تسجيل الدخول
「許すかどうかを決めるために来たのではありません。あなたが持っているものを確認したくて来ました」 瑠璃子の紅茶と、麻里亜のアイスコーヒーが運ばれてきました。 白いカップから湯気が上がります。 麻里亜はストローへ触れましたが、まだ飲みません。 「証拠があるって書いたから、会おうと思ったんですか?」 「はい。夫があなたに何を言っていたのか、実際の言葉で確かめたいと思いました」 「確認して、離婚するために使うんですか?」 瑠璃子はすぐには答えませんでした。 カップの縁へ目を落とします。 「離婚するかどうかは、まだ決めていません」 「数か月も私を見ていたのに、まだ決めていないんですか。何もせずに、ずっと投稿だけ見ていたんですよね?」 「決められなかったから見ていました。夫がどこまで嘘を重ねるのか、自分の目で確かめたかったんです」 「私のことを見張っていたんじゃなくて、私の投稿に映る拓哉さんを見ていたんですね」 「そうです。あなたの言葉よりも、その中に映る夫を見ていました」 「気持ち悪いと思わなかったんですか?夫の愛人の投稿を、何か月も黙って見続けるなんて」 「自分でも、そう思います」 瑠璃子は否定しませんでした。 仕切りの向こうで、愛梨沙の唇が開きました。 妻も見ていた。 麻里亜の投稿に映る拓哉を 指輪のない左手 ホテルのグラス 緩んだ横顔 愛梨沙と同じように、画面の向こうから見ていた。 (あなたも足りなかったの? 妻なのに 毎日触れられるのに 麻里亜さんだけが知ってる拓哉さんを 欲しがったの? 一緒だね でも、あなたの胸で眠った拓哉さんは まだ私のものじゃない 全部吐いて 夫として飲み込んだ声も 唇についた息も 私に移したいなぁ) 「写真は、まだ見せられません」 麻里亜が言いました。 「今は見せられない、という意味でしょうか?」 「奥さんが見たあと、拓哉さんに全部話すかもしれないじゃないですか。そんな人に渡せません」 「夫には話しません」 「会ったばかりの奥さんを信じろって言われても無理です。私の投稿を数か月も見ていた人ですよ」 「信じてもらえるとは思っていません。私が知っていることを先に話せば、少
麻里亜の投稿が消えました。 〈見てるなら、何か言えばいいのに〉 瑠璃子の名前が映った閲覧者一覧も、画面を更新すると見えなくなっています。 投稿されてから、まだ数分しか経っていません。 愛梨沙はマンションを見上げました。 上の階では明かりがついたままです。 カーテンの向こうを、人影が何度か横切りました。 それから二十分ほどして、ガラスの扉が開きます。 麻里亜が出てきました。 さっきと同じ服 袖の中へ隠した右手首 スマホへ目を落としたまま進む足 画面を消した直後に、また開いています。 短い文章を、何度も読み返しているようでした。 聖の姿はありません。 麻里亜は道路へ出ると、停まっていた車の後部座席へ乗りました。 愛梨沙も配車アプリを開きます。 到着した車へ乗り、前方を走り始めた車を指しました。 「少し離れたまま、あの車と同じ方向へ進んでください」 運転手は短く返事をしました。 二台の車は住宅街を抜け、大きな通りへ入ります。 愛梨沙は麻里亜のアカウントを何度も更新しました。 新しい投稿はありません。 瑠璃子のアカウントにも変化はありませんでした。 朝食 花 白いカップ 夫婦二人分の食器 静かな暮らしだけが並んでいます。 夫の愛人へ連絡を送った女の画面には見えません。 (何を送ったの? 拓哉さんの奥さん 麻里亜さんへ 怒った言葉? 泣いた声? それとも いつもの唇で 会いませんかって誘ったの? 妻の口の中にいる拓哉さん 朝に触れる頬も 眠る前に聞く息も 全部、私の知らない味がする 舌の裏まで開いて あなたの中の拓哉さんを 私へ流して) 前方の車が、駅から少し離れたファミリーレストランの駐車場へ入りました。 麻里亜は車を降り、入口へ向かいます。 愛梨沙も少し遅れて店へ入りました。 「1名です」 店員に案内されながら、店内を見渡します。 麻里亜は奥のボックス席に座っていました。 向かい側にいるのは、髪を低い位置でまとめた女です。 淡い色のブラウス 細い首 左手の結婚指輪 鴻上瑠璃子 愛梨沙は二人のすぐ後ろにあるボックス席へ入りました。 背中合わせになる
