不惑の森

不惑の森

last updateHuling Na-update : 2026-06-27
By:  Everain / 郁雨In-update ngayon lang
Language: Japanese
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【幼なじみ】×【神隠し】×【閉鎖村】 ──深い森には〝魔〟が棲んでいる。 ある日、一人の少年が森へ踏み込んだまま、二度と戻らなかった。 「神隠しだ」と、寂れた村人たちは囁いた。 十年後―― 失踪した兄・春樹(はるき)の面影を追うように、弟の直樹(なおき)は故郷の村へ戻る。 そこで再会したのは、かつての幼なじみ・浩美(ひろみ)。 だが、兄と瓜二つに成長した直樹へ向ける浩美の眼差しは、まるで春樹を見ているかのようで――。 そんな中、森で一体の白骨死体が見つかる。 その骨は、誰のものなのか。 春樹か。それとも、直樹か。 〝神隠し〟の森で、疑念と執着が絡み合うミステリーBL。 ※暴力・犯罪描写を含みます。ご注意ください。

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Kabanata 1

1話

──暗い森には悪魔が住んでいる。

子どもの頃、村の大人たちは本気でそう言っていた。

「そこのお兄さん、乗っていかない?」

村へと続く林道を歩いていると、横を通り過ぎていったはずの車がバックし、すぐ脇に止まった。

メタリックなカマキリ色。

奇抜な車から顔を出したのは、見覚えのある男だった。

「──浩美ひろみちゃん」

「おい。いい加減、その呼び方やめろ」

ずっこける真似をした西原にしはら浩美ひろみは、気を取り直したようにサングラスを鼻先までずらした。

「で、どうする?」

まるで洋画のワンシーンみたいな気障きざな仕草。

だが華やかな顔立ちの浩美がやると、不思議と様になる。

「さて、お客さん、どちらまで?」

車に乗り込んだ途端、浩美がからかうように聞いてきた。

どうせ行先など一緒のくせに。

「M村まで」

「あいよ。安くしとくよー」

その口調は、会っていなかった十年間など、まるで感じさせないものだった。

変わってないな、と小さく笑う。

浩美は、派手な見た目に反して妙に人懐っこい男だった。

村にいた頃も、いつも人に囲まれていたのを覚えている。

(……俺とは真逆だ)

この十年で、自分はずいぶん色々なものを削ぎ落としてしまった。

愛想も、言葉も、人との接し方も。

「にしても、ホント久しぶりだな。十年ぶりくらいか?」

前方の道路に目を向けたまま、浩美が尋ねてくる。

「まぁ、そのくらい、かな?」

滑るように車が発進する。

それと同時に、浩美のお喋りも調子よく走り出した。

「そっか。でもそれなのに、いきなりどうしたんだ? 今まで全然帰ってこなかったくせに。つーか、ここって心霊スポットじゃん。白い服で林道をとぼとぼ歩いてるお前を見たとき、てっきりお化けかと思ったぞ。もうびっくりさせんなよ。ただでさえ変な噂が流れているのに。──それよりお前、今まで何してたの?」

