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Sunny
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Novels by Sunny

愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました

愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました

四回目の結婚記念日。 それは、綾香にとって「離婚を決意した日」になった。 医師としてのキャリアを捨て、夫・優の“期限付きの契約結婚”に尽くしてきた四年間。 初恋の相手である愛人・咲子を優先されても、「あと半年で終わる結婚だから」と、自分に言い聞かせて耐えてきた。 ——けれど、四年目の結婚記念日に愛人を家へ連れ帰られた瞬間、綾香の心は限界を迎える。 そんな綾香の前に現れたのは、学会で出会った開業医・綾瀬隼人。 仕事も、住む場所も、人生の再スタートも。 隼人に背中を押され、綾香は少しずつ“妻”ではなく、“自分”を取り戻し始める。 これは、人生を奪われた女が、自分を取り戻し、本当の愛に出会う物語。
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Chapter: 第121話 声が聞きたかった
部屋の中に、優の花束がある。派手ではないのに、不思議なくらいこの部屋に馴染んでいる。置くために選ばれたみたいだった。いらなかったら捨てていい。そう言われたのに。捨てていいと言いながら、私の好みにぴったりの花を渡してくる。優らしいと思った。不器用で、正しくて、少しずるい。そして、今さら甘い。私はキッチンで水を飲み、もう一度テーブルの花束を見る。その時、スマホが震えた。画面を見ると、着信履歴に綾瀬先生の名前が残っていた。電話。綾瀬先生から電話が来るのは珍しい。院内連絡ならメッセージで済む。急ぎの仕事なら、もっと事務的な形で来る。私は少し迷ってから、折り返した。『白松先生?』耳元に、低い声が落ちる。それだけで、胸の奥が少し揺れた。『すみません。着信、気づかなくて』『ううん。こっちこそ遅い時間にごめん』いつもより少し柔らかい声だった。昼間のクリニックで聞く声とは違う。それだけで、距離が少し近く感じた。『何かありましたか』仕事の声を出そうとした。そうしないと、落ち着かなかった。『来週のシフトのことで、少し変更が出そうで』『シフトですか』少しだけ肩の力が抜ける。仕事の話なら大丈夫だ。『月曜の午前、検査が一件前倒しになった』『その分、火曜の午後を軽くしたい』『白松先生の外来枠を少し動かしてもいい?』『はい。大丈夫です』『助かる』そこで会話が途切れた。用件は終わったはずだった。なのに、綾瀬先生は切らなかった。『あと』綾瀬先生が言った。『はい』『声が聞きたかったから』息が止まった。仕事の話だと思っていた身体が、一瞬で動かなくなる。電話越しだから、表情は見えない。それなのに、綾瀬先生が少しだけ笑っている気がした。『……そういうこと、急に言わないでください』やっと出た声は、自分でも頼りなかった。『急じゃないよ』『急です』『結構前から思ってた』その返しに、言葉が詰まる。『白松先生』『はい』『この間はごめんね』急に声が低くなった。『この間?』『クリニックで』『職場なのに、少し言いすぎたなって』気になる人が離婚するの、待ってたので。あの日の言葉が戻ってくる。受付の空気。大貴の表情。看護師が視線を落とした瞬間。そして、綾瀬先生のまっすぐな目。私はスマホを持つ手に
Last Updated: 2026-07-04
Chapter: 第120話 花束
店を出ると、夜の空気は少し冷たかった。駐車場へ向かうまでの短い道を、優は私の少し前を歩いていた。先に行きすぎない。近づきすぎない。そういうところが、優らしいと思った。昔から、優は雑な人ではなかった。全部、きちんとしていた。ただ、その丁寧さが、私に向くことは少なかった。だから私は苦しかったのだ。車に乗ると、優はすぐに暖房を少しだけ入れた。『寒くない?』『大丈夫』『暑くなったら言って』『うん』短いやり取り。それだけなのに、胸の奥が少し落ち着かなくなる。優が私の体調を気にする。優が私に確認する。優が、私の返事を待つ。結婚していた頃に欲しかったものが、今さら少しずつ差し出されている。そのたびに、私はどう受け取ればいいのか分からなくなる。車がゆっくり走り出した。しばらく、仕事の話の続きをした。優は運転しながらも、私の話をきちんと聞いていた。私は、自分が思っていたより自然に話していることに気づく。この人とは、こういう会話ができたのだ。できたはずだったのだ。四年間、私は家で料理を作り、優の帰りを待ち、咲子の気配を見ないふりをしていた。でも本当は、こうやって仕事の話をしたかったのかもしれない。医師として。同じ大人として。自分の考えを聞いてもらえる人間として。そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。『綾香』名前を呼ばれ、顔を上げる。『何?』『さっきの話』『すごく重要だと思う』優は前を見たまま言った。『俺たちだけで考えていたら、たぶん見落としてた』『制度として正しいことと、患者が安心できることは違うんだな』その言葉に、私は少しだけ黙った。正しいこと。安心できること。その二つを、優の口から聞くのは不思議だった。私たちの結婚も、外から見れば正しい形だった。契約は整っていた。生活費も、住居も、離婚時の条件も。紙の上では、私は守られていた。でも、安心はなかった。そのことを、今の優は少しずつ分かろうとしている。そう思った。『……そうだね』ようやくそう答えると、優は小さく頷いた。『綾香は、こういうところが見える人なんだな』その声には、驚きではなく、少し悔いるような響きがあった。『今さらだけど』『俺は、本当に何も見てなかった』私は窓の外を見る。『今さらだね』『うん』優は否定しなかった。
