イレヱヌは金髪を靡かせながら馬に乗って駈歩させる。左右の拍子が非対称の三拍子で走る動きをしているため、軽く息が切れてきた。髪に太陽の陽が当たると、まるで稲穂の様な輝きを放つ。瑞西の瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良い。そうしていると悩みが総て風に乗って心の外へと流れ出ていくのを感じる。しかし、勿論此の瞬間は永遠には続かないことを知っている。何れだけ気に入ろうと此処は自分にとって終の棲家に出来る場所ではない。
ブロードウェイ・シアターで今日も母は豊かな金髪を耀かせながら舞台に立っている。「オクラホマ!」のヒロインローリーを演じている姿をイレヱヌは凝と見つめていた。
(ママンは今日も一番きれい)
誰よりも美しい母ジャンヌはイレヱヌにとっては何よりの自慢だった。
女優である母ジャンヌ・スチュワアト(公には旧姓ジャンヌ・ゴーテンと名乗り続けた)とイレヱヌは、プラザホテルのヴェルサイユ宮殿をモティーフにした部屋で無造作に置かれたドレス、宝石、毛皮、そして噎せ返りそうなほどの芳香を放つ花々に囲まれながら生活をしていた。
イレヱヌが祖国である
仏蘭西の土を踏んだのは戦後漸く経ってからだ。ジャンヌという女は自分の不利益になることへの嗅覚は優れていた。
仏蘭西が第二次世界大戦に参戦することが決定されるや否や状国の未來は当分は見通しが暗いと見なし何の未練もなく祖国を後にしてしまった。
プラザホテルで生活をする理由は身の回りの世話は昔から使用人や恋人に任せきりだったため、生活能力が無いことという自覚をしているからだ。
私生活を守りたいという至極尤もな理由などその一つに過ぎない。イレヱヌが産まれる前も、産まれた後にも誰にも教えることなく一人で育てると決めたのもそのような明らかに必要なものが欠けているからこその決断だったのだろう。
「I」と
微笑いかけられて抱き締められると何時もオォ・デュ・コロンと母の皮膚の匂いが交じった甘い馨りに
恍惚した。
ジャンヌはイレヱヌを時々Iと呼んだ。
イレヱヌの碧眼は耀の加減によって紫色にも
藍色にも見えること。極東では
藍色は“ai”と呼ばれること。そして
の分身という意味のある愛称が誕生した。ジャンヌという女にとって自身と瓜二つの娘との境は何故か曖昧なもので、その片鱗がこの愛称からも見られていた。
ジャンヌはイレヱヌをまるで生きた着せ替え人形のごとく自分の気に入った服を着せ、髪を整え、時にファウンデイションや
口紅を塗って美しく着飾らせることを楽しんだ。ジャンヌの此の振る舞いは恐らく母親としては眉をひそめられるものだっただろう。イレヱヌとジャンヌの関係とは母親と娘というよりも血の繋がった親友や歳の離れた姉妹に近いものだった。
「I、あんたって最高に
美しいお人形さんね」
「
Ma poupée」
ジャンヌは何時も着飾ったイレヱヌを
恍惚見詰め、まろい薔薇色の頬に
接吻しながらそう言った。
そしてイレヱヌは母にそう賛辞される度に自分の美しさと美の力というものを実感した。
(自分は美しい。美しい自分は誰よりも価値がある女の子だ)
イレヱヌは自分が美しい女の子である、という事実を認識する度に、自分は誰よりも価値がある、自分は誰よりも愛されて然るべき存在である、という自信を深めていった。
イレヱヌから見たプラザホテルでの二人の生活は満ち足りた幸せ其の物であった。唯一の不満を挙げるならばジャンヌの仕事の都合で仏蘭西にはたまにしか帰国をすることが出来ない事くらいだった。然し、其の幸せな生活はまるで床に叩き付けられた繊細な硝子細工の如く脆くも崩壊してしまう日がやって来た。
「初めましてイレヱヌ。私が君のパパだよ。」
在る日イレヱヌの前に自分のパパと名乗るエドワアド・スチュワアトが現れた。
「パパはママンが
巴里の
赤い風車で踊り子をしていた時から知っていてね、ママンとは旧くからの友達でもあったんだ。君の事はつい最近ママンに教えてもらったよ」
エドワアドはジャンヌが下積み時代の踊り子から人気女優にまで登り詰めたジャンヌの総てを側で見守った人物だった。(尤もジャンヌは此のような人物を恒に複数抱えていた。亜米利加で華々しく活躍出来たのも支援者達の協力有ってこそ、だった)ジャンヌがブロウドウェイ・シアターで活躍していることを切欠にどうやらジャンヌは娘がいるらしいこと、そして恐らく父親は自分であることを察しプラザホテルまでやって来た。
