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深田あり
深田あり
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深田あり 的作品

サトラレメイド

サトラレメイド

一人称コメディメイド一途主従無敵一目惚れ超能力青春
大正十年。電機会社の御曹司・市川誠二は、情熱を傾ける相手を求め悶々としていた。 そんな彼の前に現れた新たな使用人・七岸さつき。 彼女は心に思った毒舌や本音が周囲に漏れ聞こえてしまう「サトラレ」体質だった。 ​しかし、その奥にある素直で誇り高い心根に触れ、誠二は激しい恋に落ちる。 彼女の悩みを解決し告白しようと、妹の聖子も巻き込み「サトラレ征伐」を開始! だがそこへ日本最大のおコネ持ちである幼なじみ・入地鈴夜が婚約を迫り、さつきを引き離す罠を仕掛けてきて……!? ​サトラレの裏に隠された驚愕の秘密、そして暴走する運命。激動の恋絵巻、二人の未来はどこへ向かうのか――。
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Chapter: 2章 5
「本当に不問になった……」   結論を言うなら大遅刻だったのだが、先生からは一切お咎めがなかった。   入地家の権力というものをまざまざと見せつけられる。   俺は机に突っ伏しながら頭をかかえた。 「鈴子さん……ダメだ、強大すぎる! とても太刀打ちできん!」   七岸さんとお付き合いしたい。七岸さんがいい。しかし入地鈴子という女性はあまりに強すぎて、とても勝てる気がしない。 「いや、諦めてはいかん! 嵐は吹いている。逆境だ……。この逆境が俺に力を与えてくれるのだ! ぬおおおおおっ!」   俺は顔を上げ、叫ぶ。きっと何か手はあるはずだ。何か、何か、何か。 「どうすれば鈴子さんとの婚約を諦めさせることが出来るんだ。考えろ、考えるんだ俺」   俺は腕を組み、瞑想。圧倒的頭脳が高速回転する。 「市川」   なんか声が聞こえる。しかしそんなのは無視だ。 「どうすれば……俺の英邁な頭脳よ、今こそ集結せよ!」 「市川」 「うるさい! 今考え事しているんだ! って……あ、先生……」   目を開けるとそこにはシベリアよりも冷たい眼差しを向けた先生がぽんぽんと教科書で自身の肩を叩く姿が見えた。 「ほう、授業中に随分余裕じゃないか」 「す、すみません……」   俺に出来ることは深々と頭を下げることだけであった。 「怒られてしまった……くそっ、鈴子さんのせいだ」   なんでじゃ。
最後更新: 2026-07-03
Chapter: 2章 4
 果たして鈴子さんとの問題はどう解決したらいいか。そんなことを考えながらの登校中、住宅街を抜けて大通りにさしかかったところで、ガラガラと車輪が土塊をこする音が聞こえてきた。   牛のひずめののんきな音と混じり、非常に聞き心地がよいのが何か癪である。   俺は何気なく小石を蹴飛ばしながら右を向くと、そこには一台の牛車が我が物顔で大通りのど真ん中を進んでいるのが見えた。 「……牛車、ということは」   この大日本帝国でこんなものに乗るのは一人しかいない。   俺は足を止めて牛車を待つ。待つ。待つ。牛車はとても遅かった。馬車だと日本の軟らかい地面には合わないから乗りにくいのだろうが、それにしても遅すぎる。   いい加減痺れを切らしたところでようやく牛車は俺の前まで辿り着いた。