LOGIN愛されたことのない御厨愛梨沙は、愛し方を知らなかった。見つめることを恋だと思い、後を追うことを愛だと思った。 2025年6月17日、彼女はジュエリーショップ【Y.COCO】で鴻上拓哉を見つける。妻も愛人も嘘もある男。けれど、誰かのために迷う横顔だけは、ひどく優しく見えた。 やがて拓哉は、誰にも言えない罪を犯す。愛梨沙は逃げない。責めない。ただ白い手袋の指先をそろえ、微笑む。 幸せな妻は知らない顔で朝食を並べ、赤い爪の愛人は男を追い詰める。その間で愛梨沙は、愛という名前をつけながら、拓哉の逃げ道を少し消していく。 「大丈夫。私だけは、拓哉さんの罪まで愛してる」
View More拓哉さんが困るものを麻里亜より先にそう思った瞬間、愛梨沙は息を吸うのを忘れました。写真メッセージ麻里亜のスマホたったそれだけなのに、白い手袋の中で指が勝手に曲がっていきます。麻里亜はまだ拓哉の近くにいました。近すぎるほど近くにいて、赤いケースのスマホを片手に持っています。拓哉はその画面を見ようとしませんでした。それでも視線は何度も赤いケースの方へ落ちます。(あれなんだ)愛梨沙はガラスの陰から、ほんの少しだけ身を乗り出しました。麻里亜のスマホ。あの中に、拓哉が困るものがある。「何の話だよ」拓哉の声は、さっきより小さくなっていました。麻里亜は笑います。「分かってるくせに」「麻里亜」「また名前」赤い爪が、スマホの端を叩きました。一度二度その小さな音を、愛梨沙は覚えてしまいました。赤なんて、ただの色のはずです。爪にも、ピアスにも、スマホにも、口元にも使える。ただそれだけの色です。それなのに麻里亜が持つと、全部が拓哉へ向いているように見えました。「消して」拓哉が言いました。今度は、お願いではありませんでした。麻里亜の口元が少しだけ動きます。「やだ」「麻里亜」「消したら、拓哉くん困らないでしょ」拓哉は一歩近づきました。麻里亜は下がりません。愛梨沙の手袋が、バッグの持ち手を握ります。近い近いよそんなに近くで、拓哉さんの息を取らないで「ふざけるな」拓哉の声が低くなりました。愛梨沙はその声を初めて聞きました。店員へ向ける声でも、麻里亜をなだめる声でもありません。知らない拓哉が、ほんの少しだけそこにいました。麻里亜は怖がりませんでした。「ふざけてないよ」赤いスマホを胸の前で持ったまま、麻里亜は言いました。「麻里亜、本気だよ」本気その言葉のあと、拓哉は黙りました。愛梨沙は拓哉の喉を見ていました。何か言おうとして、飲み込む。言えない。また、言えない。(言わなくていいよ)愛梨沙は白い手袋の中で指を開きました。(私には分かるよ。拓哉さん、困ってるんだよね)分かるはずがありません。拓哉のことを、愛梨沙はまだ何も知りません。好きな食べ物も、仕事中の声も、眠る前の癖も、本当は誰のところへ帰りたいのかも知らない。それでも、知らないところを自分の言葉で埋めていきました。拓哉さんは困っている拓哉さんは逃げた
赤い爪が、拓哉の袖を引いていました。ほんの少しの動きでした。それなのに愛梨沙には、濃紺の布が女の指に取られていくように見えました。拓哉は袖口を見て、それから麻里亜の手を見ました。「麻里亜」名前を呼ぶ声は、まだやわらかく聞こえました。けれど昨日のラウンジで聞いた声とは違います。店員に向けた丁寧さも、麻里亜に向けた甘さも、そこには少ししか残っていませんでした。麻里亜は手を離しません。「なに? 名前呼べば済むと思ってる?」赤い爪が、濃紺の袖をさらに引きます。拓哉は周りを見ました。朝の細い道に人は多くありません。通勤の靴音が駅の方へ流れていき、ホテルの裏口では清掃の人がワゴンを押していました。愛梨沙は店のガラスの陰に身を寄せたまま、息を浅くしました。見つかりたくありません。でも、離れたくもありません。(だめだよ。そんなに引っ張ったら、拓哉さんが困るよ)麻里亜の声は小さくなりました。小さくなったぶん、言葉の先が細く刺さります。「昨日だってさ、帰るの早かったよね」拓哉は答えません。「ピアス渡して、ちょっと優しくして、それで終わり?」「そういう言い方、やめよう」「じゃあ、どう言えばよかったの?」拓哉の指が、一度だけ袖口に触れました。麻里亜の手をほどこうとして、途中でやめたように見えました。愛梨沙の白い手袋の中で、指が曲がります。ほどけばいいのに。そう思いました。でも拓哉はほどきません。優しいからでしょうか。弱いからでしょうか。愛梨沙には、そのふたつの違いがまだよく分かりませんでした。「麻里亜、こんなところで話すことじゃない」「じゃあ、どこなら話すの?」麻里亜はすぐに返しました。「昨日も、あとでって言ったよね。あとでって、いつ? 麻里亜が黙るまで?」拓哉は唇を結びました。「ここじゃ目立つ」「目立つのが嫌なんだ」麻里亜が笑いました。笑っているのに、目元は少しもゆるみません。赤い爪だけが綺麗に光っています。「麻里亜と揉めてるところを見られるのが嫌なんだよね。ピアスを選ぶ時は、あんなに優しかったのに」拓哉は何も言いませんでした。ほんの短い沈黙でした。けれどその沈黙を、愛梨沙は拾ってしまいました。昨日、瑠璃子の青い朝を見た時と同じです。きれいな皿の端にあった男物の腕時計。麻里亜の写真の端に写った男の指。すず