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第119話 医師としての意見
私は資料へ視線を戻す。『患者さんへの説明文書は、誰が作る想定?』優の手が、ペンに伸びる。『初稿は事業者側』『法務確認はこちらでする』『ただ、現場で読んで意味が通るかは別問題だから、そこを見てほしい』『クリニックの外来中に、これを全部説明するのは無理だと思う』『受付で紙を渡すだけなら、読まれない』『診察室で説明するなら、医師の負担が増える』『看護師さんに任せるなら、研修と説明範囲の整理が必要』優は頷きながらメモを取る。『診療情報の共有と研究利用の説明は分けた方がいい』『患者さんから見たら、どちらもデータを使われる話に見える』『そこを曖昧にすると、不信感が出る』『なるほど』『女性患者の場合』『家族に知られたくない情報もある』『婦人科歴、妊娠歴、服薬、メンタルのこと』『地域医療だと家族ぐるみで通っている人もいるから、共有範囲はかなり慎重にした方がいい』言いながら、自分の中で言葉が整理されていくのを感じた。私は、この話に興味がある。現場で本当に起きることが見える。机上の制度ではなく、患者さんの顔や、診察室の空気や、受付で戸惑う人の表情が浮かぶ。優はその一つひとつを、丁寧に拾っていた。仕事の人としての優は、やはり優秀だった。悔しいくらいに。『今思えば』ふいに、優が言った。私は顔を上げる。優は資料を見たまま、少しだけ声を落とした。『こんなに賢い人を、家に入れて』『家のことだけしてもらえればいいって』『本当に傲慢だったと思う』胸の奥が、静かに痛む。その言葉は、今さらだった。本当に、今さらだった。でも、優の声には嘘がなかった。『綾香は、もっと外にいるべきだった』『俺は、それを見ようとしなかった』私は何か言いかけて、止めた。優だけのせいではない。父もいた。白松家もあった。私自身も、諦めることで自分を守っていた。でも、だからといって優に責任がないわけではない。その全部を、簡単な言葉にすることはできなかった。『今さら言われても』私は静かに言った。『うん』優はすぐに頷いた。『今さらだと思うよ、自分でも』その返事が、また胸に痛かった。優は言い訳をしない。否定もしない。ただ受け取る。それが、前よりもずっと苦しかった。料理が運ばれてきて、話は一度途切れた。けれど、仕事の話はそのあと
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第118話 元夫との仕事
木曜日の夕方。私は駅前のレストランの前で、一度だけ足を止めた。店のガラス越しに、中の明かりが見える。落ち着いた照明。白いテーブルクロス。静かに食事をしている人たち。仕事の打ち合わせをするには、少しだけきちんとしすぎている気がした。けれど、優らしいとも思った。騒がしすぎない場所。資料を広げても違和感がない席。必要な話が、必要な順番でできる空気。そういうものを、優はいつも外さない。私はバッグの持ち手を握り直した。今日は仕事の話だ。地域医療連携のための医療データ基盤整備。大学病院、地域クリニック、自治体、民間企業が関わる案件。一部では仮名加工医療情報を使った研究開発も視野に入っている。私は、その案件に必要な医師の知見を少しだけ聞かれるだけ。そう自分に言い聞かせて、店に入った。優は、すでに窓際の席にいた。濃いグレーのスーツ。整えられた髪。テーブルの端には、薄い資料の入ったファイル。私に気づくと、優は顔を上げた。そして、ふわっと笑った。その表情に、足が止まりそうになる。私はその笑顔を知っている。けれど、それは私に向けられていたものではなかった。咲子さんに向けられていた顔。家の中で、私が見ないふりをしていた柔らかさ。優が私ではない誰かを選んでいるのだと、何度も思い知らされた表情。それが今、こちらを向いている。離婚したあとに。その皮肉に、胸の奥が小さく痛んだ。『来てくれてありがとう』優が立ち上がる。『仕事の話だから』そう答えると、優は少しだけ笑みを薄くした。『分かってる』分かっている。その言葉を、私はどこまで信じればいいのだろう。席に座ると、店員が水とメニューを置いていった。注文を終えるまで、優は仕事の話を始めなかった。代わりに、私の顔を静かに見た。『顔色、少し良くなった』『そう?』『うん』『前より、ちゃんと眠れてる顔をしてる』そんなふうに見ていたのかと思った。昔は、見てくれなかったのに。私が眠れていなくても。優の帰りを待っていても。咲子さんの気配に気づいて、夜中に何度も目が覚めても。優は、気づかなかった。少なくとも、気づいていないように見えた。それなのに今は、私の顔色を見る。その遅すぎる変化が、胸に少し刺さる。『新しい部屋には慣れた?』優が続けた。『少しずつ』
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第117話 好きって言ってるつもり
