LOGIN沈黙が車内を支配する。
「……俺は
そう言ったあと、直樹はたまらず吹き出した。
こんな質問をされるとは思わなかった。「当たり前だろ。兄貴──
はははと笑うと、
「そう、だよな……」
けれど、その声はどこか弱々しかった。
「それより、ちょっと仮眠していい? ここまで歩いてきたから、もうへとへとなんだ」
答えを待たず、直樹は窓に頭を預ける。
どこまで行っても変わり映えのしない森が、車窓の向こうを流れていった。故郷の村は、市街地から車で一時間ほど走った、深い森の入り口にある。
湖と山々に三方を囲まれた広大な原生林。
──迷い込んだら、二度と出られない。
そう恐れられる森の縁に、百人にも満たない小さな集落が張りついていた。
かつては林業で栄えた村も、時代の流れに取り残され、今は廃村寸前だ。直樹は、森の合間に見え始めた村を車窓越しにぼんやり眺めていた。
直樹たち
村人たちは兄弟を溺愛した。
子どもの少ない集落にとって、二人は共有の孫のような存在だった。 外へ出れば、老人たちのくれる菓子でポケットがいっぱいになった。村人たちは信じていた。
これだけ多くの目に守られている子どもたちに、災厄など起こるはずがないと。しかし、起こるべきことは起こった。
ある日、兄の春樹が森へ入ったきり帰ってこなかった。
村人が総出で探し、警察が山狩りをかけたが、何の手がかりも得られなかった。そして、その一年後。
いまだ行方知れずの春樹を残したまま、高谷家は逃げるように村を去った。以来十年。
村人たちも、ようやく高谷家のことを忘れ始めていた。──兄弟の一人が、こうして帰ってきたこともまだ知らず……。
直樹は目を閉じた。
わずかに開いた車の窓から、湿った森の匂いが流れ込んでくる。※
「へぇ、随分と綺麗なコテージだね。廃屋って言うから、どんなあばら家かと思った」思わず足を止めた直樹を追い越し、浩美が小さなポーチを抜けて玄関扉を開ける。
「一応、手入れだけはしてあるけど、今は全然使ってないから。好きに使って構わないぞ」
そう言って、浩美は中へ招き入れた。
リビングのドアを開けた瞬間、木の香りが鼻腔いっぱいに広がる。
外見と同様、室内はそこまで広くない。
だが、丸木の壁に囲まれたリビングは温かみがあり、天井も高かった。 片隅にはロフトへ続く梯子も立てかけられている。野宿まで覚悟していた身には、あり余るほどの幸運だった。
「ホントにここ、俺が使っちゃっていいの?」
尋ねてから、ふと疑問がよぎる。
「浩美の方はどうする訳さ? まだ村にいる予定なんだろう?
労わるような浩美の視線に、直樹は苦笑いを返した。
「……じゃあ、遠慮なく。ありがとう」
「いえいえ、どーいたしまして」浩美はおどけて手を振る。
「ついでに何か必要なものがあったら、ウチから持ってきてやるよ。だいたいの物はここに揃ってると思うけど……一応、高校の時までは俺が住んでた訳だし」
「住んでた? ……あぁ、そうだったね。なら、なんで今は使ってないんだ?」何気なく尋ねた瞬間、浩美の顔が強張った。
一拍の沈黙。 それから、ひどく低い声が返ってくる。「森が──」
「森?」 「そうだ。ここは森が近いからな」浩美の視線が窓へ向けられる。
換気のために開け放たれた窓の向こうには、鬱蒼とした森の一部が見えていた。コテージの一歩先は、もう森だ。
まるで人間の領域と森の領域、その境界に建てられているように──。その時、風が吹いた。
木々の葉や枝が、一斉にざわざわと揺れ始める。 その光景は、まるで森という巨大な生き物が手足を蠢かせ、こちらへ迫ってきているようだった。「村の人たちは皆、この森を恐れている」
ぽつりと浩美が呟く。
「村が林業で栄えていた頃、この森ではよく人がいなくなってたらしい。森は昼間でも暗いし、足場も悪い。真っ直ぐ進んでるつもりでも、いつの間にか迷って出られなくなることがある。それを村の年寄りたちは、森の〝魔〟が人を誑かしてるせいだって言うんだ」
「〝魔〟ぁ?」直樹は乾いた笑みを漏らした。
「なんじゃそれ。まさか浩美は信じてる訳?」
「まさか。そんな訳ないだろ」浩美は軽く肩をすくめてみせた。
だが、すぐに視線を逸らす。「──って、昔なら言えたはずだけどな。でも今は違う」
