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Everain / 郁雨
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Novels by Everain / 郁雨

不惑の森

不惑の森

【幼なじみ】×【神隠し】×【閉鎖村】 ──深い森には〝魔〟が棲んでいる。 ある日、一人の少年が森へ踏み込んだまま、二度と戻らなかった。 「神隠しだ」と、寂れた村人たちは囁いた。 十年後―― 失踪した兄・春樹(はるき)の面影を追うように、弟の直樹(なおき)は故郷の村へ戻る。 そこで再会したのは、かつての幼なじみ・浩美(ひろみ)。 だが、兄と瓜二つに成長した直樹へ向ける浩美の眼差しは、まるで春樹を見ているかのようで――。 そんな中、森で一体の白骨死体が見つかる。 その骨は、誰のものなのか。 春樹か。それとも、直樹か。 〝神隠し〟の森で、疑念と執着が絡み合うミステリーBL。 ※暴力・犯罪描写を含みます。ご注意ください。
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Chapter: 17話
「あぶなかった……」|浩美《ひろみ》は|直樹《なおき》の腕を掴んだまま、安堵の息を漏らした。「危ないだろ。気をつけろ!」 「……浩美」直樹が、のろのろと顔を上げる。 今にも泣き出しそうなほど歪んだ顔だった。 浩美の胸元の服を掴む指先に、青白い血管が浮かんでいる。「おい、直樹。お前、おかしいぞ」そう言いかけた瞬間だった。とん、と肩口を押される。 力はほとんどなかった。 だが不意を突かれ、浩美の身体がわずかによろめく。その瞬間、掴んでいた腕がするりと抜けた。 目の前で、直樹の身体が枯葉みたいに穴へ吸い込まれていく。「直樹!」浩美は咄嗟に手を伸ばした。 だが指先は、|空《くう》を掴むだけだった。ドサリ。 鈍い落下音が、穴の底で響く。「おい、大丈夫かっ⁉」浩美は慌てて穴を覗き込み、そこでようやく息をついた。穴は数メートルほどの深さしかない。 直樹はその底に無事に着地していた。「待ってろ! 今助ける!」浩美は周囲を見回し、廃屋に転がっていたロープを掴んだ。「直樹、これに──」そこまで言いかけて、浩美は息を呑んだ。 穴の底で、直樹が膝をつき、夢中になって土を掻いている。──何やってるんだ?浩美は、その手の動きから目が離せなかった。 白い指先が、土にまみれていく。掘り返されるたび、〝何か〟が少しずつ露わになった。白い塊。 細長く、硬質なそれは──最初は木の枝かと思った。だが違う。 その先端は、不自然なほど滑らかだった。──骨だ。浩美は、一瞬息をするのを忘れた。 森から冷たい風が吹き抜け、毛穴ひとつひとつが粟立つ。「──浩美」か細い声がした。 浩美は、はっと我に返る。穴の底から、直樹がこち
Last Updated: 2026-06-27
Chapter: 16話
「なんだ?」空き地に響いた悲鳴に、|浩美《ひろみ》は顔を上げた。ガタンとボンネットが揺れる。 気づけば、腕の中にいた|直樹《なおき》が飛び出していた。「……おい、直樹っ!」華奢な背中が、森の茂みの向こうへ消えていく。 浩美は舌打ちすると、その背中をすぐさま追いかけた。直樹は、茂みを抜けた先の廃別荘群に立っていた。少し離れた場所では、観光客らしい男女がいた。 女性は地面へへたり込み、男の方はその肩を支えながら、不安げに周囲を見回していた。「一体、何があったんです?」浩美は駆け寄りながら声をかけた。 突然現れた浩美に一瞬身を強張らせた二人だったが、すぐに安堵したような顔を浮かべる。「それが……」男が青ざめた顔で前方を指した。その先には、直樹が立っていた。 こちらに背を向け、ただ足元を見つめている。視線の先には、大きな穴がぽっかりと口を開けていた。 穴の中から、湿った土の匂いが漂ってくる。「一体、何があったんですか? 先ほどの悲鳴は?」浩美が男女へ視線を戻した。「穴の中に……」女性が掠れた声を漏らす。 