離婚届を出してから、数日が経った。生活は、思っていたより普通に進んでいた。けれど、落ち着いたわけではない。むしろ、離婚してからの方が、いろいろなものが動き始めている気がした。優の案件。大貴からの大学病院の話。父からの連絡。そして、綾瀬先生の言葉。《気になる人が離婚するの、待ってたので。》思い出すたびに、胸の奥が少しだけ熱くなる。その熱をうまく扱えないまま、私は火曜日の昼休みにスマホを見ていた。智子からのメッセージが届いていた。『綾瀬クリニックの見学の件、急がないけど、聞いてもらえたら嬉しいです』同期会で軽く受けた話だった。大原智子ちゃん。研修医時代の同期。私よりもずっと人との距離の取り方が上手くて、穏やかに笑う人。そして、大学時代の綾瀬先生を知っている人。智子はその頃の綾瀬先生を知っている。私は、知らない。その事実が、また少しだけ胸に引っかかった。見学の話は、ただの仕事の話だ。医師が別のクリニックに興味を持つのはおかしなことではない。転職を考える前に現場を見たいというのも自然だ。それなのに、私はメッセージを開いたまま、すぐに返信できずにいた。何を気にしているのだろう。気にするようなことはないのに、心は理屈通りには動かなかった。午後の診察前、私は診察室の前で綾瀬先生を呼び止めた。『先生』『うん?』綾瀬先生はカルテを片手に振り返る。いつもの軽い表情だった。私は少しだけ視線を落とした。『紹介したい人がいて』『誰?』短い返事。その声に少しだけ探るような色が混じった気がして、胸が落ち着かなくなる。『同期の大原智子ちゃんです』『前に少し話した、先生のことを大学時代から知っているって言っていた人で』『クリニックの見学に興味があるみたいなんです』言い終えてから、綾瀬先生の反応を待った。綾瀬先生はあっけなく言った。『いいよ』『え?』思わず聞き返す。『見学でしょ』『医師としてちゃんと見たいなら、外来の流れも見てもらえるし』『事務に日程調整してもらう』あまりにも普通だった。『……いいんですか』『だめな理由ある?』『いえ、ないですけど』『なら、いいよ』それだけだった。私は少しだけ複雑な気持ちになる。自分だけが気にしていたのだと思い知らされたようだった。綾瀬先生にとっては、ただの
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第116話 広がる選択肢
『今回の医療データ連携の案件、大学側でもかなり注目されてるから』『地域クリニック側の実務を知っていて、女性患者の視点も持っていて』『大学病院での研究経験もある人は貴重だと思う』私は黙って聞いた。女性患者の視点。大貴にも、優にも、父にも言われた。けれど、それぞれ意味が少し違う。優が言うと、私と会う理由にも聞こえる。父が言うと、白松の名前を立てるためにも聞こえる。大貴が言うと、現場と研究をつなぐ実務的な価値として聞こえる。同じ言葉なのに、誰が言うかでこんなにも違う。『綾香が入るなら』『大学側の実務や研究設計でも、関わる余地は出てくると思う』その言葉に、私は思わず顔を上げた。『大学側でも?』『うん』『地域クリニック側の代表としてだけじゃなくて』『大学病院側の研究実務ともつなげられる』『もちろん、正式にどう関わるかはまだ全然先の話だけど』胸の奥に、小さな熱が灯る。地域クリニック側の現場。大学病院側の研究。その両方に、自分が立てる可能性。そんなふうに考えたことはなかった。私は、ずっとどちらかを選ばなければいけないと思っていた。大学病院に戻るのか。地域クリニックで働き続けるのか。でも、もしかしたら、線は一つではないのかもしれない。『人はいつでも足りてないし』大貴は笑った。『それに、綾香みたいに一度外に出た人の視点って、結構大事だと思う』『大学病院の中にずっといると、見えないものもあるから』その言葉は、思っていたより深く入ってきた。私は、大学病院を離れたことを、ずっと遅れのように感じていた。結婚して、家に入り、医師としての道から離れてしまったこと。それは失敗で、空白で、取り戻さなければいけないものだと思っていた。でも、大貴はそれを違う見方で言った。外に出たからこそ、見えるものがある。地域クリニックにいる今の私だからこそ、できることがある。その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。『そんなふうに言われると』私は小さく笑った。『少し、期待しちゃうよ』『期待していいと思う』大貴はまっすぐ答えた。その声には、軽さがなかった。でも、重すぎもしなかった。『綾香は、もっと仕事の話をしていい人だと思う』『誰かの家の話とか、結婚の話とかじゃなくて』『自分の専門の話を』その言葉に、足が少し止まりそうにな
Last Updated: 2026-07-02
全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで

全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで

婚約発表のその日、 私は恋人と親友にすべてを奪われた。 三年付き合った恋人は、 私の成果で昇進しながら—— 隣に立っていたのは、私ではなく親友だった。 さらに私は、“関係を壊した側”として切り捨てられ、 地方の「あひるの支社」へと左遷される。 恋も、仕事も、居場所も失った。 ——けれど、それで終わりじゃない。 消されたはずの記録。 改ざんされたデータ。 そして、出張で東京に来ていた あひるの支社の代表・浅井拓真との出会い。 「それ、やっと気づいたんだ」 すべてを失った夜、私は“共犯者”を得る。 感情じゃない。 証拠で追い詰める。 奪われたのなら、取り返す。 これは、 会社と人生を懸けた復讐の物語。
