身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ

身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ

last updateHuling Na-update : 2026-08-03
By:  花柳響In-update ngayon lang
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
Hindi Sapat ang Ratings
120Mga Kabanata
15.5Kviews
Basahin
Idagdag sa library

Share:  

Iulat
Buod
katalogo
I-scan ang code para mabasa sa App

三年前、偽令嬢と罵られ、家も婚約者も奪われた朝霧栞。深夜のコンビニで働く彼女の前に、彼女を捨てた父が現れ「妹の代わりに嫁げ」と告げる。相手は、黒い仮面と車椅子の怪物当主・榊律。けれど婚約の夜、彼だけが栞を偽物ではなく、本当の名で呼んだ。捨てた家族への断罪と、身代わり婚から始まる逆転ロマンス。

view more

Kabanata 1

第1話 捨てた父が、深夜のレジに立つ

 午前二時過ぎ。

 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。

「栞、少し付き合え」

 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。

 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。

 如月隆一。

 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。

 三年前、私を家から追い出した男だ。

 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。

「……何の用ですか」

「少し、話がある」

「雑誌と公共料金でしたら、こちらで伺えます」

 自分でも、よくそんなことを言えたと思う。けれど、深夜二時のコンビニに突然現れて「話がある」と言う父親より、仕事のマニュアルの方がまだ信用できた。

 相変わらず、命令に近い言い方だった。

 この人は昔からそうだ。会社でも家でも、自分が口を開けば周りが従うと思っている。三年前、自分の手で私を切り捨てたあとでも、その立場だけはまだ残っているつもりらしい。

