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すべてを手放して静かに幸せになるまで

すべてを手放して静かに幸せになるまで

By:  はるCompleted
Language: Japanese
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明石智久(あかし ともひさ)が想い人を庇って怪我をし、入院したという知らせを耳にするや否や、梅沢明純(うめざわ あすみ)は真っ先に病院へと駆けつけた。 少しだけ開いたドアの隙間から、姉の梅沢美琴(うめざわ みこと)が智久の胸に飛び込み、涙に暮れる姿が見えた。 「どうしてこんな馬鹿な真似を?車が突っ込んできたら、誰だって逃げるのに。私を突き飛ばして身代わりになるなんて。あれからもう何年も経つというのに、どうしてまだ気にかけてくれるの? あの時、私が結婚式から逃げ出して、社交界の笑い者にしたのに。少しも恨んでいないの?」 智久は目を閉じ、傍らに下ろした手を微かに震わせながら、低く押し殺した声で答えた。 「愛しすぎて、恨むことすらどうでもよくなってしまったのかもしれない」 美琴は声も出ないほど泣きじゃくり、胸をかきむしられるような思いで咽び泣いた。 「後悔しているの。どうしてあの時置いていってしまったのかって。でも、もう私たちにやり直す道はないわよね。もう、妹の夫なんだから」

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Chapter 1

第1話

明石智久(あかし ともひさ)が想い人を庇って怪我をし、入院したという知らせを耳にするや否や、梅沢明純(うめざわ あすみ)は真っ先に病院へと駆けつけた。

少しだけ開いたドアの隙間から、姉の梅沢美琴(うめざわ みこと)が智久の胸に飛び込み、涙に暮れる姿が見えた。

「どうしてこんな馬鹿な真似を?車が突っ込んできたら、誰だって逃げるのに。私を突き飛ばして身代わりになるなんて。あれからもう何年も経つというのに、どうしてまだ気にかけてくれるの?

