LOGIN新浜市の上流社会の頂点に立つ天野家の夫人である天野紬(あまの つむぎ、旧姓は綾瀬、あやせ)は、その夫・天野成哉(あまの せいや)との関係は、礼儀正しく整っているにもかかわらず、どこか他人行儀で、温度のないものだった。 結婚して三年。紬は海原と新浜の間を絶えず行き来し、いつかは夫と子供の心に寄り添える日が来ると、ひたむきに願い続けてきた。 しかし待ち受けていた現実は、成哉が別の女性をかいがいしく世話する姿だった。 夫が息子の手を引き、その女性のために祈りを捧げ、自分との約束をすっかり忘れてしまう光景を、紬はただ呆然と見つめるしかなかった。 やがて紬は、すべてを諦めた。きっぱりと離婚を切り出し、家庭を捨てた。 高級ドレスを纏い、しなやかで気品ある立ち居振る舞いで、海原市の富豪たちのサロンを悠然と歩む彼女は、まるで別人のように輝いていた。 ほどなくして、海原市の名門の御曹司までもが紬の魅力に心を奪われ、彼のプロポーズの報せは瞬く間に海原のメディアを埋め尽くした。 そのときだった。後悔に苛まれたのは、他ならぬ成哉だった。 その夜、成哉は紬を壁際へと追い詰め、目を赤くしながら低く言い放った。 「紬、俺たちはまだ離婚していない。他の男と結婚するなんて……俺が許したとでも思っているのか?」
View More天野邸。二人の子どもは家の中に閉じ込められていた。絵美が見張りをつけ、一歩たりとも外へ出られないようにしているのだ。芽依は部屋の隅に座り込み、抱き締めたロップイヤーのぬいぐるみを八つ当たりするように何度も叩いていた。ぬいぐるみは彼女の腕の中でぐにゃりと形を変えながら、主人の鬱憤を黙って受け止めている。悠真は雑炊の入ったお椀を手に、芽依のもとへ歩み寄った。「芽依ちゃん、もう怒るのはやめよう。少しでいいから食べなよ。体が資本なんだから、食べなきゃ元気も出ないだろ」「元気が出たって、どうせ外には出られないじゃない」芽依はベッドへ仰向けに倒れ込み、天井を見つめながら大きくため息をついた。今の彼女は、生きる気力さえ失いかけていた。こんな豪邸に閉じ込められた毎日なんて、籠の中の鳥と何が違うというのだろう。悠真も沈んだ表情のまま、お椀を机の上へ置く。今の状況では、彼にもどうすることもできなかった。「でも、今はどうしようもないよ。パパ……いや、あの男はまた記憶喪失になっちゃったし、あの悪い女も意地悪だし。僕たちにはどうにもできないよ」思わず「パパ」と口にしかけた悠真だったが、最近の成哉の振る舞いを思い出し、小さく言い直した。芽依はふうっと息を吐く。「お兄ちゃん、私、ママに会いたいの。ママが作ってくれたケーキが食べたいよ。ママの匂いが恋しい……」悠真も何か言葉を返そうとした、その時だった。望美が突然ドアを開け、部屋へ入ってきた。その姿を見た芽依は勢いよく起き上がり、鋭い視線を望美へ向ける。「あなた、本当に失礼ね!人の部屋に入るのに、ノックもできないの?」以前はどうして、この女がここまで品のない人間だと気づけなかったのだろう。望美はドアを閉め、そのまま部屋の中へ歩いてくる。芽依に言われても、怒るどころか平然としたままだった。悠真は警戒心をあらわにし、妹をかばうように前へ立った。「人の話が分からないのか?ここは芽依ちゃんの部屋だぞ。何しに来たんだよ」「もちろん、あんたたちの惨めな姿を見に来たのよ。もうすぐ私はこの家の女主人になるんだから、この家に私が入っちゃいけない場所なんてないでしょ」望美は得意げに笑う。もはや本音を隠そうともせず、胸の奥にある欲望をそのまま顔に浮かべていた。
清彦が去ると、雅乃も会議室を後にした。ドアを開けた途端、カナと千鶴の二人に囲まれる。カナは腕を組み、心配そうに尋ねた。「雅乃、清彦さんに中で意地悪されなかった?」「そうよ。さっき中からすごい音がして、本当にびっくりしたんだから」千鶴も胸をなで下ろしながら、心底怯えたような表情を浮かべる。雅乃は二人を安心させるように微笑んだ。「大丈夫よ。あの人はああいう人だから。大げさなだけで、本当はたいしたことないの。心配しないで」カナは目を細め、訝しげな顔になる。「おかしいわね、雅乃。それにしても、どうしてそんなに清彦さんのことに詳しいの?」そう言うと、腕を組んだまま人差し指で存在しない眼鏡をクイッと押し上げる仕草をし、名探偵気取りで雅乃の周りをぐるりと一周した。雅乃は内心ひやりとしながらも、それを悟られまいと契約書を取り出し、さりげなく話題を変える。「もう、変なこと考えないで。それより報告があるの。制服のプロジェクト、これで完全に終わったわ」千鶴とカナは顔を見合わせ、そろって信じられないという表情を浮かべた。「嘘でしょ?」カナは雅乃のそばへ歩み寄り、タブレットを覗き込む。普段の清彦といえば、ああでもないこうでもないと理屈を並べ、難癖ばかりつけてくる相手だ。それが今回は、こんなにもあっさり了承したというのだから驚くしかない。その話を聞きつけ、これまで散々振り回されてきたレナもひょっこり顔を出した。この件について、一番苦労してきたデザイナーは彼女なのだ。これまで何度も修正を重ね、そのたびに清彦から散々酷評され、遠回りに遠回りを重ねた末、結局採用されたのは最初のデザインだった。――本当に、憎たらしい資本家だ。レナは心の中で毒づいたが、さすがに口には出せない。雅乃も、そんなレナがどれほど苦労してきたかをよく理解していた。だからこそ、契約書の画面を開いて見せる。「ええ。本当にサインをもらったわ」そう言ってレナの肩をぽんと叩き、真剣な眼差しを向けた。「安心して、レナ。あなたの頑張りはちゃんと紬さんに伝えておくから。私は全部分かってるわ」結局、この騒動の原因の大半は雅乃自身にあったのだから。最悪の場合は、紬さんに頼んで自分のボーナスをレナへ回してもらっても構わない。レナは感