ポンポンと切り替わる浩美の話題に圧倒され、すぐに反応できなかった。

「何って、別にたいしたことしてないけど……」

「ほう。それは所謂いわゆるニートという奴ですか? 確かお前今……二十──あれ? 何歳だっけ?」

無邪気な様子で、浩美が首を傾げた。

「二十──三だよ。そんなことより浩美、お前の方はどうしてるんだよ? こんな平日にプラプラして。人の心配をしている場合か?」

からかうように顔を覗き込むと、幼なじみはにやりと笑った。

「そりゃ、聞き捨てならんお言葉ですな。期待を裏切って申し訳ないが、ブラブラしているように見えても、俺は親父の秘書ってことで立派に働いてるの」

トントンと、指先で軽くハンドルを叩く。

「今だってこうして都内とここを行き来しながら、親父の付き添いしているわけだし。お前とは違うもん」

「もんって子どもかよ。俺よりも三つ年上のくせに。さすが市議会議員の二世様は違いますね。お気楽なこって」

嫌味たっぷりに言ったが、浩美は怒るどころか楽しげに笑い出した。

「浩美」という女みたいな名前は、政治家一家である彼の祖父と父が決めたらしい。

将来、浩美が選挙に出る時、目立つ名前の方が有利だから──という理由で。

つまり、子どもが生まれる前から、選挙ポスターだけは想定していたわけだ。

今聞いても、ぞっとする。

「でも、なんか『二世』って面と向かって言われるのも久しぶりだな」

浩美は、選挙ポスターというよりメンズ雑誌に載っていそうな笑顔を浮かべながら言った。

少し間を置き、独り言みたいに呟く。

「昔は直樹なおきに、よく言われてたけどな……」

その名前を口にした瞬間だった。

浩美の横顔から、ふっと笑みが消えた。

車内から、不意に音が消える。

フロントガラス越しに、交差点の信号が赤へ変わるのが見えた。

浩美はブレーキを踏むと、ハンドルに肘を乗せ、助手席へ顔ごと向けた。

「なぁ」

浩美がゆっくり口を開く。

「お前がここに来たのってさ、今日があの日だからか?」

色の薄い瞳が、射抜くようにこちらを見据える。

無意識に、喉がごくりと鳴った。

浩美は気づかないまま、話を続ける。

「俺はいつも、この日になると村へ帰ることにしてるんだ。昔、この森であんなことがあってから、ずっと」

ふっと浩美の声に影が差し、視線が窓の外へ逸れる。

「だからなんとなく、お前が今日帰ってきたのも、そういう理由なんじゃないかって思った」

一人で納得したように話す浩美を見て、思わず口を挟んだ。

「ちょっと待てよ、浩美。勝手に話を作るなよ。俺が今日ここに来たのはただの偶然だ。それに、お前が言ってる『あの日』って──……」

ハンドルを握りながら、浩美がなじるような声音で返す。

「お前、何言ってるんだよ?」

浩美の口元が、わずかに歪んだ。

「あの日って言ったら、一つしかないだろ」

一瞬、すべての音がなくなった気がした。

浩美の声だけが、車内に響く。

「──お前たち兄弟が、村から消えた日だ」

信号が青に変わると同時に、車が勢いよく発進した。

ほんの数分しか話していないはずなのに、妙に長い時間を過ごした気がした。

浩美は前方をきつく見据えたまま、続ける。

「十年前、お前たちは村からいなくなった。兄の春樹はるきは森に入ったまま姿を消し、残った弟の方も──」

浩美の抑揚のない声を聞きながら、背中に冷たい汗が伝い落ちる。

「その一年後、直樹も家族とともに行方をくらました。以来どちらとも音信不通。そしてお前は──」

首筋に浩美の鋭い視線を感じた。

「お前はどっちの方だ? 兄の春樹か? 弟の直樹か?」

浩美の声が、低く掠れる。

「一体、どっちなんだ?」

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1話
