Chapter: ー序章ー 1.硝子の城イレヱヌは金髪を靡かせながら馬に乗って|駈歩《キャンタア》させる。左右の|拍子《リズム》が非対称の三拍子で走る動きをしているため、軽く息が切れてきた。髪に太陽の陽が当たると、まるで稲穂の様な輝きを放つ。|瑞西《スイス》の瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良い。そうしていると悩みが総て風に乗って心の外へと流れ出ていくのを感じる。しかし、勿論此の瞬間は永遠には続かないことを知っている。何れだけ気に入ろうと此処は自分にとって終の棲家に出来る場所ではない。 ブロードウェイ・シアターで今日も母は豊かな金髪を耀かせながら舞台に立っている。「オクラホマ!」のヒロインローリーを演じている姿をイレヱヌは|凝《じっ》と見つめていた。 (ママンは今日も一番きれい) 誰よりも美しい母ジャンヌはイレヱヌにとっては何よりの自慢だった。 女優である母ジャンヌ・スチュワアト(公には旧姓ジャンヌ・ゴーテンと名乗り続けた)とイレヱヌは、プラザホテルのヴェルサイユ宮殿をモティーフにした部屋で無造作に置かれたドレス、宝石、毛皮、そして噎せ返りそうなほどの芳香を放つ花々に囲まれながら生活をしていた。 イレヱヌが祖国である|仏蘭西《フランス》の土を踏んだのは戦後漸く経ってからだ。ジャンヌという女は自分の不利益になることへの嗅覚は優れていた。|仏蘭西《フランス》が第二次世界大戦に参戦することが決定されるや否や状国の未來は当分は見通しが暗いと見なし何の未練もなく祖国を後にしてしまった。プラザホテルで生活をする理由は身の回りの世話は昔から使用人や恋人に任せきりだったため、生活能力が無いことという自覚をしているからだ。|私生活《プライバシィ》を守りたいという至極尤もな理由などその一つに過ぎない。イレヱヌが産まれる前も、産まれた後にも誰にも教えることなく一人で育てると決めたのもそのような明らかに必要なものが欠けているからこその決断だったのだろう。 「I」と|微笑《わら》いかけられて抱き締められると何時もオォ・デュ・コロンと母の皮膚の匂いが交じった甘い馨りに|恍惚《うっとり》した。 ジャンヌはイレヱヌを時々Iと呼んだ。 イレヱヌの碧眼は耀の加減によって紫色にも|藍色《インディゴ》にも見えること。極東では|藍色《インディゴ》は“ai”と呼ばれること。そして |《私》の
Última actualización: 2026-07-21