Share

第7話

Author: タロイモ団子
紬は全身から一気に血の気が引いていった。

冷えきった指先で震えながら娘へ電話をかける。

ただ一つ、何が起きているのか、それだけを確かめたかった。

電話先では、芽依がぬいぐるみを抱え、望美に寄り添って写真を撮っていた。

着信画面に表示された名前を見ると、芽依は小さく眉をつり上げ、瞳に不機嫌な影を落とす。

着信音はしつこいほど鳴り続けたが、望美が柔らかい声で言った。

「芽依ちゃん、ママから電話よ。出なくていいの」

芽依はぷいと首を振る。「ママって超うざいんだもん。出たらまた根掘り葉掘り聞かれるし、絶対イヤ」

そう言って、鳴り止まない電話を容赦なく切った。

そして振り返りざま、悠真に文句を言う。

「お兄ちゃん、だからママを着信拒否のままにしとけばよかったのに。ほら見て、ちょっと外しただけでガンガンかけてくるじゃん。お兄ちゃんは何ビビってんの?」

「ビビってなんかないよ!ただ、ママが言い忘れたことでもあるかと思っただけだし。それに、拒否外したのは芽依ちゃんだよ」

強がった声とは裏腹に、悠真の表情には妙な苛立ちが浮かんでいる。

――まったく、ママは少し時間を置いてからかけてくればいいのに。これじゃ僕の立つ瀬がないじゃないか。

芽依は唇を尖らせ、突き放すように言った。

「ママが言い忘れるわけないじゃん。一回話し出したら止まらないんだから、うるさいって」

新浜にいた頃、紬は毎日決まった時間に二度電話をしてきた。

朝食時に一度、夕食時に一度。細かな衣食住に至るまで、まるで息をするようにあれこれ口を出してきたのだ。

最初はママと離れたばかりで心細く、二人も決まった時間に電話を待っていた。

だが、成長するにつれて自分たちの世界ができ、望美がそばにいてくれるようになると、次第に電話が重荷になっていく。

一日二回が一回になり、通話時間は十分にも満たなくなった。

そしてここ二日間、芽依はついに直接着信拒否にしていた。

紬の手の中で、スマホの画面はゆっくりと暗転していく。それと同じように、胸の奥に灯っていた微かな光も、音もなく消えていった。

自分は、いったい何を期待していたのだろう。

突如、紬は激しく咳き込み、鮮血を点々と吐き出した。

運転手は顔を青ざめ、アクセルを踏み込み、最寄りの病院へ急行する。

一方その頃、新居では――

望美との撮影を終えた芽依を見て、悠真が服の裾をつまみ、照れくさそうに言った。

「芽依ちゃん、僕も一枚撮ってよ」

本当は、ママがこの服を作ってくれた時、彼はひそかに気に入っていた。

ただ男の子が着るにしては少し幼い熊柄だったので、意地を張って「かわいくない」と言っただけだった。

まさか望美のおかげで、背が伸びて着られなくなる前に袖を通すことになるとは思わなかった。

しかも望美は優しく言ってくれたのだ。

「悠真くん、たまにはヒーロー活動をお休みするのもいいのよ。だって悠真くん、かわいいんだもの」

悠真は顔を真っ赤にした。

「望美さんが見たいなら……僕、毎日でも着るよ」

新しいパジャマは、見た目が良いだけでなく、肌触りも柔らかく、まるで綿雲に包まれているようだった。

実のところ、小言さえなければ、ママの服作りの腕はかなりいい。

仕方ないし、一枚くらい写真撮って……ママに送ってあげてもいいかな。

「ちょっと!お兄ちゃん、もっと早く言いなよ。望美さん、さっき牛乳取りに行っちゃったじゃん」

芽依が不満げに睨む。

悠真は慌てて言い返そうと口を開いた。

別に望美さんとツーショットが撮りたいわけじゃない。もうたくさん撮ったんだから。

ただ、ママに見せたくて……

「ちびっ子たち、何のお話してるの?」

背後から、望美の穏やかな声がふわりと落ちてきた。

振り返ろうとした拍子、悠真は妙な後ろめたさに突き動かされ、勢いよく体をひねった。その動きのまま望美にぶつかってしまう。

「きゃっ――!」

望美の手から、温かい牛乳がこぼれ落ち、悠真のパジャマに飛び散った。

