Partager

第4話

Auteur: ルーシー
車のドアを開け、智也は沙羅が降りる時に頭を上にぶつけないように手をかざし、沙羅に手を差し伸べた。

二人が指を絡め合わせたその瞬間、玲奈もそちらへ振り返った。

そして、心を突き刺すような親密な様子の二人が視界に入ってきた時も、玲奈は恐ろしいほど落ち着いていた。

もしかしたら、もう悟ってしまった後だからなのだろう、そんなシーンを目撃しても心を平静に保っていられるのは。

もし以前の彼女であれば、その場で泣き喚いていたかもしれない。

しかしこの時、彼女はただ智也に対して「沙羅のほうがおまえより母親として相応しいからだ」とは一体どういう意味なのか問いただしたいだけだった。

「智也、さっきのはどういう意味よ?」

玲奈は唇を少し震わせ、そう尋ねた。その声のトーンも変化していた。

沙羅は車を降り、智也と仲良さげに手を繋いだままだった。月の光の下、二人の親しげな様子が地面に長い影を作っていた。

智也は玲奈の声など、まるで聞こえなかったかのように、沙羅を連れて小燕邸へ入ろうとした。

もう何回このように彼から無視され続けてきたか分からない。

玲奈の心には、すでにハチの巣のように無数の穴が空いている。しかし、娘に関しては決して引き下がるわけにはいかなかった。

だから彼女は彼らの前に立ちはだかった。そして、一体どこから出たのか分からないくらいの力で智也の腕をガッと掴み、大きな声で訴えた。「智也、なにか言いなさいよ!」

それでようやく智也は足を止め、玲奈のほうへ顔を向けた。彼女を見つめるその瞳は見た者を凍り付かせてしまうほど冷ややかなものだった。彼は腕をくるりと回し、簡単に玲奈の手を引き剥がすと同時に口を開いた。「おまえは仕事が忙しいし、愛莉はまだ小さいだろ。だから、彼女の世話をする人が必要だって言ったんだ。おまえが二人目を妊娠したら、沙羅に愛莉の面倒を見てもらうんだ」

智也は昔からずっとこうだ。何か決めるのに、玲奈の意見など聞かず、まるで会社の上下関係のように決定事項だけを彼女にただ報告する形のだ。

しかし、今回に限っては、勝手にそのようなことを彼に決められるわけにはいかない。

それに、隣の県まで働きに行くと決めた時、玲奈はあらかじめ愛莉のお世話をしてくれる家政婦を探していたのだ。

しかし、先月その家政婦は智也が勝手に解雇していたことを知った。

彼女が出張していたこの半年もの間、ずっと沙羅がこの小燕邸に入り浸り、智也と愛莉、三人一緒に楽しく過ごしていたというのだ。

玲奈がそれでも騒がなかったのは、智也は玲奈のことだけを新垣家の夫人だと認めてくれているのだろうという淡い期待を持っていたからだったのだ。

しかし、彼女の知らないところで、娘までも奪われてしまっていたのだ。

なのに、はいそうですかと簡単に大人しく認めて、ここを去ってたまるものか。

娘の世話を誰がするのかという話題になり、玲奈は理性を保つことができなくなり、強い口調でこう言った。「私は自分の子供くらい自分で面倒を見られるわ、よそ者に頼む必要なんかない」

智也はひたすら玲奈の主張を無視し続け、ただ命令口調で「もう決まったことだ」と吐き捨てた。

玲奈はあまりに頭に血が上り、普段の従順な様子からは考えられないほどの大声を出し、それに対抗した。「言ったでしょ、私は自分で面倒が見られるって」

その瞬間、その場の空気は凍り付いた。智也の後ろにくっついていた沙羅はどうもその場の空気がおかしいと思い、小声で言った。「智也、まずは春日部さんと話し合ったほうがいいと思うわ。私、先に愛莉ちゃんのところへ行っているから」

