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九重有
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Novel-novel oleh 九重有

沼の声

沼の声

地方都市の沼の近くで、連続殺人事件が起こる。 被害者たちは皆、死の直前に同じ言葉を残していた。 ――「声を聞いた」 新聞記者である〈私〉は取材を進めるうちに、事件と十年前に起きた妹の通り魔殺人事件との奇妙な符合に気づく 犯人はすでに死亡し、事件は解決したはずだった それでも夜になると、私の耳にはあの日と同じ声が蘇る 「聞かなければ、楽になる」 沼に囲まれた町に残る血塗られた因習 消された記録 歪められた記憶 そして、聞こえるはずのない声 私が追っていたのは連続殺人事件ではなかった 聞いていないことにしてきた真実が 静かに語り始める物語である。
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Chapter: 21話 確認者
 朝になっても、私は戻らなかった。 戻らなかった、と考えた時点で、まだどこかに私は残っていたのかもしれない。 けれど、玄関の鏡に映っていたのは、私ではなかった。 真壁朔也だった。 そう呼ばれる形をした顔。 そう返事をするための喉。 そう署名するための手。 朝の挨拶は、よく回る。 おはようございます、と言えば相手の顔がほどける。 ほどけた顔の隙間に、紙の白さが差し込む。 真壁朔也は笑う練習をしなくてよかった。 笑う必要がある時に、笑えばいい。 それだけだ。 頬の筋肉は、役のために動く。 公民館の鍵は軽い。 昨日、町内会の女が印と一緒に置いていったものだ。 「朝、開けておいて」 それだけの言葉だったのに、鍵を持った時から、もう断れないものになっていた。 軽い鍵で開く扉ほど、重いものが入っている。 真壁は靴を揃え、帳面のある机へまっすぐ歩いた。 新しい台帳の背に「確認者」とある。 白いページが、皮膚みたいに薄い。 薄いから、触るとすぐ熱を持つ。 熱を持つと、生き物に見える。 生き物に見えれば、手が止まりにくい。 朱肉の蓋を開けると、湿り気が鼻の奥を撫でる。 朱は血に似ているのに、血の匂いがしない。 血の匂いがしないから、罪悪感が立たない。 罪悪感が立たないまま、赤だけが残る。 それがいちばん都合がいい。 今日の来客は、よそ者だった。 町の外から来た若い男で、背中に癖のない荷物を背負っている。 癖のない人間は、まだ紙に逆らう形を持っていない。 まだ自分の名を守る術を知らないからだ。 男は玄関で立ち止まり、空気を吸い込んだ。 沼の匂いに気づく顔をした。 その顔が、少しだけ哀れだった。 哀れは、手続きを滑らかにする。 「相談ですか」 真壁は自分の声が低すぎないことを確かめてから言った。 低すぎると怖がられる。 怖がられると抵抗される。 抵抗は紙を汚す。 紙が汚れると、余計に手がかかる。 男は頷き、何かを説明しようとした。 真壁は最後まで聞かない。 言葉を聞くと人間が混ざる。 混ざった人間は後味が悪い。 後味が悪いと、次の線が揺れる。 「まず、確認だけ」 真壁は机の上に一枚の紙を置いた。 閲覧確認書。 欄は少ない。 少ない欄ほど逃げ道がない。 男は紙を見て、ペンを取ろうと
Terakhir Diperbarui: 2026-06-22
Chapter: 20話 起点
