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Novels by けもこ

無くした恋のその先へ ~この恋を忘れたふりはもうできない~

無くした恋のその先へ ~この恋を忘れたふりはもうできない~

もう会うこともないと忘れたはずの人が目の前に―再会×未練×大人の恋 ― 大手リゾート企業で働く冬月朱莉、30歳。会社のパーティーに現れた代表設計士は、8年前、何の説明もなく彼女の前から去った元恋人・篠宮蒼也だった。ずっと、忘れたふりをしてきた...... その想いは再会で揺らぎ、蒼也もまた別れの本当の理由を抱えたまま未練を抑えきれない。 あの別れは決断か、すれ違いか。過去と未来が交差する大人の再会ロマンス。 過去と未来が交差する、大人の再会ロマンス。
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Chapter: 第23話 蒼也①
連休が明けた五月後半、いつものように神木さんのバーの扉をくぐった。カウンターの奥、見慣れない細い背中がグラスを磨いていた。振り返った彼女は、柔らかな茶髪をまとめた髪型がよく似合う、まだ少し子どもっぽさの残る笑顔を向けた。「冬月朱莉です。今日から入ります。よろしくお願いします」そう名乗った彼女の声には、無理のない明るさがあった。神木さんが女性をバイトに入れるなんて、記憶にある限り初めてだ。ちょっとした驚きだった。女性と話すのは、正直得意じゃない。高校時代に告白された子からは、「話してて面白くない」と別れを切り出され、大学で付き合った彼女からは「全然構ってくれない」と不満をぶつけられた。相手に合わせて話題を広げるのが苦手だし、興味があることといえば、建築くらい。テレビも見ない、流行にも疎い。大学院に進んで、女性との付き合いはますます縁遠くなったが、それでも研究室には似たような人が多かったから、無理する必要も無かった。正直、このまま独り身も楽でいいか、と思っていた。彼女との出会いが、それを全部塗り替えた。建築を学んでいると言えば、「どんなジャンルがお好きなんですか?」と自然に問いかけてくる。気負いなく、ちゃんと関心を向けてくれているのがわかる。だからこっちも、つい普段より多く話してしまっていた。あとで神木さんに聞くと、彼女は高校時代にいくつもバイトを経験していて、接客や気配りができる子なのだという。うちの大学は決して簡単に入れるところじゃない。アルバイトと勉強を両立させて現役合格したと聞いて、内心、素直にすごいと思った。──話すことの心地よさを、久しぶりに思い出した気がする。カウンター越しの彼女と、言葉を交わす喜びが生まれていた。
Last Updated: 2026-07-09
Chapter: 第22話 朱莉㉒
「蒼也は‥‥」 「朱莉は‥‥」同時に発した言葉に、お互い譲り合って沈黙する。 ダメだ、可笑しくて、笑ってしまった。「もう、なんなの。あはは」笑い声が緊張を溶かしてくれた。 彼が少し目尻を赤くして、嬉しそうに見つめている。その様子が、昔と何ひとつ変わっていなくて、ずるいなと思う。「エスモード・デザインは、蒼也の会社なの?」「あぁ。とは言っても、事務も含めて従業員は3人だけの小さい設計事務所なんだけどね。手伝ってくれる人に給料を払う建前上、法人化しただけって感じ」「……宮崎のご実家の会社は、今は手伝っていないの?」踏み込んでいいかどうかはわからないが、聞きたいと思った。「実家の工場は、会社を畳んだんだ。その……経営状況が芳しくなくてね」「すぐ東京で起業したの? ずっと宮崎にいると思ってた」「いや、今の会社は2年前に立ち上げたんだ。それまでは……色々な仕事をして。宮崎には4年位いたかな。実家の整理もあったし、色々なしがらみであちこちに行ったよ」建築に関係する仕事に戻ったのは、3年くらい前。知り合いの設計事務所で働いて、コンペの出品を再開したらしい。少しずつ個人への依頼が増えたことで事務所を立ち上げたのだそうだ。「なんか、蒼也がちゃんと好きなことを仕事にしていて、ちょっと嬉しい。