智也はそれに頷いて、沙羅は小燕邸のほうへと足を動かした。

この時、玲奈が声を上げて彼女を呼び止めた。「深津沙羅、待ちなさい」

沙羅が振り向いた瞬間、ビンタが彼女の顔めがけて飛んできた。

もちろん、玲奈の手だ

智也がハッとした時、すぐに沙羅に駆け寄り、玲奈を押し退けた。そして、沙羅の身体を支えて辛そうに「大丈夫か?」と尋ねた。

沙羅は両手で顔を覆い、可哀想な様子でその瞳から大粒の涙を流していた。

智也はかなり心配しているらしく、叩かれたところにふうふうと息を吹きかけてあげたり、優しく撫でたりしていた。しかし、玲奈は沙羅がこんな目に遭っても、それはこの女が無実ではないからだと思っていた。

どこに子持ちの既婚者の男にここまで親し気に近づくような女がいるというのだ?

もちろん、沙羅の一人だけでの問題ではない。智也も性根の腐った男だ。

玲奈が口を開いて何か言おうとした瞬間、小さな人影が小燕邸の中から飛び出してきた。

愛莉がとても焦った様子で靴も何も履かずに駆けつけたのだ。

愛莉は彼らの元に駆けつけると、沙羅に飛びつき彼女の足を抱きしめて、顔を仰向けにして尋ねた。「ララちゃん、痛かった?愛莉がふーふーしてあげるからね」

愛莉はもう寝る準備に入っていたが、窓越しに智也の車がやって来るのを見た。

彼女は父親が大好きなララちゃんを連れて帰ってきたと分かり、すぐに下まで二人を迎えに行ったのだ。

そして玄関まで来たところで、玲奈が沙羅に一発お見舞いするのを目撃し、愛莉は急いで靴も履くのも忘れて外へと飛び出したのだった。

玲奈はその場に立ち尽くし、自分の夫と娘が無関係なよそ者の女を心配し、慰めている異様な情景を目の当たりにし、自分の心が粉々に砕けてしまう音をはっきりと聞いた。

ただ、玲奈はこの時信じたくなかった。自分が手塩にかけて育ててきた大事な大事な可愛い「薔薇」が、自分に向けてトゲを刺してきたのを。

彼女はあまりの衝撃に手を震わせ、無意識に「あい……」と口に出した。

しかし、愛莉というその名を口にしてしまう前に、愛莉のほうが怒りに燃える瞳で振り向き玲奈の前までやって来て、彼女のことを叩き続けた。「悪い人、ママって本当に悪者だわ。よくもララちゃんのこと殴ったわね。この悪者、私、こんなひどいママなんか要らないわ」

玲奈は顔を瞬時に蒼白にさせ、その場に固まってしまった。その時、彼女はふいに娘の親権を争おうと思っていたのは、どれほど馬鹿なことだったのか突然悟った。

夫も、娘も、彼女のことなど必要ないのだ。

今この瞬間にここにいる自分は、まるで滑稽だと思った。

さらに笑えるのは、全く彼女のことを愛してなどいない男の子供を、今身ごもっているということだ。

愛莉は玲奈を長い間叩き続けて、ようやくその手を止め、また彼女に何かを言っていたが、玲奈の耳には全く聞こえていなかった。

ただ、あの「悪者」という言葉だけで、玲奈の希望を全て打ち崩してしまったのだった。

玲奈はそこに暫くの間、茫然と立ち尽くし、やっと一声「ハハ……」と乾いた笑いを吐き出し、智也も愛莉も一瞥することなく、彼らに背を向けて去っていった。

すると、彼女の後ろで智也と愛莉が沙羅を囲んでひたすら心配する言葉をかけ、慰め続けていた。玲奈が去ってしまったことなど誰も気付いていなかった。

角を曲がるところで、玲奈はやはり耐えきれず、この5年間大切に思っていたあの二人のほうを振り返って見た。

智也と愛莉の二人は沙羅を中心にして立ち、彼女の手を握って一緒に小燕邸のほうへと歩いていった。彼らこそ本物の一家三人というようなとても仲睦まじい様子だった。

玲奈は笑った。ただその光景にむせかえるような切なさが襲ってきて、泣きたかったが、涙など一滴も流れてこなかった。

この5年という時間が、彼女の精神を完全にすり減らしてしまっていたのだ。

彼女はずっと彼らを自分よりも大切に思ってきたが、それはもうこの瞬間でおしまいだ。

小燕邸を離れ、玲奈は独りぼっちで長い長い道を歩きながら、この過去5年間のありとあらゆることを思い返していた。実際、彼女はもう早い段階から気付いていた。このような家族とは呼べない関係性の中で自分自身をすり減らしていくのは間違っているのだと、ただ彼女はそれを認めたくなかっただけなのだ。