 笑ってしまいそうになった。

「もう如月家の人間じゃありません。そう言ったのは、あなたですよね」

 言ってから、自分の声が思ったより平らで安心した。笑顔が必要なら接客用を貼れる。でも、この人にまで無料提供するつもりはなかった。

 隆一の眉がかすかに動く。

 その表情を見た瞬間、忘れたはずの景色が、喉の奥までせり上がってきた。

 三年前。

 父は一人の少女を連れて帰ってきた。

 如月未央。

「この子が、本当の実の娘だ」

 その日から、家の空気は少しずつ変わった。

 両親は、表向きは今まで通りに接してくれた。けれど、食卓で私の話を聞く時間は短くなり、母の笑顔は薄くなり、父は私を見るたびに、何かを測るような目をした。

 未央だけは違った。

「お姉ちゃん」と無邪気に呼んで、私の服を真似し、同じ紅茶を選び、同じ本を読もうとした。

 私は、それを本気で慕われているのだと思った。

 血が繋がっていないと分かった途端に、失われていくものばかりだった。だから、妹ができたと思えばいい。そう自分に言い聞かせていた。

 けれど、あの日。

 未央は父の前に、大量の写真と一通の封筒を置いた。

「お姉ちゃん、こういう場所に出入りしてたの。ホストばかりいるような、下品なお店に。それだけじゃないわ。会社の資料まで、外の人に渡してたみたい」

 写真には、私に似た女の横顔が写っていた。

 封筒には、如月グループの内部資料らしきものが入っていた。

 どれも、身に覚えがない。

「違う。これは何? 未央、誰に頼まれたの」

 私は彼女の手首を掴んだ。

 問い詰めるつもりだった。痛めつけるつもりなんてなかった。

 それなのに未央は、待っていたようによろめき、テーブルの角へ額をぶつけて倒れ込んだ。

 床にうずくまった彼女は、涙に濡れた目で私を見上げた。

 ――お姉ちゃんに、押されたの。

 父は、私の言葉を聞かなかった。

 頬に熱い痛みが走る。

 ――出て行け。お前はもう、如月家の人間ではない。

 その夜、土砂降りの雨の中で、私は婚約者だった桐生司に何度も電話をかけた。

 信じてほしかった。

 せめて一言、話を聞くと言ってほしかった。

 ようやく繋がった電話の向こうで、司は言った。

 ――悪い、今は無理だ。病院で未央に付き添っている。

 それきりだった。

 家も、大学も、婚約者も、その夜に消えた。

 悪い噂はあっという間に広がった。私は大学に戻れなくなり、昼は会計事務の単発仕事を請け、夜はこうしてコンビニに立つようになった。

 一千以上の夜を、この下町でやり過ごした。

 信じられるものは少ない。

 通帳に残った数字と、自分で押したタイムカード。それだけは、私を裏切らなかった。

「栞」

 隆一の声で、現在に戻る。

 私はまっすぐ彼を見た。

「……今さら、何ですか」

 隆一は唇を引き結び、しばらく黙った。

 いつもの彼なら、私に沈黙など向けない。命じ、断じ、終わらせる。それだけだった。

 その男が、迷っている。

「……祖母が、危篤だ」

 息が詰まった。

「静江さんが……?」

 如月静江。

 如月家で唯一、私を本当に孫として抱きしめてくれた人だった。

 血が繋がっているかどうかを誰かが騒ぎ立てるより前から、静江さんだけは私の手を握り、「栞は栞でいい」と言ってくれた。

「もう長くないと医者に言われた。意識があるうちに、どうしてもお前に会いたがってる」

「どうして、あなたの言葉を信じなきゃいけないんですか」

 声が震えた。

 レジの下で拳を握る。まだこの人の言葉ひとつで乱される自分が、悔しかった。

 隆一は目を伏せた。膝の横で握られた拳が、かすかに震えている。

「本当だ」

 掠れた声だった。

 そして、信じられないことに、隆一はレジカウンターの前で頭を下げた。

「頼む。……病院へ来てくれ」

 かつて私を追い出した男の頭頂部が見えた。

 滑稽だと思えばよかった。

 ざまあみろと笑えばよかった。

 けれど、静江さんの名前を聞いた瞬間から、息の吸い方が分からなくなっていた。

 私は唇を噛んだ。

 如月家に戻るわけじゃない。

 父を許すわけでもない。

 ただ、あの人に会う。

 会わなければ、きっと一生後悔する。

「……行きます」

Palawakin
Susunod na Kabanata
I-download

Pinakabagong kabanata

Higit pang Kabanata
Walang Komento
120 Kabanata
第1話 捨てた父が、深夜のレジに立つ