ごめんね、私、質問してばっかりだわ。ウザくない?「全然…全然、そんなことないよ。こうして話せるとは思ってなかったから。朱莉は、きっと、俺のことすごく嫌ってるだろうなって」ああ、そうだった。 彼は、そういう風に自分を責める人だった。 ――だったら、あの日のあの態度は何だったの? 喉まで出かかった問いを、飲み込んだ。聞いたところで、何が変わるのか。「朱莉、本当に、すま……」 「これから、仕事で会う機会があると思うの。今日、こうして話せて、よかった。なんだか、すっきりしたかも。だから……もう大丈夫。蒼也は、気にしないで」蒼也の口から、謝罪の言葉が出そうな気配を感じて、|遮《さえぎ》って笑顔を向ける。簡単に謝って終わりにされたくないという最後のあがきだった。 私はあの日から、ずっとずっと、心のどこかに彼の残像置いて過ごしてきたのだから。「……そうか。わかった。ありがとう朱莉」「こっちこそ、ありがとう、声をかけてくれて」店を出て、家まで送るという蒼也の
Last Updated: 2026-07-05
Chapter: 第21話 朱莉㉑
『次』は、思いのほか早く訪れた。週明けの月曜日、終業後にビルのエントランスを出たところで蒼也に出会った。「朱莉。久しぶりだね」どうやら、自分が出てくるのを待っていたようだ。「蒼也、久しぶりね。こんな偶然があるなんてびっくりしちゃった」ドキドキとしていたけれど、小さなプライドが『落ち着いて見せろ』とがんばってくれている。「もし、時間があるなら、少し話ができないかと思って」昔と変わらない。緊張すると口元に拳がいく、その様子にふっと気持ちが柔らかくなる。「じゃぁ、どこかでお茶でも飲みながら話ししましょうか」近くにチェーンのコーヒーショップもあったが、会社の人がなるべく来ないところがいいと思って、駅と反対方向に通り二つ分離れたコーヒー店に向かった。「朱莉、今も聖ちゃんと2人暮らしなの?」「ううん。聖は今、仕事で大阪にいるの。アパレルのバイヤーをやってて」「すごいね。夢を叶えたんだな」「ふふ、天職だって言ってる。まぁ、私もそう思ってる」コーヒーを手にして席に着く。改まると会話の糸口を見つけにくい。「朱莉がリゾート会社にいるって、正直、驚いた。てっきり金融系に行くと思ってたから」「でしょ? しかも秘書課よ? 私が秘書なんて、想定外でしょ」そう言って笑いかけると、目の前の蒼也が優しい笑顔を浮かべる。「でも、蒼也だって。建築士にはならないって言ってたのに、なんかすごいことになってるし。開発プロジェクトの設計リーダーでしょ?」「以前コンペに出していたものが、水無瀬社長の目に止まったみたいで。声をかけてもらったんだ」本当に聞きたいことはこんなことじゃないのに。それがわかっていて、話しだせないもどかしさが苦しい。
Last Updated: 2026-07-05
Chapter: 第20話 朱莉⑳
まぁ、これ以上は隠していてもいいことはなさそう。「社長、すみません。実は、私、篠宮さんと学生の頃にお付き合いしていたんです。お別れする時にちゃんとした話ができずじまいだったので、向こうはそれを気にされているだけだと思います」社長が、あぁ、というような表情をする。「未練があるのかもねぇ、朱莉に」菱本がニヤニヤしながら言う。「そんな筈ないでしょ。向こうが一方的に別れを切り出したのに。ひどい別れ方をした相手に偶然会って、罪悪感で気になってるだけよ」「冬月さん、あまり篠宮さんと出会いたくないかな。社長室には、なるべく来てもらわないようにしようか」社長の言葉に慌てて手を振って否定する。「いえいえいえ、そんな大昔の別れ話でどうこう思いませんから。大丈夫ですよ」元カレとの再会が随分話を広げてしまったように思う。どうか、蒼也の仕事にも影響がでませんように、と胸のうちで祈った。玄が、プリンのさくらんぼを手にしてうつらうつらと船をこぎ始めたので、また会う約束をして、家を後にした。駅までの道すがら、菱本が呟く。「朱莉、ずっと蒼也さんに未練があったじゃない。だから、新しい恋も始められないし、合コンも乗り気じゃないし。偶然会ったのはいい機会よ。ちゃんと話をしたら? なんであの時別れようって言ったのか聞いてみれば?」「……今さら?」「偶然出会うっていうのは、そうしなさいってなんかの力が働いてるのかもよ」「……」「すっきりすれば、新しい恋に出会えるんじゃないの? 1つの恋に区切りがついたら、僕とリアンみたいな運命があるかもだし」「……何。いい話したふりして|惚気《のろけ》てんじゃないわよ」「やぁだぁ、バレた? さっき話し足りなくて。家帰ったらもっと聞いて」甘えたように擦り寄る菱本をかわしながら、もし、次にどこかで出会ったら、蒼也に声をかけてみよう、とそう思った。