あの時、私が結婚式から逃げ出して、社交界の笑い者にしたのに。少しも恨んでいないの?」

智久は目を閉じ、傍らに下ろした手を微かに震わせながら、低く押し殺した声で答えた。

「愛しすぎて、恨むことすらどうでもよくなってしまったのかもしれない」

美琴は声も出ないほど泣きじゃくり、胸をかきむしられるような思いで咽び泣いた。

「後悔しているの。どうしてあの時置いていってしまったのかって。でも、もう私たちにやり直す道はないわよね。もう、妹の夫なんだから」

智久の胸は深く抉られ、血を流しているかのようだった。

長い沈黙の後、嗄れた声で一つの問いを口にした。

「もし来世があるなら、今度こそ俺と最後まで添い遂げてくれるか?」

「ええ。来世があれば、絶対に手放したりしないわ」

その瞬間、長年抑え込んできた智久の感情が堰を切ったように溢れ出し、ついに手を伸ばして美琴を強く抱きしめた。

その目元が赤く染まるのを見て、明純は胸の奥に何かがつかえたように、どうにも息ができなくなった。

底知れぬ切なさが押し寄せ、涙が視界を滲ませる。

それでも泣くのを堪え、これ以上ないほど醜い作り笑いを浮かべた。

今生はまだ半分も過ぎておらず、妻である自分はこうして生きているというのに。

夫はすでに、姉との来世を待ち望んでいる。

ならば、この三年間の結婚生活は、一体何だったというのか。

きつく握りしめた掌から血が滲み、無数の記憶が次々と脳裏に蘇る。

物心ついた頃から、明純は智久を知っていた。

だがその瞳に自分が映ったことはなく、ただひたすらに姉の背中を追いかけていた。

無邪気な子供時代から恋を知る年頃になっても、明純は常に傍観者として、智久の狂おしいほどの愛が育っていくのを見つめていた。

美琴のために他の女子からの好意をすべて拒絶し、姉だけを守り続けている姿を。

安定した幸せな未来を与えるためだけに、パイロットの夢を諦めて家業を継ぐ姿を。

やがて明石家と梅沢家が縁組を結び、二人の娘から一人を選ぶことになった時、智久は迷うことなく美琴を選び、この上なく盛大な結婚式を準備した。

しかし式当日、美琴は貧しい男と駆け落ちしてしまった。

噂は瞬く間に広まり、式場は非難と嘲笑の渦に包まれ、花婿である智久の誇りと面子は泥水に踏みにじられたも同然だった。

その日、自ら前に進み出て、すべてを被ったのは明純だった。

姉は逃げたのではなく、自分が追い出したのだと告げた。

自分も智久のことが好きで、嫉妬に狂い、姉の花婿を奪うために追い詰めたのだと。

いずれにせよ縁組を無かったことにはできない。

姉を追い出した以上、自分を妻に迎えるしかないと。

その言葉が放たれた途端、式場の人々からの心無い非難は、すべて明純へと向けられた。

だが、明純の本当の性格を知り尽くしている智久と、祖母の明石宇多子(あかし うたこ)だけは分かっていた。

生まれつき気が弱く、梅沢家でも冷たくあしらわれている明純に、姉を追い詰めるような真似などできるはずがないのだと。

その日、智久は明純の指に結婚指輪をはめ、花嫁が入れ替わったまま式は進められた。

式が終わった後、宇多子はなぜあんな真似をしたのかと尋ねた。

明純は口ごもりながら、ようやく本心を打ち明けた。

「智久さんは誇り高い方ですから。あの屈辱を、たった一人で背負わせたくなかったんです」

宇多子はその一途な思いに心を打たれ、明純を孫の嫁として認めてくれた。

息を引き取る間際、宇多子は明純の行く末を案じ、孫に「一生離婚しない」と誓わせた。

智久もまた、明純が自分のためにどれほど泥を被ってくれたかを分かっていたからこそ、その誓いを受け入れた。

結婚してからの智久は良き夫であろうと努めた。

花やプレゼントを欠かさず、記念日には必ずお祝いをしてくれた。

夜のベッドでもこの上なく優しく、常に気遣ってくれた。

夫はすでに自分を愛してくれているのだと、何度も錯覚した。

一ヶ月前、美琴が離婚して帰国するまでは。

貧しい暮らしに嫌気がさした姉は、智久の優しさを思い出し、よりを戻したいと願ったらしい。

だが、祖母との誓いがある手前、智久は首を縦に振ることはできなかった。

口では「もう終わったことだ」と言いながらも、姉に何かあるたび、智久は仕事を放り出して駆けつけた。

その姿を何度も目の当たりにするうち、一生添い遂げたいという夢は完全に打ち砕かれた。

智久が姉に向けていた身を焦がすような若き日の愛を思い出し、どうしても姉を手放せないのだと悟った。

夫を解放し、自分自身も自由になろう。

離婚できないのなら、死別すればいい。

そうすれば、夫婦という縛りは自動的に消え去るのだから。

病院を出た後、明純は親友の富山香瑠(とやま かおる)に電話をかけた。

「香瑠、修理に出す飛行機が一機あったわよね?」

「ええ、あるけど、どうしたの?」

深く息を吸い込み、今下したばかりの決断を打ち明けた。

「飛行機事故を仕組んでほしいの。その飛行機で、私を死んだことにして」

*

家に戻ると、すぐに荷造りを始めた。

三日後、帰宅した智久はトランクケースを見て、何気なく尋ねた。

「急に荷造りなんかして、どうしたんだ?」

「十日後に友人の結婚式があって、海外へ行くの」

本当は、結婚式などどこにもない。

その日は、自ら選んだ死が訪れる日だった。

智久は微かに眉を寄せ、海外で結婚する友人とは誰だったかとしばらく考え込んでいた。

結局思い当たる節はなかったらしく、それ以上追及することもなく、妻の腰を引き寄せた。

首筋に吹きかかる優しい息遣いを感じ、明純は全身を強張らせ、無意識に突き飛ばしていた。

「あの日なの」

だが智久の記憶では、生理は一週間前に終わったばかりのはずだった。

拒絶するような態度を見てしばらく呆然としていたが、やがて探りを入れるように口を開いた。

「美琴を庇って怪我をしたこと、怒ってるのか?美琴を助けたのは君の姉だからだ。万が一のことがあったら、君が悲しむだろうと思って」

何も尋ねていないのに、男はすでにもっともらしい言い訳を用意していた。

誓いを守るため、そして美琴の言葉を聞き入れたからこそ、家に戻って仲睦まじい夫婦の芝居を演じているのだと分かっていた。