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Chapter: 最終話:行ってきます
鍵を渡された日から、自然に。私と拓真は出発の準備をした。 早朝の羽田空港。まだ夜の名残を少しだけ残していた。高い天井。静かに響くアナウンス。行き交う人々の足音。大きなスーツケースを引く音が床を滑っていく。窓の外には何機もの飛行機が並び、その向こうの空はゆっくりと朝の色へ変わり始めていた。私は搭乗ゲート近くの椅子に座り、小さく息を吐く。手の中には搭乗券。足元にはスーツケース。そして隣には拓真がいる。それだけのことなのに、不思議な気持ちだった。少し前までの私は、こんな場所に座っている未来を想像できなかったから。婚約がなくなった日。すべてが終わったと思った。信じていたものが壊れて。積み上げてきた時間が消えて。頑張ってきた意味さえ分からなくなった。会社へ向かうだけで苦しかった朝もあった。未来を考えることが怖かった夜もあった。もう誰も好きになれないかもしれないと思ったこともある。あの頃の私は、自分がどこへ向かうのか分からなかった。だから今ここにいることが、少し不思議だった。「何考えてる」隣から低い声が落ちてくる。私は顔を上げた。拓真はペットボトルの水を片手に持ちながらこちらを見ていた。ラフなニットにジャケット。少し眠そうな顔。それなのに目元だけは柔らかい。会社では絶対に見せない表情だった。私は小さく笑う。「……不思議だなって思って」「何が」「こんな未来あると思ってなかったので」拓真は少しだけ黙った。それから窓の外へ視線を向ける。朝日に照らされた滑走路。ゆっくり動き始める飛行機。その景色を見ながら小さく笑った。「俺も」短い返事だった。でもそれが本音だと分かる。私たちはしばらく黙ったまま窓の外を見つめる。心地いい沈黙だった。何かを埋めるための会話はいらない。ただ隣にいるだけで安心できる。そんな関係になったことが、今でも少し信じられない。私はそっと肩を寄せた。すると拓真が何も言わず肩を抱く。自然だった。当たり前みたいに。気づけばその温度が私の帰る場所になっていた。アナウンスが流れる。ロサンゼルス行き搭乗開始の案内。周囲の人たちが立ち上がり始める。私は前を見た。これから両親に会う。拓真を紹介する。未来の話をする。少し緊張する。少し怖い。でも逃げたいとは思
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第105話:未来の話
夜のリビングには、食後の穏やかな空気が流れていた。ダイニングテーブルの上には、食べ終わったテイクアウトの容器がいくつか並んでいる。飲みかけのワイングラス。半分だけ残ったサラダ。シンクでは食洗機の低い音が響いていた。仕事帰りに一緒に食事をして、ソファで少し話をする。そんな時間が最近の当たり前になっている。少し前の私なら信じられなかった。誰かと過ごす日常が、こんなにも心地いいなんて。私はソファに座りながらスマホを眺めた。通知欄には母からのメッセージ。未読が三件並んでいる。思わず小さく息を吐いた。その様子に気づいたのか、キッチンから拓真の声が飛んでくる。「何」コーヒーを淹れながら振り返る。私はスマホを持ち上げた。「母です」「ん?」「最近全然連絡返さないから、いつLA来るのって」その瞬間、拓真が少し笑った。「圧強いな」「母なんで」私もつられて笑う。昔から変わらない。気になったらすぐ連絡してくるし、返事がないと追撃もしてくる。けれどその笑いは途中で少しだけ止まった。LA。両親。拓真。頭の中でその言葉が自然につながる。以前なら考えられなかった。未来を想像すると、不安の方が先に来ていたから。でも今は違う。気づけば、その未来の中に拓真がいる。それが当たり前になり始めている。拓真は二人分のコーヒーを持って戻ってきた。隣に腰を下ろす。肩が軽く触れる。その距離が自然だった。「行く?」不意に落ちてきた声に私は顔を上げる。「……え?」「LA」低く穏やかな声。まるで来月どこかへ旅行に行くかを相談するみたいな口調だった。私は少しだけ目を瞬く。「……いいんですか」「何が」「その……」言葉を探す。少しだけ緊張した。「私の両親に会うの」部屋が静かになる。拓真はしばらく何も言わなかった。それからゆっくり目を細める。「愛海が嫌じゃないなら」低い声。真っ直ぐだった。「ちゃんと挨拶したい」胸の奥が熱くなる。重すぎない。でも軽くもない。その言葉にはちゃんと未来があった。私は少し笑う。「……じゃあ、そのうち行きましょうか」拓真も笑った。安心したように。嬉しそうに。「うん」短い返事だった。でも、その一文字だけで十分だった。しばらく沈黙が落ちる。居心地の悪い沈黙じゃない。
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第104話:ここにいたい