しかし、今、彼女はもう悟った。今この瞬間から自分だけを大切に、愛していくのだ。

玲奈はタクシーで白鷺邸に戻り、書斎でまた離婚協議書の制作に取りかかった。

財産は半分ずつ。娘に関しては、もう親権は放棄する。

そしてその離婚協議書を書き終わり、デスクの上にきちんと整えて並べた後、玲奈は夜通し車を運転して隣の県まで帰っていった。

そして夜少し休んでから、早くに病院に到着した。

この日、産婦人科の担当医は大学時代の同級生である……篠原一華(しのはら いちか)だった。

玲奈の結婚がどのような状況なのかを、一華は少し知っている。

玲奈がどうしても堕胎すると聞いて、一華は少し驚いていた。「せっかく妊娠できたのに、どうしてまた堕ろすだなんて言うの?本当に彼に対する気持ちが冷めちゃったんだとしても、彼と離婚して、自分でこの子を育ててもいいじゃないの」

玲奈は一華の向かい側に座り、落ち着いて言った。「一華、私は女よ。女性はね、そんな簡単に子供を産む決断をしてはいけないわ。それに私の命は私だけのものよ。私はね、もう決めたの。だから、できるだけ早く手術を予定してくれないかしら」

昔の玲奈はもう死んだのだ。これから先、自分と自分を愛してくれる人だけを大切にしていくのだ。

彼女を愛してくれない人間など、捨ててしまえばいい。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Commentaires (1)
goodnovel comment avatar
煌原結唯
娘の為に用意した小燕邸。その時には既に沙羅が存在して居たのかな。
VOIR TOUS LES COMMENTAIRES

Dernier chapitre

  • これ以上は私でも我慢できません!   第689話

    テントを出ると、外の空気はさっきよりもさらに冷え込んでいた。玲奈は思わず身を震わせた。それでも振り返ることはせず、両腕を抱くようにしながら、さらに人のいないほうへ歩いた。山頂の別荘のまわりはひっそりとしていた。彼女は建物のほうへは戻らず、そのまま外の細い道へ足を向けた。やがて一本の切り株の前で足を止め、ゆっくりと腰を下ろした。顔を上げれば、空には一面の星がきらめいていた。雲ひとつない夜空だった。その無数の星を見つめているうちに、胸の奥に沈んでいた記憶が次々によみがえり、玲奈はたまらなく苦しくなった。ほんの短い間に、いろいろな人の顔が脳裏をよぎる。かつて智也を愛したときは、ただひたすらに、向こう見ずなほど真っすぐだった。彼のためなら、体面も誇りも家族さえも後回しにし、何もかも差し出してもいいと思っていた。その後は、愛莉のために、自分の仕事まで手放して専業主婦になることを選んだ。そしてそのあとで、自分に優しくしてくれる拓海と出会った。けれど、その優しさは本来、自分のものではなかった。自分はただ、そこに入り込んでいただけだったのだ。そうした一つひとつを思い返すたびに、玲奈の頬を涙が伝った。彼女は手で顔を覆い、こらえきれずに嗚咽を漏らした。しばらく泣いているうちに、ようやく少しだけ呼吸が楽になる。そのとき、足元に誰かの影が差した。誰なのか確かめるより先に、あたたかなダウンジャケットがそっと肩にかけられた。その人が隣に腰を下ろしてから、玲奈はようやく顔を向けた。心晴だった。彼女は心配そうに玲奈を見つめていた。「まだ、つらい?」玲奈は目を赤くしたまま、かすかに口元をゆるめた。「大丈夫。あと二日もすれば、きっと平気になるから」無理に浮かべたその笑みは、目元にまったく届いていなかった。見ればすぐわかるほど、痛々しく不自然だった。心晴はそんな玲奈をそっと抱き寄せた。「うん。そうなんだね」玲奈も黙ってその身体を抱き返した。長い沈黙のあと、彼女は静かに言った。「戻ろう。もう遅いし」二人がテントのある場所へ戻ると、そのまま同じテントに入った。そして支度を済ませて横になった。頭上の透明な天幕越しに、外の星空がそのまま見えていた。しばらく黙っていた