震える指は、まっすぐ穴の奥を指していた。「何か見えた気がして……覗こうとしたら、足を滑らせてしまって……」女性の顔は真っ青だった。 今にも倒れそうなほど怯えている。男が慌てて言葉を継ぐ。「ご迷惑おかけして、すみません」男は女性を抱き起こしながら頭を下げた。女性はふらつきながら立ち上がった。 だがその視線だけは、直樹の向こうにある穴へ釘づけになっていた。浩美は小さく頷く。「ここは開発途中で放置されている土地です。入口に『関係者以外立ち入り禁止』の看板があったはずですが」浩美は、穴の縁に立つ直樹をちらりと見た。 落ちかねないほど際どい場所にいるのに、本人は動こうともしない。
Last Updated: 2026-06-25
Chapter: 15話
「ふっ……」唇が重なり、吐息が溶け合う。 口づけの隙間から、〝それ〟が小さく笑った。その指が、からかうように|浩美《ひろみ》の髪をまさぐる。瞬間、浩美の理性がぶつりと切れた。 相手の身体を抱え上げ、そのままボンネットへ叩きつけるように押しつけた。〝それ〟は浩美の首へ腕を絡めたまま引き寄せ、さらに深く唇を重ねてくる。「んっ……!」下唇を甘く噛んだ瞬間、〝それ〟の喉から熱を含んだ声が漏れた。 その声だけで、浩美の身体に熱の波が走る。「お前が誰だか言わないなら、後悔することになるぞ」浩美が首筋へ歯を立てると、〝それ〟は小さく息を呑んだ。「最後までしたら……自然とわかるんじゃない?」吐息混じりの声。 同時に、〝それ〟の指先が浩美の首筋をゆっくりとなぞった。ぞくり、と背筋が粟立つ。 浩美は舌打ちしながら、相手の腰をさらに強く引き寄せた。「煽ってんのか」 「だって浩美、確かめたいんでしょ?」くすり、と笑う声。 その声音が妙に春樹に似ていて、浩美の呼吸が乱れた。気づけばシャツの奥へ手を滑り込ませていた。 指の下で白い肌が、ぴくりと震える。熱い。 指先に伝わる体温は生々しく、人間そのものだった。「……っ、浩美」名前を呼ばれた瞬間、喉がひどく渇いた。 〝それ〟の手が背中へ回る。浩美は衝動のまま、その唇へ噛みつくように口づけた。直樹はすぐに舌を受け入れ、熱を絡め返してくる。 荒い呼吸が、耳元で反響する。──これは、本当に誰だ?浩美は相手の唇を貪りながら、ぼんやり考える。春樹なのか。 直樹なのか。それとも──。ふと、ある考えが脳裏をよぎる。森には〝魔〟が住んでいる。 昔、神父様が聞かせてくれた話だ。故郷の森に棲む〝魔〟は、美しい青年の姿で人を惑わ
Last Updated: 2026-06-23
Chapter: 14話
「やっぱり……お前は──」|浩美《ひろみ》は何かを言いかけては、何度も言葉を飲み込んだ。「貴方は、|春《はる》さんの方だったんですね」口にした瞬間、堰を切ったように言葉が溢れ出す。「おかしいと思ってたんだ。貴方は|直樹《なおき》とは違う。似せようとはしてるけど……昨日だって、あの森で……」浩美は相手の両肩を強く掴んだ。「じゃあ直樹は……直樹は、一体どこにいるんですっ⁉」激しく揺さぶられても、〝それ〟は慌てなかった。 ただ、わずかに口元を緩める。「──さあ、ね」その瞬間、浩美の背筋がぞわりと粟立った。この、どこかすべてを諦めたような笑い方。 やっぱり、この人は春さんだ。「ねぇ、浩美」柔らかな声に、浩美ははっと顔を上げた。「前にも聞いたけど、君はどっちの方がいい?」〝それ〟の手が、そっと浩美の頬にかかる。 その指先は氷のように冷たい。「初恋の春樹の方がいい? それとも親友の直樹?」低く囁かれ、浩美の喉がひくりと震えた。「言ってよ。好きな方になってあげるから」 「やめ、ろっ……」浩美は片手で相手を押し返した。 だが、思うように力が入らない。一歩下がった〝それ〟は、降参、とでも言うように両手を上げた。「本気なんだけどねえ」あまりにも緊張感のない声だった。 その瞬間、浩美の中で何かが切れた。「春さん……っ!」衝動のまま、浩美は〝それ〟の腕を掴んだ。 そのまま相手の身体をボンネットへ押しつける。背中を強かに打った〝それ〟が、「痛っ」と短く息を漏らした。その顔を見た瞬間、浩美の身体の奥で熱がじわりと広がった。「クソッ!」浩美の拳が、直樹のすぐ脇のボンネットへ叩きつけられた。 ボン、と鈍い音が空き地に響く。「お前は一体……どっちなんだっ……!」