籠からすだれが開かれ、セーラー服姿の鈴子さんがにゅっと顔を出す。満面の笑みである。 「いとごきげんよう!」 「七岸さんだったら頭オカしいですって言いそうだよなあ。牛車通学とか」 「どうしたの? 愛する婚約者への挨拶が聞こえなくてよ?」   何が愛する婚約者だ。そう突っ込もうと思ったが挨拶をしないのはよくない。俺はため息交じりに挙手し、 「おはよう、鈴子さん」   と言った。 「もうそんな他人行儀はダメよ。私たち、婚約したんですもの」 「俺は承諾していない。婚約式も挙げてないだろ」   すると鈴子さんは人差し指を突き出し、チチチ、と舌を打ちながらメトロノームのように左右に振る。 「ノンノン。私が承諾してるの。私が決めたの。誠二さんに逆らう権利なんかないわ。婚約式は後日挙げるわ」   何がノンノンだ。洒落てフランス語など使いやがって。 「おかしな話だな。こういうのは双方の同意で決めるものだろう? 少なくとも家の」 「お父様のご許可はいただいていてよ? というか誠二さん。こーんな小さい頃から一緒なのに、どうして私を見初めてくださらないの?」 「どうしてって……それは……」   俺は目を反らし、口をつぐんでしまう。   理由はある。ちゃんとした理由が。   でもそれを言ったら鈴
最後更新: 2026-07-02
Chapter: 2章 3
「あ? なんだ藤高。今俺は七岸さんと朝の掃除を」 「そろそろご登校のお時間にございます。朝食をお召し上がりください」 「え? もうそんな時間?」   庭だから時計がないのが災いしたか。   さらに藤高はぴしっと気をつけしながらも、やけに攻撃的な視線を突きつけてくる。 「それと、女中と少々親しすぎませんか?」 「それは構わないだろう? 当家は皆仲良くが家訓だ。俺はこの屋敷で働いてくれている全ての使用人を心から尊敬している。勿論藤高、お前を含めて。あまり厳格なのは好きじゃないし楽しくない。家ってのは皆が笑顔でいられるのが一番だ。そうだろう?」   確かに俺は七岸さんが好きだが、別に他の使用人に対してもぞんざいには扱わない。おしゃべりはよくするし、一緒にお茶やコーヒーだって飲む。   だが藤高は釈然としないようで、懐から煙草を取り出すとそれを咥え、マッチで火をつけた。 藤高が俺の前で煙草を吸うのは決まって機嫌が悪い時だ。「若造が、あんまナメじゃねえぞコラ」という威嚇を込めている。ある意味七岸さんよりよっぽど態度が悪い。 「されど誠二様は昨晩ご婚約されたではありませんか。年頃の娘とそう慣れ慣れしく近づかれるのは、入地様に申し訳が立ちません」 「鈴子さんか……くそっ。あの人は……」「市川電機の力では入地家のご意向に刃向かえないのは、ご承知でしょうな」   藤高はそう言ってフーッと紫煙を吐いた。まさしく威嚇である。   彼はチャキチャキの江戸っ子だ。そのため「二本差しが怖くてメザシが食えるか」という精神が今なお残っている。たとえ主人のご子息を相手にしても遠慮をしない。   流石に父の前でこんな態度は取らないが、俺には容赦なく取る。まあ俺が生まれた時からの教育係だからな。孫みたいなものなんだろう。   それに彼の言い分には一理も二理もあり、反論に困るのは事実。 「……知ってる。市川電機風情が日本を影で操る入地に勝てるわけないだろう……」   と、俺と藤高が会話をして七岸さんを放っておいたことに気づく。 「誠二様……」 (わ、私……どうしたら)   遅かった!