 午前二時過ぎ。  私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」  自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。  夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。  如月隆一。  如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。  三年前、私を家から追い出した男だ。  私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の用ですか」 「少し、話がある」 「雑誌と公共料金でしたら、こちらで伺えます」  自分でも、よくそんなことを言えたと思う。けれど、深夜二時のコンビニに突然現れて「話がある」と言う父親より、仕事のマニュアルの方がまだ信用できた。  相変わらず、命令に近い言い方だった。  この人は昔からそうだ。会社でも家でも、自分が口を開けば周りが従うと思っている。三年前、自分の手で私を切り捨てたあとでも、その立場だけはまだ残っているつもりらしい。  笑ってしまいそうになった。 「もう如月家の人間じゃありません。そう言ったのは、あなたですよね」  言ってから、自分の声が思ったより平らで安心した。笑顔が必要なら接客用を貼れる。でも、この人にまで無料提供するつもりはなかった。  隆一の眉がかすかに動く。  その表情を見た瞬間、忘れたはずの景色が、喉の奥までせり上がってきた。  三年前。  父は一人の少女を連れて帰ってきた。  如月未央。 「この子が、本当の実の娘だ」  その日から、家の空気は少しずつ変わった。  両親は、表向きは今まで通りに接してくれた。けれど、食卓で私の話を聞く時間は短くなり、母の笑顔は薄くなり、父は私を見るたびに、何かを測るような目をした。  未央だけは違った。 「お姉ちゃん」と無邪気に呼んで、私の服を真似し、同じ紅茶を選び、同じ本を読もうとした。  私は、それを本気で慕われているのだと思った。  血が繋がっていないと分かった途端に、失われていくものばかりだった。だから、妹ができたと思えばいい。そう自分に言い聞かせていた。  けれど、あの日。  未央は父の前に、大量の写真と一通の封筒を置いた。 「お姉ちゃん、こういう
Magbasa pa
第2話 家を救うため、私を差し出すそうです
 病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。  ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。  頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」  名前を呼ぶと、まぶたが震えた。  ゆっくり開いた目が、私を捉える。  濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。  骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。  私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。  驚くほど冷たい。  それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り……」  声にはならない。  空気が漏れるような、かすかな音だった。  それでも分かった。  名前を呼ばれたのだと。  幼い頃、夜会で失敗して泣いた私に、静江さんは膝掛けをかけながら言った。  ――家の名前で立つんじゃないよ。自分の足で立ちなさい。そうすれば、どこに行っても栞は栞でいられる。  皆が私を見る目を変えていったあとも、静江さんだけは変わらなかった。  私が家を追い出された時も、最後まで「この子がそんなことをするはずがない」と言ってくれたらしい。  けれど、その直後に容体が悪化した。  高級療養施設に移されたあと、私は面会すら許されなかった。  三年分の言葉が喉につかえて、何も出てこない。  涙だけが落ちた。 「来ました。ちゃんと、会いに来ました」  静江さんのまぶたが、わずかに緩んだ。  そのまま彼女は、私の手を握ったまま、深い眠りに落ちた。  一時間後、病室を出ると、廊下には隆一が立っていた。 「本家に来てくれ。祖母の件で、話がある」  その一言で、体の中に残っていた熱がすっと引いた。  やはり、そういうことか。  病院へ呼んだのは、静江さんのためだけではなかったのだ。  黒い車に乗せられ、三年間一度も近づかなかった如月本家へ向かった。  門をくぐった瞬間、肩がこわばる。  追い出された夜と同じ石畳。同じ玄関。同じ、古い木の匂い。  もう傷ついていないと思っていたのに、床板を踏むたび、濡れた靴下の冷たさまで思い出した。  客間には、養母の琴美と未央がいた。  琴美は私を見るなり肩を揺らし、すぐに視線を膝の上のハン