もともと可愛らしかった熊の柄に、瞬く間に大きなシミが広がる。

芽依も思わず声を上げた。

「お兄ちゃん、なんでそんなに不注意なの!望美さんにぶつかるなんて……早く謝ってよ!」

悠真は濡れてしまったパジャマを呆然と見下ろし、悔しさを滲ませながらも深く頭を下げた。

「ごめんなさい、望美さん」

望美は、悠真の表情に、謝罪よりも強い悲しみが宿っていることに気づき、その瞳にわずかな鋭さを走らせた。

やはり、この子が気にしているのは服のほうなのだ。

望美はすぐに悠真の頭をそっと撫で、柔らかな声で言った。「悠真くん、謝るのは私のほうよ。急に声をかけて驚かせちゃったわよね」

悠真は慌てて首を横に振った。「違うよ、僕が不注意だったんだ」

望美は上品に目を細め、わざと自分の過失にしてみせた。「私が入るときにノックを忘れたのが悪いの。ごめんね、悠真くん。お詫びに、今度最新の限定版ウルマンパジャマを買ってあげる。それでどうかな?」

悠真の瞳が一瞬で輝いた。「本当に?!」

前のクラスでは、男の子のほとんどがウルマンの服を持っていた。

けれどママはいつも「あそこのウルマンの服は染料の細菌が基準値を超えてる」とか、何かと理由をつけて買ってくれず、着せてもくれなかった。

今思えば、全部、ただ買いたくなかっただけなんだ。

見てよ、望美さんは大人なのに、ちゃんと買ってくれるじゃないか!

望美はくすっと笑い、悠真の鼻先を軽くつまんだ。

「もちろんよ。私があなたたちに嘘をついたこと、一度でもあった?いい子だから、早く汚れた服を脱いでゴミ箱に捨ててきなさい。風邪ひいちゃうわ」

悠真は嬉しさを抑えきれず、勢いよく走り出して着替えに向かった。

汚れたパジャマを手に一瞬だけためらったものの、望美の言葉を思い出し、そのままゴミ箱に放り込んだ。

――こんなかわいくない服、捨てたって全然惜しくなんかない!

書斎では、成哉が修理の終わった古いスマホを受け取っていた。

その中には、コピーしそびれていた会社の機密資料が残っており、健一に頼んで復旧させたばかりだった。

SIMカードを差し替えると、いくつかのメッセージが消えていた。

紬とのトーク画面は、新浜にいたあの日で時が止まったままだ。

紬:【今日新浜に着くわ、十時に着陸よ】

その日は、望美が高級ブランド「Lucas」のアンバサダー契約を結んだ日で、成哉の会社もまた、そのブランドと十年がかりの重要な提携交渉の最中だった。

晩餐会で望美と顔を合わせる必要があり、成哉は紬のメッセージを確認できていなかったのだ。

成哉は唇を引き結び、ネクタイを緩めた。

――たったそれだけのことで、紬は自分に怒りをぶつけているのか?

画面を更新すると、不在着信が三件。

すべて一時間前、紬からだ。

成哉は苛立ちを押し殺しながら折り返しの電話をかけたが、ちょうど繋がった瞬間、ドアのほうから二つの悲鳴が響いた。

……

同じ頃、海原市立病院。

「もしもし?あの、天野紬さんのご主人でしょうか?こちら海原市立病院です。緊急連絡先として登録されていまして……奥様の容態が緊急を要する状態で、その……」

看護師は続けたが、電話の向こうからは何の反応もなかった。

不思議に思って手元を見ると、スマホの電源が切れ、画面が真っ黒になっていた。

……

「パパ!大変!望美さんが――!」

「望美さん、死んじゃう!パパ、早く来て!」

悠真と芽依が泣き叫びながら書斎に飛び込んできた。

「どうした?」

成哉は顔色を変え、二人を押しのけるようにして寝室へ向かった。

ベッドの上では、望美が全身真っ赤に腫れ上がり、露わになった腕や首には広範囲に発疹が浮かんでいた。

呼吸も苦しげで、涙が滲んでいる。

「天野……さん……わたし……死ぬの……?」

悠真は震える声で叫んだ。「望美さん、急に痒いって言い出して、パジャマが触れてるところ全部、こんなふうに……!」

この服はママが作ったものだ。まさか、ママが望美さんを……?

