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3話

last update publish date: 2026-05-29 10:59:37

どれほどそうしていたのか、自分でもわからなかった。

直樹なおき

不意に名を呼ばれる。

ハッと振り返ると、すぐ目の前に浩美ひろみがいた。

知らないうちに、直樹は窓際まで近づいていた。

背中がひやりとガラスに触れる。

すっと浩美の手が伸びてくる。

一瞬身構える。

だが、その手は直樹の腕を軽く掴み、もう片方の手でカーテンを閉めただけだった。

まるで森の気配を遮るように。

なお、って呼んでいいんだよな? お前はちゃんと直樹──高谷たかや家の弟の方なんだよな?」

浩美は真正面から直樹の顔をじっと見つめてくる。

「……あ、あぁ」

夢から引き戻されたような気分のまま、直樹は小さく頷いた。

短い沈黙のあと、浩美は「そっか」と呟いた。

「俺さ、さっき林道でお前を見た時、本気ではるさんが帰ってきたのかと思ったんだよ。──それこそ〝神隠し〟から」

あまりに真面目な顔に、直樹は呆れたように息を漏らした。

「〝神隠し〟って……まだそんなこと言ってるんだ。さっきも〝魔〟がどうとか言ってたし」

その反応に、浩美の強張っていた表情が少しだけ和らぐ。

「しょうがないだろ。ここ、年寄りばっかで妙に迷信深いし」

そこで一度言葉を切り、浩美は窓の向こうへ視線を向けた。

閉じたカーテンが、かすかに揺れる。

「それに」

浩美がぽつりと漏らす。

「春さん自身、そういう雰囲気あったからな。超然としてるっていうか、周りと少し違う空気を持ってるっていうか」

直樹は視線を落とした。

カーテンの隙間から漏れる淡い光が、床に細長い帯を作っている。

「浩美は……兄貴のこと、よく見てたんだな」

「当然だろ」

即答だった。

「この村の若い連中、みんな春さんのこと見てたと思うぞ。なんせ村一番の美人だったし」

直樹は誤魔化すように大きく息を吐いた。

胸の奥に、じわりと苦いものが広がる。

「……言っとくけど、俺の兄貴、男だからな?」

「知ってるよ。でもこの村、婆さんしかいないし。そりゃ春さんみたいな顔してたら目立つだろ」

「……はぁ」

気のない返事を返しながら、直樹はふいに顔を上げた。

「兄貴って、どんな顔だったっけ?」

「は?」

浩美が首を傾げた。

大きく見開いた目で、直樹をしげしげと見つめる。

「何言ってんだよ。あの人のこと、一番近くで見てたのはお前だろ? いつも春さんの後ろくっついてたくせに」

「だーかーら、周りから見た感じだって。身内だから、そういうのよくわかんなくて」

「あぁ、なるほど」

浩美は一歩下がると、改めて直樹の全身をじっと眺めた。

その目には、どこか悪戯っぽい光が宿っている。

「今の自分の顔見れば、大体わかると思うけど……」

そこまで言いかけて、浩美はふと口をつぐんだ。

居心地が悪そうに空咳をする。

「……でも、ここまで春さんに似るとは思わなかった」

「なんだよ、その不服そうな顔」

「いやいや」と、浩美は茶化すように手を振る。

「ただ驚いただけ。昔は、そこまで似てると思わなかったからさ」

「年の差があったからな」

直樹の脳裏に、昔の記憶がふっとよぎる。

「母さんも言ってたよ。俺が春樹の成長を追いかけてるみたいだってさ。もし年齢が同じなら、俺たちは双子みたいにそっくりだったかもって」

「ふうん」

浩美は少し考え込み、それから呟いた。

「つまり、春さんの過去がお前で、お前の未来が春さんってことか?」

直樹の耳の奥に、懐かしい声がよみがえる。

『春樹、直樹。あんたたちは一人の人間の頭とお尻みたいなものなんだから、ちゃんと助け合いなさいね』

冗談めかして笑っていた母の顔を思い出し、直樹はそっと目を伏せた。

──でもね、母さん。

兄貴みらいをなくした俺は、どうやって生きればいいの?