(私に子供が出来るだなんて……。この期を逃せば二度と此のような
機会は訪れるまい)そう察するや否や、エドワアドは前妻とは何の未練もなく離婚をした。前妻は身体が弱くて子供の出来にくい体質であったことが長年エドワアドにとっての頭痛の種であったため、この離婚を拒否することが出来なかった。
そして現在イレヱヌは一階のパームコートでその“パパ”と名乗る男性とジャンヌも交えて対峙していた。イレヱヌはステンドグラスの
円蓋や鏡張りの
卓子の内装のパームコートが御気に入りだったのだが、この日は何時ものような高揚など少しも感じられなかった。
「もう五つになったと聞いたよ。大きくなったねイレヱヌ」
此方の気持ちを解きほぐすような
微笑いを向けてきたが、イレヱヌは相手に親しみを感じることなど出来なかった。突然見ず知らずの人物が目の前に現れて“パパ”を名乗るという状況には当然ながら困惑しか感じられない。背が高く艶のある黒髪、整えられた口髭がモンテスキュウ伯の肖像画を連想させた。
「君にもママにも随分と淋しい思いをさせてしまったね。本当に済まなかった。でももう大丈夫だよ。此れからは家族三人で仲良く暮らしていこう」
(あたしの家族はママンだけだよ)
心の奥でイレヱヌは返事をする。あくまでも口には出さない。出すことなど、出来はしなかった。其の言葉を口に紡いでしまったら目に見えない何かが決定的に壊れてしまうという恐ろしい直感が働いたからだ。淋しさなどママンが居たから感じたこともない、と反射的に反発したかったものの、やはり口には出来ない。ジャンヌが三人で生活をするということに前向きなことが解るからだ。そうでなければ母がそもそも目の前の男と態々三人で逢うことに了承するとは思えない。イレヱヌはむっつりと黙りこくった侭俯く。
卓子の鏡にはステンドグラスの
円蓋が映りこんでいる。自分の世界は今にも粉々に踏み潰されて彼方此方へと破片が耀を放ちながら飛び散り、跡形も失くなろうとしているというのに何時も通りの美しい情景だった。其の事が一層イレヱヌの胸を締め付けた。
「大丈夫よイレヱヌ。パパは映画と劇場の社長さんだからお金持ちだしとっても優しいしの。イレヱヌの我が儘だってちゃんと聞いてくれるわ」
ジャンヌはエドワードと同じ様に、イレヱヌの気持ちを解きほぐす様な
微笑いを浮かべた。ジャンヌにとっては其れなりに娘の事を思っての結婚をしたつもりだった。
(最初はきっと戸惑うわよね。でもエドと結婚するのはイレヱヌにとっても良いことのはず。ママンだけじゃなくパパもいないとやっぱり淋しい想いもさせるだろうし可哀想だわ。あたしが親に向いて無いことは最初から分かっていたし)
しかし、ジャンヌの内心を知らぬイレヱヌは
(ママンはあたしの味方じゃない)イレヱヌは打ちのめされていた。自分の味方など世界には何処にも居ない。大宇宙にたった独り取り残されるような、押し潰されてしまいそうな孤独感だった。 和やかな談笑が遠くから聞こえてくる。二人はイレヱヌの意思などどうでも良いのだ。未来はもう決まっていて、この決定事項をイレヱヌにも受け入れさせたいだけだ、ということを幼いなりに何となくイレヱヌは察しなければならなかった。
イレヱヌは案の定新しい住まいを全く気に入る事が出来なかった。家は立地からして嫌いだった。窗からはセントラルパークもエンパイア・ステエト・ビルも見えない。建物は真っ白なモダニズム建築で、装飾の無い直線的で箱のような外観だ。庭があるものの、芝生は徹底的に刈り込まれ生垣はまるで定規を当てながら剪定をされたかのようだ。
イレヱヌは庭があると聞いたときにモネの絵画のような色彩と耀に溢れる情景を想像したが、実際には墓地を想像させる寒々としたものだった。裏庭にプールとカバナが在ることをジャンヌは大変気に入ったようだが、イレヱヌはプールなどどうでも良かった。一切の無駄を削ぎ落として合理性のみで出来た家が自分の居場所とは思えなかった。
内装も全く持って気に入らない。エドワアドの趣味で
採集されているライフルが厭だった。そして、室内に飾られている絵も堪らなく厭だった。男女が裸になっていて抱き合っている其の絵は極端に肉体が歪曲しており、骨張っている。人物が灰色がかっていながら、生々しい。筆跡が荒々しく少しも美しいとは思えなかった。恐ろしさに戦きながら目を離せないでいると
「イレヱヌはエゴン・シイレが気に入ったかい?」
とエドワアドが