夜のリビングは静かだった。テレビはついている。バラエティ番組らしい笑い声も流れている。けれど、二人ともほとんど見ていなかった。私は拓真の腕の中にいた。背中に回された腕。肩越しに伝わる体温。時折髪を撫でる指先。それだけで、不思議なくらい落ち着く。少し前までなら考えられなかった。誰かの腕の中で、こんなふうに安心する日が来るなんて。「今、めちゃくちゃ帰したくなくなった」耳元に落ちた声を思い出す。その言葉の余韻がまだ胸の奥に残っていた。私は小さく息を吐いた。すると頭の上から低い声が降ってくる。「愛海」「はい」拓真が少しだけ髪に顔を埋める。「今日、自分から帰りたくないって言った」どこか嬉しそうな声だった。私は思わず顔を熱くする。「……言いました」「うん」短い返事。でも、その一言だけで機嫌がいいのが分かる。少し前までの拓真なら、こんなことは隠していただろう。会社で見る彼はいつだって余裕があった。感情を見せない人だった。でも今は違う。私の前では驚くほど分かりやすい。「かなりやばい」「何がですか」そう聞くと、拓真が少し身体を離した。視線がぶつかる。近い。照明に照らされた瞳が柔らかく揺れている。「嬉しすぎる」真っ直ぐだった。飾りも冗談もない。ただの本音。その言葉に胸がぎゅっとなる。拓真は私の頬に手を添えた。親指がゆっくり肌を撫でる。優しいのに、妙に熱を持っている。私は無意識にその手へ頬を寄せた。すると拓真がふっと目を閉じる。まるで何かを耐えるみたいに。「……愛海」「え?」「最近、無自覚に煽るのやめて」思わず笑ってしまう。「煽ってません」「煽ってる」即答だった。その声が少し低い。私はまた笑う。すると拓真が腕を引き、私を引き寄せた。距離が縮まる。逃げられないほどじゃない。でも十分近い。「拓真」「ん?」「近いです」「知ってる」全然悪びれない。むしろ少し楽しそうだった。額にキスが落ちる。頬にも。鼻先にも。どれも優しくて、焦らすみたいにゆっくりだった。私は思わず目を閉じる。拓真が小さく笑った気配がした。「俺、ちゃんと待つって決めてるのに」「……」「愛海が近づいてくるから普通にしんどい」その声には困ったような響きが混じっていた。でも嫌そうじゃ
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第103話:帰りたくない
夜のリビングには、テレビの音が小さく流れていた。何の番組だったかは覚えていない。画面の中では誰かが話していて、時々笑い声も聞こえる。けれど私の意識はほとんどそちらへ向いていなかった。ソファの上で拓真の肩に身体を預ける。背中に回された腕。一定のリズムで髪を撫でる指先。その体温が心地よくて、気づけば肩の力が抜けていた。静かな時間だった。特別なことは何もしていない。出掛けるわけでもない。どこかへ行くわけでもない。ただ同じ部屋で過ごしているだけ。それなのに、不思議なくらい満たされていた。私はぼんやりと目を閉じる。すると頭の上から声が落ちてくる。「眠い?」低く穏やかな声。私は少し笑った。「……少しだけ」「寝る?」その言い方があまりにも自然で、思わず肩が揺れる。「拓真、最近甘やかしすぎです」すると隣から小さな笑い声が聞こえた。「今さら?」私は思わず顔を上げる。拓真はどこか楽しそうだった。「愛海、甘やかすとすぐ顔緩むから」「……」図星だった。悔しいけれど否定できない。拓真はそんな私を見て少しだけ目を細める。それから自然な仕草で頬にキスを落とした。触れるだけの軽いキス。けれどその優しさに胸が熱くなる。「……拓真」「ん?」「最近、幸せそうですよね」自分でも不思議な質問だった。でも聞いてみたくなった。すると拓真は少しだけ笑った。「幸せだから」迷いのない返事だった。当たり前のことを答えるみたいに。その声に嘘はなかった。私は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。拓真は少し視線を落とした。「こういうの好きなんだよな」「……こういうの?」「普通の恋人みたいなやつ」少し照れたように笑う。「家具見たり」「送り迎えしたり」「くだらないことで嫉妬されたり」最後だけ少し意地悪そうだった。私は思わず睨む。でも拓真は全然気にしていない。むしろ楽しそうだった。「全部好き」静かな声だった。飾り気もない。でも本音だと分かる。私はその横顔を見つめる。樹との恋も幸せだった。大切にされていた。愛されていたと思う。けれど今振り返ると、私はどこか受け身だった。相手が決める未来に乗っていた。相手の手を取って進んでいた。自分で選んでいるつもりでも、どこかで流されていた。でも今は違う。拓真
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第102話:選びたい
夜のリビングには、テレビの音だけが静かに流れていた。バラエティ番組だったと思う。誰かが何かを話していて、時々笑い声も聞こえる。でも、その内容はほとんど頭に入ってこなかった。私はソファの端に座り、拓真の肩へそっと身体を預ける。隣から伝わる体温が心地いい。すると拓真が自然に手を伸ばし、私の髪を指で梳いた。ゆっくりと。優しく。髪を撫でるその仕草に、以前のような焦りはない。付き合い始めた頃の拓真は、もっと真っ直ぐだった。好きだと言う。会いたいと言う。抱きしめたいと言う。その気持ちを隠そうとしなかった。でも今は少し違う。私が何を考えているか。どんな顔をしているか。ちゃんと見ながら触れる。待ちながら触れる。大切なものを扱うみたいに。その優しさが胸に沁みた。「……」気づけば私は拓真のシャツの袖を指先で触っていた。すると頭上から声が落ちる。「何考えてる」低くて穏やかな声。私は少し笑った。「別に」「嘘」即答だった。しかも少し笑っている。最近の拓真はこういうところがある。私の嘘を見抜くのが上手い。隠そうとしても、大体ばれてしまう。私は小さく息を吐いた。それから視線を落としたまま口を開く。「……拓真って」「ん?」「最初から距離近かったですよね」拓真が少しだけ笑う気配がした。「まあ」短い返事。そして迷いなく続ける。「好きだったから」心臓が跳ねる。相変わらずだ。こんなことを照れもせずに言う。私は思わず視線を逸らした。樹もそうだった。最初から真っ直ぐだった。積極的だった。気づけば付き合っていた。婚約もそうだった。私は流れに乗っていた部分が大きかった。好きだった。もちろん本当に好きだった。でも今振り返ると、どこか受け身だった気がする。相手に選ばれて。相手に手を引かれて。気づけば未来へ進んでいた。恋愛とはそういうものだと思っていた。でも。今は違う。私はそっと拓真のシャツを掴む。拓真の身体が少しだけ動いた。視線がこちらへ向く。「愛海?」私は少しだけ唇を噛んだ。恥ずかしい。でも、言いたかった。「私」声が少し震える。「今まで、自分から恋愛したことなかったかもしれないです」部屋が静かになる。テレビの音だけが遠くなる。拓真は何も言わない。急かさない。た