──暗い森には悪魔が住んでいる。子どもの頃、村の大人たちは本気でそう言っていた。 ※「そこのお兄さん、乗っていかない?」村へと続く林道を歩いていると、横を通り過ぎていったはずの車がバックし、すぐ脇に止まった。メタリックなカマキリ色。 奇抜な車から顔を出したのは、見覚えのある男だった。「──浩美ちゃん」 「おい。いい加減、その呼び方やめろ」ずっこける真似をした西原浩美は、気を取り直したようにサングラスを鼻先までずらした。「で、どうする?」まるで洋画のワンシーンみたいな気障な仕草。 だが華やかな顔立ちの浩美がやると、不思議と様になる。「さて、お客さん、どちらまで?」車に乗り込んだ途端、浩美がからかうように聞いてきた。 どうせ行先など一緒のくせに。「M村まで」 「あいよ。安くしとくよー」その口調は、会っていなかった十年間など、まるで感じさせないものだった。変わってないな、と小さく笑う。浩美は、派手な見た目に反して妙に人懐っこい男だった。 村にいた頃も、いつも人に囲まれていたのを覚えている。(……俺とは真逆だ)この十年で、自分はずいぶん色々なものを削ぎ落としてしまった。 愛想も、言葉も、人との接し方も。「にしても、ホント久しぶりだな。十年ぶりくらいか?」前方の道路に目を向けたまま、浩美が尋ねてくる。「まぁ、そのくらい、かな?」滑るように車が発進する。 それと同時に、浩美のお喋りも調子よく走り出した。「そっか。でもそれなのに、いきなりどうしたんだ? 今まで全然帰ってこなかったくせに。つーか、ここって心霊スポットじゃん。白い服で林道をとぼとぼ歩いてるお前を見たとき、てっきりお化けかと思ったぞ。もうびっくりさせんなよ。ただでさえ変な噂が流れているのに。──それよりお前、今まで何してたの?」ポンポンと切り替わる浩美の話題に圧倒され、すぐに反応できなかった。「何って、別にたいしたことしてないけど……」 「ほう。それは所謂ニートという奴ですか? 確かお前今……二十──あれ? 何歳だっけ?」無邪気な様子で、浩美が首を傾げた。「二十──三だよ。そんなことより浩美、お前の方はどうしてるんだよ? こんな平日にプラプラして。人の心配をしている場合か?」からかう
Magbasa pa
2話
沈黙が車内を支配する。「……俺は直樹だよ」そう言ったあと、直樹はたまらず吹き出した。 こんな質問をされるとは思わなかった。「当たり前だろ。兄貴──春樹は、あの日からずっと行方不明なんだから。残ってるのは俺しかいない」はははと笑うと、浩美もつられるように笑った。「そう、だよな……」けれど、その声はどこか弱々しかった。「それより、ちょっと仮眠していい? ここまで歩いてきたから、もうへとへとなんだ」答えを待たず、直樹は窓に頭を預ける。 どこまで行っても変わり映えのしない森が、車窓の向こうを流れていった。故郷の村は、市街地から車で一時間ほど走った、深い森の入り口にある。湖と山々に三方を囲まれた広大な原生林。──迷い込んだら、二度と出られない。そう恐れられる森の縁に、百人にも満たない小さな集落が張りついていた。 かつては林業で栄えた村も、時代の流れに取り残され、今は廃村寸前だ。直樹は、森の合間に見え始めた村を車窓越しにぼんやり眺めていた。直樹たち高谷家がこの村へ来たのは、十三年前だった。 木工職人の父。教師だった母。 そして十八歳の春樹と、十歳の直樹。村人たちは兄弟を溺愛した。 子どもの少ない集落にとって、二人は共有の孫のような存在だった。 外へ出れば、老人たちのくれる菓子でポケットがいっぱいになった。村人たちは信じていた。 これだけ多くの目に守られている子どもたちに、災厄など起こるはずがないと。しかし、起こるべきことは起こった。ある日、兄の春樹が森へ入ったきり帰ってこなかった。 村人が総出で探し、警察が山狩りをかけたが、何の手がかりも得られなかった。そして、その一年後。 いまだ行方知れずの春樹を残したまま、高谷家は逃げるように村を去った。以来十年。 村人たちも、ようやく高谷家のことを忘れ始めていた。──兄弟の一人が、こうして帰ってきたこともまだ知らず……。直樹は目を閉じた。 わずかに開いた車の窓から、湿った森の匂いが流れ込んでくる。※ 「へぇ、随分と綺麗なコテージだね。廃屋って言うから、どんなあばら家かと思った」思わず足を止めた直樹を追い越し、浩美が小さなポーチを抜けて玄関扉を開ける。「一応、手入れだけはしてあるけど、今は全然使ってないから。好きに使
