなのに。 身体のどこかが、あの張りつめた緊張に慣れきってしまっている。その違和感に、自分自身が戸惑っていた。「圭」 時田の声ではっと我に返る。「手が止まってる」「あ……」「今日はここまで」「でも……」「いいから」
応接室には珠那、圭、時田の三人だけが残った。 珠那の後ろには、長身の外国人男性が二人控えている。揃いのスーツに身を包み、隙のない立ち姿だった。「日本から来た私のスタッフよ。外で待っていて」 二人は静かに一礼すると、扉の外へ出ていった。 部屋に静寂が戻る。「急に押しかけてごめんなさい。アポイントもなしじゃ迷惑かと思ったんだけど……」「いえ」 時田は穏やかに首を振る。 一方の圭は、警戒を解いていなかった。(どうして、この場所が……) 珠那から差し出された名刺を受け取り、思わず目を見開く。 そこに記されていた名前は、『神山』ではなかった。 そして肩書きには、ジュエリーデザイナー。 圭はゆっくり顔を上げた。「圭さん」 珠那は柔らかな笑みを浮かべる。「あなたが日本を離れたあと、私と宙は婚約を解消したの」 窓辺へ歩み寄り、遠くの街並みを眺めながら静かに続ける。「……そう、だったんですか」 言葉に詰まる。「どうして、と聞かないの?」 少しだけ悪戯っぽく笑う珠那に、圭は困ったように笑い返した。「僕が聞くことじゃないと思って……」「構わないわ」 珠那は振り返る。「あなたが教えてくれたのよ。宙という人間が、私には合わないって」 その言葉に圭は息をのんだ。 あの日のパーティー。 宙の隣で穏やかに微笑んでいた珠那の姿が脳裏によみがえる。 あの人となら宙も変われるかもしれない。自分への執着も消えていくかもしれない。そう願っていた。 だが現実は違った。 胸が締めつけられ、右手がわずかに震え始める。すぐに時田が気づき、その手を優しく包んだ。「大丈夫か」「……ありがとうございます。大丈夫です」 そのやり取りを見て、珠那は小さく笑う。「あら、そういうことだったのね」 二人を交互に見つめる。「圭さんは、その方に支えられてここまで来たのね」「お世話になっているというか……」 圭が言葉を探していると、時田が一歩前へ出た。「圭は自分の意思で海外へ来た。俺はその手助けをしただけだ」 時田は穏やかな口調で続ける。「支えているつもりだったが、今では俺の方が何度も助けられている」 珠那は静かに頷いた。「いい関係ね」 そう呟くと、ソファへ腰を下ろす。「それと、どうしてここが分かったのか気になっているでしょう?」 圭と時田
一夜明け、モーニングのルームサービスを終えると、圭と時田は荷物をまとめ、ホテルの裏口から系列ホテルへ向かった。 移動中、時田はスマートフォンで誰かと連絡を取っている。 圭は周囲を見渡した。どこへ逃げても、宙が現れるのではないか。 その恐怖はまだ消えていない。 震え始めた右手を、そっと温かな手が包み込む。 時田だった。 何も言わない。ただ、その温もりだけで十分だった。 新しいホテルもまた格式高く、スタッフは何事もなかったかのように二人を部屋へ案内してくれた。 それでも圭の胸には申し訳なさが残る。(また迷惑をかけてしまった……) いつまでこうして守られ続けるのだろう。そんな思いが頭をよぎる。「先輩」 静かな部屋で圭は口を開いた。「今度、海外へ行く時……僕も連れて行ってください」 時田が驚いたように目を瞬かせる。「パスポートもあります。事故の前に更新していました。このまま日本にいても……また宙が追ってきます」 しばらく沈黙が流れた。時田は窓の外へ視線を向け、ゆっくりと言葉を選ぶ。「……本当は、最初から一緒に来てほしいと思っていた」 圭が顔を上げる。「仕事も一緒にしたい。その覚悟があるなら」 時田は圭の右手を見る。「そして、その手が治ると信じて治療を続けてくれるなら」 圭も右手へ視線を落とした。「明日の朝、紹介した医師のところへ行こう。診察を受けて、これからの治療方針を決める」 時田は少し笑う。「さっき電話していたのは、その件だ」「……先輩」「三年間、何もできなかった俺なりの償いだ。会社にも連絡して、海外勤務の準備を進めよう」 その言葉を聞いた瞬間、圭の頬を涙が伝った。 止めようとしても止まらない。ようやく未来が見えた。逃げるだけではない。治療をして、働いて、生き直せる未来が。 尊敬する時田の隣で。時田は何も言わず、圭の肩をそっと抱いた。 もう大丈夫。 その無言のぬくもりが、そう語っているようだった。右手の震えが少しだけ和らぐ。(治そう。この手を。先輩の隣で働くために) 圭は右手を左手で包み込み、小さく息を吐いた。 二年後。「Excellent.」 プレゼンテーションが終わると、会議室に拍手が響いた。「圭のデザインは本当に素晴らしい。AIにも真似できない表現だよ」 ビルオーナーが笑う