最後更新: 2026-07-01
Chapter: 2章 2
 現在時刻は六時半。登校まではまだ十分に時間がある。俺は学ランに着替えると七岸さんと共に裏庭へと出る。ドアを開けた途端、ひゅう、と脳の奥まで凍りそうな風が差し込んできた。今日はやけに冷えるな。 「じゃ、朝のお仕事は昨日の夕飯同様サトラレ征伐を兼ねてやろうか」 「昨晩のあれ、またやるんですか? 変態め」 「そりゃ一刻も早く七岸さんのサトラレを治してあげたくてさ。まさか……」   鈴子さんの顔がちらりと浮かぶ。   昨晩のあれは本当に予想外だった。まさかあんなことになるなんて。   これは一刻を争う。早急にサトラレを征伐し、それを手土産に彼女に告白し、お付き合いするのだ。鈴子さんはとてもいい子だからそれでわかってくれるだろう。   逆に言うと、サトラレを無くしていないのに告白しても鈴子さんは諦めてはくれないだろう。こういうのは実績と誠意が重要だ。俺はポキポキと拳を鳴らす。 「誠二様?」 「あ、いや、何でも無い。じゃ、始めよう」 「は、はい。お手柔らかにお願いします……」 「そうはいかない。手心を加えたら無心になれないでしょ」 「そ、そんなぁ」  泣きそうな顔になる七岸さん。なんて可愛いんだ。食べてしまいたい。   だが、今はお預けだ。鈴子さんを納得させるためにも、サトラレを征伐する! 「朝は掃除だよね」 「はい。庭掃きと、ゴミ出しです。昨晩のゴミですね」   裏庭の一角にはゴミ箱が置かれており、そこには大量のゴミがこれでもかと詰められていた。これの始末は新人の仕事とうちでは決まっている。 「ああ、ゴミは掃除夫が荷車引いてやってくるから、それに乗せるんだ」 「そう言えばゴミって結局どうなるんですか?」 「昔は空き地に捨ててたみたいだけど、悪臭が酷いってんで今は露天焼却した後埋め立てるようになったね」   俺は七岸さんに命じてゴミ箱を塀の外に移動させる。俺が手伝ってもいいが、そうすると彼女は手持ち無沙汰となり何か考えてしまうし、何よりこれは彼女の仕事だ。俺はあくまでサトラレが出ないようにフォローするだけに留める。   うちには四人の使用人がおり、家人を合わせると
最後更新: 2026-06-30
Chapter: 2章 妹・聖子の挑戦 1
 俺の朝は早い。まだ日の昇らぬ頃には目が覚め、凍てつくような空気にぶるると震わせながらベッドから下りる。   カーテンを開けるとまだ空にはほのかな青すら出ていない漆黒の闇。   さて太陽も見えないこんな時間に起きて何をするかというなら――トレーニングだ。   俺は早速とばかりに寝間着を脱ぎ、上半身裸になって腹筋を開始、次いで腕立て伏せ。さらに鉄アレイを用いてのダンベルトレーニングだ。   体中に汗がほとばしり、真冬の寒さなど吹き飛んでいく。俺は風の子だ。室内だけど。   一体何時間くらいやったろうか。窓を見るととっくに太陽はのぼっていて、つとめての空気が優しく俺を包み込んでいた。   そんな時、コンコンとドアがノックされ、ドアが開かれる音。 「誠二様、おはようございます……って、あら?」 「文・武・両・道! 文・武・両・道!」 「誠二様……何、してるんですか?」   制服――メイド服をまとう七岸さんが呆然と立ち尽くしながら、やけに冷たい視線を俺に向けてきた。   俺は鉄アレイを置きながら手ぬぐいで汗をぬぐう。快感である。 「七岸さん。おはよう! 今日もいい天気だね! 朝の腹筋がはかどるというものさ! んー、この匂い、コーヒーだね!」   七岸さんの手にはトレーが握られ、その上には湯気をまとうコーヒーが何とも温かそうな雰囲気をたたえている。 「え? あ、はい。お茶の方がよろしかったですか?」 「いやいや、俺洋食好きって言ったでしょ? 朝はコーヒーだよ! ミルクホールの娘が淹れたコーヒーか。美味いんだろうなあ」   ミルクホールというとどうしても牛乳がメインになるが、昨今ではコーヒーも提供していると聞く。俺はミルクホールでは牛乳しか飲んだことがないから楽しみだ。 「あまり自信はありませんが……」 (……てかこの人、何時に起きたんだろう、私、五時に起きたのに) 「ああ、同じ時間だよ。朝の鍛錬は日課だからね! ほら見て! 俺のたくましい筋肉! この六つに割れた腹が俺の未来を輝かせる一筋の星となる!」   ぐっとギリシアの彫像みたいに筋肉を見せつける。なんて美しいんだ、俺は