Magbasa pa
3話
どれほどそうしていたのか、自分でもわからなかった。「直樹」不意に名を呼ばれる。 ハッと振り返ると、すぐ目の前に浩美がいた。知らないうちに、直樹は窓際まで近づいていた。 背中がひやりとガラスに触れる。すっと浩美の手が伸びてくる。一瞬身構える。 だが、その手は直樹の腕を軽く掴み、もう片方の手でカーテンを閉めただけだった。 まるで森の気配を遮るように。「直、って呼んでいいんだよな? お前はちゃんと直樹──高谷家の弟の方なんだよな?」浩美は真正面から直樹の顔をじっと見つめてくる。「……あ、あぁ」夢から引き戻されたような気分のまま、直樹は小さく頷いた。 短い沈黙のあと、浩美は「そっか」と呟いた。「俺さ、さっき林道でお前を見た時、本気で春さんが帰ってきたのかと思ったんだよ。──それこそ〝神隠し〟から」あまりに真面目な顔に、直樹は呆れたように息を漏らした。「〝神隠し〟って……まだそんなこと言ってるんだ。さっきも〝魔〟がどうとか言ってたし」その反応に、浩美の強張っていた表情が少しだけ和らぐ。「しょうがないだろ。ここ、年寄りばっかで妙に迷信深いし」そこで一度言葉を切り、浩美は窓の向こうへ視線を向けた。 閉じたカーテンが、かすかに揺れる。「それに」浩美がぽつりと漏らす。「春さん自身、そういう雰囲気あったからな。超然としてるっていうか、周りと少し違う空気を持ってるっていうか」直樹は視線を落とした。 カーテンの隙間から漏れる淡い光が、床に細長い帯を作っている。「浩美は……兄貴のこと、よく見てたんだな」 「当然だろ」即答だった。「この村の若い連中、みんな春さんのこと見てたと思うぞ。なんせ村一番の美人だったし」直樹は誤魔化すように大きく息を吐いた。 胸の奥に、じわりと苦いものが広がる。「……言っとくけど、俺の兄貴、男だからな?」 「知ってるよ。でもこの村、婆さんしかいないし。そりゃ春さんみたいな顔してたら目立つだろ」 「……はぁ」気のない返事を返しながら、直樹はふいに顔を上げた。「兄貴って、どんな顔だったっけ?」 「は?」浩美が首を傾げた。 大きく見開いた目で、直樹をしげしげと見つめる。「何言ってんだよ。あの人のこと、一番近くで見てたのはお前だろ? いつも
Magbasa pa
4話
「ちょ、とあんま、近寄んな」窓際まで追い詰められ、浩美の長い両腕が逃げ道を塞ぐ。 肩を押し返そうとしても、相手の体はびくともしなかった。「浩美、どけ」だが浩美は聞く耳を持たない。 さらに距離を詰めると、直樹の肩を掴んで強く揺さぶった。「いい加減、本当のことを言ってくれ。お前、本当に直樹なのか?」整った浩美の顔が、目の前まで迫る。「とてもじゃないけど信じられない。その顔も、仕草も……春さんにそっくりなんだよ」浩美の口元がひくりと痙攣した。「もしかしてお前……いや」浩美の喉仏がごくりと上下する。「……貴方は春さんなんじゃないですか?」何も答えない相手を見て、浩美はさらに詰め寄った。「答えて下さい。確かに貴方が春さんだとしたら、その姿は……あまりにもあの頃のままだ。でも、直だとしても、その目は──」責めるような浩美の物言いに、直樹は眉をひそめた。「目?」 「そうだ。貴方の目、ここの老人たちみたいなんだよ。時間に疲れ切ったみたいな目をしてる。春さんも時々、そんな目をしてたから……」浩美は相手の目の奥まで覗き込もうとするように、さらに顔を寄せてきた。 互いの息が、至近距離で触れ合う。このままでは、心臓の音まで聞かれてしまいそうだ。 直樹は浩美の胸を押し返すと、ふっと嘲るように笑った。「浩美は……どうやら直樹より、春樹の方に帰ってきて欲しかったみたいだな」降参、とでも言うように両手を上げる。「でも残念。俺は春樹じゃないよ。がっかりさせてごめんね?」薄く笑いながら、窓についた浩美の手首へそっと指を這わす。 途端、浩美が弾かれたように手を引く。