Last Updated: 2026-06-20
Chapter: 13話
瞬間、|浩美《ひろみ》はハッと視線を上げた。 目の前には、ゆるやかな笑みを湛えた|直樹《なおき》が立っていた。──いや、違う。浩美は大きく目を見開く。これは、直樹じゃない。──じゃあ、こいつは一体……?「どうして……?」ようやく絞り出した声は、ひどく乾いていた。 浩美は瞬きも忘れて、直樹を見つめる。「そのことを知ってるのは、俺と|春《はる》さんしか……」 「もちろん、知ってるよ」ふっと笑った直樹の吐息が、すぐ近くに落ちる。「|春樹《はるき》のことなら、何でも知ってる」ため息混じりに言うと、直樹は浩美の腕へそっと手をかけた。「それに、浩美の態度を見ればわかる。妙に俺と距離を取ろうとしてるし」浩美の腕に添えられた指先が、ゆっくりと肌に食い込む。「浩美は最初っから、俺を春樹に重ねてたんだよね?」細められた直樹の目が、蛇みたいに妖しく細められる。「──自分が抱いた、あの人に」 「……っ!」浩美は反射的に直樹の手を振り払った。「俺に近づくな」ごくり、と喉が鳴る。「あのことを知ってるなら……なんで俺に近づくんだ」引きつった笑みが、浩美の口元に浮かぶ。「また俺が、同じことをすると考えないのか?」笑おうとしているのに、うまく笑えていない。 浩美は、自分でもそれがわかっていた。「何をしてもいいよ」かすかな衣擦れの音。 気づけば、直樹がすぐ目の前まで迫っていた。逃げ道を塞ぐように、浩美の背後のボンネットへ片手をつく。「ねぇ、浩美?」耳元で囁かれ、浩美の肩がびくりと震えた。「俺がどっちか知りたいって言ってたよね?」その声は、森の奥から響く囁きのように静かで、甘かった。「なら試してみれば?」直樹は浩美の手首を掴むと、自らの胸元へ導いた。
Last Updated: 2026-06-19
Chapter: 12話
|浩美《ひろみ》は空き地へ視線を逸らした。「……村で過ごした記憶がないってのは、本当なのか?」 「本当だよ」|直樹《なおき》は、葉擦れに紛れるような声で答える。「まぁ、少しは覚えてることもあるけど」 「……じゃあ、あの日のことは?」 「兄貴がいなくなった日のこと?」直樹は、子どものような仕草でふるふると首を振った。「それなら、まったく覚えてない。残念だけど」浩美の喉から、乾いた笑いが漏れる。「そんな都合のいい話、あるのかよ。映画やドラマじゃないんだし」 「仕方ないだろ。周りのみんなが『忘れろ』『忘れろ』って、ずっと言ってたんだから。ほら、俺、素直な子どもだったし」冗談めかした口調。 その軽さが、逆に浩美を苛立たせた。それでも直樹は、他人事みたいに肩をすくめた。「カウンセリングで処方された薬の影響もあるかもね。安定剤とか睡眠薬とか。そのせいで記憶力が鈍っちゃったのかも」 「自分が春樹か直樹かわからなくなるくらいにか……?」直樹の目が、ゆっくり細められる。「ずいぶん、つっかかるね」ぬかるんだ草地を踏みしめながら、直樹はゆっくり浩美へ近づいていく。 ぐちゃ、と湿った音が足元で鳴った。「そんなに気になる? 俺がどっちなのか」直樹は楽しむように目を細めた。浩美は息を呑む。 相手がこれ以上近づかないように、手で遮る。しかし直樹はその顔を覗き込むように、さらに距離を詰めた。「もう一回聞くけどさ。浩美は、俺にどっちでいて欲しいわけ?」唇がゆるやかな弧を描く。「やっぱり春樹?」 「何を言って──」それ以上相手を直視できず、浩美は顔を背けた。 だが、耳元に直樹の吐息がかすかに触れる。「ねぇ、答えてよ」クスクスと笑う声に、浩美の全身が粟立った。「ふざけてる場合かよ!」相手の勢いに、直樹は一歩
Last Updated: 2026-06-18
白い檻

白い檻