第20話 起点 名簿更新日の翌朝、目が覚めて最初に玄関へ行った。 理由は分からない。ただ、鍵を見なければいけない気がした。 鍵は内側から閉まっていた。 閉まっていたはずなのに、鍵穴の縁に細い傷が増えている。 刺して抜いて、刺して抜いた回数の傷だ。 家の鍵にまで手続きが染みると、家はもう家ではなくなる。 内側から鍵を見ているのに、外から入ろうとしている気がした。 そう思ってから、また嫌になった。 玄関から台所へ戻ると、匂いが先に来た。 紙の匂い。糊の匂い。朱肉の匂い。 どれも昨日まで役場で嗅いだ匂いなのに、台所の空気に混ざっている。 テーブルの上に、封筒が三通並んでいた。 並び方が整いすぎている。 誰かが端を揃えた並び方だ。 鍵は閉まっていた。 それをもう一度思った。 思ったところで、何の役にも立たなかった。 昨夜、ここには何もなかった。 少なくとも、私は見ていない。 見ていないものが、朝には整って置かれている。 それがいちばん嫌だった。 誰かが入ったのか。 紙だけが先に来たのか。 考えようとして、どちらでも同じだと思った。 一通目は「最終確定通知」。二通目は「関係者名受理控」。三通目は、白紙のように見える薄い紙で封がされていた。 宛名だけが黒い活字で大きい。 真壁朔也 様。 活字の「真壁朔也」は、もう何度も見ている。 見ているのに、喉の奥がひりつく。 自分の名を見ているはずなのに、名前の方が自分を見返してくる。 封を切る前に、携帯が震えた。 知らない番号ではない。 町内会の連絡網の中に混ざっていた番号だ。 「真壁さん」 町内会の女の声が出た。 朝の声なのに夜みたいに落ち着いている。 落ち着きは、落ち着かせるための声だ。 「今日で終わるから。九時。公民館」 終わる。 終わると言いながら、始める予定が透ける。 「部屋の角にいた女は」 私が言うと、女は短く笑った。 「もう関係ないわ」 関係ない。 関係ないと言えるのは、関係を確定する側だけだ。 電話が切れると同時に、チャイムが鳴った。 短い二回。 私は覗き穴を見た。 隣の家の老婆だった。 いつも朝に植木へ水をやる老婆だ。 今日はバケツを持っていない。 手が空いているのに、手の甲だけが少し濡れている。 「真壁さん」 
Terakhir Diperbarui: 2026-06-22
Chapter: 19話 二重台帳
 朱い印の音が、まだ耳に残っていた。 誰も私を止めなかった。 止めないというより、もうこの部屋で必要な分は済んだ、という顔をしていた。 私は椅子を引き、照合室を出た。 廊下の空気が少しだけ生温かかった。 役場の中で温度が戻るのは、紙の白さから目を逸らせた時だけだ。 だが、今日は逸らせない。 廊下の向こうで、さっきの「真壁朔也」が連れていかれている。 職員の背中に隠れて、背の曲がった男の影が揺れる。 番号札も名札もない胸。 返事だけが残る喉。 私は歩いた。 追うふりはしなかった。 追うふりをすると、追った事実が手続きになる。 廊下の掲示板の前で立ち止まったふりをして、視線の端で男の行き先を拾う。 職員は窓口の列へ男を混ぜ、別の窓口へ回した。 回すという動きが、荷物を回す動きに似ている。 荷物は落ち着く。 落ち着いた荷物は運びやすい。 そう思ってから、嫌になった。 私は人を荷物だと思いたいわけではない。 けれど、この町の手続きは、人を荷物に見える位置へ運ぶ。 男は振り向かない。 振り向かないのは、振り向く必要がないからだ。 名で呼ばれ、返事をし、次へ行く。 そういう生活が体に染みている。 窓口の札には「更新」「照合」「控え発行」と並び、どれも正しい顔をしている。 正しい顔の前で、男が「真壁朔也」として紙に触れる。 触れた瞬間、私の方が余計に薄くなる。 薄くなるのに、宛名だけは分厚い。 男は窓口の前で紙に触れたあと、職員に促されて奥へ歩いた。 客用の廊下ではない。 職員通用口の方だ。 そこへ入る時だけ、職員は男の背に手を添えた。 案内というより、運搬に近い手つきだった。 出入口の脇で、さっき出ていったはずの清掃員がモップを引いていた。 昨日、病院で見た背中と同じ丸さだ。 役場の制服の色が変わっても、背中の丸さは変わらない。 顔より先に、背中で分かった気がした。 私が近づくと、清掃員は目を合わせず、モップの柄だけを少し傾けた。 傾けた先は、職員通用口の方だった。 扉には「関係者以外立入禁止」。 どこへ行っても、禁止の札がある。 札のある場所へ、札のない人間が入る。 「昨日の人」 私が小声で言うと、清掃員は一度だけ頷いた。 「落ち着いたって言われる人は、ここを通る」 落ち着いた。