「まぁ、よくよく見れば違うけどな」

浩美の声に、直樹は我に返った。

浩美はわざとらしく顎に手を当て、神妙そうに言ってのけた。

「しいて言うなら、春さんはお前よりもっと儚げな雰囲気だったな。繊細っていうか……春の霞みたいな感じ?」

感慨深げに語る浩美を見て、直樹は「おえっ」と舌を出した。

「きも。浩美って意外とロマンチストなんだな」

冷たい反応にも動じず、浩美は楽しそうに口角を上げる。

「あれ? もしかして拗ねてる? 親友の俺まで春さんびいきで」

「アホか。そんな訳あるか!」

「えぇ~? 本当にぃ?」

ケラケラ笑う男の肩を、直樹は拳で思いきり叩いた。

だが浩美はまったく堪えた様子もなく、うんうんと頷く。

「ごめんなぁ。あの頃のお前、まだ鼻垂れ小僧だったし。穏やかで大人っぽい春さんと比べると、月とスッポンっていうか、蝶と毛虫っていうか」

「おい、言い過ぎだろ。俺だって子どもの頃は天使みたいって言われてたし」

不満げに反論する直樹を見て、浩美は吹き出した。

「顔だけはな。でも中身は最悪だっただろ、お前。春さん以外にはずっとツンツンしててさ。春さんに近づく奴がいたら、すぐ喧嘩売るし」

したり顔の浩美に、直樹はじとりとした視線を返す。

「そんなガキとつるんでたの、どこの誰だよ」

「さぁ? 忘れたなぁ。そんなに怒ってたら、春さん似のお顔が台無しですよ」

へらへら笑いながら、浩美は軽く直樹の頬を叩いた。

直樹はむっとして、もう一発殴ろうとしたが、その拳は寸前で大きな掌に包まれる。

触れた場所から、浩美の体温がじわりと伝わってきた。

「……でも、お前、本当に直樹なんだな」

ぽつりと浩美の声が降ってくる。

「その短気なところとか、変わらない」

懐かしむような視線に耐えきれず、直樹は顔を逸らした。

この村にいた頃、浩美は直樹にとって唯一の遊び相手だった。

三つ年上で、都会育ち。

浩美は、直樹には〝兄貴分〟みたいな存在だった。

普段は春樹にべったりだった直樹も、浩美が来ると兄のそばを離れ、彼と夢中になって遊び回った。

浩美と過ごす時間は刺激的で、退屈な村の中で唯一息苦しさを忘れられる時間だった。

二人でいる時だけは、何も怖くなかった。

大人たちから『近付くな』と言われていた、あの森でさえも。

「……直樹?」

急に黙り込んだ直樹を不審に思ったのか、浩美が顔を覗き込んでくる。

直樹は慌てて笑みを貼り付けた。

「ん? どうした?」

「……いや」

浩美はどこか落ち着かなげに頭をかいた。

視線が宙を彷徨さまよう。

「悪い。なんか、その顔見てると時々わかんなくなるんだよ」

その言葉に、直樹は腹の奥が焼けつくような感覚を覚えた。

「だから言ってるだろ。俺は兄貴じゃない。勘違いされるこっちが迷惑だ」

強く言い返した瞬間、浩美がふいに身を屈めた。

逃げ場を塞ぐように、間近から顔を覗き込んでくる。

陽気な彼には似合わない、ひどく疑わしげな目だった。

「本当に……」

浩美の声は、いつになく静かだった。

「本当にお前は直樹なんだよな? ──直樹の、方なんだよな?」

その瞬間、閉じたカーテンの向こうで、森がざわりと囁いた。

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