最後更新: 2026-06-29
Chapter: 1章 15
 それから一時間ほどして、良い匂いが土間全体に漂ってきた。   その間俺たちはずっと踊り狂っていた。もうへとへとである。   七岸さんはふらつく足下を引きずりながら釜の蓋をあげる。もわっと湯気が立ち、馥郁たる芳香が鼻腔を優しく刺激した。 「で、出来ました!」 「よし、それをおひつに入れて、食堂に持っていこう」 「はい! それにしても誠二様、どうして、そこまで一生懸命になってくれるんです?」 「考えない!」 「はいー! すみません!」   びしっと気をつけして謝る七岸さん。俺はそんな彼女を見つめながら笑う。 「はは、やっぱり七岸さんは素直でいい子だ。これが彼女の本当の顔なんだな」 「え? なんて言いまし……おっととと!」   おひつは結構重いのか、つんのめてしまった。俺は慌てて彼女を抱きかかえる。 「危ない危ない。もう夜で廊下は真っ暗なんだ。気をつけて歩かないとせっかくのお米がこぼれちゃうよ」 「す、すみません……でも、いい匂いがします」 「でしょ? これがチキンライスだよ」   七岸さんが作った、初めての毒物以外の料理と言えましょう。   ちなみにどうして一生懸命になるかって?  そんなの七岸さんに恋したからに決まってるじゃないか。   市川家には食堂が二つあって、一つは市川家の人間および客人が使う用、もう一つが使用人用で休憩所、詰所も兼ねている。今回は後者を選択した。   前者だと十二帖の広い部屋なのだが、後者は六帖とちょっと狭い。でも清潔さは保っているし、日当たりもこちらの方がいい。やはり毎日働くんだから、いい環境で飯は食べさせてあげたいからな。   窓には欠けた月があかあかと輝いていて、優しく微笑みかけているかのようだった。   使用人の食堂兼休憩所兼詰所は洋間で、テーブルの上におひつと平皿、それとスプーンを並べさせる。そこまでやれば七岸さんのお仕事は終了だ。 「出来た……私、初めて、お料理……できた」   ぐいっと汗をぬぐいながらできあがったチキンライスを見つめる。皿の上に盛られたご飯は熱々の湯気をたたえ、とても美味そうだ。米がキラキラ
最後更新: 2026-06-28
イヤホン『アコ』の恋

イヤホン『アコ』の恋

コメディラブコメ青春学園高校生巫女幽霊
優秀な姉と比較され続け、自分の価値を見失いかけていた八島末広は、誕生日に姉から贈られたイヤホンにさえ素直になれず、ついには踏み壊してしまう。 だが翌朝、そのイヤホンは少女の姿をした悪霊アコとなって現れ、強引に取り憑きながら「自分を直してほしい」「ちゃんと音を聴いてほしい」と迫ってきた。 耳に指を差し込むだけで音楽を流し込んでくる異様な存在に振り回されながらも、半信半疑のまま試聴勝負に挑んだ八島は、そこで初めて“音を選ぶ”という感覚に触れた。 そして数多のイヤホンの中で、アコの音だけがなぜか胸の奥に届き――彼の世界は静かに変わり始める。
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Chapter: 終章 2