いや、そんなはずない。ママは望美さんが自分のパジャマを着るなんて知るわけが――

悠真が必死にその考えを振り払おうとしたとき、芽依が先に叫んだ。

「絶対ママの仕業よ!ママが望美さんをいじめようとしたんだわ!」

成哉の表情が、みるみる陰りを帯びていく。

少し前、望美は自分のパジャマを新浜に置き忘れ、仕方なく紬が置いていったパジャマを借りた。

それを見た子どもたちが「着たい」と騒ぎ、流されるように成哉まで巻き込まれた。

たかが服一着。着るくらい、どうということもないと思っていた。

まさか、こんな事態に転がるとは。

成哉は暗い目つきで紬に電話をかけた。

しかし聞こえてきたのは「電源が入っていません」という無機質なアナウンスだけ。

その瞬間、整った横顔に怒気が鋭く走った。

わざと電源を切っているのか?

紬……俺は、お前を甘やかしすぎたようだな。

そのとき、望美が激しく呼吸困難を起こした。

芽依も悠真も、泣きながら部屋の中を右往左往するしかない。

成哉は大股でベッドに近づき、望美を抱き上げた。

「……紬の過ちだ。必ず償わせる」

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (1)
goodnovel comment avatar
山下正子
勝手に着たんだよ!なぜ?紬のせいなのよ?望美何企む?ヤバい女。
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第689話

    そう言い残すと、望美は上機嫌な様子で部屋を後にした。ドアが閉まるのを見届けると、悠真はようやく芽依の目を覆っていた手を離す。その瞬間、涙をいっぱいに溜めた芽依の黒い瞳と目が合った。――自分だって、あんなにもママに愛されていた。それなのに、以前の自分はその幸せを少しも大切にしてこなかった。その結果が、今だ。他人に支配され、自由まで奪われてしまっている。こんな状況になったのは、すべて自分たちの自業自得だった。悠真も堪えきれず涙をこぼし、妹をぎゅっと抱き締める。「芽依ちゃん、怖がらないで。お兄ちゃんが絶対に守るから。だから今は、前みたいにあの女に逆らっちゃ駄目だ」芽依は小さな体を震わせながら、声を上げて泣いた。「あいつ、頭がおかしいわ。さっき、本気で私を殺そうとしたのよ……」思い返すだけで、背筋が凍るような恐怖が蘇る。「僕にも分かった。だからこそ、あの女には逆らっちゃいけないんだ。今の僕たちは、どう考えても圧倒的に不利なんだから」悠真は努めて冷静に状況を分析した。幼い兄妹は身を寄せ合い、この先どうすればいいのかを話し合う。ふと、芽依はさっきの望美の目つきを思い出し、悠真の耳元へ顔を寄せ、小さな声で囁いた。「お兄ちゃん、私ね……あの女のお腹にいる子、本当にパパの子じゃないんじゃないかって思うの……」その瞳は真剣そのものだった。だって、あの女はまるで嘘を見抜かれたかのように、あれほど激しく取り乱したのだから。聞かれるのが怖くて、芽依にはもう大きな声で望美のことを話す勇気はなかった。あの女は、本物の狂人だ。悠真もまた、芽依とまったく同じ考えに至っていた。あの悪い女があそこまで激昂したということは、その推測が図星だった何よりの証拠だ。「でも、私たちまだ子供だもの」芽依はうつむく。「何もできないし、この家からも出られない。それに今は、ママにも連絡できない。誰も助けてくれないわ」「いるよ!」悠真は力強く言い切った。「パパがいるじゃないか」「お兄ちゃん、本気で言ってるの?」芽依はぽかんと口を開け、信じられないという表情で悠真を見つめた。「もちろん本気だよ。パパの記憶を取り戻す方法を考えるんだ」パパさえ記憶を取り戻せば、きっとあの悪い女の化けの皮を剥いでくれる。