住宅の多い道へ入ると、麻里亜の歩幅がさらに狭くなりました。 やがて、低い柵のあるマンションが見えてきます。 「もうここで大丈夫だよ」 麻里亜が足を止めました。 「部屋に入ったのを見たら帰る」 「そこまで来られると、昔と同じに見えるんだけど?」 聖の足が止まりました。 八か月前の投稿にあった言葉が、二人の間へ戻ってきたようでした。 「そうだな。じゃあ、柵の外から見る」 「急に離れないでよ」 「近づくなって言っただろ」 「近づかないでほしいけど、ちゃんと帰ったかは見ててほしいの!」 「どっちなんだよ」 「私だって分かんないよ…」 麻里亜は苛立ったように髪へ触れました。 「今日は一人で部屋に入るのが嫌。でも、聖に入口まで来られるのも嫌なの」 「だったら、ここから見てる。お前が建物へ入ったら、明かりがつくまで動かない」 「それ以上は来ない?」 「行かないよ」 「暗証番号も押さない?」 「番号はもう覚えてない」 「三年前のコーヒーは覚えてるのに?」 「毎日飲んでたものと、使ってない番号を一緒にすんなよ?」 麻里亜の唇が少しだけ緩みました。 「写真、本当に消さないでね」 「何度聞かれても消さない」 「拓哉さんから連絡が来ても返さないで」 「連絡先知らないよ」 「名前を教えたから、向こうが調べるかもしれないでしょ?」 「連絡が来たら、まずお前に知らせる。それでいいか?」 「勝手に会おうとしない?」 「会わない。返事も、お前に見せるまではしない」 「見せたあとも返さないでよ」 「分かった。返さない」 麻里亜はようやく建物へ向かいました。 ガラスの扉の前で振り返ります。 「聖」 「何?」 「さっきの、かなり傷ついたって話」 「今それをするのか?」 「今じゃないと聞けないから」 聖は麻里亜を見ました。 「忘れていいよ」 「忘れられる言い方じゃなかったもん」 「じゃあ、今度ちゃんと話す」 「今度っていつ?」 「お前が拓哉の話をしなくても平気なときかな」 麻里亜の表情が少し曇りました。 「そんな時、来るのかな…」 「来なくても待つよ」 麻里亜は何も返しませんでした。 ガラスの扉を開き、建
麻里亜は唇を尖らせました。 「聖、言い返すの上手くなったね」 「お前と付き合ってたら、少しはな」 「嫌味?」 「経験談だよ」 麻里亜の口元が一瞬だけ緩みました。 すぐに消えます。 「誰にも見せないでね」 「見せないよ」 「でも、何かあった時は出してほしい」 聖の足が止まりました。 麻里亜も数歩先で立ち止まり、振り返ります。 「何かって、具体的には何だ」 「分からないけど、拓哉さんがまた今日みたいになった時とか」 「今日みたいになった時じゃ遅い。もう二人では会うな」 「それを聖が決めるの?」 「決めてない。会うなら誰かに言ってから行けって話をしてるんだよ」 「さっきは会うなって言ったじゃん」 「本音では会ってほしくない。でも、お前が聞かないのも分かってるから、せめて一人では行くなよと言ってるんだよ」 麻里亜は右手首へ左手を添えました。 赤い跡は袖の中に隠れています。 「拓哉さんも混乱してたんだと思う。写真のことが急に怖くなって、少し強くなっただけかもしれないじゃん」 「それは理由にならないだろ?」 「理由にはならなくても、あの人が最初から私を傷つけようとしたわけじゃないってことだよ」 「傷つけるつもりがなければ、傷つけてもいいのか?」 「そんなことは言ってないよ……」 「なら、あいつの代わりに理由を探すのはやめろよ。痛いって言った時に離さなかった。それだけで十分だろ」 麻里亜の顔が強張りました。 「私だって最低だと思ったよ。でも、さっきまで好きだった人を、急に全部悪い人だったって思えるわけないじゃん」 聖はすぐに返しませんでした。 麻里亜の声が続きます。 「好きって言われたことまで嘘だったって認めたら、私が一人で勘違いして、一人で騒いでるみたいになるじゃん。それが嫌なの」 「だったら、今すぐ全部決めなくていいんじゃない?」 「会うなって言ったくせに?」 「会わないことと、嫌いになることは別だよ。好きなまま離れることだってできるだろ?」 麻里亜は聖を見ました。 「聖はできたの?」 「それは…。できてないから、今ここにいるんだろ」 二人の間に沈黙が流れました。 麻里亜の視線が、聖の顔から足元へ落ちます。 「そうい