「もう一度聴かせてよ」 「いいよ」   それからの日々。学校で、家で、あるいは紐育と遊ぶときでさえ、俺はアコを聴いていた。   紐育は怒りもしない。それどころかアコを聴きたがる。   HRが始まる前のつかの間に、俺は紐育と音楽を聴く。そんな日課が出来ていた。   紐育はアコをつけ、音楽を楽しむ。 「やっぱりいい音だよね。八島、他にイヤホンは買うの?」 「買わない。いらない」 「だよね」   ぱちんと紐育がウインクした。   俺は紐育からイヤホンを受け取ると、自分の耳につけて、スマホをタップ。   流れてくるのは、宝石のような、シルクのような、あるいは太陽のようなサウンド。   明るくて、きらめいて、なめらかで、心地よい。 「だってアコの音、こんなに綺麗なんだぜ? 聴いてるだけで涙が溢れてくるんだぜ?」 「わかった。だったらさ」 「……ああ」   俺はこくりと頷いた。 「しかしバイトって大変だな」   俺は紐育の勧めでバイトすることになった。   最初は神社でバイトするのかと思ったが、予想が外れた。ファミレスやスーパーのバイトだと紐育がつきあえない。   ということで、地元の村役場の手伝いというか、ゴミ捨てとか、井戸洗いとか、二十一世紀の今にもそんなものがあるかと驚きを隠せないような仕事で金を稼ぐこととなった。 「ぶつくさ言わない! 黙って仕事する!」 「いてっ! 叩かなくてもいいだろ!」   振り向くと、箒を手にした紐育がいて、彼女は巫女装束をまとい、髪の毛を結っていた。   おうおう、楽そうでいいねえ。 「だってDAP買うんでしょ? アコちゃんに相応しい、最高のDAPを」 「ああ、だってアコが可哀想じゃないか。最高の音を鳴らさせてやらないと」   とはいえ、それなりに音のいいDAPとなると、安くても十万円を超えるのだ。ファミレスのバイトを週五でやっても二ヶ月はかかる。   三十万も四十万もするハイエンド? 無理です。   それを一ヶ月で稼ぐとなると、そらもうキツくて、臭くて
最後更新: 2026-06-10
Chapter: 終章 1
 アコは還った。手のひらの上には鈍色に輝く小さなイヤホンが一つ、窓から差し込む光を反射して、それはまるでダイヤのようだった。   果たして俺は今、どんな表情をしているのだろう。泣いているのか、笑っているのか、あるいは無表情なのか。それすらもわからなくて、ただ、じっと手のひらを見つめ続ける。   と、紐育がにゅっと脇から顔を出して、 「ふふ、八島。いい顔してるよ」   そう微笑みかけた。   何故だろう、その一言を受けて救われたような気がした。   何気ない一言のはずなのに、まるで乾いたスポンジに一滴の雫が垂れたようで、物凄い勢いでそれは吸収されていく。   じわっと、体に染みこんでいく。 「紐育……まあ、ね。アコは……もう、いない」   理解していたはずなのに、納得してアコを還したはずなのに。   いざ口に出してみると、酷く胸が痛んだ。   なのに紐育はカラカラと笑いながら、そっとアコをつつく。 「いるじゃん、そこに」 「……そうだな」   はは、と苦笑した。   すると何故か紐育が俺の前に回り込むと、手を後ろに組んで、申し訳なさそうに眉を落とした。 「実はね、今だから言うけど、アコちゃんにお金借りたっての、あれ嘘なんだ」 「え?」 「ずっと私の家にいたんだよ。お母さんとも事情話して、ね」   ああ、やっぱり。   心の中ではどこか想像していた。覚悟もしていた。冷静に考えればそうだろうなという気もしてきた。   紐育は全てを知っていたのだ。   ただ、だとしたら疑問が残る。 「だったら……」   紐育は窓の方へ視線を移し、俺の机を三回つついた。とん・とん・とん。 「なんでだろうね。多分……いや、いいか」   それで察した。   俺が抱いた疑問は単純で、何故そんなことをしたのか。   そしてそれに対する答えが、うぬぼれかもしれないが、俺のためにやってくれたのだ。  彼女の少し不器用な、思いやりのカタチ。 「……そうか、わかった」   ふっと頬を緩める俺。それで紐育は気
最後更新: 2026-06-09
Chapter: 4章 9