Magbasa pa
第3話 三年前に終わった話
 司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。  三年前より少し痩せたように見える。  けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。  何も変わっていない。  そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」  呼ばれた名が、廊下に落ちる。  私は足を止めなかった。 「話があるんだ」  司が一歩踏み出す。  その指先が、私の袖をかすめた。  反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私はもう、如月家の人間でも、あなたの婚約者でもないので」  司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「……もう、その呼び方はやめてください」  冷たく言い切った。  そうしなければ、ほんの少しだけ残っている昔の自分が、この男の声に振り返ってしまいそうで嫌だった。 「三年前に終わった話です。今さら、廊下で拾い直す気はありません」  司はそれ以上、何も言えなかった。  私は彼の横を通り過ぎ、かつて自分に与えられていた部屋へ向かった。  部屋の調度品は、何一つ変わっていなかった。  ベッドも、机も、窓辺の薄いカーテンも、追い出された日のままだ。  まるで、私だけが三年分汚れて戻ってきたみたいだった。  胸の奥が冷える。  ここは私の部屋だった場所で、もう私の帰る場所ではない。  そう言い聞かせながら、最低限必要な荷物をまとめていると、ドアが強く叩かれた。  開けると、未央が立っていた。  客間で見せていた上品な笑みは消えている。唇は怒りで薄く歪み、目だけがぎらついていた。 「さっき司さんに会ったんでしょう? また何か話したの?」  私はドアノブから手を離さなかった。  廊下の明かりが、未央の横顔を白く照らしている。 「何を話したかなんて、あなたに報告する義務はないでしょう。婚約者の管理表なら、自分で作ってください」 「司さんは今、私のものよ。あなたがどれだけ平気なふりをしても、もう戻らないんだから」  彼女は声を潜め、楽しそうに続けた。 「あの不気味な車椅子の男と、一生暗い部屋で暮らせばいいわ」  自分で選んだ男を相手に、勝った顔をしているなら、好きにすればいい。けれど、人を景品みたいに並べて優劣をつける目は、もう見飽きていた。  胸の
Magbasa pa
第4話 黒い仮面の当主が、私を見ていた
 ◇「律様、お時間です」  低い声が、扉の外から響いた。  広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。  机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。  その一番上に、朝霧栞の写真があった。  コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。  律は写真の端に指を置いた。 「……朝霧栞」  小さく呟いて、律はゆっくりと身を起こした。  傍らに置かれた黒い仮面を手に取る。  恐れられている方が、都合のいい場面もある。  近づけさせないことで、見られずに済むものもある。  鏡の中の自分を一瞥し、顔の上半分へ影を落とすように装着した。  それを、今ここで世間に正しく見せる必要はない。 「行こう」  その声に応じて、扉が音もなく開いた。 ◇ 婚約当日。  如月本家の大広間には、親族や関係者が集まり、異様な熱気に包まれていた。  金屏風の前に、黒振袖を纏って座る。  背筋を伸ばし、膝の上で指先を揃えた。  着付け係が褒めた髪飾りも、重たい絹の感触も、自分のものではない気がする。  これは如月家が用意した、身代わりのための衣装だ。  周囲から、ひそひそ声が降ってくる。 「本当に、実の娘じゃない方が嫁ぐのね」 「榊家の当主って、顔に酷い傷があって、まともに歩くこともできないらしいわよ」 「如月家も、会社を救うために必死ねえ」  どの声も、こちらに届くようにわざと耳に届くくらい。  私は表情を変えなかった。  数メートル離れた席では、未央が司の腕に寄り添っている。  勝ち誇った笑みを浮かべ、こちらへ小さく口を動かした。  ――お姉ちゃん、ちゃんと尽くしてね。これはあなたが家に負った借りよ。  借り。  その言葉を、心の中で冷たく転がす。  二十四年間の私の人生を勝手に扱い、三年前に切り捨て、今また売ろうとしている家に、私が返すものなど何もない。  その時だった。  会場のどこかで、スマートフォンの通知音が鳴った。  一つではない。  二つ、三つ、十を超える音が、広間のあちこちで重なっていく。  ざわめきが生まれた。  誰かが息を呑む。 「これ……」 「昨日の夜?」  嫌な予感がした。  未央が口元を押さえ、震える手で