浩美の視線が、森の奥の一点へ吸い寄せられる。
「俺はこの森が怖い。あの時から──
滲むような声。
その後ろで森が呼応するように揺れる。 葉を擦り合わせる音が、人の囁き声みたいに聞こえた。『ここにきて、直樹』
森は鳴く。
兄とそっくりな声で。「あぶなかった……」浩美は直樹の腕を掴んだまま、安堵の息を漏らした。「危ないだろ。気をつけろ!」 「……浩美」直樹が、のろのろと顔を上げる。 今にも泣き出しそうなほど歪んだ顔だった。 浩美の胸元の服を掴む指先に、青白い血管が浮かんでいる。「おい、直樹。お前、おかしいぞ」そう言いかけた瞬間だった。とん、と肩口を押される。 力はほとんどなかった。 だが不意を突かれ、浩美の身体がわずかによろめく。その瞬間、掴んでいた腕がするりと抜けた。 目の前で、直樹の身体が枯葉みたいに穴へ吸い込まれていく。「直樹!」浩美は咄嗟に手を伸ばした。 だが指先は、空を掴むだけだった。ドサリ。 鈍い落下音が、穴の底で響く。「おい、大丈夫かっ⁉」浩美は慌てて穴を覗き込み、そこでようやく息をついた。穴は数メートルほどの深さしかない。 直樹はその底に無事に着地していた。「待ってろ! 今助ける!」浩美は周囲を見回し、廃屋に転がっていたロープを掴んだ。「直樹、これに──」そこまで言いかけて、浩美は息を呑んだ。 穴の底で、直樹が膝をつき、夢中になって土を掻いている。──何やってるんだ?浩美は、その手の動きから目が離せなかった。 白い指先が、土にまみれていく。掘り返されるたび、〝何か〟が少しずつ露わになった。白い塊。 細長く、硬質なそれは──最初は木の枝かと思った。だが違う。 その先端は、不自然なほど滑らかだった。──骨だ。浩美は、一瞬息をするのを忘れた。 森から冷たい風が吹き抜け、毛穴ひとつひとつが粟立つ。「──浩美」か細い声がした。 浩美は、はっと我に返る。穴の底から、直樹がこち
「なんだ?」空き地に響いた悲鳴に、浩美は顔を上げた。ガタンとボンネットが揺れる。 気づけば、腕の中にいた直樹が飛び出していた。「……おい、直樹っ!」華奢な背中が、森の茂みの向こうへ消えていく。 浩美は舌打ちすると、その背中をすぐさま追いかけた。直樹は、茂みを抜けた先の廃別荘群に立っていた。少し離れた場所では、観光客らしい男女がいた。 女性は地面へへたり込み、男の方はその肩を支えながら、不安げに周囲を見回していた。「一体、何があったんです?」浩美は駆け寄りながら声をかけた。 突然現れた浩美に一瞬身を強張らせた二人だったが、すぐに安堵したような顔を浮かべる。「それが……」男が青ざめた顔で前方を指した。その先には、直樹が立っていた。 こちらに背を向け、ただ足元を見つめている。視線の先には、大きな穴がぽっかりと口を開けていた。 穴の中から、湿った土の匂いが漂ってくる。「一体、何があったんですか? 先ほどの悲鳴は?」浩美が男女へ視線を戻した。「穴の中に……」女性が掠れた声を漏らす。 震える指は、まっすぐ穴の奥を指していた。「何か見えた気がして……覗こうとしたら、足を滑らせてしまって……」女性の顔は真っ青だった。 今にも倒れそうなほど怯えている。男が慌てて言葉を継ぐ。「ご迷惑おかけして、すみません」男は女性を抱き起こしながら頭を下げた。女性はふらつきながら立ち上がった。 だがその視線だけは、直樹の向こうにある穴へ釘づけになっていた。浩美は小さく頷く。「ここは開発途中で放置されている土地です。入口に『関係者以外立ち入り禁止』の看板があったはずですが」浩美は、穴の縁に立つ直樹をちらりと見た。 落ちかねないほど際どい場所にいるのに、本人は動こうともしない。