  • これ以上は私でも我慢できません!   第688話

    拓海の顔から、さっきまでの笑みがすっかり消えた。声を落とし、玲奈に問いかけた。「つまり、玲奈が俺に送ったあの女が……俺を助けた本人だって言いたいのか?」玲奈は頷いた。「そうよ」拓海は玲奈の腕をつかんだ。無意識に力が入る。そして、歯の隙間から絞り出すように声を出した。「俺を拒むために、そんな嘘までつくのか?」玲奈は真っ直ぐ彼を見つめた。その目には、ただ真剣さだけがあった。「嘘じゃない。本当のことよ」その言葉に、拓海はふいに顔を背け、大きな声で拒絶した。「信じない」玲奈はなお何か言おうとした。だが拓海は、もうそれ以上聞こうとしなかった。次の瞬間、彼は振り向きざまに玲奈の唇を塞いだ。それは初めてと言っていいほど乱暴な口づけだった。噛みつくように、奪い尽くすように、まるで彼女そのものを呑み込んでしまいたいかのように。玲奈は反射的に彼を押し返した。もう彼に怪我があることなど、気にしていられなかった。それでも、どれだけ力を込めても、拓海は離れようとしない。やがて口の中に濃い血の味が広がったとき、ようやく彼は少しだけ唇を離した。その血が自分のものなのか、拓海のものなのか、玲奈にはわからなかった。拓海の顔は薄暗がりの中に沈み、玲奈が見上げても、おおまかな輪郭しか見えない。長い睫毛に隠れて、その目の奥の感情も読み取れなかった。玲奈は口元の血を手でぬぐい、それでもなお言った。「私が言ったことは、本当よ」その言葉に、拓海は冷たく笑った。「本当だったとして、それが何だっていうんだ」表情は見えない。何を考えているのかも、はっきりとはわからない。ただ、その声の端々から、彼がひどく機嫌を損ねていることだけは伝わってきた。そして拓海は、さらに低く問い詰めた。「もしあのとき、先に俺を見つけたのが玲奈だったら、見捨ててたか?玲奈の性格なら、絶対に助けてたはずだ。だから俺を救ったのは玲奈でしかないし、そうあるべきなんだよ……」そのとき、玲奈が静かに言った。「須賀君、それはわからない。本当に……私にも、自分が助けたかどうかなんてわからない」起きてもいないことに、確かな答えは出せない。玲奈自身にも、自分なら必ず助けたとまでは言い切れなかった。拓海