「怒ったら消したのか?」 麻里亜は答えません。 聖は少し間を空けました。 「消さないだろ?言い合いになって、もっと悪く書かれるだけだと思った」 「そこまで私のこと分かってたなら、傷つかなかった?」 「分かってたって、傷つくよ」 返事があまりに早くて、麻里亜の足が止まりかけました。 「どのくらい?」 「それを聞いて、今さらどうするんだよ?」 「知らないままなのが嫌だから聞いてるの」 聖は数歩後ろで立ち止まりました。 「かなり傷ついた。家の前に行ったことだけ切り取られて、怖い男みたいに書かれたのも嫌だった」 麻里亜は振り返りません。 「でも、何回も来たのは本当でしょ」 「そりゃ、三日連絡がつかなくて心配になって行ったからな」 「心配でも来ないでって言ったのに、来たのは聖じゃん」 「それも本当だ。だから全部嘘だとは思ってない」 麻里亜の指が鞄の縁へ触れました。 「じゃあ、どうして今もついてくるの?」 「今夜のお前を見て、一人で帰らせたくないと思ったからだよ。昔と同じことをしてるように見えるなら、それは否定できないよ」 「また私が投稿したら?」 「何を書かれても、今夜はお前を一人で帰せない」 「そういうこと言われると、悪いのが私みたいになる」 「悪いなんて言ってない。俺が勝手に心配して、勝手についてきてるんだよ。」 麻里亜はしばらく黙りました。 やがて歩き出します。 「勝手って認めれば許されると思ってる?」 「許されるとは思ってない。お前が嫌がってることまでは、善意だから正しいとは言いたくない」 麻里亜の肩から、少しだけ力が抜けました。 「そういう言い方、ずるいよ」 「何がずるいんだよ」 「私が怒り続けにくくなるから」 「怒りたいなら怒ってていいよ。俺が言ったことまで変える気はない」 麻里亜の声には、泣いたあとのかすれがまだ混じっていました。 愛梨沙は歩きながら、もう一度スマホを開きました。 麻里亜の名前と、灰庭聖の名前を並べて検索します。 古い投稿がいくつか表示されました。 その中に、八か月前の写真がありました。 建物の入口付近に立つ男の背中 古いパーカー 少し丸まった肩 顔は見えません。 けれど聖だと分
検索結果の中に、見覚えのある顔がありました。 灰庭聖 SNSのアイコンには、今より少し髪の短い聖が写っています。 愛梨沙はプロフィールを開きました。 投稿は多くありません。 食べかけの弁当 曇った空 擦れた靴の先 安い缶コーヒー 誰かの反応を待って撮ったというより、その日に目へ入ったものを記録しただけの写真ばかりでした。 紹介文には、住んでいる地域と生まれた年だけが書かれています。 仕事も 家族も 恋人も そこからは分かりません。 最後の投稿は半年前でした。 〈眠れないから歩く〉 夜道の写真が一枚 街灯の下に、聖の影だけが伸びています。 愛梨沙は古い投稿へ指を滑らせました。 三年前の写真に、赤い爪が写っていました。 テーブルへ伸びた女の手 濃い赤のネイル 甘いカフェオレ 黒い缶コーヒー 〈甘いの買ったのに、またそっち取るのかよ〉 その下に、麻里亜の返信がありました。 〈聖が飲んでると欲しくなるんだもん〉 たった二行です。 けれど今夜よりも、二人の距離が近く見えました。 赤い爪が、聖の缶へ伸びていた頃 愛梨沙の胸の奥が痛みました。 (こんな前から その指を知ってるんだ 拓哉さんへ触る前の まだ何も知らない赤い指を 聖さんは見てたの? 嫌 昔の麻里亜さんまで 拓哉さんのそばへ連れてこないで その赤は 拓哉さんに触れてから 濃くなったことにしてよ) 愛梨沙は画面を消しました。 麻里亜と聖は、ホテル裏から離れ始めていました。 拓哉の姿はありません。 麻里亜が先を歩き、聖は少し離れてついていきます。 愛梨沙も距離を空けたまま、その後を追いました。 「もう帰っていいよ」 麻里亜は前を向いたまま言いました。 「帰る方向、こっちだから」 「聖の家、反対でしょ。そんな嘘ついてまで来なくていいよ」 「嘘じゃなくて、今日はこっちから帰ることにしただけだよ」 「それは屁理屈じゃん?」 「お前が一人で帰りたいなら、そう言えばいいだろ。」 麻里亜の足が少し遅くなりました。 「一人で帰りたいって言ったら、本当に帰るの?」 「帰ってほしいなら帰る。ただ、家に入ったって連絡