Last Updated: 2026-07-05
Chapter: 第19話 朱莉⑲
食事は、賑やかに楽しく進んだ。菱本が日本に帰るときは、必ずどこかで一度3人で食事をするので、もう恒例行事のようなものだ。「予定日、いつだっけ」「11月最終週。27日頃。2人目は少し早いこともあるって言うしね」「男の子?女の子?」「まだ、はっきりしないけど、たぶん、男の子じゃないかなぁって。でも、エコーにはまだはっきり映らないから」「赤ちゃんが生まれたらアンを連れて必ず帰国するから」菱本が綾香の手を握って言う。玄に食事をさせていた社長が、ふいに朱莉に声をかけた。「そういえば、俺、さっきまで篠宮さんと一緒にいたんだよ。ちょうど、台湾の話が出たから、鴫原さんが、『台湾のホテルの設計は、菱本のパートナーが担当で』って話をしていたら、『菱本さんはパートナーがいるんですか?』って随分驚いていて。『てっきり冬月さんとお付き合いされているのかと思ってました』って言ってた。どこかで会ったの?」「先日、エントランスで偶然お会いしました。え、もしかして僕に一目ぼれしたとか。」菱本が口に両手を当てて、きゃぁ、という感じで頬を染める。 蒼也は、もしかしたら宮崎に帰った時に、自分の性愛の対象が男性だと気づいたのだろうか。だったらそう言ってくれれば良かったのに。出そうなため息を飲み込んだ。「うーん、そういう感じではなかったかな。どうなんだろうな」社長の歯切れが悪い。どちらにしても、蒼也には、仕事の場であまり私の話をして欲しくはないものだ。「まだ、朱莉のことが気になってるのかな」綾香の零した一言に、社長がどういうこと?という視線を送る。慌てて綾香が、ごめん、というように朱莉の方を見つめる。あぁぁぁ…ほら。
Last Updated: 2026-07-05
Chapter: 第18話 朱莉⑱
「久しぶりだね。菱本くん!」少しふっくらとした綾香が玄関で迎えてくれる。そのスカートの陰から、社長にそっくりの男の子が顔を覗かせた。「|玄《げん》ちゃん、こんにちは!きゃー歩いてる」「この前台湾で遊んだ時は、まだ、抱っこだったからね」玄は、カン高い声で叫ぶ菱本に不審そうな視線を投げた後、朱莉の元に歩いて来た。普段からよく遊びに来る朱莉には、懐いているのだ。「玄ちゃん、玄ちゃんの好きなプリン買って来たよ。クリームとさくらんぼ乗ってるやつ」「ぷりん、さくらんどのやちゅ?げん、ひとりでたえれるよ」目を輝かせて万歳して喜ぶ。うーん、可愛い。「玄ちゃんは、見る度に社長に似てくるね。この綺麗な顔立ち。女の子が黙っていなさそう」そう言うと、綾香がため息をつく。「綺麗な顔って、羨ましいとずっと思ってたけど、我が子がそういう顔立ちだと、人生狂わされないかしらって心労はあるわよ」そういうもの? そういうものよ、とやり取りしながらリビングへ向かう。料理教室を運営する綾香の作る食卓は、料理雑誌の表紙になりそうな見た目だ。「毎回思うけど、すごいねぇ」配膳を手伝いながら、思わず感嘆の声が漏れる。「毎日、こんなに見栄えのいい食事を作ってるの?」「そんな筈無いでしょ。今日は朱莉と菱本くんが来るから特別。私だってお惣菜買う時もあるし、デリバリー頼む時もあるから」玄関が開く音に、玄が走って行く。「おとおしゃ、おかいり!」「げ~ん~♪ただいま~♪会いたかったよ~」会社では見ることのできない社長の姿がここにある。2歳児に頬ずりをしてほっぺたを吸い上げている。「廉、お帰りなさい」そして、リビングの入り口で愛妻の腰を抱き、耳の後ろにキスをしている。相変わらず、お熱い。「お邪魔しています」そう挨拶をすると、多少緩んだ顔で、「ゆっくりしていて、着替えてくるから」と言いながら、息子を抱えて自室へと歩いて行った。