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第688話

    その言葉を聞いた瞬間、望美の表情が一変した。芽依へ向ける視線は、見る者が背筋を凍らせるほど陰惨で冷たいものへと変わる。その顔を目にした芽依の小さな顔にも、さっと恐怖が走った。――この女……何をするつもりなの。どうして急に、あんな恐ろしい目になったの。普段から望美に嫌われていることは分かっていた。それでも、あそこまで人を震え上がらせるような表情を見せたことは一度もなかった。なのに今は、まるで邪悪な魔女のような顔をしている。その様子を、悠真もすぐそばで見ていた。どうして芽依が子どものことに触れた途端、あの悪い女はあれほど取り乱したのだろう。ある考えが、ふと彼の頭をよぎる。――もしかして……あのお腹の子、本当にパパの子じゃないんじゃ……望美は芽依の首をいきなり掴み、そのまま締め上げると、耳元で低い声を響かせた。「警告しておくわ。その口、軽々しく開かないことね。私が本気で手を出せないとでも思ってるの?あんたみたいな生意気な小娘一人、殺そうと思えばいつでも殺せるのよ。それに、あんたのパパだって文句の一つも言わないわ」芽依の顔はみるみる赤く染まり、必死にもがきながら望美の腕を叩く。「悪魔!あ、あんたなんか……離してよ!」その光景を見た悠真は目を真っ赤にし、飛び出して望美の腕にしがみついた。「離せ、この悪魔!早く芽依ちゃんを離せよ!」息が詰まり、真っ赤になっていく妹の顔を見た瞬間、胸が張り裂けそうになった。叫ぶ声には、今にも泣き出しそうな震えが混じっている。だが、相手は大人だ。幼い子ども二人を相手にするなど、赤子の手をひねるより簡単だった。先ほど芽依が口にした言葉を思い出し、望美の胸には本気の殺意が芽生えていた。――どうせ今の成哉は記憶喪失だ。生意気な小娘が一人、事故で死んだことにしたところで、誰も何も言わないだろう。その時は、適当な言い訳を並べてしまえば済む話だ。そう考えた望美は、首を締める手に少しずつ力を込めていく。芽依の抵抗は、目に見えて弱くなっていった。望美の腕を叩いていた手にも、次第に力が入らなくなっていく。悠真は自分の力では望美の手を引き離せないと悟ると、とうとう頭を下げた。「望美さん、ごめんなさい!僕たちが悪かったよ!これからは絶対に逆らったりしな

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第687話

    天野邸。二人の子どもは家の中に閉じ込められていた。絵美が見張りをつけ、一歩たりとも外へ出られないようにしているのだ。芽依は部屋の隅に座り込み、抱き締めたロップイヤーのぬいぐるみを八つ当たりするように何度も叩いていた。ぬいぐるみは彼女の腕の中でぐにゃりと形を変えながら、主人の鬱憤を黙って受け止めている。悠真は雑炊の入ったお椀を手に、芽依のもとへ歩み寄った。「芽依ちゃん、もう怒るのはやめよう。少しでいいから食べなよ。体が資本なんだから、食べなきゃ元気も出ないだろ」「元気が出たって、どうせ外には出られないじゃない」芽依はベッドへ仰向けに倒れ込み、天井を見つめながら大きくため息をついた。今の彼女は、生きる気力さえ失いかけていた。こんな豪邸に閉じ込められた毎日なんて、籠の中の鳥と何が違うというのだろう。悠真も沈んだ表情のまま、お椀を机の上へ置く。今の状況では、彼にもどうすることもできなかった。「でも、今はどうしようもないよ。パパ……いや、あの男はまた記憶喪失になっちゃったし、あの悪い女も意地悪だし。僕たちにはどうにもできないよ」思わず「パパ」と口にしかけた悠真だったが、最近の成哉の振る舞いを思い出し、小さく言い直した。芽依はふうっと息を吐く。「お兄ちゃん、私、ママに会いたいの。ママが作ってくれたケーキが食べたいよ。ママの匂いが恋しい……」悠真も何か言葉を返そうとした、その時だった。望美が突然ドアを開け、部屋へ入ってきた。その姿を見た芽依は勢いよく起き上がり、鋭い視線を望美へ向ける。「あなた、本当に失礼ね!人の部屋に入るのに、ノックもできないの?」以前はどうして、この女がここまで品のない人間だと気づけなかったのだろう。望美はドアを閉め、そのまま部屋の中へ歩いてくる。芽依に言われても、怒るどころか平然としたままだった。悠真は警戒心をあらわにし、妹をかばうように前へ立った。「人の話が分からないのか?ここは芽依ちゃんの部屋だぞ。何しに来たんだよ」「もちろん、あんたたちの惨めな姿を見に来たのよ。もうすぐ私はこの家の女主人になるんだから、この家に私が入っちゃいけない場所なんてないでしょ」望美は得意げに笑う。もはや本音を隠そうともせず、胸の奥にある欲望をそのまま顔に浮かべていた。