Last Updated: 2026-06-03
Chapter: 第101話:過去
金曜日の夜の空気は少し冷たかった。ショールームを出ると、昼間の賑わいが嘘みたいに落ち着いていて。駐車場へ続く通路には柔らかな照明だけが並んでいる。隣を歩く拓真は、さっき圭吾に散々からかわれたことなんて気にしていないみたいだった。車のキーを指先で回しながら歩いている。その横顔を見ていると、また胸の奥がざわついた。「……」拓真がちらりとこちらを見る。「何」「別に」即答する。すると拓真が少し笑った。「嘘」その言い方に少しむっとする。だって仕方ない。さっきから頭の中が落ち着かないのだ。大学時代。海外時代。来る者拒まず。モデルが寄ってきていた。圭吾が笑いながら話していた言葉が、何度も頭の中を巡る。知らない拓真。私が会うずっと前の時間。当たり前なのに。なぜか少しだけ胸が痛かった。車に乗り込む。ドアが閉まる音。エンジンがかかる音。静かな車内に、夜の街の光が流れていく。しばらく黙っていたけれど、結局我慢できなかった。「……昔」窓の外を見たまま呟く。「かなり遊んでたんですか」数秒の沈黙。そのあと、隣で小さな笑い声がした。「何その聞き方」「だって」私は視線を戻さない。「森さん、普通に言ってましたし」拓真はハンドルを握ったまま苦笑した。「圭吾の話、八割盛られてるぞ」「じゃあ二割は本当なんですね」「そこ食いつく?」少し笑っている。その余裕が悔しい。すると拓真は観念したみたいに息を吐いた。「まあ、モテたのは事実」胸がちくりと痛む。「二十代は普通に遊んでたし」否定しない。変に誤魔化さない。だから余計に想像してしまう。海外の街。華やかなパーティー。綺麗な人たち。今の拓真からは想像できない世界。「……」窓ガラスに映る自分の顔が少し不機嫌そうで、嫌になる。すると信号で車が止まった。静かな車内。その瞬間、拓真が片手を伸ばしてきた。私の手を掴む。大きくて温かい手。そのまま親指が指先をゆっくり撫でた。まるで機嫌を取るみたいに。「……」心臓が跳ねる。「そんなに気になる?」低い声。からかうようでいて、ちゃんと私を見ている。私は少しだけ唇を尖らせた。「だって」言葉を探しながら続ける。「拓真って、絶対モテるじゃないですか」その瞬間。拓真が吹き出した。本当に可笑し
Last Updated: 2026-06-03
隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

32歳、広告代理店勤務の平原愛子は、誕生日当日に同棲中の恋人から別れを告げられた。仕事に全てを捧げるうちに、人との距離の縮め方さえ忘れていた愛子。そんな彼女の隣の部屋に住んでいたのは、5年前に自分から音信不通にして別れた年下の元恋人・翔太だった。忘れたはずなのに、声も距離も匂いも、身体だけが覚えている。一方、失恋をきっかけに距離が縮まったのは、五年来の親友で同期の正人。「試しでもいいから付き合わない?」穏やかな恋に救われ始めたはずなのに。捨ててしまった恋は、隣の部屋に住んでいる。
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Chapter: 第41話:少しずつ落ち着く
金曜日の朝。洗面所の鏡の前に立って、私はいつもより少しだけ長く自分の顔を見ていた。といっても、ほんの数分だ。肌を整えて、眉を描いて、リップを塗る。髪の毛先を軽く巻いて、手ぐしで崩す。それだけのことなのに、鏡の中の自分が少しだけ見慣れた顔に戻っていく気がした。——別に、誰のためでもない。心の中でそう呟いて、リップの蓋を閉める。本当に、誰かのためではなかった。拓也と別れた直後は、鏡を見ることさえしんどかった。自分の顔を見るたびに、三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女、という現実を確認させられる気がしたからだ。何を着ても、何を塗っても、どこか空回りしていた。頑張っている自分も、疲れている自分も、まだ傷ついている自分も、全部そこに映ってしまう気がした。でも、最近は少し違う。朝、ちゃんと起きる。簡単でも朝ごはんを食べる。仕事へ行く。昼に何かしら口に入れる。夜、余力があればジムへ行く。帰ってきて、シャワーを浴びて、眠る。たったそれだけの普通が、少しずつ戻ってきた。仕事しかない毎日でもない。恋人がいなくなった穴を、無理に誰かで埋めようとしているわけでもない。ちゃんと、自分の生活の形が戻ってきている。それが少しだけ嬉しかった。拓也のことを思い出しても、もう胸の奥が崩れる感じはしない。好きだった。一緒に暮らした時間もあった。未来を考えたこともあった。でも、もうそこには戻らない。戻りたいとも思わない。その事実が、ようやく身体の中に落ち着いた気がした。今日は金曜日。ちゃんと働いて、できればジムにも行って、週末は少しだけ自分を甘やかそう。そう思いながら、私は玄関の鍵を閉めた。***午後。定例会議の前、私はPCと資料を抱えて会議室へ向かっていた。金曜の午後のオフィスには、週末前の軽さと、今日中に片付けなければいけない仕事の重さが同時に混ざっている。コピー機の音。誰かの電話の声。会議室へ向かう人たちの足音。その中を歩いていると、横から声がした。「重そう」振り向くと、正人だった。ネイビーのジャケットに、少しだけ緩めたネクタイ。相変わらず、忙しい日でも乱れた感じがしない。正人は私の返事を待たずに、自然な動きでPCと資料の半分を受け取った。「え」「持つ」当たり前みたいな顔だった。私は少し眉を上