  • これ以上は私でも我慢できません!   第687話

    玲奈自身がそう決めた以上、心晴もそれ以上は何も言えなかった。結局、その夜のテントの割り振りは、明と颯真が一張り、心晴が一人で一張り、そして玲奈と拓海が一張りということになった。決まると、皆それぞれ自分のテントへ戻っていった。玲奈がテントの中に入って腰を下ろすと、すぐに拓海も身をかがめて入ってきた。二人は向かい合って座ったまま、互いを見つめながらも、不思議なほど息を合わせたように黙り込んでいた。しばらくして、玲奈が口を開こうとしたそのとき、先に拓海が言った。「わかってる。玲奈、何か抱えてるんだろ。一日中、ずっと元気がなかった。今日だって、本当はそんなに楽しめてなかったはずだ。みんなの気分を壊したくなくて、泊まるって言っただけなんだろ」そうと知りながら、それでも拓海は彼女の気持ちを優先しなかった。このまま山を下りてしまえば、それぞれまた別々の場所へ帰ってしまう。だからこそ、少しでも長く一緒にいたかったのだ。拓海の言葉に、玲奈は取り繕わなかった。「そうよ」あまりにきっぱりと認められて、拓海は逆に面食らったようだった。それでもすぐに、探るように問いかけた。「そこまでして俺と二人きりになりたかったって、一体何を話すつもりなんだ?」玲奈は顔を上げて彼を見た。けれど、いざとなるとどう切り出せばいいのかわからない。黙り込んだ彼女を見て、拓海はさらに尋ねた。「今日ずっと、知らないやつからラインの友達追加が来てた。あれ、玲奈が送ったのか?」玲奈は頷いた。「そう。私が送ったの」拓海は気にも留めていないように肩をすくめた。「女か?」「ええ」すると拓海はあっさりと言った。「なら、もうブロックした」それを聞いた瞬間、玲奈は思わず身を乗り出した。「須賀君、あなた……」だが次の瞬間、拓海は彼女の手をつかみ、軽く引いて自分のほうへ寄せた。その黒い瞳をまっすぐ見つめながら、低く押さえた声で言った。「相手が女なら、追加したって意味がない。だったら最初からいらない」その視線を受け止めながら、玲奈ははっきりと彼を呼んだ。「須賀君。あの橋の上で――」だが最後まで言い切る前に、拓海は身を翻して彼女に覆いかぶさった。大きな影が、玲奈の上に落ちる。拓海はそのまま顔を

  • これ以上は私でも我慢できません!   第686話

    そのころ、山頂では――五人はレジャーシートの上に並んで寝転んでいた。玲奈と心晴が真ん中にいて、その両脇をそれぞれ拓海と明が挟んでいる。空いっぱいに散らばる無数の星を見上げながら、玲奈の目はどこか焦点を結ばず、耳の奥にはただ静けさだけが満ちていた。そんな中、場を和ませるように明が口を開いた。「みんな黙っちゃってるけど、何考えてるんだ?」けれど、誰も答えなかった。全員が口をつぐんだままなのを見て、明は名指しで尋ねた。「颯真、おまえは?」颯真の声はいつもどおり淡々としていた。「あとでテントをどう分けるか考えてた」明は思わず鼻で笑った。「風情なさすぎだろ。こんないい景色を前にして、考えることがそれかよ」すると颯真は、さらりと返した。「あとで一緒に寝ようなんて言うなよ」明は「は?」とでも言いたげに顔をしかめ、それから今度は拓海へ向き直った。「須賀は?何考えてるんだ?」拓海は両手を頭の後ろに回し、星空を見たまま、しゃがれた声で答えた。「俺は俗っぽい人間だからな。頭の中、そういうのでいっぱいだ。俺も同じで、あとでテントをどう分けるか考えてた」明は額に手をやりたくなった。「……ほんと、お前たち二人がいると、こっちの立つ瀬がないよ」拓海はすかさず突っ込んだ。「何が立たないって?」明は慌てて低く怒鳴った。「心晴がいるんだから、そういうこと言うなって!」拓海はそれ以上何も言わなかった。妙な空気がひとまず引いたところで、明はまた玲奈に声をかけた。「玲奈さんは?何考えてるんだい」玲奈はひとつ深く息を吸い、笑みを作って答えた。「私は……別に何も」本当は、頭の中は一華と拓海のことでいっぱいだった。けれど今はまだ口にできない。胸の中に押し込めたままで、息が詰まりそうだった。明も、それ以上しつこく追及はしなかった。心晴にも聞いてみたかったが、気分を害したらと思うと踏み込めない。すると、本人のほうから先に口を開いた。「私はね、この先のことを考えてたの。きっと私たち、これから先、みんな幸せに、楽しく暮らしていけるんじゃないかなって」その言葉に、明もすぐに頷いた。「うん。きっとそうだ。楽しくて、幸せな日々になる」そこからは、自然と会話が続いた。