Last Updated: 2026-07-05
 パンプキンレター

パンプキンレター

【ハロウィンから始まる恋】小さなカボチャに刻まれた詩が心を秋色に変える 裏庭に、転がっていた皮に短い詩が刻まれた小さなかぼちゃ――“パンプキンレター”。どうやらこれは隣家からやってきたらしい。 人との関わりに疲れた主人公と植物と関わる寡黙な隣人。――隣人同士の小さな日々が重なり、二人は少しずつ距離を縮めていく。 ハロウィンの夜に綴る、秋色のヒューマン・ロマンス短編。
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Chapter: 第5話
ハロウィン当日。キッズコーナーでワークショップの準備をしていると、植物園の職員ジャンパー姿の笹川さんが段ボールを抱えて現れた。「小野さん。こんな感じでどうですか?」箱の中には、細工されたミニカボチャがぎっしり。「素敵……ありがとうございます」飾り付けを終えた書棚の上に並べていく。笹川さんも、壁の折り紙に触れないよう気を配りながら手伝ってくれた。カボチャにはアルファベットが一文字ずつ彫られていて、順に置くと「HALLOWEEN」。 両端には表情の違うオバケカボチャが二つずつ並べられるようになっていた。「急にお願いしたのに、本当にありがとうございます」 「いえ。終わったら回収に来ますね」 「あの、しばらく飾っておいてもいいですか?」 「もちろん」並べ終えると、彼は段ボールを片手に”では”と足早に図書室を後にした。「今の、笹川さん?」入れ違いで真弓さんが事務所から出てきて、閉まりかけたドア越しに背中を見送る。「ご存じなんですか?」 「うちの夫、植物園勤めなの。とはいっても、笹川さんは研究員でうちの旦那は管理作業員なんだけど。小野さん、知り合い?」 「お隣さんなんです。この飾りをお願いして」並べたカボチャを見せる。「へえ! 小さな町はすぐ繋がるわね。笹川さん、以外だわ。こんな特技があるとは」ちょうどその頃、親子連れが集まり始めた。用意していた材料を机に広げ、子どもたちを迎える。◇◇◇ワークショップは大成功だった。保護者の協力もあり、長谷川さんと二人でなんとか子どもたちが楽しめるように回し切った。。「このカボチャ、すごく可愛い! 職員の方の手作りですか?」帰り際、姉妹の手を引くお母さんが声をかけてくる。「いえ、得意な方がいて、その方からお借りしています」 「素敵ですね。大人向けのワークショップもやってほしいです」そう言って、微笑みながら帰っていった。 そんな声があったことを、笹川さんに伝えたか
Last Updated: 2026-07-05
Chapter: 第4話
夜、食事を終えた頃に、いつものように隣家に車が帰ってくる音がした。先日は、帰って、着替えて、さあゆっくりしよう、という時間に訪問してしまったに違いない。 急ぎ目に隣家へ向かう。インターホンを押すと『はい』という返事があって、私が名乗ると、すぐに玄関が開いた。 良かった。笹川さんは、植物園の職員用ジャンバーを着たままだった。「お疲れのところすみません。実は笹川さんにお願いがあってお伺いしたんです。少しだけお時間いいですか?」昼に考えたアイデアがどうしても拭えず、ダメもとでお願いしてみることにした。「あ、玄関先ではなんですから、良かったら上がりますか?」そう言われて厚かましくも家に上がり込んだ。玄関から続く廊下の奥に摺りガラスのドアがあって、その奥がリビングだった。祖母の家と建てられた時期が同じなだけあって、台所のシンクの位置などは古い感じではあったが、壁を取り払ってリンビングとダイニング繋げ広く快適な作りにリフォームしてある。 ロウが走り回れるようにしたのかもしれない。「どうぞ。そこにかけてください。さっき帰って来たばかりなので、お茶を入れるので少し待ってくださいね」そう言うとコンロにヤカンをかけた。