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第686話

    清彦が去ると、雅乃も会議室を後にした。ドアを開けた途端、カナと千鶴の二人に囲まれる。カナは腕を組み、心配そうに尋ねた。「雅乃、清彦さんに中で意地悪されなかった?」「そうよ。さっき中からすごい音がして、本当にびっくりしたんだから」千鶴も胸をなで下ろしながら、心底怯えたような表情を浮かべる。雅乃は二人を安心させるように微笑んだ。「大丈夫よ。あの人はああいう人だから。大げさなだけで、本当はたいしたことないの。心配しないで」カナは目を細め、訝しげな顔になる。「おかしいわね、雅乃。それにしても、どうしてそんなに清彦さんのことに詳しいの?」そう言うと、腕を組んだまま人差し指で存在しない眼鏡をクイッと押し上げる仕草をし、名探偵気取りで雅乃の周りをぐるりと一周した。雅乃は内心ひやりとしながらも、それを悟られまいと契約書を取り出し、さりげなく話題を変える。「もう、変なこと考えないで。それより報告があるの。制服のプロジェクト、これで完全に終わったわ」千鶴とカナは顔を見合わせ、そろって信じられないという表情を浮かべた。「嘘でしょ?」カナは雅乃のそばへ歩み寄り、タブレットを覗き込む。普段の清彦といえば、ああでもないこうでもないと理屈を並べ、難癖ばかりつけてくる相手だ。それが今回は、こんなにもあっさり了承したというのだから驚くしかない。その話を聞きつけ、これまで散々振り回されてきたレナもひょっこり顔を出した。この件について、一番苦労してきたデザイナーは彼女なのだ。これまで何度も修正を重ね、そのたびに清彦から散々酷評され、遠回りに遠回りを重ねた末、結局採用されたのは最初のデザインだった。――本当に、憎たらしい資本家だ。レナは心の中で毒づいたが、さすがに口には出せない。雅乃も、そんなレナがどれほど苦労してきたかをよく理解していた。だからこそ、契約書の画面を開いて見せる。「ええ。本当にサインをもらったわ」そう言ってレナの肩をぽんと叩き、真剣な眼差しを向けた。「安心して、レナ。あなたの頑張りはちゃんと紬さんに伝えておくから。私は全部分かってるわ」結局、この騒動の原因の大半は雅乃自身にあったのだから。最悪の場合は、紬さんに頼んで自分のボーナスをレナへ回してもらっても構わない。レナは感