「おい、なんでそんなに手が冷たいんだ。まるで死体──」そこまで言いかけて、浩美ははっと息を呑んだ。 ふらりと一歩下がり、額を押さえる。「……ごめん、直。俺、変なこと言った。今のは忘れてくれ。急にお前が帰ってきたから、ちょっと混乱してて……」髪を掻きむしる浩美に、直樹は弱々しく笑ってみせた。「いや。いいよ、浩美。わかってるから」直樹はそっと視線を逸らした。 閉め切れていないカーテンの隙間で、森の影が微かに揺れている。「……俺だって兄貴があんな消え方してから、ずっと混乱してた」一瞬の沈黙を埋めるように、窓枠がカタカタ
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5話
「じゃ、今日はこれで。──あ、そうだ、これ」コテージの玄関で、浩美が振り返った。 ポケットを探り、何かを差し出してくる。「ここの鍵だ」掌の上にあったのは、二つの鍵だった。 開きかけのドアから差し込む夕焼けの中で、鈍く光っている。直樹はそれを受け取り、ふと眉をひそめた。「ありがとう。でもこれ、合鍵までついてない?」持ち上げると、同じ形の鍵がチャラリと乾いた音を立てる。 直樹は片方をホルダーから外し、浩美へ差し出した。「一つは浩美が持ってた方が──」 「いや、両方お前が持っててくれ」浩美はそう言って、拳で玄関のドアをコンコンと叩いた。「わかってると思うけど、戸締りはちゃんとしろよ。誰が来ても簡単に開けるな」一拍置いて、低い声が続く。「……もちろん、俺でもだ」直樹は首を傾げる。「お前まで? ここ、お前の家なんだから勝手に入ってきても別に──」パチン、と浩美が目の前で指を鳴らす。「なんでもだ。今言ったこと、絶対守れよ」 「え……」返答に詰まる直樹を見て、浩美はふっと表情を崩した。「ま、運転手が必要になったら連絡してくれていいからさ。じゃ」だが、浩美は一歩も動くことなく、玄関に立ち尽くした。 「浩美?」呼びかけると、浩美はためらうように目を上げた。「あと、これはガキの頃から、聞き飽きたかもしれないけど」浩美の声が低くこもる。「夜は外に出るな、森に呼ばれるぞ」浩美は、そのまま背を向けて出ていった。 バタン、とドアが閉まり、コテージに静けさが戻る。直樹はしばらく玄関を見つめていたが、やがてリビングへ移動すると、森に面した窓のカーテンを開けた。赤黒い夕焼けが、ゆっくりと森に呑み込まれていく。「……ん?」ふと、視界に何かが入った。浩美だ。
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6話
夢を見る。 いつもの夢だ。森の中を、ひたすら走っている。 暗く、深い森を。視界の端を、白いものがよぎった。 白いシャツの華奢な背中が、木々の間をすり抜けていく。 風のように軽やかに。──あれは。「兄貴っ!」影がふっと振り返った。 だが、風に乱れた髪が顔を覆い、その表情までは見えない。白い影はそのまま森の奥へ駆けていく。 枯葉を踏み砕く音だけが、やけに大きく響いた。その時だった。「待ってっ! 兄貴っ!」背後から声がした。 後ろの木立の向こうから、もう一人の子どもが走ってきた。今にも泣き出しそうな顔。 見覚えのある姿に、直樹は息を呑んだ。──あれは、直樹だ。子どもの顔は、小さい頃の自分にそっくりだった。 兄を失った、あの頃の。直樹は弾かれたように前を向いた。 だが、先ほどまで追っていた白い影は、もうどこにもない。胸の奥がざわつく。 恐る恐る、後ろを向き直る。子どもはすぐ後ろまで来ていた。 汗に濡れた顔で荒く息をつきながら、まっすぐこちらを見上げている。「兄貴……」刹那、風が吹いた。 自分の上着の裾が大きくはためき、視界いっぱいに白いシャツが広がる。──そこで夢は途切れた。※ゆっくり目を開ける。 夢と現実の境界が曖昧で、しばらく体が動かなかった。 浩美と別れたあと、いつの間にかソファで寝てしまったみたいだ。嫌な汗をかいていることに気づき、直樹は逃げるようにキッチンへ向かった。 コーヒーを淹れながら窓の外を見る。いつの間にか空はすっかり暗くなっていた。 遠くの集落の灯だけが、ぽつぽつと夜に浮かんでいる。(……また、あの夢か)シンクの端に手をつき、大きなため息をつく。 体と頭がひどく重く感じた。