Terakhir Diperbarui: 2026-06-22
Chapter: 18話 更新日
 翌朝、町の放送が鳴った。 内容はいつもと同じ調子で、いつもより一段だけ事務的だった。 名簿更新日。 来庁のお願い。 提出の締切。 言葉の順番が、まるで天気予報みたいに平らで、平らなまま人を動かす。 雨が降ります。 傘を持ちましょう。 名簿を更新します。 名前を出しましょう。 そう並べられると、どれも同じことに聞こえる。 私は、テーブルの上の「関係者名提出補助票」を見た。 空白の上の凹みが、昨夜よりはっきりしている。 紙が勝手に濃くなるのではない。 こちらの目が、そこに寄っている。 寄った目は、予定を予定として認めてしまう。 認めたくないのに、見ているだけで少しずつ認めさせられる。 私は指先を握った。 昨夜、病院で拾った「落着」の紙片は、まだ上着のポケットに入っている。 洗ってもいないのに、そこだけ湿っている気がした。 紙が湿るのではなく、自分の皮膚が紙の方へ寄っている。 そう思って、また嫌になった。 玄関のチャイムが鳴った。 短い二回。 昨日と同じ鳴り方。 同じ鳴り方は、用件が変わっていないということだ。 ドアを開けると、町内会の女が立っていた。 笑顔が整っている。 整いすぎた笑顔は、もう結論を持っている。 「おはよう、真壁さん」 女は紙袋を持ち上げた。 「提出、代わりにしてあげる。代理提出、可だから」 代理提出可。 昨日の通知の文が、女の口から出ると温度を持つ。 温度を持った手続きは断りにくい。 「触るな」 私が言うと、女は驚いた顔をしなかった。 驚かないのが怖い。 その言葉も、その声の強さも、すでに想定されていた反応なのだと思った。 「触らないと進まないでしょう」 女は朗らかに言った。 「進まないと皆が困る」 皆が困る。 困るという言葉で、代理が正義になる。 私は紙袋の口元を見た。 折り返しがきっちりしている。 内側が少し湿っている。 紙を舐めた湿りの匂いがする。 封筒の口を閉じる指の湿りだ。 「部屋の角にいた女は」 私が言うと、女は一拍だけ間を置いた。 間を置いたのは、知らないからではない。 どの答えを使うか選んだからだ。 「更新日だから」 答えになっていない。 答えになっていないのに、答えになる音だ。 更新日だから、落ち着いた。 更新日だから
Terakhir Diperbarui: 2026-06-22
Chapter: 17話 失踪の手続き
第17話 失踪の手続き 夜になっても、提出依頼の紙はテーブルの上で白いままだった。 白いままなのに、もう汚れている気がする。汚れはインクではなく、視線の脂だ。見れば見るほど、空白の方がこちらを覚えていく。 私はペンを手に取らなかった。 代わりに上着を羽織った。 家の中にいると、紙の匂いが濃くなる。濃くなった匂いは、胸の奥を鈍く焦がす。 息が浅くなると、判断が遅れる。遅れた判断は、町に回収される。 部屋の角にいた女のことを確かめなければならない。 落ち着いた、というあの言葉の中身を見なければならない。 この町で「落ち着いた」と言われた人間は、家へ帰るとは限らない。 騒いだ人間。泣いた人間。名前を言い渋った人間。 そういう人間は、役場ではなく病院へ回される。治療ではなく、相談という形で。 中身を見ずに提出だけ進めれば、次に消えるのは自分だ。 そういう確信だけは、最初から喉に残っていた。 