その頃ホテルの正面玄関では、一台の黒いセダンが静かに停車していた。 運転席には珠那が座っている。助手席のドアが乱暴に開き、宙が無言で乗り込んできた。 ドアを閉める音だけが車内へ重く響く。珠那はちらりと宙を見た。ネクタイは緩み、髪も乱れたまま。 目の下には濃い隈が浮かび、顔色も悪い。 あれほど身なりに気を遣う男とは思えない姿だった。 車を発進させながら、珠那は深くため息をつく。「……なんで私が迎えに来たか分かる?」 返事はない。宙は窓の外を睨みつけたまま黙っている。「ホテルから連絡があったのよ。」 珠那は淡々と続けた。「あなた、このままだと警察を呼ばれるところだったらしいじゃない。」「知らん。」 短く吐き捨てる。「そんなことより……」 宙はホテルを振り返った。「あいつ、まだあそこにいるのか。」 珠那はハンドルを握る手に力を込める。「……まだそんなこと言うの?」「……」「もういい加減にして。」 少しだけ声が強くなる。「なんで、あんな男にそこまで執着するの?」 沈黙。……しばらくして宙が低く呟いた。「……分からない。」「え?」「自分でも分からない。」 窓の外を見つめたまま続ける。「ただ……許せない。」「何が?」「俺の前から勝手にいなくなったことが。」 珠那は思わず息を呑んだ。「あなたが追い出したようなものじゃない。」「違う。」 宙は即座に否定する。「俺は追い出してない。」「散々傷つけておいて?」「……」「事故で助けてもらったのに、犬みたいに扱って。」「……」「他の男を家へ連れ込んで。」「……」「私との結婚まで決めて。」 珠那はハンドルを握ったまま首を振る。「それで逃げられたら、今度は必死に探し回るなんて……。」 小さく息を吐く。「自業自得よ。」「なんでだ!」 突然、宙が怒鳴った。珠那の肩がびくりと震える。「俺は捨ててない!」 ダッシュボードを拳で叩く。「捨てられてなんかいない!」 荒い息遣いだけが車内へ響く。珠那は言葉を失った。こんな宙を見るのは初めてだった。 冷静で、感情を表に出さず、仕事では誰よりも合理的だった男。 そんな彼が、子どものように感情をむき出しにしている。 信号待ちで車が止まる。宙はポケットから煙草を取り出した。窓を少し開け、火を点ける。 煙を
震え続ける圭の肩を支えながら、時田はホテルスタッフへ事情を説明した。 圭は自分の足で立とうとするものの、力が入らない。視線は虚ろで、呼吸も浅い。 スタッフは二人の様子を見るなりすぐに状況を察し、「こちらへ」と静かに頭を下げた。案内されたのは一般客の目に触れない従業員用の通路だった。 ラウンジとは反対方向へ続く静かな廊下を歩き、裏口側のエレベーターへ向かう。普段なら利用することのない裏動線。 圭は申し訳なさそうに俯いたまま歩いていた。 部屋へ戻ると、時田はカードキーで扉を開ける。「もう大丈夫だ」 その一言を聞いた瞬間だった。 張り詰めていた糸がぷつりと切れ、圭はその場へ膝から崩れ落ちた。「圭!」 時田は慌てて身体を支え、そのままゆっくりとベッドへ横にならせる。 肩はまだ細かく震えている。顔色も真っ青だった。「……すみません」 か細い声が漏れる。「まだそれを言うのか」 時田は苦笑しながら布団を掛けた。「今は何も考えなくていい。体を休めろ」「でも……ホテルの人たちにまで迷惑をかけてしまって……」「心配するな」 時田は穏やかな口調で言った。「ここは海外からの要人も利用するホテルだ。警備も対応も一流だし、こういうトラブルへの対処も慣れている」 圭は小さく首を振る。「でも……ロビーまで入り込んできたじゃないですか」「まぁ、それはそうなんだが」 時田は困ったように笑った。「だからこそホテル側も本気で動いてくれる。今は余計なことは考えなくていい」 圭は頷こうとするものの、動悸はなかなか収まらなかった。 胸が締め付けられる。目を閉じても、ロビーでスタッフへ詰め寄る宙の姿が浮かんでくる。 息が苦しい。震えが止まらない。 それでも、張り詰め続けていた身体は限界だった。 いつの間にか圭は眠りへ落ちていた。 それからどれほど眠っていただろうか。 目を開けると部屋は薄暗く、窓の外は夕焼け色に染まっていた。隣のリビングから時田の声が聞こえてくる。「……はい。ありがとうございます」 電話をしているらしい。話し方から察するにホテルスタッフだろう。 ほどなくして通話を終えた時田が部屋へ戻ってきた。「起きたか」 穏やかな笑みを浮かべる。「少しは落ち着いたか?」 圭はゆっくり頷いた。「ルームサービスを頼んでおいた