  • これ以上は私でも我慢できません!   第685話

    智也は愛莉の顔をじっと見つめていた。小さな顔の上を、次から次へと感情が移り変わっていく。返事がないままなので、智也は様子をうかがうように声をかけた。「愛莉?」はっと我に返った愛莉は、くりくりとした大きな目で智也を見上げ、素直に答えた。「パパ、どうしたの?」智也は辛抱強く、もう一度尋ねた。「ララちゃんに会いに行きたいか?」愛莉は首を横に振り、唇を尖らせた。「行かない」その返事に、智也は不思議そうに眉を寄せた。「ララちゃんのこと、一番好きだっただろ。どうして行きたくないんだ?」愛莉は目を伏せ、複雑な表情を浮かべた。「好きだよ。でも、雅子おばさん……」思わず、雅子にいじめられていることを話しかけた。けれど言葉はそこで途切れ、その先は飲み込んだ。もし言いつければ、雅子は沙羅に、自分を相手にしないよう仕向けるかもしれない。そう思うと怖くて、それ以上は口にできなかった。智也はその様子を見て、わずかに眉をひそめる。「どうした?」愛莉はにこっと笑って、智也の腕に抱きついた。「ううん、何でもない」智也はそれ以上追及しなかった。ただ頭をそっと撫でて言った。「まだ時間はある。おばあちゃんを呼んで、少し外で遊んでもらおう」愛莉は素直に頷いた。「うん」智也が美由紀に電話をすると、ほどなくして彼女はやって来た。美由紀は、孫娘の愛莉をことさら可愛がっているわけではなかった。本当は欲しかったのは男の子の孫だったからだ。それでも智也の娘である以上、露骨に冷たく当たることはない。だが、特別に愛情を注いでいるわけでもなかった。愛莉のほうも、この祖母にはどこかよそよそしさを感じていた。むしろ宮下のほうが、よほど親しみやすいとさえ思っていた。二人が小燕邸を出るとすぐ、美由紀は不満げに口を開いた。「愛莉、あなたのお母さんは本当に自分勝手ね。今じゃ、娘のあなたのことまで放っておくなんて」なぜだかわからない。その言葉を聞いた瞬間、愛莉は胸の奥が少しざわついた。愛莉は思わず言い返した。「おばあちゃん、ママはちゃんと面倒見てくれてたよ。前は、いつも朝ごはん作ってくれたもん」それを聞いた美由紀は、さらに顔を曇らせた。「じゃあ今は?今でもちゃんとしてく

  • これ以上は私でも我慢できません!   第684話

    皆の視線を一身に受けながら、拓海は玲奈のほうを振り向いた。けれど答えそのものは、背後の皆に向けて言った。「玲奈に任せるよ」この件ばかりは、自分だけで決めにくかった。山へ来る途中で、夜はカフェで話そうと約束していたからだ。最終的な判断を自分に委ねられ、玲奈は少しだけ面食らった。顔を上げると、何組もの期待に満ちた目が、自分へ向けられている。今日は皆、本当に楽しそうだった。それに天気も申し分ない。空を見上げると、もう星がぽつぽつと浮かび始めていた。みんなの気分に水を差したくなくて、玲奈は結局折れた。「……うん。今夜はここで泊まりましょう」そのひと言に、明が喜んだのはもちろん、隣の拓海まで、あからさまに顔をほころばせた。ちょうどそのとき、玲奈のスマホが鳴った。画面を見下ろすと、智也からだった。彼女はスマホを手に取り、少し離れた静かな場所へ移って電話に出た。拓海は彼女が電話に出るのを見ても、追いかけようとはしなかった。相手が智也だとわかっていたからだ。通話がつながると、智也が開口一番に訊いた。「戻ってくるのか?」玲奈は淡々と答えた。「今夜は小燕邸には戻らないわ」その返事に、智也は声を低くした。「戻らない?」よく耳を澄ませば、その声には不機嫌さが滲んでいた。だが玲奈は、彼の感情など意に介さなかった。ただ、もう一度はっきりと言う。「ええ、戻らないわ」それでも智也は食い下がった。「今どこにいる?」玲奈は逆に問い返した。「何か用なの?」智也は少し間を置いてから言った。「愛莉が、おまえの作る味噌汁を食べたいと言っている。明日の朝、作ってやってくれないか」それを聞いた瞬間、玲奈はおかしさすら覚えた。声はさらに冷えていく。「その話をするためだけに電話してきたのなら、わざわざかけてくる必要はなかったでしょ」そう言い切ると、智也が何か言うのを待たず、そのまま通話を切った。一方そのころ、智也は耳元で鳴り続ける話中音を聞きながら、そばにいた愛莉へ視線を落としていた。それからようやく、小さな声で言った。「……今の、聞いただろう。ママは今夜は帰らないそうだ」愛莉は眉を寄せた。「じゃあ、いつ帰ってくるの?」久我山へ戻ってきてもう一