公民館へは行かなかった。行けばまず町内会の視線に捕まる。 捕まれば、問い合わせた事実が「協力」として記録される。 役場でもなく、町内会でもなく、いちばん人が薄く扱われる場所へ向かった。 病院へ向かう道は、昼間よりも狭く見えた。 街灯はある。あるのに、明るい場所が少ない。 光は道を照らすためではなく、暗い場所を区切るために置かれているみたいだった。 途中で、閉まった商店の前を通った。 シャッターには、古い町内会の貼り紙が残っている。 防犯。 声かけ。 見守り。 どれも、安心のための言葉のはずだった。 けれど夜に見ると、少し違って見える。 誰が誰を見ているのか。誰のために声をかけるのか。 見守るという言葉は、見張るという言葉と背中合わせで立っている。 私はポケットの中で指を握った。 何も持っていない。持っていないのに、紙片の角に触れている気がする。 家に置いてきたはずの提出依頼が、服の内側までついてきている。 そう思ってから、また嫌になった。 紙は歩かない。 歩かないものほど、こちらの歩幅をよく知っている。 町の外れの小さな病院。 看板の文字が古く、光が弱いところだ。弱い光の下では、嘘も本当も同じ顔になる。 夜間受付の窓口は閉まっていて、呼び鈴だけが置いてあった。 押すと、鈴の音が廊下を細く走った。 走った音に遅
Terakhir Diperbarui: 2026-06-22
Chapter: 16話 提出
役場を出てから、風の冷たさがずっと手のひらに残っていた。 陽はあった。 それなのに、風だけが冷たい。 私は封筒を持っていない。 持っていないのに、紙の角が指に刺さる感覚だけが残っている。 町内会の女が袋に入れた控えは、私の手には渡らなかった。 それでも、あの封筒は私より先に家へ帰っている気がした。 そう思ってから、また嫌になった。 紙は歩かない。 なのに、人間より先にいることがある。 先回りされたみたいで、それが嫌だった。 玄関の鍵を回すと、金属の擦れる音がやけに大きかった。 家の中は静かだった。 静けさが、紙の白みたいに薄い。 薄いから、少し触れただけで破れる。 玄関脇の郵便受けを開けた瞬間、湿った匂いが立った。 雨の匂いではない。 糊の匂いだ。 封筒が二通、入っていた。 役場の窓口で見たものと同じ薄い紙。 角が不自然にそろっている。 私はしばらく、それを見ていた。 誰が入れたのかを考えようとした。 考えようとしたのに、最初に浮かんだのは人の顔ではなく、指だった。 封筒の口を閉じる指。 紙の端を押さえる指。 私の手の上に重なった指。 宛名には、黒い活字で「真壁朔也 様」と打たれていた。 字が整いすぎていて、私の体温が届かない。 体温の届かない名前は、札になる。 一通目は「仮確定控」。 二通目は「関係者名提出依頼」。 提出という文字が、紙の上で硬く光って見えた。 台所のテーブルに並べると、封筒の角が揃った。 揃っただけで、部屋の中が少し役場になる。 白い紙があるだけで、人の声が小さくなる。 テーブルの上に置いた二通の封筒は、ただそこにあるだけだった。 ただそこにあるだけなのに、椅子の位置まで変えられた気がした。 ここは私の家のはずだった。 けれど、封筒が置かれた瞬間から、この部屋には窓口の順番ができている。 私が座る場所。 紙を置く場所。 返事を待たれる場所。 家は狭い。 役場よりずっと狭い。 狭い場所に紙を置かれると、逃げ場がないことだけがよく分かる。 私は封を切らずに、宛名だけを指でなぞった。 なぞると、活字が爪の中へ入ってくる気がした。 真壁朔也。 口に出していないのに、舌の裏が乾く。 それが私の名前なのか、私に貼られた札なのか、まだ分からない。 分からない
Terakhir Diperbarui: 2026-06-22
あなたの罪まで愛してる

あなたの罪まで愛してる