Magbasa pa
7話
直樹は思わず足を止めた。 振り返った影の顔は、兄にしては幼すぎた。(あれは──)「……直、樹?」足を緩めた隙に、子どもは木立の奥へ消えていた。 葉をかき分ける音だけが、徐々に小さくなっていく。自分の粗い呼吸音だけが鼓膜に響く。あの子は誰だ? なぜ、昔の自分と同じ顔をしていた?直樹は、泥と血で汚れた手で髪を掻きむしる。──じゃあ、ここにいる俺は誰なんだ?叫びが喉元までせり上がった、その時だった。「おいっ!」不意に腕を掴まれた。 背中が硬いものとぶつかる。振り返ると、そこには息を切らした浩美がいた。「お前、こんなところで何やってんだよっ!」   肩で息をする浩美の声は掠れていた。「浩っ……」直樹は反射的に腕を振り払おうとした。 しかし「離さない」とでも言うように、浩美がその腰を引き寄せる。背中が熱い胸板にぶつかり、直樹の喉から小さな声が漏れた。 抱え込まれたまま、直樹は睨みつけるように肩越しに振り返った。「浩美。どうして、ここへ……」険しい顔のまま、浩美は無言で足元を指した。 そこには、草と泥にまみれた毛布が落ちている。「……毛布。これを持ってきたんだ。春先とはいえ、夜はまだ冷えるから」そこまで言ってから、浩美は堰を切ったようにまくし立てた。「なのに何回電話しても出ないし……嫌な予感がしてコテージ戻ったら、お前が森に入ってくのが見えて──」直樹の腰に回った腕へ、さらに力がこもる。「お前、ホント何やってんだよっ!」浩美は直樹の肩を掴んで体ごと振り向かせると、そのまま揺さぶった。 強い力ではない。 なのに責められている気がして、直樹は目を逸らした。「浩美……まず離し──」 「俺、言ったよな! 森には来るなって! 心配させてんじゃねぇよ!」
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8話
「やぁやぁっ! よく来たね!」〝神父様〟は大きな体で覆いかぶさるように、直樹を抱きしめた。「ナオ、もっと顔を見せておくれ。さぁ、抱きしめさせておくれ!」熱烈な歓迎にたじろぎながらも、直樹は苦笑して相手の背を軽く叩く。「〝神父様〟。ご無沙汰していました」そう言うと、〝神父様〟は感極まったように何度も頷いた。「君たちがいなくなってから、どれだけこの村が寂しくなったことか。でも、こうして帰ってきてくれたんだ。今はそれを喜ぶとしようじゃないか!」〝神父様〟は直樹の背後に立つ浩美へちらりと目を向け、それから再び直樹に向き直った。「ナオ。君のことはヒロミから少し聞いているよ。外でも色々と大変だったみたいだね」 直樹は苦笑いを返した。〝神父様〟は、ドイツから来た元宣教師だ。 以前は神戸の教会に勤めていたらしいが、隠居を機にこの村へ移り住んだ。本名はフォン何とかというやたら長い名前だったが、村の老人たちは誰一人覚えられず、今では皆まとめて〝神父様〟と呼んでいる。ふくよかな体格に、陽気で人懐っこい性格。 警戒心の強い村人たちでさえ、彼をすぐに受け入れた。「ナオ、しばらく見ないうちに綺麗になったね」大きな手で頬を包まれ、直樹はただ笑うしかなかった。「あの、〝神父様〟……それ、普通は女の子に言うセリフですよ。日本では」 「はは、何を言っているんだい。君たちはこの村の孫みたいなものだからね。そんな孫が見違えるほど綺麗になっていたら、誰だって言いたくなるさ」再びぎゅうっと抱きすくめられ、息が詰まる。 まるでクマに襲われた人間だ。 助けを求めるように浩美を見るが、当の本人は肩を震わせて笑いを堪えていた。顔を上げた〝神父様〟の表情がふっと曇る。「──だからこそ、ハルがあんなことになってしまったのは残念だ」名残り惜しそうに体を離し、〝神父様〟は深いため息をついた。 青い瞳に深い翳りが差す。「ハルは、あ