——目を覚ますと、そこは閉鎖病棟だった。 自殺未遂で昏睡状態に陥っていた私は、すべての記憶を失っていた。 周りには、奇妙で不穏な者たちばかり。 曖昧なことしか語らない主治医の〝先生〟。 無表情な看護師の〝笑い犬〟。 そして、最も危険とされる隣の病室の男——〝王様〟。 彼は暴力と錯乱を繰り返す狂人のはずなのに。 「会いたかった」 そう言って優しく触れてくる彼に、記憶を失った私の心は揺さぶられる。 私は、なぜ死を選んだのか。 この歪んだ世界で、誰を信じればいいのか。 そして、〝王様〟は一体——何者なのか。 閉ざされた白い檻の中で、記憶と愛、そして狂気が交錯する。 記憶喪失BLサスペンス。
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Chapter: 番外編③
※「〝人形〟さん」軽やかな声が響く。「お兄様が言付けをしてきたの。この薬を飲んで、あなたが仮死状態になっている間に、逃げ道を確保するって」ベッドに座った私の前で、|樒《しきみ》が錠剤の瓶を差し出した。その眉はきつく顰められ、いかにも私たちを案じているようだった。瓶を握る手も、小刻みに震えている。しかし、私は気づいていた。彼女の言葉は矛盾だらけだ。穴だらけで風が通り抜けるような内容を、古典文学めいた大仰な枕詞で包み込んでいるだけに過ぎない。(しかし……)私は自分の手のひらにのった錠剤の瓶を見やった。元々は自室だった一号室。今の私は、そこに軟禁されている。脱出計画が〝先生〟にばれ、〝王様〟とは隔離された。私が〝王様〟を電気治療にかけなければ、ここからは出られない。そして〝王様〟も、私から電気治療を受けない限り、『外』には出られない。残された道は──もう、一つしかなかった。(でも、これなら……)白い錠剤。瓶に印字された英字。この薬が開発された際の治験報告が、頭に甦る。──過剰摂取による、精神の乖離。もし私が〝王様〟への想い──恋心というのだろうか?──を失ってしまえば、〝先生〟はもう彼に執着しなくなるかもしれない。そして、〝王様〟も私を気にかけることなく、一人でここを出ていけるかもしれない。(いや、もしかして──)そこで、考えるのをやめた。すでに離人症を患っている私が、この薬を飲んでどうなるかはわからない。可能性は未知数だ。それでも、今はこれに賭けるしかなかった。道は、すでに閉ざされているのだから。どうせ歩むのなら、この白い檻よりも、黒く先の見えない道を選びたい。ふっと、うな垂れた白バラの姿が、一滴の雫のように脳裏へ落ちた。(あの花は、どうなっ
Last Updated: 2026-02-19
Chapter: 番外編②
てっきり脱出に使える情報──〝先生〟の目の届かない逃げ道でも見つけたのだと思っていた。私たちは今、脱出経路を確保するため、それぞれが空いた時間を見つけては院内を探り歩いている。 もちろん、〝先生〟に気付かれぬよう、そっと。──二人で一緒に、『外』に行くこと。その思いだけが、私たちを突き動かしていた。〝王様〟の治療──という名の実験を通して、私は『外』の世界に興味を抱くようになった。街、電車、行き交う人々、学校、広がる畑、大きな空。 〝王様〟の口から語られる光景は、なぜかすべてが輝いて見えた。今までどんな本を読んでも、そんな気持ちにはならなかったのに。 彼の言葉を通して見る『外』の世界は──光に満ちていた。だからこそ、私は『外』へ行きたかった。 『外』は、本当にそれほどまでに輝かしいものなのか。それとも、私にとって輝かしいのは──別のものなのか。「〝王様〟。こんな無駄なことを報告する暇があったら──」私の不満を嗅ぎ取ったのか、〝王様〟が「そう、怒るな」となだめてくる。「……怒ってない。そんな感情は、私にはない」きっぱりと言うと、〝王様〟はふっとバラへ顔を向けた。「いずれ——お前にも、わかるよ。きっと……」遠い目をしながら、〝王様〟は白い花弁を見やる。「こんなところでも、綺麗なものは咲くんだな……」──綺麗なもの?私は、〝王様〟の指に挟まれた花弁を見つめた。 その指の間で、喉を鳴らす猫のように揺れるバラの花弁。なぜか、胸の奥にちりっとした苛立ちが走った。「どうせ、そのうち枯れる。こんな日の当たらない場所では」花を横目に見やり、私は平坦な声で言った。「そんなにそれが好きなら、持っていけばいい。枯れる前に鑑賞してやるのが、花の用途だろう?」〝王様〟は反論もせず、静かに頷いた。「でも、今はこうして生きている。こんな中でも。……このまま咲かせてやろう」