Last Updated: 2026-07-04
Chapter: 第40話:春の気配
木曜日になった。午後の定例まで、少しだけ時間が空いた。社内チャットの通知が流れる。相変わらず仕事は多い。それなのに、少し前ほど息苦しくない。私はコーヒーを口に運びながら、ぼんやり窓の外を眺めた。失恋した直後は違った。何をしていても気持ちが沈んでいた。仕事をしていても集中しきれず、家へ帰れば静かすぎる部屋に気持ちが引き戻された。拓也と過ごした時間ばかり思い出していた。今も、思い出さないわけではない。ただ。思い出しても、そのまま次の仕事へ戻れる。ちゃんと眠れる。ちゃんと食べられる。そんな変化を、自分でも感じていた。「珍しくぼーっとしてるな」顔を上げる。正人だった。紙カップを二つ持っている。そのまま向かいへ腰を下ろし、一つを私の前へ滑らせた。「ありがとう」「最近ちゃんと水分取るようになったから、褒めてやる」「何その上から目線」思わず笑う。正人も小さく笑った。最近の正人は、少しだけ変だ。いや、変というより、前より細かいところを見ている気がする。風邪を引いてから、特にそうだ。ありがたい。ありがたいけれど、たまに保護者みたいだなと思う。「そういえば」ふと思い出す。「麻衣ちゃん、どうなの?」正人がコーヒーへ伸ばした手を止めた。正確には、止まったというより、紙カップを持ったまま私を見た。「何が」「いや、なんかいい感じじゃない?」私は軽い気持ちだった。先日の打ち上げを思い出す。麻衣ちゃんは、正人の隣にいる時間が長かった。話すたびに楽しそうだったし、帰り際も最後まで残っていた。あれは分かりやすかった。少なくとも、私にはそう見えた。正人はすぐには返事をしなかった。それからようやく口を開く。「勝手なこと言うな」「だって」私は肩をすくめる。「普通に合いそうじゃない?」正人は苦笑した。けれど、その笑い方はどこか力が抜けきっていない。口元だけが形を作って、目の奥は少しも笑っていなかった。「何でそうなるんだよ」「いや、本当に」私は本気だった。「正人って普通にモテるじゃん」その瞬間、正人の視線がほんの少しだけ逸れた。テーブルの上。紙カップ。そこへ一度目を落としてから、また私を見る。その動きが妙にゆっくりだった。「何その評価」「客観的な評価」私は笑って、指を折る。「仕事で
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第39話:少し楽な距離
水曜日の夜。ランニングマシンの速度を落としながら、愛子は大きく息を吐いた。耳元で流れていた音楽を止める。汗ばんだ首筋にタオルを当てると、じんわりと熱が引いていくのが分かった。最近、この時間が嫌いじゃない。仕事だけして帰る日々から、少しだけ抜け出せている気がする。失恋した直後は、何をしていても頭の片隅に拓也がいた。でも今は違う。走っている間だけは何も考えなくて済む。それが少しありがたかった。ストレッチスペースへ移動しようとした時だった。「小林さん」後ろから声がする。振り返ると、ジムのトレーナーだった。二十代後半くらい。いつも愛想が良くて、よく会員に声を掛けている人だ。「あ、お疲れさまです」「だいぶフォーム安定してきましたね」愛子は少し笑った。「本当ですか?」「最初の頃より全然」そう言いながら、しゃがみ込んでタブレットを見せてくる。走行記録。心拍数。消費カロリー。思ったよりちゃんと見ているらしい。「続いてますね」「自分でもびっくりです」「週二回ですよね?」「そうです」「十分です」熱心な人だなと思う。仕事もちゃんとしていそうだ。広告業界にいたら重宝されそう。そんなことを考えていると。「もし良かったら、一回フォーム見ますよ」と続いた。「パーソナルですか?」「そうです」営業か。でも押し付ける感じはない。愛子は苦笑する。「固定予約って難しいんですよね」「合わせますよ」「仕事が読めなくて」「じゃあ」トレーナーが少しだけ笑う。「チャットアプリ交換しておきます?」「空いてる時だけでも」愛子は一瞬だけ考えた。確かに便利かもしれない。でも。仕事でもプライベートでも通知だらけなのに、さらに増えるのも面倒だ。「すみません」愛子は笑った。「まず続けられるか確認してからにします」「あー」トレーナーが残念そうに笑う。「確かに」その時だった。何となく視線を感じた。愛子が顔を上げる。少し離れたフリーウェイトエリア。翔太がいた。黒いTシャツ姿。ベンチから立ち上がったところだった。一瞬だけ目が合う。あ。見られてた。そんな気がした。けれど翔太は何事もなかったように視線を外し、ペットボトルを口元へ運んだ。愛子も特に気にしなかった。***ジムを出る頃には二十二時を回
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第38話:春、到来?