「ふっ……」唇が重なり、吐息が溶け合う。 口づけの隙間から、〝それ〟が小さく笑った。その指が、からかうように浩美の髪をまさぐる。瞬間、浩美の理性がぶつりと切れた。 相手の身体を抱え上げ、そのままボンネットへ叩きつけるように押しつけた。〝それ〟は浩美の首へ腕を絡めたまま引き寄せ、さらに深く唇を重ねてくる。「んっ……!」下唇を甘く噛んだ瞬間、〝それ〟の喉から熱を含んだ声が漏れた。 その声だけで、浩美の身体に熱の波が走る。「お前が誰だか言わないなら、後悔することになるぞ」浩美が首筋へ歯を立てると、〝それ〟は小さく息を呑んだ。「最後までしたら……自然とわかるんじゃない?」吐息混じりの声。 同時に、〝それ〟の指先が浩美の首筋をゆっくりとなぞった。ぞくり、と背筋が粟立つ。 浩美は舌打ちしながら、相手の腰をさらに強く引き寄せた。「煽ってんのか」 「だって浩美、確かめたいんでしょ?」くすり、と笑う声。 その声音が妙に春樹に似ていて、浩美の呼吸が乱れた。気づけばシャツの奥へ手を滑り込ませていた。 指の下で白い肌が、ぴくりと震える。熱い。 指先に伝わる体温は生々しく、人間そのものだった。「……っ、浩美」名前を呼ばれた瞬間、喉がひどく渇いた。 〝それ〟の手が背中へ回る。浩美は衝動のまま、その唇へ噛みつくように口づけた。直樹はすぐに舌を受け入れ、熱を絡め返してくる。 荒い呼吸が、耳元で反響する。──これは、本当に誰だ?浩美は相手の唇を貪りながら、ぼんやり考える。春樹なのか。 直樹なのか。それとも──。ふと、ある考えが脳裏をよぎる。森には〝魔〟が住んでいる。 昔、神父様が聞かせてくれた話だ。故郷の森に棲む〝魔〟は、美しい青年の姿で人を惑わ
「やっぱり……お前は──」浩美は何かを言いかけては、何度も言葉を飲み込んだ。「貴方は、春さんの方だったんですね」口にした瞬間、堰を切ったように言葉が溢れ出す。「おかしいと思ってたんだ。貴方は直樹とは違う。似せようとはしてるけど……昨日だって、あの森で……」浩美は相手の両肩を強く掴んだ。「じゃあ直樹は……直樹は、一体どこにいるんですっ⁉」激しく揺さぶられても、〝それ〟は慌てなかった。 ただ、わずかに口元を緩める。「──さあ、ね」その瞬間、浩美の背筋がぞわりと粟立った。この、どこかすべてを諦めたような笑い方。 やっぱり、この人は春さんだ。「ねぇ、浩美」柔らかな声に、浩美ははっと顔を上げた。「前にも聞いたけど、君はどっちの方がいい?」〝それ〟の手が、そっと浩美の頬にかかる。 その指先は氷のように冷たい。「初恋の春樹の方がいい? それとも親友の直樹?」低く囁かれ、浩美の喉がひくりと震えた。「言ってよ。好きな方になってあげるから」 「やめ、ろっ……」浩美は片手で相手を押し返した。 だが、思うように力が入らない。一歩下がった〝それ〟は、降参、とでも言うように両手を上げた。「本気なんだけどねえ」あまりにも緊張感のない声だった。 その瞬間、浩美の中で何かが切れた。「春さん……っ!」衝動のまま、浩美は〝それ〟の腕を掴んだ。 そのまま相手の身体をボンネットへ押しつける。背中を強かに打った〝それ〟が、「痛っ」と短く息を漏らした。その顔を見た瞬間、浩美の身体の奥で熱がじわりと広がった。「クソッ!」浩美の拳が、直樹のすぐ脇のボンネットへ叩きつけられた。 ボン、と鈍い音が空き地に響く。「お前は一体……どっちなんだっ……!」
瞬間、浩美はハッと視線を上げた。 目の前には、ゆるやかな笑みを湛えた直樹が立っていた。──いや、違う。浩美は大きく目を見開く。これは、直樹じゃない。──じゃあ、こいつは一体……?「どうして……?」ようやく絞り出した声は、ひどく乾いていた。 浩美は瞬きも忘れて、直樹を見つめる。「そのことを知ってるのは、俺と春さんしか……」 「もちろん、知ってるよ」ふっと笑った直樹の吐息が、すぐ近くに落ちる。「春樹のことなら、何でも知ってる」ため息混じりに言うと、直樹は浩美の腕へそっと手をかけた。「それに、浩美の態度を見ればわかる。妙に俺と距離を取ろうとしてるし」浩美の腕に添えられた指先が、ゆっくりと肌に食い込む。「浩美は最初っから、俺を春樹に重ねてたんだよね?」細められた直樹の目が、蛇みたいに妖しく細められる。「──自分が抱いた、あの人に」 「……っ!」浩美は反射的に直樹の手を振り払った。「俺に近づくな」ごくり、と喉が鳴る。「あのことを知ってるなら……なんで俺に近づくんだ」引きつった笑みが、浩美の口元に浮かぶ。「また俺が、同じことをすると考えないのか?」笑おうとしているのに、うまく笑えていない。 浩美は、自分でもそれがわかっていた。「何をしてもいいよ」かすかな衣擦れの音。 気づけば、直樹がすぐ目の前まで迫っていた。逃げ道を塞ぐように、浩美の背後のボンネットへ片手をつく。「ねぇ、浩美?」耳元で囁かれ、浩美の肩がびくりと震えた。「俺がどっちか知りたいって言ってたよね?」その声は、森の奥から響く囁きのように静かで、甘かった。「なら試してみれば?」直樹は浩美の手首を掴むと、自らの胸元へ導いた。