 静寂のはずなのに、ちっとも冷たくなくて、少しも寂しくなくて。   ただただ、暖かい静謐が、俺たちの中に柔らかく漂っている。   そんな春のぬくもりを思わせる世界を切り裂くように、まず俺が―― 「アコ!」   ついでアコが―― 「八島くん!」   互いの力の全てを捧げ、強く抱きしめ合った。   もっとも、その時間は一秒にも満たない。   あっという間に感触が消えていき、アコの姿がまるで霞のように薄れていく。 「ああ、アコが……」   いよいよこの時が来たか。   言いたいことは沢山あった。伝えたい言葉はいくらでもあった。   でも、それはもう叶わない。 「あはは、そろそろお別れですね。あ、じゃあ最後に」   アコが目を閉じる。   そうだな、もう言葉はいらないな。する時間もない。   なら、俺に出来る、最後の思いを―― 「……ああ、実は最後に、これくらいはやっておきたかったんだ」 「じゃ、お願いします」   アコはわかっていた。いや違う。俺のしたいことと、アコがしたいこと。その思いが一致しているのだ。   おそらくは紐育もだろう。だから彼女は気を利かせて部屋を出たのだ。 「わかった」   俺はそう言って彼女と同じように目を閉じて。   ゆっくりと、自分の唇を彼女の唇と重ねていって。 「ん……」 「んんっ……」   アコが消える最後の瞬間まで。   俺たちは、ぬくもりの中に包まれ続けるのだった。
最後更新: 2026-06-08
Chapter: 4章 8
 ゆっくりとスマホを取り出す。スマホにポタアンを装着し、ポタアンのイヤホンジャックにアコ本体を差し込む。   電源を入れ、音楽の再生ボタンをタップする。   その、直後。   音が流れた。アコの音だ。   でも、今までみたいに指で差し込まれた時とは違う。低音も中音も高音もまるで違う。宝石のように澄んだキラキラの高音と、それに負けないパワフルで締まりのある低音。それでいてボーカルは前にしっかりときていて、それは非常に艶があり、エロい。   さらには様々な楽器が超高解像度の画像のようにあますとこなく『楽器』となって生み出され、それは全てが渾然一体となって『オーディオ』を形成している。   まさに、本物のアコの音だ。   そしてそれは、なんというか、 「……凄い、音」   だった。 「何度か私の指で聴かせましたけど」   俺は首を振る。 「いや、違う。全然違うよ。ずっとずっと、いい音だ。なんでだ? 贔屓じゃない。本当に違う。どうして違うんだ?」 「多分それはフィッティングの問題です」 「フィッティング?」 「イヤホンというのはしっかり耳の奥にフィットしないと音が隙間から抜けてしまうんですよ。具体的に言うと低音が。高音はしっかり聴こえるんですけどね」   なるほど、そういうことか。   確かに音そのものは指で聴いた時のアコの音と変わりない。シンプルでありながら重厚。それでいて煌びやかさが同居した気品ある音。   だが細やかな点は天と地ほど違う。そして大きな点も一つ違う。   それが―― 「確かに力強い低音だ。ドスドスして、ギュッとしまってる」   この強い低音が他の音を邪魔するどころかむしろ彩りとなってさらに中高音が引き立って聞こえてくる。  音に連動するように何故だろうか、涙が出てきたのである。   音があまりにも凄すぎて、ぬぐってもぬぐっても涙があふれてくるのである。   アコが嬉しそうに頷く。 「そうです。やはり指だとどうしても隙間が出来てしまいますが、完璧にフィットした私は、最高の音が出せるんです」 「凄い……本当
最後更新: 2026-06-07
Chapter: 4章 7