Magbasa pa
第5話 朝霧栞を迎えに来た①
 広間の空気が、もう一度私の上に落ちてきた。  花嫁。  その言葉は、救いにも、所有にも、試すための刃にも聞こえた。  この人は味方なのか。  それとも、如月家が差し出した身代わりの価値を、今ここで見定めているだけなのか。  分からない。  分からないまま、会場中の視線だけが私に刺さっている。 「ほら、榊様だって疑っていらっしゃるじゃない」  誰かが小さく笑った。  未央は涙を浮かべたまま、ほんの少しだけ口元を緩めていた。  三年前と同じだ。  誰かが泣き、誰かが証拠を掲げ、私は黙ったまま罪の形に押し込められる。  でも。  同じ場所に戻されたからといって、同じ私でいる必要はない。  私は膝の上の指をほどいた。  黒振袖の裾は重い。立ち上がろうとした足袋の先に、絹が引っかかる。近くの着付け係が手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。  どちらの味方にも見えたくないのだろう。  それでいい。  私は、誰の手も取らずに立った。  髪飾りの鈴が、小さく鳴った。 「その動画に映っているのは、司さんに抱きしめられた私です」  ざわめきが広がる。  認めた、という空気が走ったのが分かった。  だから私は、逃げずに続けた。 「でも、それは皆さんがお望みの、“花嫁が元婚約者と密会していた”という証拠にはなりません」  司が息を呑む音がした。 「音声がありません。私が『離して』と言った声も、押し返したところも、都合よく切られています。……都合がよすぎる映像ですね」  未央の指が、スマートフォンの縁を強く握った。 「お姉ちゃん、そんな言い方……私だって、急に送られてきたから驚いて」 「本当に心配してたなら、最初に本人へ聞くでしょう」  私は未央を見た。  涙で濡れたように見える目。その奥だけは、乾いている。 「心配って、相手の口を塞ぐための言葉じゃない」  未央の涙が、そこで一瞬だけ行き場をなくした。私は、その隙間に言葉を置いた。 「泣いている人だけが被害者なら、我慢してきた人はどこへ行けばいいんですか」 「違うわ。私はただ、司さんが心配で……」 「三年前もそうでした」  口にした瞬間、喉の奥が少しだけ熱くなった。  でも、もう飲み込まない。 「写真と封筒を出して、泣いて、倒れた。私は一度も、何が起きたのか聞かれな
Magbasa pa
第6話 朝霧栞を迎えに来た②
「……俺が、引き止めました」  司の声は掠れていた。 「栞は拒んでいた。腕を掴んだのも、引き寄せたのも俺です」  言葉が一つ落ちるたび、視線の向きが変わっていく。  卓上の湯呑みの水面が、わずかに震えて止まった。  さっきまで私を責めていた人たちが、目を逸らし始めた。伏せられたスマートフォンの画面が、畳の上で黒く沈む。  遅すぎる。  それでも、三年前には聞けなかった一言だった。  未央が司の袖を掴んだ。 「でも、司さんは私の婚約者でしょう。まだその人に未練があるから、そんなふうに――」 「未央」  司は、初めて彼女の手を外した。  乱暴ではなかった。だからこそ、未央の顔が傷ついたように歪む。 「庇ってるんじゃない。俺がやったことを言ってる」 「じゃあ、私が悪いみたいじゃない」 「私だって怖かったのに。あんな大勢の前で恥をかかされたのは、私なのよ」  未央の声が、初めて素の高さを帯びた。 「司さんまで、どうして今さらそっちを見るの」  そっち。  私は、その一言に痛んだ。人ではなく、席か荷物のように分けられた気がしたからだ。  隆一が、重く息を逃がした。 「もういい。この場で騒いでも仕方がない。榊様、見苦しいところをお見せしました。栞にはこちらから厳しく――」 「……厳しく?」  律が遮った。  声量は変わらない。けれど、隆一の言葉だけが薄い紙のように止まった。 「如月代表。今、誰を厳しくするおつもりですか」 「それは……栞のことです。いや、朝霧、ですが」 「如月家とは絶縁済みだと聞いています」  隆一の目が、一瞬だけ私へ向く。  責めるような目だった。  約束を破ったのは、私ではないのに。  私は一歩前へ出た。 「隆一さん」  父とは呼ばなかった。  琴美が、膝の上のハンカチを握ったまま顔を上げる。 「誓約書の控えをください」 「今、この場で、か」 「今、この場で」  自分の声が思っていたより低く響いた。深夜のコンビニで理不尽なクレーム客に返金説明をした時の声に、少し似ていた。  自分の声が、妙にはっきり聞こえた。 「如月家の代役で榊家へ行くわけじゃありません。会社を救うために差し出された娘でもない。朝霧栞として、私が選んだ縁談です」  未央が、泣きそうな顔で笑った。 「選んだ、で