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9話
「私もね、最近はよくドイツの故郷を思い出すんだ」〝神父様〟は、バルコニーの向こうに広がる森へ目を向けた。「向こうにも、ここみたいな大きな森があってね。もう帰ることは叶わないから、せめて故郷に似た場所で暮らしたいと思って、この村に住み着いたんだ」どこか寂しげに笑うと、〝神父様〟は二人をダイニングへ案内した。ローズウッドのテーブルには、湯気の立つティーカップが並べられている。 甘い茶葉の香りが、部屋いっぱいに広がっていた。久しぶりの再会が嬉しいのか、〝神父様〟は上機嫌で話し始める。「君たちは、西洋と東洋の〝森〟の違いについて考えたことはあるかい? ──あぁ、もちろん気候や動植物の話じゃない。もっと象徴的な意味としての森だ」直樹と浩美が揃って首を振ると、〝神父様〟は嬉しそうに頷いた。「東洋では、人と自然は一体のものとして考えられている。でも西洋では違う。自然は、人間が征服し管理するものなんだ」神父様は指を立て、楽しそうに話を続けた。「だから西洋のおとぎ話には、必ず〝恐ろしい森〟が出てくる。『赤ずきん』や『ヘンゼルとグレーテル』みたいにね。森の中には魔女や悪魔が潜み人を惑わせる、と思われているんだ」老いた青い瞳の奥で、何かがちらりと揺れた。「この村の森は、どこかドイツの森に似ている気がするんだ。深くて、暗くて……まるで人を呑み込むみたいでね。──あぁ、そうだ!」突然、〝神父様〟はぱっと顔を上げると、そのままキッチンへ引っ込んだ。 しばらくして、ぱたぱたとスリッパの音を立てながら戻ってくる。「おっと、少し焼きすぎてしまったみたいだ」そう言ってテーブルに置いたのは、表面がこんがり焦げたパンケーキだった。「良かったら食べておくれ。ナオは昔、これが大好きだっただろう?」〝神父様〟は皿を差し出しながらにっこりと笑う。「ヨーグルトとサワークリームを使った手作りのパンケーキだ。市販の粉より、ずっと美味しいんだよ」差し出された皿を見つめながら
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10話
一瞬きょとんとしていた〝神父様〟は、慌てたように笑みを浮かべる。「あんなことがあったんだから当然だよ。忘れてしまった方がいいこともある」そう言って、〝神父様〟は直樹の手にフォークを握らせた。「さぁ、この話はもうおしまい。それより、早く食べて感想を聞かせておくれ」促されるまま、直樹はおずおずとパンケーキを口に運んだ。「……おいしい」 「そうだろう、そうだろう」〝神父様〟は満足げに何度も頷く。焼きすぎて少し固くなった表面。 けれど、中は驚くほど柔らかく、ほんのり酸味があった。甘い香りとともに、忘れていた記憶がゆっくり浮かび上がってくる。昔、直樹は兄の後ろばかりついて歩いていた。 〝神父様〟の家へ通っていたのも、春樹のあとを追いかけていたからだ。ここへ来るたび、〝神父様〟は色んなものを見せてくれた。大きな望遠鏡。 色とりどりの鉱石。 七色に光る蝶の標本。幼い直樹が目を輝かせて〝神父様〟の話を聞く横で、春樹はいつも静かに本を読んでいた。 午後の日差しの中、ページをめくる白い指だけがゆっくり動く。まるで、昔読んだ絵本の一場面みたいだった。懐かしさが胸の奥にじわりと広がり、直樹はそっと目を伏せた。※「もしかして、俺をけしかけた?」〝神父様〟の家からの帰り道。 ハンドルを握りながら、直樹は助手席の浩美を横目で見た。事の発端は今朝。 突然コテージへ現れた浩美は、「懐かしい人に会いに行くぞ」と半ば無理やり直樹を車へ押し込んだ。 その行き先が、〝神父様〟の家だったのだ。「浩美は……」新緑の林道を眺めたまま、直樹はぽつりと呟いた。なぜ、浩美が自分をあそこへ連れて行ったのか、なんとなくわかっていた。「俺を試そうとしてたんでしょ?」車内から音が消えた。 鳥の歌声がのどかに響き、木漏れ日が窓から|燦燦《さ
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