雅乃は微笑むだけで何も答えなかったが、その態度だけで答えは十分に伝わっていた。清彦は腹立たしさを押し殺しながら、素早くタブレットにサインを書き込む。これでユニフォームの件も、ようやく一件落着した。雅乃の笑みは、先ほどよりもいくぶん自然なものになっていた。「このたびは当スタジオをご利用いただき、ありがとうございました。おかげさまで良いお取引となりました」心の中では、そっと毒づく。――どうか、次はもう二度とお取引することがありませんように。清彦は、目だけはまったく笑っていない作り笑いを浮かべた。「安心しろ。俺も実に楽しく取引させてもらったよ」最後の数文字だけを、わざとゆっくり引き延ばすように口にする。タブレットを持つ雅乃の手がぴたりと止まった。それでも表情ひとつ変えず、その言葉の裏にある意味など分からないふりを貫く。清彦はギリッと奥歯を噛み締めた。まったく、どこまでも冷酷で情け容赦のない女だ。雅乃は淡々と追い出しにかかった。「もうご用件がお済みでしたら、お引き取りください。こちらはまだ仕事が残っていますので」清彦は口元を歪める。「なんだ、契約が終わった途端に用済みってわけか?雅乃、本当に容赦ないな」雅乃はテーブルの上の書類を片づけ始めた。「容赦ないかどうかは分かりませんが、あなたが私の業務の妨げになっていることだけは事実です。これ以上居座られるようでしたら、こちらにも考えがあります」清彦は不機嫌そうに言い放つ。「だったら、俺の連絡先を追加しろ」「すでに私のアカウントはご存じでしょう?」雅乃は意味が分からないというように清彦を見つめた。清彦はスマホを取り出し、白地に黒文字で『Nirvana』と書かれたアイコンをタップすると、呆れたように鼻で笑う。「自分でよく見てみろ。これが個人の連絡先か?まだ俺を他人扱いするつもりか。それとも、俺を馬鹿にしてるのか?」雅乃は気まずそうに耳たぶへそっと触れた。それは、後ろめたさを感じた時に無意識に出る彼女の癖だった。以前、雑談をしていた時に、その癖のことを本人の口から何度か聞いたことがある。その小さな仕草を目にした清彦は、ますます確信を深める。結局のところ、雅乃は自分を適当にあしらっているだけなのだ。雅乃は真顔のま
紬は優しくなだめるように微笑んだ。「大丈夫よ、心配性さん。ここは私たちのスタジオなんだし、味方もたくさんいるのよ。何をそんなに怖がっているの」カナは少し考え込み、たしかにその通りだと思い直した。たちまち目を輝かせ、紬を見つめる。「その通りですね」すっかり納得したカナは機嫌を直し、そのまま仕事へ戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、紬は苦笑まじりに首を横へ振る。カナが落ち着きのない性格で、感情の起伏も激しいことはよく分かっていた。これからもっと経験を積み、冷静さを身につけなければ、あの性格ではいつか本当に痛い目を見ることになるだろう。一抹の不安を胸に抱きながら会議室へ視線を向けると、紬は自分のオフィスへ戻っていった。誰が見ても、あの二人の間に何かあるのは明らかだ。自分が首を突っ込む必要はない。物事というものは、自然の成り行きに任せたほうがいいこともある。一方その頃、会議室では雅乃が気を取り直し、静かに口を開いていた。「清彦さん、私は真面目なお話をしています。そんなに頭に血を上らせないでください」そう言ってタブレットで最終デザインのデータを開き、清彦の目の前のテーブルへ置く。「これが、あなたと紬さんで決定した最終版です。色合いも調整しました。これで問題がなければ、生産ラインに乗せます」『紬』という名前を耳にすると、清彦は鼻の頭をかき、少しだけ態度を和らげて画面へ目を向けた。これはあくまで、理玖の顔を立ててやっているだけだ!そう思いながら視線を落としたものの、タブレットに映し出されたデザインを見た瞬間、その目は釘付けになった。堅い印象だったシャツはドロップショルダーへと変更され、肩のラインも柔らかく落とされている。標準的だったピンクも淡く優しい色合いへと変わり、刺繍されたいくつかの言葉は優美な筆記体であしらわれていた。ひと目見ただけで、人を惹きつける魅力にあふれている。紬のスタジオが確かな実力を持っていることは、認めざるを得なかった。雅乃もまた、清彦の瞳に浮かんだ感嘆の色を見逃してはいなかった。これでユニフォームの件が片付けば、もう彼がスタジオへ押しかけてくる口実もなくなるだろう。雅乃は胸の内でそっと安堵の息をつく。そして清彦に署名してもらうため電子契約書を表示さ
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