愛されたことのない御厨愛梨沙は、愛し方を知らなかった。見つめることを恋だと思い、後を追うことを愛だと思った。 2025年6月17日、彼女はジュエリーショップ【Y.COCO】で鴻上拓哉を見つける。妻も愛人も嘘もある男。けれど、誰かのために迷う横顔だけは、ひどく優しく見えた。 やがて拓哉は、誰にも言えない罪を犯す。愛梨沙は逃げない。責めない。ただ白い手袋の指先をそろえ、微笑む。 幸せな妻は知らない顔で朝食を並べ、赤い爪の愛人は男を追い詰める。その間で愛梨沙は、愛という名前をつけながら、拓哉の逃げ道を少し消していく。 「大丈夫。私だけは、拓哉さんの罪まで愛してる」
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Chapter: 18話 彼の困るもの
拓哉さんが困るものを麻里亜より先にそう思った瞬間、愛梨沙は息を吸うのを忘れました。写真メッセージ麻里亜のスマホたったそれだけなのに、白い手袋の中で指が勝手に曲がっていきます。麻里亜はまだ拓哉の近くにいました。近すぎるほど近くにいて、赤いケースのスマホを片手に持っています。拓哉はその画面を見ようとしませんでした。それでも視線は何度も赤いケースの方へ落ちます。(あれなんだ)愛梨沙はガラスの陰から、ほんの少しだけ身を乗り出しました。麻里亜のスマホ。あの中に、拓哉が困るものがある。「何の話だよ」拓哉の声は、さっきより小さくなっていました。麻里亜は笑います。「分かってるくせに」「麻里亜」「また名前」赤い爪が、スマホの端を叩きました。一度二度その小さな音を、愛梨沙は覚えてしまいました。赤なんて、ただの色のはずです。爪にも、ピアスにも、スマホにも、口元にも使える。ただそれだけの色です。それなのに麻里亜が持つと、全部が拓哉へ向いているように見えました。「消して」拓哉が言いました。今度は、お願いではありませんでした。麻里亜の口元が少しだけ動きます。「やだ」「麻里亜」「消したら、拓哉くん困らないでしょ」拓哉は一歩近づきました。麻里亜は下がりません。愛梨沙の手袋が、バッグの持ち手を握ります。近い近いよそんなに近くで、拓哉さんの息を取らないで「ふざけるな」拓哉の声が低くなりました。愛梨沙はその声を初めて聞きました。店員へ向ける声でも、麻里亜をなだめる声でもありません。知らない拓哉が、ほんの少しだけそこにいました。麻里亜は怖がりませんでした。「ふざけてないよ」赤いスマホを胸の前で持ったまま、麻里亜は言いました。「麻里亜、本気だよ」本気その言葉のあと、拓哉は黙りました。愛梨沙は拓哉の喉を見ていました。何か言おうとして、飲み込む。言えない。また、言えない。(言わなくていいよ)愛梨沙は白い手袋の中で指を開きました。(私には分かるよ。拓哉さん、困ってるんだよね)分かるはずがありません。拓哉のことを、愛梨沙はまだ何も知りません。好きな食べ物も、仕事中の声も、眠る前の癖も、本当は誰のところへ帰りたいのかも知らない。それでも、知らないところを自分の言葉で埋めていきました。拓哉さんは困っている拓哉さんは逃げた
Terakhir Diperbarui: 2026-06-29
Chapter: 17話 赤い指
赤い爪が、拓哉の袖を引いていました。ほんの少しの動きでした。それなのに愛梨沙には、濃紺の布が女の指に取られていくように見えました。拓哉は袖口を見て、それから麻里亜の手を見ました。「麻里亜」名前を呼ぶ声は、まだやわらかく聞こえました。けれど昨日のラウンジで聞いた声とは違います。店員に向けた丁寧さも、麻里亜に向けた甘さも、そこには少ししか残っていませんでした。麻里亜は手を離しません。「なに? 名前呼べば済むと思ってる?」赤い爪が、濃紺の袖をさらに引きます。拓哉は周りを見ました。朝の細い道に人は多くありません。