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第685話

    雅乃は微笑むだけで何も答えなかったが、その態度だけで答えは十分に伝わっていた。清彦は腹立たしさを押し殺しながら、素早くタブレットにサインを書き込む。これでユニフォームの件も、ようやく一件落着した。雅乃の笑みは、先ほどよりもいくぶん自然なものになっていた。「このたびは当スタジオをご利用いただき、ありがとうございました。おかげさまで良いお取引となりました」心の中では、そっと毒づく。――どうか、次はもう二度とお取引することがありませんように。清彦は、目だけはまったく笑っていない作り笑いを浮かべた。「安心しろ。俺も実に楽しく取引させてもらったよ」最後の数文字だけを、わざとゆっくり引き延ばすように口にする。タブレットを持つ雅乃の手がぴたりと止まった。それでも表情ひとつ変えず、その言葉の裏にある意味など分からないふりを貫く。清彦はギリッと奥歯を噛み締めた。まったく、どこまでも冷酷で情け容赦のない女だ。雅乃は淡々と追い出しにかかった。「もうご用件がお済みでしたら、お引き取りください。こちらはまだ仕事が残っていますので」清彦は口元を歪める。「なんだ、契約が終わった途端に用済みってわけか?雅乃、本当に容赦ないな」雅乃はテーブルの上の書類を片づけ始めた。「容赦ないかどうかは分かりませんが、あなたが私の業務の妨げになっていることだけは事実です。これ以上居座られるようでしたら、こちらにも考えがあります」清彦は不機嫌そうに言い放つ。「だったら、俺の連絡先を追加しろ」「すでに私のアカウントはご存じでしょう?」雅乃は意味が分からないというように清彦を見つめた。清彦はスマホを取り出し、白地に黒文字で『Nirvana』と書かれたアイコンをタップすると、呆れたように鼻で笑う。「自分でよく見てみろ。これが個人の連絡先か?まだ俺を他人扱いするつもりか。それとも、俺を馬鹿にしてるのか?」雅乃は気まずそうに耳たぶへそっと触れた。それは、後ろめたさを感じた時に無意識に出る彼女の癖だった。以前、雑談をしていた時に、その癖のことを本人の口から何度か聞いたことがある。その小さな仕草を目にした清彦は、ますます確信を深める。結局のところ、雅乃は自分を適当にあしらっているだけなのだ。雅乃は真顔のま

  • 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした   第684話

    紬は優しくなだめるように微笑んだ。「大丈夫よ、心配性さん。ここは私たちのスタジオなんだし、味方もたくさんいるのよ。何をそんなに怖がっているの」カナは少し考え込み、たしかにその通りだと思い直した。たちまち目を輝かせ、紬を見つめる。「その通りですね」すっかり納得したカナは機嫌を直し、そのまま仕事へ戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、紬は苦笑まじりに首を横へ振る。カナが落ち着きのない性格で、感情の起伏も激しいことはよく分かっていた。これからもっと経験を積み、冷静さを身につけなければ、あの性格ではいつか本当に痛い目を見ることになるだろう。一抹の不安を胸に抱きながら会議室へ視線を向けると、紬は自分のオフィスへ戻っていった。誰が見ても、あの二人の間に何かあるのは明らかだ。自分が首を突っ込む必要はない。物事というものは、自然の成り行きに任せたほうがいいこともある。一方その頃、会議室では雅乃が気を取り直し、静かに口を開いていた。「清彦さん、私は真面目なお話をしています。そんなに頭に血を上らせないでください」そう言ってタブレットで最終デザインのデータを開き、清彦の目の前のテーブルへ置く。「これが、あなたと紬さんで決定した最終版です。色合いも調整しました。これで問題がなければ、生産ラインに乗せます」『紬』という名前を耳にすると、清彦は鼻の頭をかき、少しだけ態度を和らげて画面へ目を向けた。これはあくまで、理玖の顔を立ててやっているだけだ!そう思いながら視線を落としたものの、タブレットに映し出されたデザインを見た瞬間、その目は釘付けになった。堅い印象だったシャツはドロップショルダーへと変更され、肩のラインも柔らかく落とされている。標準的だったピンクも淡く優しい色合いへと変わり、刺繍されたいくつかの言葉は優美な筆記体であしらわれていた。ひと目見ただけで、人を惹きつける魅力にあふれている。紬のスタジオが確かな実力を持っていることは、認めざるを得なかった。雅乃もまた、清彦の瞳に浮かんだ感嘆の色を見逃してはいなかった。これでユニフォームの件が片付けば、もう彼がスタジオへ押しかけてくる口実もなくなるだろう。雅乃は胸の内でそっと安堵の息をつく。そして清彦に署名してもらうため電子契約書を表示さ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status