「あ、お構いなく。お仕事帰りお邪魔してしまってすみません」 「いえいえ、大丈夫です」キッチンを向いて背中を越しに笹川さんが返事をする。その横に寄り添うようにロウが座る。 本当にベッタリなのね。微笑ましくて笑いがこぼれた。入れてもらったお茶を飲みながら、笹川さんに昼間に思いついた案を相談する。「それなら大丈夫ですよ。実はカービング用に中をくりぬいたカボチャがすでにいくつかあるので、すぐにできます」 「本当ですか? 良かった。子どもたちがすごく喜ぶと思います」「良かったら当日図書室に直接持って行きますね」 「え! そんな、申し訳ないですから。私、お預かりさせていただければ……」 「小さいけど数があると重いですから」結局、お願いした物は笹川さんが、ハロウィン
Last Updated: 2026-07-04
Chapter: 第3話
週末から雨が続いていた週明け月曜日の休日。リビングで趣味の押し花アートに没頭する。最近、少し老眼になりつつあって、ピンセットで花びらを掬う時に突き刺してしまわないように気を使う。時折、眉間を指でつまんでほぐさないと、気づくと目が疲れて仕方がない。春から夏にかけて作った材料を、組み合わせながら、花や花びら、葉を重ねて全体にグレーとブルーの配色をする。「よし、これにパンジーの黄色を入れて月っぽくしたらいいかな」1人暮らしの良いところは、声を抑えず独り言が言えるところで、悪い所は独り言が増えてしまう点だ。図書室の子どもたちへのハロウィンのプレゼントに栞を作ってみた。夏のワークショップで一緒に押し花をやったので、たぶん喜んでくれると思う。うーん、と体を伸ばして椅子の背もたれをグーっと体で押したとき、インターホンが鳴る。カメラを覗くとどうやらお隣さんのようだ。「はい、今出ますね」相手が何も言わないのに、パタパタと廊下を小走りに玄関に向かっていた。玄関を開けると、傘を差した笹川さんとカッパを着たシェパードが立っていた。「こんな日にすみません。先日のタッパーをお返しに来ました」「すみません。ご丁寧にありがとうございます」ついついカッパを着て賢くお座りをしている犬の方に視線がいく。「お名前なんていうんですか? 」「……“みなと”です」犬の名前にしては、珍しい。横浜とか神戸とかの生まれなのだろうか。「みなとくん? ちゃん? かな」しゃがみ込んで、目線を合わせてみた。「いい子だね、みなとくん」「あっ。すみません。“みなと”……僕の名前です」――すごい空気が流れた「……この子はローワンです。普段は、ロウって呼んでいて……」顔が熱くて立ち上がれない。“みなとくん”って……「すいません。恥ずかしい間違いをしてしまって……」頭上から焦るような、困ったような声が降ってくる。「こちらこそ……すみません」しゃがみ込んだまま、謝った。「ほ、ホントにいい子ですね。ちっとも騒がないし、吠えたりもしないし」取り繕ったような感じで立ち上がると、笹川さんは耳まで赤くして、目線を合わせない。こういう勘違いってホントに恥ずかしい。でも、お互いにそうだ、と思ったらちょっと解れた。「その……ロウは、保護犬で。前の飼い主に声帯を除去されたようで、声が出ない
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第2話
仕事を終えて家に帰り着くのはいつも6時過ぎ。隣家に灯りが灯ったら訪問してみようと夕飯の支度を始める。ここに引っ越してきて片づけをしていたら、祖母が作ったレシピノートが数冊出て来た。時間のある時には、それを時々参考にして懐かしい味を楽しんでいる。「あ、そうだ」台所の籠に入った栗と玉ねぎを見てメニューを決めた。夕食を終えて食器を片づけていると、隣家のガレージに車が入る音がする。――あー。緊張しちゃう。エプロンを外してテーブルの袋に入った皿とミニカボチャのランタンを手にして隣家へ向かった。 インターホン越しに様子を伺う。間を置いて反応があった。『はい』 『あの、隣の小野ですけど』 『……はい』静寂が続く。――インターホンが切れた? のかしらもう一度ボタンを押して、話をしようとしたところで玄関が開いた。