Last Updated: 2026-02-18
Chapter: 番外編①
——舞台は、私が目覚める数ヶ月前——春先の庭園。 まだ肌寒さの残る風が、わずかに膨らんだバラの蕾をやわらかく揺らしている。「こっちだ」庭園の一角。 有刺鉄線を覆い隠す梢のそばで、〝王様〟が手を差し伸べてきた。 私は、ためらいなくその手を取った。〝王様〟の口元が、ゆるやかに弧を描く。 これは、人が嬉しいときに浮かべる「笑顔」というものらしい。——そんなことを実感したのは、彼と会ってから初めてだった。この閉鎖病棟の患者は、日中なら病棟内を自由に出歩ける。 〝王様〟も最近は『実験』に協力的で、問題行動もないため、他の患者と同じ扱いを受けていた。〝先生〟の目を盗んで、こうして庭園を連れ立って歩くこともできる。「お前に、見せたいものがあるんだ」案内されたのは、病棟の裏手にある古びた温室の前だった。 鍵は壊れていて、誰も管理していない。「ここは……」私はつぶやいた。温室の存在自体は知っていたが、特に興味も用事もなかったため、これまで入ったことはなかった。「逃げ道を探しているときに、偶然見つけたんだ。昔は誰かが手入れをしていたのかもしれない」〝王様〟は私の手を引き、補強用のベニア板のすき間から身を滑り込ませた。砂の積もった床。割れたガラス壁。 朽ち果て、無造作に転がった鉢植えの植物たち──「これだ」〝王様〟は奥の一角にある花鉢を指さした。 そこにあったのは、一株の白いバラだった。茎は乾燥しきって茶色く退色し、葉もすべて落ちている。 しかし、その中で一枝だけが——花を咲かせていた。「変だろ? まだバラの季節でもないのに」〝王様〟は鉢の前に屈み込み、柔らかに咲いた花弁に指先で触れた。「狂い咲き、って言うんだっけか? こういうのを」 「……いや」私は首を振る。「それはオールドローズ——古来種の系統だから、この時期に咲いて
Last Updated: 2026-02-17
Chapter: 63話
「ただいま」相手の肩にそっと触れると、〝王様〟は数秒してから、ゆっくりと顔を上げた。 長い睫毛の奥で瞬いた目が私を見つめ、こくんと頷く。彼の症状は、少しずつ──だが確実に、良くなってきている。病院を抜け出してから、はじめは、言葉どころかこちらを見ることさえなかった。それが今では、わずかに視線を交わし、時おりではあるが、自分の意思を伝えようとする素振りも見せる。ふと、私は〝王様〟の膝に置かれたバラに目を留めた。 花びらがまだ開き切っていない、|五分《ごぶ》咲き。「それ、どこから取ってきたんだ?」私が尋ねると、彼は庭の一角を指さした。そこには、小さなバラの茂みがある。 私が休日に世話をしている、ワイルドローズなどの素朴で強い品種だ。一ヶ月前はこぼれるほどの花を咲かせていた。 けれどもう花の時期は過ぎ、茎は剪定してある。「……落ちて、いた」思わず、〝王様〟の方に目を向ける。 彼の口から自然な言葉が出たのは、久しぶりだった。普段は何も喋らず、こうして一日中、海を眺めているだけ。 反応を見せたとしても、私の言葉に頷くか、首を振る程度だ。(どうやら、今日は調子がいいみたいだ)私は彼の隣に腰を下ろし、白いバラへと視線を向ける。 咲ききる前に落ち、花壇の角に紛れていたのだろう。外側の花びらは塩風にさらされ、かさついていた。 けれど中心は、まだ瑞々しい色を残している。──生きているのだ。茎を離れ、地に落ちても。「強いな……その花は」思わず漏れた私の独り言に、〝王様〟がそっと手を動かした。 枯れた外側の花びらを丁寧に剥ぎ取り、残った蕾を私の白衣のポケットに差し込む。「あれ……」一瞬、何かの光景が脳裏をかすめた。 だが、その感覚はすぐに波が引くように消えてしまった。私が横を向くと、〝王様〟はもう正面を向き、海を眺めていた。