通勤の靴音が駅の方へ流れていき、ホテルの裏口では清掃の人がワゴンを押していました。愛梨沙は店のガラスの陰に身を寄せたまま、息を浅くしました。見つかりたくありません。でも、離れたくもありません。(だめだよ。そんなに引っ張ったら、拓哉さんが困るよ)麻里亜の声は小さくなりました。小さくなったぶん、言葉の先が細く刺さります。「昨日だってさ、帰るの早かったよね」拓哉は答えません。「ピアス渡して、ちょっと優しくして、それで終わり?」「そういう言い方、やめよう」「じゃあ、どう言えばよかったの?」拓哉の指が、一度だけ袖口に触れました。麻里亜の手をほどこうとして、途中でやめたように見えました。愛梨沙の白い手袋の中で、指が曲がります。ほどけばいいのに。そう思いました。でも拓哉はほどきません。優しいからでしょうか。弱いからでしょうか。愛梨沙には、そのふたつの違いがまだよく分かりませんでした。「麻里亜、こんなところで話すことじゃない」「じゃあ、どこなら話すの?」麻里亜はすぐに返しました。「昨日も、あとでって言ったよね。あとでって、いつ? 麻里亜が黙るまで?」拓哉は唇を結びました。「ここじゃ目立つ」「目立つのが嫌なんだ」麻里亜が笑いました。笑っているのに、目元は少しもゆるみません。赤い爪だけが綺麗に光っています。「麻里亜と揉めてるところを見られるのが嫌なんだよね。ピアスを選ぶ時は、あんなに優しかったのに」拓哉は何も言いませんでした。ほんの短い沈黙でした。けれどその沈黙を、愛梨沙は拾ってしまいました。昨日、瑠璃子の青い朝を見た時と同じです。きれいな皿の端にあった男物の腕時計。麻里亜の写真の端に写った男の指。すず
Terakhir Diperbarui: 2026-06-29
Chapter: 16話 白い手袋
白い手袋は、指の根元で少し余りました。愛梨沙は何度か指を曲げました。布が皮膚の上で小さくずれて、そのたびに手だけが自分から離れていくようでした。爪の先まで自分のものなのに、もう素手ではありません。これなら、触ってもいいそう思ったら、胸の奥が少しだけ落ち着きました。拓哉に触れるわけではありません。そんなこと、まだできるはずがありません。けれど、拓哉のいた場所なら拓哉が触れたかもしれないものなら白い布が一枚あるだけで、許される気がしました。愛梨沙は朝になる前に部屋を出ました。雨はほとんど止んでいました。道路にはまだ水が残り、街灯の光が細く揺れています。空は青くなる手前の灰色で、駅前の看板だけが少し疲れた明るさをしていました。白い手袋は、まだ白すぎました。愛梨沙はそれが嫌で、手を少し握ります。布に指の形が浮かびました。昨日の夜、拓哉の匂いを探した時の熱が、まだほんの少し残っている気がしました。(今日は落とさないよ。見えないものでも、あなたが通ったかもしれない場所なら拾えるよね。誰も気にしない端っこまで、私が持って帰るから)何を拾うのか、自分でもよく分かっていません。それでも家にはいられませんでした。瑠璃子の青い朝と、麻里亜の赤い夜と、すず音の甘い白が画面の中で絡み合い、愛梨沙の部屋まで狭くしてしまったからです。外に出れば、拓哉の通った場所がありました。【Y.COCO】の硝子。駅前の横断歩道。黒い缶の自動販売機。ホテルの近くの道。昨日、同じ硝子に映った店そこには、まだ何か残っている気がしました。最初に向かったのは、自動販売機でした。黒い缶がいつもの場所に並んでいます。昨夜も見た黒。拓哉が手にしていた黒。すず音の写真にも写っていたかもしれない黒愛梨沙は白い手袋の指で、ボタンの縁に触れました。機械の表面は少し湿っていて、朝の空気をまとっています。何人もの指が触れた場所です。拓哉の指がここに触れたかどうかなんて、分かるはずがありません。だから触れました。分からない場所ほど、まだ残っている気がするのです。(ここを押したかもしれないんだよね。拓哉さんの指が、私の知らない朝にここへ来たかもしれない。そう思っただけで、ただのボタンじゃなくなるんだよ)ボタンを押すと、缶が落ちる音がしました。ごとん朝の駅前に、その音だけが少し大きく響