Magbasa pa
第7話 朝霧栞を迎えに来た③
 自分の声が掠れた。  律は慰めなかった。ただ、封筒を持つ私の手が落ちないように見ていた。  隆一が口を開く。 「栞、いや、朝霧。お前は誤解してる。こちらも……苦渋の判断で――」  隆一は言葉を探すように、小卓の上の封筒へ目を落とした。 「苦渋の判断で、人は二度も売れるんですね」 「恩があるだろう、という顔をしないでください。恩を盾にされるくらいなら、最初から家族なんて呼ばれたくなかった」  広間が低く沈んだ。  琴美が息を呑む。隆一の顔から、経営者の整った色が少しだけ剥がれた。  言い過ぎたかもしれない。  でも、取り消せなかった。◇ 誰かが小声で「本当に絶縁していたのか」と言った。  その声に、別の誰かが「では如月家は何を披露しているんだ」と返す。  囁きはすぐに消えた。けれど、消えた場所には、もう昨日までの私だけが悪いという空気は残っていなかった。  琴美が、何かを言いかけて私を見た。  唇だけが「栞ちゃん」の形になる。けれど声は出ない。  その黙り方を、私は三年前にも見た。泣きそうな顔で、でも何も決めない人の黙り方。  胸の奥にまだ柔らかい部分が残っていて、そこが小さく痛んだ。  それでも、手を差し出されなかった記憶は消えない。  律が相良さんへ視線を向ける。 「会場内での動画の再送信は、ここで止めてください」  相良さんが、すぐに頷いた。「外へ出た分は、法務へ回します」 「ただし、朝霧さんのためだけじゃありません。加工された映像で榊家との婚約を揺さぶろうとしたなら、如月家にも損害が出る」  未央の目が泳いだ。  律は、誰が仕組んだとは言っていない。  それで、未央の指先が強張った。見間違いで済ませるには、あまりにも早い反応だった。  相良さんは会場の係員へ低く何かを伝えた。スマートフォンを取り上げるような強引なことはしない。ただ、動画をさらに転送しないこと、榊側から後ほど正式に確認が入ることを、順に告げていく。  その手続きの地味さに、少しだけ現実味が戻った。  魔法みたいに動画が消えるわけではない。出たものは、残る。  けれど、残ったものをそのまま私の罪にされる夜では、もうなかった。  だからこそ、律が強引に消さなかったことも分かった。私の代わりに終わらせるのではなく、私が終わらせるための記録
Magbasa pa
第8話 朝霧栞を迎えに来た④
 振り向きはしなかった。 「……ごめん」  三年遅れの謝罪は、振り返る理由にはならなかった。 「未央さんを見てあげてください」  私は言った。 「あなたが今、選んでいる人でしょう」  司は返事をしなかった。  廊下へ出ると、広間の熱気が嘘のように薄れた。古い木の匂いと、夜の冷えた空気が混ざっている。  車寄せには、榊家の黒い車が待っていた。  車寄せまでの短い距離で、黒振袖の裾が何度も足首に絡んだ。  歩きにくい。  それなのに、不思議と戻りたいとは思わなかった。  背中の向こうで、まだ未央が何かを言っている。琴美の泣き声らしきものも混じった。隆一の低い叱責が、それを押さえ込む。  その全部が、閉じた扉の向こうの音になっていく。  玄関の段差の前で、律の車椅子が止まる。相良さんが先に外へ出て、携帯用のスロープを手際よく置いた。  用意がいい。  そう思ってから、自分がまだ律を「車椅子の人」として見ていることに気づく。 「寒いですか」 「平気です」  反射で答えてから、足袋の先が冷えていることに気づいた。  律は追及しなかった。相良さんが、車内から薄いショールを取り出して私に差し出す。 「要らなければ、車に置いてください」  押しつけられなかったことに、少しだけ身構えが解けた。 「……お借りします」  車内は革の匂いがした。扉が閉まると、外のざわめきが一枚遠くなる。  律は斜め前に車椅子ごと固定された。近すぎない位置だった。 「榊様」 「律で構いません。無理なら、今まで通りで」 「……いきなり名前で呼ぶのは、難しいです」 「では、無理に変えなくていい」  私は少し迷った。 「では、榊さん」  仮面の奥で、目元がかすかに動いた。 「その名前で呼ぶ理由、聞いてもいいですか」  車が静かに動き出す。如月家の門が、窓の外で遠ざかる。  律はすぐには答えなかった。 「今夜は、うまく話せません」  たぶん、冗談ではない。  だから余計に、返す言葉が遅れた。 「話す時を決めるのも、榊さんですか」  自分の声が尖る。  律の指が、車椅子の肘掛けで一度止まった。 「……明日には話します」 「約束ですか」 「……約束します」  約束という言葉だけが、妙に耳に残った。  窓の外で、街灯が一つ流れてい