浩美は空き地へ視線を逸らした。「……村で過ごした記憶がないってのは、本当なのか?」 「本当だよ」直樹は、葉擦れに紛れるような声で答える。「まぁ、少しは覚えてることもあるけど」 「……じゃあ、あの日のことは?」 「兄貴がいなくなった日のこと?」直樹は、子どものような仕草でふるふると首を振った。「それなら、まったく覚えてない。残念だけど」浩美の喉から、乾いた笑いが漏れる。「そんな都合のいい話、あるのかよ。映画やドラマじゃないんだし」 「仕方ないだろ。周りのみんなが『忘れろ』『忘れろ』って、ずっと言ってたんだから。ほら、俺、素直な子どもだったし」冗談めかした口調。 その軽さが、逆に浩美を苛立たせた。それでも直樹は、他人事みたいに肩をすくめた。「カウンセリングで処方された薬の影響もあるかもね。安定剤とか睡眠薬とか。そのせいで記憶力が鈍っちゃったのかも」 「自分が春樹か直樹かわからなくなるくらいにか……?」直樹の目が、ゆっくり細められる。「ずいぶん、つっかかるね」ぬかるんだ草地を踏みしめながら、直樹はゆっくり浩美へ近づいていく。 ぐちゃ、と湿った音が足元で鳴った。「そんなに気になる? 俺がどっちなのか」直樹は楽しむように目を細めた。浩美は息を呑む。 相手がこれ以上近づかないように、手で遮る。しかし直樹はその顔を覗き込むように、さらに距離を詰めた。「もう一回聞くけどさ。浩美は、俺にどっちでいて欲しいわけ?」唇がゆるやかな弧を描く。「やっぱり春樹?」 「何を言って──」それ以上相手を直視できず、浩美は顔を背けた。 だが、耳元に直樹の吐息がかすかに触れる。「ねぇ、答えてよ」クスクスと笑う声に、浩美の全身が粟立った。「ふざけてる場合かよ!」相手の勢いに、直樹は一歩
直樹は思わず足を止めた。 振り返った影の顔は、兄にしては幼すぎた。(あれは──)「……直、樹?」足を緩めた隙に、子どもは木立の奥へ消えていた。 葉をかき分ける音だけが、徐々に小さくなっていく。自分の粗い呼吸音だけが鼓膜に響く。あの子は誰だ? なぜ、昔の自分と同じ顔をしていた?直樹は、泥と血で汚れた手で髪を掻きむしる。──じゃあ、ここにいる俺は誰なんだ?叫びが喉元までせり上がった、その時だった。「おいっ!」
夢を見る。 いつもの夢だ。森の中を、ひたすら走っている。 暗く、深い森を。視界の端を、白いものがよぎった。 白いシャツの華奢な背中が、木々の間をすり抜けていく。 風のように軽やかに。──あれは。「兄貴っ!」影がふっと振り返った。 だが、風に乱れた髪が顔を覆い、その表情までは見えない。白い影はそのまま森の奥へ駆けていく。 枯葉を踏み砕く音だけが、やけに大きく響いた。その時だった。「待ってっ! 兄貴っ!」
どれほどそうしていたのか、自分でもわからなかった。「直樹」不意に名を呼ばれる。 ハッと振り返ると、すぐ目の前に浩美がいた。知らないうちに、直樹は窓際まで近づいていた。 背中がひやりとガラスに触れる。すっと浩美の手が伸びてくる。一瞬身構える。 だが、その手は直樹の腕を軽く掴み、もう片方の手でカーテンを閉めただけだった。 まるで森の気配を遮るように。「直、って呼んでいいんだよな? お前はちゃんと直樹──高谷家の弟の方なんだよな?」浩美は真正面から直樹の顔をじっと見つめてくる。「……あ、あぁ」夢から引き戻されたような気分のまま
──暗い森には悪魔が住んでいる。子どもの頃、村の大人たちは本気でそう言っていた。 ※「そこのお兄さん、乗っていかない?」村へと続く林道を歩いていると、横を通り過ぎていったはずの車がバックし、すぐ脇に止まった。メタリックなカマキリ色。 奇抜な車から顔を出したのは、見覚えのある男だった。「──浩美ちゃん」 「おい。いい加減、その呼び方やめろ」ずっこける真似をした西原浩美は、気を取り直したようにサングラスを鼻先までずらした。「で、どうする?」まるで洋画のワンシーンみたいな気障な仕草。 だが華やかな顔立ちの浩美がやると、不思議