Terakhir Diperbarui: 2026-06-28
Chapter: 15話 青い朝と赤い夜
愛梨沙は、画面の中の赤い薔薇を押さえたまま動けませんでした。指先の下には硝子があり、その向こうに麻里亜の耳元があります。小さな薔薇のルビー。赤い爪。半分だけ隠れた顔。嬉しかったから載せちゃう、という軽い言葉。奥さんには内緒。その一文だけが、何度読んでも消えませんでした。内緒なら見せなければいいのに。内緒なら拓哉の言葉を守ればいいのに。それでも麻里亜は載せました。赤い爪で秘密の端をつまみ上げて、誰でも見られる場所へ置いたのです。(拓哉さん、困っただろうな。こんなの見つかったら困るもんね。でも、少し嬉しかったのかな。麻里亜さんがそんなに喜んでくれて、可愛いって思ったのかな)胸の奥が、嫌な音を立てました。可愛い。その言葉が浮かんだだけで、口の中が苦くなります。愛梨沙は麻里亜の画面を閉じずに、別の名前を探しました。鴻上瑠璃子。すでに何度も見た名前です。青い紫陽花、朝食、夫の好きなもの、夫婦茶碗、葡萄、落ち着いた白い皿、明るい窓辺。麻里亜の赤い部屋を見たあとでは、瑠璃子の画面は冷たい水のように見えました。愛梨沙は瑠璃子のSNSを開きました。@kougamike_no_asa6画面の中には、相変わらず静かな朝が並んでいました。青い紫陽花が挿された透明な花瓶。白い皿に盛られた焼き魚。小鉢に入った卵焼き。湯気の立つ味噌汁。黒い飲み物。夫婦茶碗。そこには赤い爪も、ホテルの灯りも、甘い夜もありませんでした。匂いまで違う気がしました。麻里亜の画面は、香水と酒と濡れた赤でいっぱいでした。瑠璃子の画面は、洗った布と朝の光と、少し冷えた水の匂いがします。投稿文には、こう書かれていました。「今朝は青い紫陽花を飾りました。雨の日の朝は、少し静かで好きです」愛梨沙は、その文をゆっくり読みました。雨の日の朝。昨日の朝です。拓哉が薔薇のルビーを選び、麻里亜がそれをもらい、夜には愛梨沙が拓哉の匂いを吸った日。瑠璃子はその朝、青い紫陽花を飾っていました。何も知らないみたいに。何も乱れていないみたいに。(奥さんは、朝なんだ)声には出しませんでした。麻里亜は夜でした。赤い爪、ホテルのグラス、内緒のピアス。すず音は夕方の甘い飲み物みたいでした。白いニット、薄いピンク、寂しいって言ったら重いかな、という小さな声。瑠璃子は朝です。拓哉が帰る場所。拓哉のシャツ
Terakhir Diperbarui: 2026-06-28
Chapter: 14話 赤い爪の部屋
白いボトルの口元は夜が深くなっても濡れていました。愛梨沙は眠りませんでした。眠ろうとはしました。カーテンを閉めて部屋の明かりを落とし、白い手袋をテーブルの上に置いたままベッドへ入りました。けれど目を閉じると、雨の中で届いた男の匂いがまた喉の奥へ戻ってきます。拓哉の匂い。その奥に入り込んだ、赤い花の匂い。白い部屋の中に、麻里亜という名前だけが浮いていました。声に出すにはまだ喉に引っかかる名前でした。けれど知らないふりをするには、もう近すぎる名前です。ホテルのラウンジで聞いた声。白い箱の横にあったカード。赤い爪が白いリボンをほどいた時の、するりとした音。麻里亜。その女は、拓哉の袖口に触れました。拓哉はその手を振りほどきませんでした。(麻里亜さん)愛梨沙は布団の中でその名前を呼びました。もちろん声には出しません。唇の内側だけがそっと動きました。(あなた、どこにいるの?)答えはありません。部屋の中ではエアコンの小さな音だけが続いていました。雨は少し弱くなったようでしたが、窓の向こうの道路はまだ濡れていて、時々車の光が天井へ薄く流れました。