Magbasa pa
第9話 仮面の下の契約書①
 榊邸の玄関には、花の匂いがなかった。  磨かれた石の床と、低く抑えられた照明。古い洋館なのに埃っぽさはない。むしろ、何かを隠すように隅々まで整えられている。  黒振袖の裾を踏まないように一歩入ると、足袋の裏に石の冷たさが染みた。  奥から、白髪の女性が歩いてきた。六十前後だろうか。背筋が伸びていて、婚約披露の衣装のままの私を見ても目を丸くしなかった。 「お帰りなさいませ、律様」 「遅くなりました」  律の声は、如月家にいた時より少し低かった。  ここが彼の家だからだろう。車椅子に座ったままでも、この家の空気は彼を中心に静かに動いている。  女性が私に向き直る。 「朝霧様。今夜のお部屋は整えております。お着替えも、未使用のものをご用意しておりますが、必要なければ明日あらためてお選びいただけます」  朝霧様。  呼ばれ慣れない響きに、返事が一拍遅れた。  如月の家を出てから、自分でそう名乗ってきた。履歴書にも、タイムカードの名札にも、その名前を書いてきた。  それなのに、誰かに丁寧に呼ばれると、返事をするまで一拍かかる。 「……ありがとうございます」  頭を下げると、袖の重みで肩が落ちた。  着替えも、歯ブラシも、充電器も、何もない。持っているのは、誓約書の写しと、借り物のショールだけだった。  白髪の女性は、榊家の家政を預かる水瀬と名乗った。  名前を聞いても、すぐにはうまく返せなかった。ここでは誰も私を「お嬢様」とは呼ばない。呼ばれないことに安堵しているのに、呼ばれないことで足元が少し浮く。  私は、どの場所でも何かの名札を貼られてきた。  ここでは、その名札を剥がされたまま立たされている。 「先に休まれますか」  相良さんが控えめに尋ねた。  私は首を横に振る。 「いえ。先に、契約の話を聞かせてください。眠るのは、そのあとでいいです」  榊家のベッドより先に、私は紙を読みたかった。甘い扱いよりも、署名欄の方がずっと信用できる。そんなふうに思ってしまう自分が、少しだけ嫌だった。  自分でも硬い声だった。  でも、今夜だけは曖昧にしたくなかった。優しい布団に寝かされて、朝になって、何もかも決まっていた。そんな形は嫌だった。  律が私を見る。  黒い仮面のせいで表情は半分しか分からない。けれど、急かす気配はなか
Magbasa pa
第10話 仮面の下の契約書②
 目の前の紙は、少なくとも読ませるために置かれている。  その違いに気づくことすら、悔しかった。  ありがたいと思った瞬間、また何かを差し出してしまいそうで。 「これは、婚姻届じゃありません」  律は、書類の一番上をこちらへ滑らせた。 「婚姻に関する合意書の草案です。今夜署名する必要はありません。専門家に見せても構わない。……分かるまで、何日かけてもいい」 「何日でも?」 「撤回したいなら、それも含めて」  すぐ返されると、かえって疑いたくなる。  私は椅子に浅く腰を下ろした。帯が背もたれに当たり、黒い袖が膝の上で重なる。  条項は、思ったより短かった。  婚姻届の提出は、朝霧栞本人の明確な同意後に限ること。  如月家および如月グループの債務や保証を、朝霧栞に負わせないこと。  如月家からの直接連絡は、本人の希望がない限り榊側窓口を通すこと。  居室は別室とし、私的空間を尊重すること。  身体的接触、夫婦としての関係は、朝霧栞の明確な同意なしに求めないこと。  そこに安心するより先に、屈辱が来た。  そんなことまで紙にしなければ守られないと思われている自分が、少しだけ惨めだった。いや、惨めなのは私ではなく、そういう紙が必要な世界の方だ。そう思いたいのに、指先は勝手に震える。  そこまで読んで、指が止まった。  紙の端を押さえていた爪の先が、少し白くなる。 「……ずいぶん、都合のいい書類ですね」 「あなたにとって?」 「榊さんにとっても、でしょう。こう書いておけば、優しい人に見えますから」 「……それに、私が感謝すると思っているなら、少し癪です」  言ってから、意地が悪いと思った。でも取り消さなかった。優しくされると、負けたような気がする。その感覚が正しくないことくらい、自分でも分かっている。  失礼だとは思った。  けれど、これくらい言わなければ、私はまた差し出されたものを黙って受け取ってしまう。  律は怒らなかった。 「そう見えるなら、そう受け取ってください」 「否定しないんですか」 「否定したところで、あなたが信じられるわけじゃない」  正論なのに、押しつける響きがない。  それがまた、扱いに困る。 「祖母のことは」  口にした瞬間、胸が詰まった。  静江さんの細い手。酸素マスクの下で動いた唇
Magbasa pa
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status