白い手袋は、指の根元で少し余りました。愛梨沙は何度か指を曲げました。布が皮膚の上で小さくずれて、そのたびに手だけが自分から離れていくようでした。爪の先まで自分のものなのに、もう素手ではありません。これなら、触ってもいいそう思ったら、胸の奥が少しだけ落ち着きました。拓哉に触れるわけではありません。そんなこと、まだできるはずがありません。けれど、拓哉のいた場所なら拓哉が触れたかもしれないものなら白い布が一枚あるだけで、許される気がしました。愛梨沙は朝になる前に部屋を出ました。雨はほとんど止んでいました。道路にはまだ水が残り、街灯の光が細く揺れています。空は青くなる手前の灰色で、駅前の看板だけが少し疲れた明るさをしていました。白い手袋は、まだ白すぎました。愛梨沙はそれが嫌で、手を少し握ります。布に指の形が浮かびました。昨日の夜、拓哉の匂いを探した時の熱が、まだほんの少し残っている気がしました。(今日は落とさないよ。見えないものでも、あなたが通ったかもしれない場所なら拾えるよね。誰も気にしない端っこまで、私が持って帰るから)何を拾うのか、自分でもよく分かっていません。それでも家にはいられませんでした。瑠璃子の青い朝と、麻里亜の赤い夜と、すず音の甘い白が画面の中で絡み合い、愛梨沙の部屋まで狭くしてしまったからです。外に出れば、拓哉の通った場所がありました。【Y.COCO】の硝子。駅前の横断歩道。黒い缶の自動販売機。ホテルの近くの道。昨日、同じ硝子に映った店そこには、まだ何か残っている気がしました。最初に向かったのは、自動販売機でした。黒い缶がいつもの場所に並んでいます。昨夜も見た黒。拓哉が手にしていた黒。すず音の写真にも写っていたかもしれない黒愛梨沙は白い手袋の指で、ボタンの縁に触れました。機械の表面は少し湿っていて、朝の空気をまとっています。何人もの指が触れた場所です。拓哉の指がここに触れたかどうかなんて、分かるはずがありません。だから触れました。分からない場所ほど、まだ残っている気がするのです。(ここを押したかもしれないんだよね。拓哉さんの指が、私の知らない朝にここへ来たかもしれない。そう思っただけで、ただのボタンじゃなくなるんだよ)ボタンを押すと、缶が落ちる音がしました。ごとん朝の駅前に、その音だけが少し大きく響
愛梨沙は、画面の中の赤い薔薇を押さえたまま動けませんでした。指先の下には硝子があり、その向こうに麻里亜の耳元があります。小さな薔薇のルビー。赤い爪。半分だけ隠れた顔。嬉しかったから載せちゃう、という軽い言葉。奥さんには内緒。その一文だけが、何度読んでも消えませんでした。内緒なら見せなければいいのに。内緒なら拓哉の言葉を守ればいいのに。それでも麻里亜は載せました。赤い爪で秘密の端をつまみ上げて、誰でも見られる場所へ置いたのです。(拓哉さん、困っただろうな。こんなの見つかったら困るもんね。でも、少し嬉しかったのかな。麻里亜さんがそんなに喜んでくれて、可愛いって思ったのかな)胸の奥が、嫌な音を立てました。可愛い。その言葉が浮かんだだけで、口の中が苦くなります。愛梨沙は麻里亜の画面を閉じずに、別の名前を探しました。鴻上瑠璃子。すでに何度も見た名前です。青い紫陽花、朝食、夫の好きなもの、夫婦茶碗、葡萄、落ち着いた白い皿、明るい窓辺。麻里亜の赤い部屋を見たあとでは、瑠璃子の画面は冷たい水のように見えました。愛梨沙は瑠璃子のSNSを開きました。@kougamike_no_asa6画面の中には、相変わらず静かな朝が並んでいました。青い紫陽花が挿された透明な花瓶。白い皿に盛られた焼き魚。小鉢に入った卵焼き。湯気の立つ味噌汁。黒い飲み物。夫婦茶碗。そこには赤い爪も、ホテルの灯りも、甘い夜もありませんでした。匂いまで違う気がしました。麻里亜の画面は、香水と酒と濡れた赤でいっぱいでした。瑠璃子の画面は、洗った布と朝の光と、少し冷えた水の匂いがします。投稿文には、こう書かれていました。「今朝は青い紫陽花を飾りました。雨の日の朝は、少し静かで好きです」愛梨沙は、その文をゆっくり読みました。雨の日の朝。昨日の朝です。拓哉が薔薇のルビーを選び、麻里亜がそれをもらい、夜には愛梨沙が拓哉の匂いを吸った日。瑠璃子はその朝、青い紫陽花を飾っていました。何も知らないみたいに。何も乱れていないみたいに。(奥さんは、朝なんだ)声には出しませんでした。麻里亜は夜でした。赤い爪、ホテルのグラス、内緒のピアス。すず音は夕方の甘い飲み物みたいでした。白いニット、薄いピンク、寂しいって言ったら重いかな、という小さな声。瑠璃子は朝です。拓哉が帰る場所。拓哉のシャツ
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