 それから俺たちは一旦イヤホン屋へと赴いた。   どうせなら神社から直行すればいいのではと思えそうだが、最後にアコを俺の部屋に連れて行って、そして、抱きしめたかったのだ。   まあ、すぐ消えるかと思ったら修理が完了してもアコは成仏しなかったわけだが。   冷静に考えたらそりゃそうだ。だって俺はまだ――アコを聴いていないのだから。 「これが……アコの直った姿」   見てくれは変わらないはずなのに。断線したのをただ直しただけなのに。   どうしてだろう。なんでだろう。 「はい。……どうですか?」 「綺麗だ……そうか、本当はこんな姿なんだね」   不思議な気持ちである。   アコがあはは、と苦笑する。 「といっても私はチタン筐体なので踏んだくらいじゃ壊れないんですけどね。ぶっちゃけ端子が壊れて断線しただけですし」   確かにそりゃそうなんだが、でも、やっぱり。 「でも、何でだろう。違って見えるよ」 「身内びいきですよ。……でも嬉しいです。ありがとうございます」   アコは微笑んだまま小さく頭を垂れた。   元通りとなったアコ本体を彼女に見せつけながら、そっと。 「アコ、聴いてみたい」 「どうぞ、音源はありますか?」 「この日に備えてハイレゾ沢山買ったよ。高いね、一曲六百六十円はエグい」 「ですよねえ」   お陰で今月の食費を思い切り減らさなければならなくなった。大変な事態である。   でも、アコのためならば、アコを聴くためならば、やはり最上でなければ。   と言っても俺には音楽の善し悪しなどわからないからジャンルは適当だ。これについては色々聴いて、いずれ好きなタイプを確立していけばいいだろう。   と、俺の後ろからにゅっと紐育が首を突き出し、 「私も聴きたいな」   そう言ってぺろっといたずらっ子のように舌を出した。   そんな紐育の様を見て、アコがあははと苦笑する。 「勿論ですよ、さ、八島くん」   促され、俺はアコを耳に装着する。アコはシュア掛けではなく普通に耳につけるタイプだ
最後更新: 2026-06-06
Chapter: 4章 6
 神社を出て、てくてくと夕暮れに染まった街を歩きながら、俺たちはちらちらとお互いを見つめ合う。 「八島くん……八島くん!」   今にもだきついてきそうなアコの頭を、俺は優しく撫でる。 「アコ……いいんだ。もう大丈夫だから」   もっとも、倉戸京子と約束し、アコも納得し、俺も啖呵を切ったとはいえ、今更ながら悲しみと不安がぽこぽこと沸騰したお湯のようにわき出てきた。   このまま倉戸京子を裏切って逃げ出してしまおうか。あるいは開き直ってしまおうか。そんな考えがわずかに脳裏をよぎる。 「ただ、アコ……いいんだな?」 「……はい」   ためらいを感じた。でも、彼女は承諾を示した。   なら、その意志は尊重しなければならない。   でも、そんな気持ちさえも責任を押しつけるような、卑怯者の逃避であって、それが俺に自己嫌悪を与えていく。   ただ、それを口にすることは憚られた。   騙すなら、最後まで騙すべきだから。 「わかった。じゃ、行こうか」   俺はぽんぽんとアコの背中を叩く。   そんな俺たちをやりとりを見ていた紐育が、沈みゆく太陽をバックに、少しだけ申し訳なさそうに訊ねてくる。 「……私も、行っていいんだよね?」 「「勿論」」   家につき、部屋に戻ってから、俺はアコにすっとイヤホンを見せつける。   鈍色に光る、筒状のハウジング。金属の冷たさが夕日に照らされ、ルビーのように輝いている。 「アコの本当の姿は、これなんだよな」 「はい、これなんです」   アコはしっかと頷いた。寂しそうに、懐かしそうに。   俺は頬を静かに緩める。 「そうか……」 「大事にして、くれますよね?」 「勿論だ。ずっとずっと、愛用する」   言いながら、俺は強く頷いた。   アコが嬉しそうにぱん、と手を鳴らす。 「わあ、それはよかったです」  そして俺から顔を逸らし、窓から夜へ移行する藤色と薔薇色の混ざった空を見つめながら、 「お別れじゃないんですね」   と言った
最後更新: 2026-06-04
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