Last Updated: 2026-02-16
Chapter: 62話
あれから半年が経った。海辺の町にある小さな診療所。 その一室で、私は薄曇りの海を眺めていた。「雨が降りそうだねぇ」穏やかな声が聞こえて振り返ると、院長が資料室から出てきた。 白髪の頭をポリポリと掻きながら、ぼんやりとつぶやく。「本田さんのカルテが見つからないんだ。どこにやったっけ?」 「それなら、デスクの上に出してありますよ」診察台の横にあるデスクを指さすと、院長は声を上げた。「そうだった、そうだった。僕が用意しておいてって言ったんだった」院長はパタパタとつっかけの音を鳴らし、カルテを手に取った。 私は苦笑する。今、私はこの小さな医院のアシスタントとして働いている。 診療所の院長は気さくな老医師で、〝先生〟の名前を使った偽装の紹介文だけで、私を信用してくれた。週に数日、受付や記録の整理、時には簡単な診察補助も任されている。毎朝決まった時間に始まる静かな仕事。 人の少ない、小さな町。——穏やかな時間。私は最近ようやく、それを実感できるようになった。全てが、以前とは大違いだ。その時、手入れの行き届いた診療室の窓から、空を飛ぶカモメの声が届いた。 穏やかだが、絶え間ない波の音。(……彼も、今この音を聞いているだろうか)ふいにその姿が見たくなり、私は外履きのサンダルをつっかけた。「ちょっと、休憩に行ってきます」 「はいはい、そんなに急いで戻ってこなくてもいいからね」デスクに座った老院長が、窓の外を眺めながらぼやく。「天気予報によると、嵐になりそうだから。午後は誰も来ないでしょう」私は微笑んで頷き、正面玄関から外へ出た。医院の横には、雑草の生い茂った小道がある。 背の高い雑草に覆われ、一見すると道があるようには見えない。しかし、その先を進むと──私たちが暮らす借家がある。(……〝私たち〟)
Last Updated: 2026-02-15
Chapter: 61話
「ふふ、ふはははっ……!」たまらず、笑いがこぼれた。まだ──まだ残っていた。 〝王様〟の中に、かつての欠片が。私は鉄格子を握る拳に額を押しつけ、静かに微笑んだ。(すべて、計画通りだ)あの夜、保護房の中で、私は夜明けまで考え続けた。 考えに考え抜いた。どうすれば〝王様〟と引き離されずに済むか。 〝人形〟のように終わらずに済むか。〝人形〟は感情に呑まれ、我を失い、信じるべきでないものを信じたすえ—— 〝王様〟の手を離してしまった。でも私は違う。 同じ想いを抱いていたとしても、私の頭は残酷なほどに冷静だった。いくら時間がかかってもかまわない。 確実に、逃げ切る方法を──そう考え続けた末に、思いついた。 このシナリオを。忠実なフリをして〝先生〟の信頼を得て、彼が油断したその隙に、すべてを奪う。相手は、あの〝先生〟だ。 人に希望を与え、絶望へ突き落とすことにおいて、彼に勝る者はいない。 だからこそ、徹底的に信じさせなければならなかった。あの時、〝先生〟の手を取り、〝王様〟に電気治療を施したのも──そのためだ。彼は、気づいているだろうか? 私がその機械に、ほんのわずかな細工を施していたことを。おかげで〝王様〟は、完全な廃人にはならなかった。 発作を起こすだけの感情の残滓も、留めることができた。今、彼に与えている薬も同じだ。 ごくわずかに配合を変えて、少しずつ、ほんの少しずつ、彼の心が戻ってくるよう仕向けている。細工をするのは、簡単だった。 なぜなら、あの装置もこの薬も、元々は私が開発したものなのだから。〝先生〟程度の知能では、変わっていることにすら気づかないだろう。(本当に、愚かな男だ)〝先生〟は信じ切っているのだ。 〝王様〟のそばにいられれば、それで私が満足すると。『最後まで冷酷になりきれない』 それが、彼自
Last Updated: 2026-02-13
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