  • これ以上は私でも我慢できません!   第225話

    電話を切ったあと、玲奈はベッドの縁に座り込み、しばらく呆然としていた。愛莉の言葉にも、もう胸は大きく揺れなかった。――どうせ彼女はもう、沙羅を母親だと思いたがっている。理由などどうでもよかった。思考を打ち切り、玲奈は部屋の片づけを始めた。薔薇の花びらも贈り物もすべて箱に収め、ようやく洗面を済ませて眠りについた。翌朝早く、身支度を整えた玲奈は再び家を後にした。目的はひとつ――智也に会って、直接離婚の話をすること。彼女は真っすぐに彼の会社へ向かった。ビルの前に着くと、すぐに智也へ電話を掛ける。だが応答はなく、代わりにメッセージが届いた。【外で会議中だ。

  • これ以上は私でも我慢できません!   第503話

    薫は本来、何か言うつもりだった。だが玲奈と拓海の姿が目に入った瞬間、反射的に口を閉ざした。人の流れがもう少し散ってから、薫は拓海が玲奈の腰に回している腕から視線を外し、わざと声を張り上げて智也に問いかけた。「智也さ、じゃあお前は?いつ沙羅さんにプロポーズするつもりなんだ?」智也は薫の意図をわかっていた。全部見えている。返事を待たずに、薫は畳みかけた。「もう会場の手配してるって聞いたけど?」智也はそこでようやく頷き、淡々と答えた。「......うん」声も大きくはない。けれどその「うん」は、こちら側にいる玲奈と拓海の耳にも十分届いた。薫も、智也が

  • これ以上は私でも我慢できません!   第500話

    ――けれど、ここまで来たのなら。たとえ和真を二言三言罵るだけでも、あるいは一発平手打ちするだけでも。それだって心晴の鬱憤を晴らすことになる。玲奈はそう思っていた。玲奈が泣き崩れる姿を見て、拓海は胸が痛くてたまらなくなった。彼は勢いよく玲奈を抱き寄せ、頭を自分の胸元に押し当てた。そして静かに言い聞かせる。「信じろ。必ずあいつに代償を払わせる」玲奈は怒りで全身を震わせ、声を荒らげた。「でも、和真が死んだって......それで心晴の潔白は戻らない!」拓海は大きな手で玲奈の頭頂を撫で、声を低く落とす。「わかってる。......でも信じろ」その言葉

  • これ以上は私でも我慢できません!   第518話

    颯真は頷いた。「ああ」玲奈はそのまま寝室へ入った。すると心晴はベッドの縁にうつ伏せになり、胸が裂けるように泣いていた。玲奈は彼女の横にしゃがみ、そっと肩を叩いて尋ねる。「......どうしたの?」心晴は上体を起こした。両目は血が滲んだみたいに真っ赤で、見ているだけでぞっとするほどだ。そして玲奈に言った。「和真は畜生だよ......。ベッドの動画、盗撮されてた。あいつ、それで脅してくる。警察に行くなって......」その言葉に、玲奈は息を呑んだ。けれど考えた末、玲奈は悔しさを抑えきれずに言う。「心晴......それで、全部なかったことに

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status