愛梨沙は起き上がりました。ベッドを出ると、足の裏に床の温度が移りました。テーブルの上には白いボトルと白い手袋とスマホが、出ていった時のまま置かれていました。白いボトルはもう飲み物ではありませんでした。拓哉がこちらを見た時、愛梨沙の手の中にあったもの。拓哉の匂いを思い出すたび喉の奥で甘さを残すもの。そこに麻里亜の赤まで混ざってしまった、困った白です。愛梨沙はスマホを取りました。画面を開くと、さっきの鍵垢の投稿がまだ残っていました。「名前のない匂いがまだ喉にいる赤い花の匂いもした気がする」投稿 8フォロー中 0フォロワー 0誰も読んでいません。誰も読んでいないからこそ、その言葉は愛梨沙の中に閉じ込められていました。赤い花。そう書いたのは自分です。麻里亜と書かなかったのも自分です。けれど、もう分かっていました。赤い花は、麻里亜でした。(書かないであげたんだよ。まだ麻里亜さんって書かないであげた。なのに、どうしてこんなに喉にいるの?)愛梨沙は検索画面を開きました。昨夜の文字がまだ残っています。麻里亜 赤い爪 薔薇 ピアスその文字列は少し恥ずかしいものに見えました。知らない女の持ち
Terakhir Diperbarui: 2026-06-27
Chapter: 13話 名前のない匂い
家に着いた時、白いボトルはまだ愛梨沙の手の中にありました。駅前からここまで、捨てられる場所はいくつもありました。横断歩道の脇にも、コンビニの入口にも、マンションの下にも空き容器を入れる場所はちゃんとあったのに、愛梨沙は捨てませんでした。部屋の明かりをつけると、白い壁が静かに浮かび上がりました。人の声も信号の音もない部屋で、窓の外を車が通るたび、濡れた道路の光だけが天井に薄く揺れました。愛梨沙は靴を脱ぎ、白いボトルをテーブルの上に置きました。ただの飲みかけです。甘くて、ぬるくて、自分には似合わないもの。けれどその夜だけは、ただの飲み物ではありませんでした。男がこちらを見た時、愛梨沙の手の中にあったものです。たぶん目が合った、その瞬間に一緒にいたものです。だから、口をつけるのも捨てるのも怖かったのです。(拓哉さん、これ見た? 私じゃなくてもいいよ。白いボトルでも、私の指先でも、ほんの一瞬こっちを見たならそれでいい。私、その時これを持ってたから。ねえ、同じところにいたよね)愛梨沙は白い手袋を外しました。指先には、こもっていた熱が残っていました。雨に濡れた布の匂いと、甘い飲み物の匂い。そこに、自分の肌の熱まで混ざっている気がしました。そして、その奥に。ほんのかすかに、男のそばで吸い込んだ匂いが残っている気がしました。手袋に残るはずがありません。愛梨沙は男に触れていません。肩も、袖も、指も、黒い傘も、何ひとつ触っていません。ただ近くを通っただけです。雨の中で、一度だけ息を吸っただけです。それなのに手袋の内側には、まだ何かが潜んでいるようでした。甘すぎず、軽すぎず、濡れた布の奥で息をしているような香りです。愛梨沙は手袋を唇の近くへ持っていきました。触れません。触れたら、そこから逃げてしまいそうでした。息だけが、先に触れました。(……いる)胸の奥が、ゆっくり熱くなりました。本当に残っているのか、自分が勝手に作ったものなのか、もう分かりませんでした。分からないまま、愛梨沙はもう一度だけ息を吸います。喉の奥に、細い糸のようなものが触れました。男の横顔、濃紺の肩、黒い傘を持つ指、結婚指輪の小さな光、こちらを通った視線。それらが一緒に、喉の奥へ落ちていきます。(吸っちゃった。拓哉さんのこと、ほんのひと口だけ。ごめんね、勝手に吸っちゃった。で
Terakhir Diperbarui: 2026-06-27
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