木曜日の午後。定例前のオフィスには、独特の慌ただしさが流れていた。まだ会議は始まっていない。それなのに、誰も完全には休んでいない。資料を開きながら社内チャットを返す人。会議室の前で最終確認をしている人。コーヒー片手に数字を見直している人。ラウンジの窓際で、私は正人と並んでパソコンを開いていた。春の日差しがガラス越しに差し込んでいる。少し前まで毎日終電だったことを思うと、今日はまだ平和な方だった。「この導線、やっぱり弱いかも」私は資料を見ながら言う。正人が画面を見たまま頷いた。「数字先に出した方がいい」「やっぱり?」「うん。その方が納得する」私は小さく息を吐いた。「思った」「じゃあ順番変える」短い。でも通じる。五年。一緒に仕事をしていると、説明がどんどん減っていく。何を気にしているか。どこで引っかかっているか。大体分かる。正人がコーヒーを持ち上げる。「最近ちょっと戻ったな」私は顔を上げた。「何が?」「顔」思わず笑う。「またそれ?」「さやかにも言われた」「じゃあ正解」即答だった。私は肩をすくめる。「最近ジム行き始めたからかな」正人が少し眉を上げた。「珍しい」「幽霊会員復活」「偉いじゃん」「太ったので」即答すると、正人が小さく笑った。その笑い方が少し柔らかかった。安心したみたいに見える。私は気づかない。ただ最近、自分でも少し戻ってきたと思っていた。失恋して。引っ越して。風邪もひいて。色々止まっていた。でも今は違う。ちゃんと食べて。ちゃんと寝て。少し運動もして。少しずつ、自分の生活を取り戻している。「あ、正人さん!」後ろから声が飛んできた。振り返る。麻衣だった。人懐っこくて、誰とでもすぐ仲良くなるタイプの後輩だ。「この前の案件、本当に助かりました!」麻衣はそのまま正人のデスク横へしゃがみ込む。近い。でも本人は全く気にしていない。正人は少しだけ椅子を引いた。「お疲れ」「今度ランチ連れてってくださいよ」「みんなでなら」「あー、また逃げる」麻衣が唇を尖らせる。「正人さん絶対モテますよね」「仕事戻れ」「ひどーい!」笑いながら去っていく。私はその背中を見送りながら、思わず吹き出した。「なに」正人が言う。「いや」私は肩を揺らす
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第37話:ジムに行けた
もっと何か言われると思った。それだけ?とか。続かなそうですね、とか。そういう軽口を想像していた。でも翔太は、普通に肯定した。「久しぶりなら、それくらいでいいと思います」その言い方が、少しだけ意外だった。昔の翔太なら、もっと分かりやすく心配した気がする。今は違う。押しつけない。でも、見ている。そういう距離感だった。「翔太は?」私は聞く。「筋トレ?」「はい」「いつから?」「ここ一年くらいですかね」「へえ」一年。私の知らない一年。その中で、翔太はこうやって身体を作っていたのかと思う。仕事をして。出張して。英語で電話して。本を読んで。ジムに通って。私の知らない生活が、ちゃんと積み重なっている。目の前の肩や腕の線は、その時間の結果だった。私はつい、翔太の腕へ視線を落としてしまう。すぐに戻したつもりだった。でも、翔太には見えていたらしい。「何ですか」低い声で聞かれる。昨日と同じような言い方だった。私は少しだけ焦る。「いや」「はい」「ちゃんと鍛えてるんだなと思って」翔太は一瞬黙った。それから少し視線を逸らす。「まあ、多少」その返しが妙に控えめで、少し笑ってしまった。「多少じゃないでしょ」「そうですか」「うん」言ってから、また少し恥ずかしくなる。昨日から私は何をしているんだろう。でも、そう思ったのだから仕方ない。翔太はタオルで首元の汗を拭いた。その仕草が妙に大人びて見えて、私はまた少しだけ目を逸らす。「無理しないでくださいね」翔太が言う。「今日初日なので」「初日っていうか復帰日」「じゃあ復帰戦」「大げさ」「でも、続けるなら最初に頑張りすぎない方がいいです」その言い方に、少しだけ笑う。「ちゃんとしてる」「何がですか」「言うこと」翔太は少しだけ肩を竦めた。「大人なので」昨日の私の言葉を拾ったのだと分かって、思わず笑ってしまう。「根に持ってる?」「少し」「褒めたのに」「褒め方が雑なので」そう言いながらも、翔太の目元は少し柔らかかった。昨日よりは、うまく受け流している。でも、完全に平気というわけでもなさそうだった。そういうところに、昔の翔太が少しだけ残っている。私はマットの上で膝を抱えたまま、ふっと息を吐いた。「でも、来てよかった」自然に言
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第36話:身体を動かす理由
土曜日の午後。私はクローゼットの前で、しばらく立ち尽くしていた。奥の方に押し込まれていたジム用のバッグ。その上には、使っていないトートバッグや、季節外れのストールが雑に重なっている。引っ張り出すと、少しだけ埃っぽい匂いがした。「……ひどい」思わず声が出る。最後に使ったのはいつだっただろう。たぶん、拓也と別れる前。いや、その前からもうほとんど行っていなかった気がする。家からも会社からも通いやすい場所にあるから、契約した時は便利だと思った。仕事帰りに少し走って帰る。週末に軽く身体を動かす。そういう生活をするつもりだった。でも実際には、忙しさを言い訳にして、そのまま幽霊会員になった。月会費だけが引き落とされていく。健康的な生活への、無言の罰金みたいに。私はバッグのファスナーを開ける。中には、畳んだままのウェアと、少し古いタオルが入っていた。久しぶりに触るスポーツ用の生地は、妙に軽かった。昨日の夜。エレベーターで会った翔太の姿を思い出す。黒いトレーニングウェア。少し湿った前髪。ジムバッグ。昔より厚くなった肩。かっこよくなったな、なんて。自分でも驚くようなことを口にした。思い出すと、少しだけ頬が熱くなる。別に、変な意味じゃない。本当にそう思っただけだ。昔知っていた人が、知らない時間の中でちゃんと大人になっていた。そのことに、少し驚いただけ。そう自分に言い聞かせながら、私はウェアを取り出した。別に翔太に影響されたわけじゃない。たぶん。ただ、昨日ジムの話をした時に思い出したのだ。私も契約していた。行こうと思えば行ける場所がある。そして今は、少しだけ行ってみようと思える。それが意外だった。少し前なら無理だったと思う。休みの日は、ただ横になっていたかった。何かを始める気力なんてなかった。拓也のことを考えないようにするだけで精一杯で、自分の身体のことまで手が回らなかった。でも今は違う。完璧に元気になったわけじゃない。何もかも平気になったわけでもない。それでも。身体を動かしたいと思えた。汗をかいて。呼吸を整えて。自分の中に残っている重たいものを、少しだけ外へ出したい。そう思えた。私は鏡の前で髪を結び直した。黒のレギンス。大きめの白いTシャツ。薄いパーカー。化粧は最低限。
Last Updated: 2026-07-03
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