微笑いかけながら聞いてきた。
イレヱヌはその|瞬間《とき》(パパがあたしのことを解って呉れる日は来ない)と悟った。
娘が何を感じているのか解らない。自分の良いように解釈をする。自分のパパとはそういう人なのだ、イレヱヌはそう悟る。耳の奥で、窓が軋みながら閉まる音がした。
おまけに使用人達が皆英語しか話さない。イレヱヌは亜米利加に居るというのに英語が嫌いだった。シュウ・アラ・クレェムが何故か英語ではクリームパフなどどいう味も素っ気も無い不快な単語にされてしまうのかイレヱヌには解らなかった。元々は仏蘭西《フランス》で産まれたものだというのに。|パルフェがどうやら此方ではサンデー為るものと同一視されているらしいというのも嫌だった。イレヱヌからすれば全く違う。パルフェはもっと華やかで味わいも複雑だ。
何もかもが気に入らない新居のため、イレヱヌはジャンヌの部屋に籠ることが多くなった。自分の住む場所の筈が何処にも居場所など見付けられ無かったからだ。ジャンヌの部屋はエミィル・ガレの家具が置かれている。壁にはロォトレックの赤い風車の様子が描かれた平版画、ミュシャが描いたサラ・ベルナァルのポスターや黒い美神と讃えられたジョセフィン・ベイカーの写真などが飾られている。イレヱヌにとっては新居の中で唯一好きな空間だった。この部屋に入るといつも美しき時代の空気を感じられるからだ。当時の赤い風車とはどの様なものだったのか、ジョセフィン・ベイカーのダンスやサラ・ベルナァルの芝居は何れだけ素晴らしいものだったのか夢想するのは楽しかった。
イレヱヌはジャンヌの部屋に来てはジャンヌのキモノ風の
羽織を身に纏い、レコオドをかけたりテレビを観たりするというのがイレヱヌの家での過ごし方だった。
ジャンヌは仕事で舞台に立ち、映画の撮影で映画スタジオであったり遠方を飛び回る日々だった。プラザホテルに住んでいた時よりも顔を合わせる時があからさまに減ってしまった。最近顔を合わせて話をする時間が一番長かったのは、ジャンヌの仕事で一緒に雑誌に出ることになった時だった。親子でお揃いの
高級既製服を着られる事と、写真に写るのは堪らなく楽しかったが、本心では仕事ではなく家で会って話したかった。
(若しもあたしにママンと同じくらい夢中になれる“何か”があれば、もっと毎日楽しいのかな、家の外に居場所があれば何かが変わるのかな)イレヱヌは果たして其れが何なのか、何処に其れが有るのか全く検討もつかなかった。
稀に両親が揃って自宅に朝からいる時はパーティーが開催される日だ。イレヱヌはこのパーティーが大嫌いだった。何故か理由はイレヱヌにもはっきりとは理解らない。ただ、自宅の“パーティー”は空気がどうしても厭としか言いようが無い。何か言い様の無い異様な空気が辺りを支配しているのだ。暗黙の了解という掟が絶対的に存在する。例えて言うなら舞台における脚本のようなものだ。そして出席者は皆其々が与えられた役割を演じなければならない。其れをしないと脚本が台無しになるからだ。イレヱヌもこの“パーティー”が自宅で開催される時には顔を出さなければならなかった。エドワアドが“美しい妻と愛らしい娘を持つ幸せな男”の顔で人前に出るために必要な道具だからだ。
「妻のジャンヌと娘のイレヱヌです」と
微笑うエドワアドとその隣に立つジャンヌは何かを演じている顔だった。出席者達は必ずと言って良いほど「何て可愛らしいの!」と大袈裟に褒め称えたが其れは本心なのかイレヱヌには判断がつかなかった。思わずジャンヌの後ろに隠れてしまう。「イレヱヌったら恥ずかしいの?」ジャンヌがくすくす笑いながらイレヱヌに話し掛けた。「ごめんなさいねベイブ、ビル。この子少し人見知りなところがあるから」そう目の前の夫妻に伝える。CBSネットワークの創設者ウィリアム・S・ペイリーと亜米利加社交界の華バーバラ・ペイリーだった。この二人のことはVogue等で見たことがあった。
「良いのよジャンヌ。知らない人ばかりで緊張しちゃうわよね」バーバラはにっこりと優雅に微笑んだ。ウィリアムもイレヱヌに|微笑《わら》いかけ、「はじめましてイレヱヌ。私たちは君のパパとママの友達だよ」と自己紹介をする。イレヱヌはこの感じの良い美しく着飾った夫妻にも何故か嘘を感じた。世間では間違いなく成功者の夫と美しい妻として知られる幸せな夫妻だというのに何故かそうは見えなかった。イレヱヌにとっては苦痛はこの“パーティー”の時間だけではない。最大の苦痛は他にあった。