「あっ…え? お、お待たせしてすみません」たぶん、着替えの途中だったのだろう。いつもの眼鏡をかけていないし、シャツの裾が乱れている。近くで見ると、思っていたよりも背が高い。他所の玄関ってだいたいその家の匂いがするのよね。でも、なんていうか、ここの玄関は心地よい香りがする。花の香り?「お疲れのところすみません。先日から、我が家の庭に素敵なカボチャが転がっていて…」こういうのは、不満を言いに来たわけではないように話すのが難しい。「え! ああ! こちらこそ、すみません! たぶん、うちの犬が悪戯をして」 「あら。ワンちゃんがいるんですか? 全然吠え声も聞こえないし、気づきませんでした」隣家から犬の気配を感じたことは無かった。薄暗い廊下の奥のガラス扉の向こうに大きな犬の影が見える。「すみませんでした。あまり庭には出ないようにしているんですが、最近、気候がいいので少し遊ばせていて。その時に持って出たんだと思います。ご迷惑をおかけしました」申し訳なさそうに、頭を下げる姿に慌ててしまう。「迷惑なんて、そんな。素敵な細工ですね。言葉はお考えになったものなんですか?」 「お恥ずかしい……」耳を赤くして言葉に詰まっている。困らせてしまったことに気づく。「あ、あの、すごいなって思って。本当に素敵だなって。あ! 私、お詫びをしないと」手に持っていたカボチャを手渡しながら、その大きく開いた口の中を見えるようにした。「あまりに素敵だったので、勝
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第1話
最初のカボチャは、夕方の色が庭に沈みきる頃に見つけた。庭のベンチの下、掌に収まるほどのオレンジの球が転がっていた。 つるの名残が、猫のしっぽのようにくるりと曲がっている。持ち上げると、皮に彫り込まれた文字があった。細い刃で綴られた詩。 灯りは小さいが      道になる彫ってあるのでカクカクとした字ではあるが、しっかり読み取れた。刻まれた溝は新しく、そこに指を当てるとほんの少しカボチャの生々しさが残っている気がした。庭越しに隣家を見れば、背の高いヒマワリが秋の名残を振っている。その陰に、薄い色のシャツの人影。隣に住む笹川さん――だ。影は動きを止めた。私も、カボチャを手にしてしばし動きを止めた。 しばらくして、その影は姿を現すことなく建物の向こうへと去ってしまった。祖母の家に戻ってきたのは、今年の春。ほこりを払って暮らしを置き直し、地域が運営する図書室で非常勤司書の職を得た。昨年の夏までは、東京の都心にある雑貨店で働いていた。昔から小物づくりが好きで、大学卒業後に雑貨販売の会社に就職をしたが、どうやら私は作るのが好きなのであって、売るのは性に合わなかったようだ。追われるような仕事の日々に心が追い付かず、祖母の入院を機に仕事を辞めた。春に祖母が亡くなるまでは、その世話を一手に引き受けた。母からは、仕事を辞めさせて申し訳ない、と言われたが、祖母の介護を言い訳に仕事を辞めたところもあり、少し後ろ暗い気持ちではあった。小学2年の頃に母が離婚し、私は学校が休みに入るたびによく祖母の家に預けられた。 だから、この場所は第二の故郷と言っても過言ではない。地域の図書室も、歩いていける植物園も、小さい頃は毎日のように通った場所だ。 祖母と最後の日々を過ごせたことは、自分の中の祖母への思慕の整理にもなった。翌日の夕方にも、ベンチの下にミニカボチャが転がっていた。 風の手紙は   季節を運ぶ昨日のとは違う言葉が彫ってあった。持ち上げてしばし周囲を眺める。――お隣さんよね? どうしよう。うちの庭に入ってましたよ、って持っていくべきかしら大きな口をあけたようなカボチャは、中がくりぬかれ、その中にろうそくがおけるように作られている。結局、もう暗いから、と自分に言い訳をして、家にそれを持って入り、昨日のカボチャの横に並べてみた。 ふと思いたって、祖母の仏
Last Updated: 2026-07-03
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