だが、いくら取り繕っても、貧しさと咳、そして恋心だけは隠し切れるものではない。

今まさに電話が鳴り、画面に美琴の名前が表示されたのを見ただけで、智久の口角は微かに上がり、瞬時にすべての言い訳など消え去ってしまったように。

一言だけ言い残し、スマートフォンを手に書斎へと消えていった。

「急な仕事が入った。疲れたなら俺を待たずに休んでてくれ」

扉が閉まる直前、微かに漏れ聞こえた姉の声に、小さく笑みをこぼした。

ええ、もう二度と待たない。

やがて彼も、何も隠すことなく、愛する人を追いかけられるようになるのだから。

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松坂 美枝
松坂 美枝
暴走車ナイスアシスト(笑)
2026-07-02 12:08:03
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第1話
明石智久(あかし ともひさ)が想い人を庇って怪我をし、入院したという知らせを耳にするや否や、梅沢明純(うめざわ あすみ)は真っ先に病院へと駆けつけた。少しだけ開いたドアの隙間から、姉の梅沢美琴(うめざわ みこと)が智久の胸に飛び込み、涙に暮れる姿が見えた。「どうしてこんな馬鹿な真似を?車が突っ込んできたら、誰だって逃げるのに。私を突き飛ばして身代わりになるなんて。あれからもう何年も経つというのに、どうしてまだ気にかけてくれるの?あの時、私が結婚式から逃げ出して、社交界の笑い者にしたのに。少しも恨んでいないの?」智久は目を閉じ、傍らに下ろした手を微かに震わせながら、低く押し殺した声で答えた。「愛しすぎて、恨むことすらどうでもよくなってしまったのかもしれない」美琴は声も出ないほど泣きじゃくり、胸をかきむしられるような思いで咽び泣いた。「後悔しているの。どうしてあの時置いていってしまったのかって。でも、もう私たちにやり直す道はないわよね。もう、妹の夫なんだから」智久の胸は深く抉られ、血を流しているかのようだった。長い沈黙の後、嗄れた声で一つの問いを口にした。「もし来世があるなら、今度こそ俺と最後まで添い遂げてくれるか?」「ええ。来世があれば、絶対に手放したりしないわ」その瞬間、長年抑え込んできた智久の感情が堰を切ったように溢れ出し、ついに手を伸ばして美琴を強く抱きしめた。その目元が赤く染まるのを見て、明純は胸の奥に何かがつかえたように、どうにも息ができなくなった。底知れぬ切なさが押し寄せ、涙が視界を滲ませる。それでも泣くのを堪え、これ以上ないほど醜い作り笑いを浮かべた。今生はまだ半分も過ぎておらず、妻である自分はこうして生きているというのに。夫はすでに、姉との来世を待ち望んでいる。ならば、この三年間の結婚生活は、一体何だったというのか。きつく握りしめた掌から血が滲み、無数の記憶が次々と脳裏に蘇る。物心ついた頃から、明純は智久を知っていた。だがその瞳に自分が映ったことはなく、ただひたすらに姉の背中を追いかけていた。無邪気な子供時代から恋を知る年頃になっても、明純は常に傍観者として、智久の狂おしいほどの愛が育っていくのを見つめていた。美琴のために他の女子からの好意をすべて拒絶し、姉だけ
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第2話
翌朝、カレンダーを見て明純は今日が結婚三周年の記念日だったと思い出した。今年は祝わなくていいと伝えようと階下へ降りると、キッチンで忙しく立ち働く智久の姿が目に入った。出会ってからずいぶん経つが、完璧なエリートである夫が自ら包丁を握る姿を見るのは初めてだった。これだけの料理を作るのに、一体どれほどの時間を費やしたのだろう。見当もつかず、ただひたすらに驚くばかりだ。やがて料理を終えた智久は明純を座らせ、自ら海鮮料理を取り分けて味見を勧めてきた。少しだけためらってから、明純は箸を受け取る。一品味わうごとに、智久は味付けを尋ね、熱心にメモを取っていた。ノートに記された「エビは新鮮、魚はピリ辛、アサリは味が薄い」という書き込みを見て、どうしてそんなものを書き留めるのかと、つい尋ねてしまった。智久は手を止めることなく、淡々と答える。「海外から帰ってきた友人が、ずっと『磯波亭』の料理を食べたがっててね。でもあの店はもう閉まってるし、料理長も亡くなっただろ。だからレシピを探して作ってやろうと思ったんだけど、腕が鈍ってないか心配で、家で試作してみたんだ」名前こそ出さなかったが、その友人というのが姉の美琴であることは一瞬で察しがついた。妻である自分は、姉のための単なる味見役に過ぎなかったらしい。メモを取り終えると、智久は弁当箱を取り出し、評価の良かった数品を詰め込み始めた。そして車の鍵を手に取り、一言だけ残して慌ただしく家を出ていく。「先に出るよ。今日は味見に付き合ってくれてありがとう。気に入ったなら、また今度作ってやる」今日が記念日だったことすら、すっかり忘れているようだ。声もなく自嘲気味に笑い、うつむきながら誰にも聞こえないような声で呟く。「……いいの。私、海鮮アレルギーだから」その言葉が届くはずもなく、智久はそそくさと立ち去っていった。背中を見送った後、残された料理をすべて片付ける。再びスマートフォンを開くと、美琴がSNSに投稿した写真が目に飛び込んできた。【何気なく言った一言を、ずっと覚えていてくれた】添えられている写真は、先ほど智久が持ち帰ったあの五品の料理。呆然と画面を見つめ続け、ふと我に返った時、体中に赤い発疹が広がっていることに気がついた。びっしりと肌を覆う様は、見るも無
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第3話
明純は一人で病院へ向かい、傷の手当てを済ませると、重い体を引きずって帰宅した。痛みのせいで、夜はほとんど一睡もできなかった。翌日の昼、智久が帰ってくる。妻の青ざめた顔色に微かな罪悪感を覚えたのか、ようやく気遣うような言葉を口にした。「怪我の具合はどうだ?」明純は痛みを堪え、作り笑いを浮かべる。「かすり傷よ。大したことないわ」その言葉を疑ってさらに問いただそうとした智久の視線が、机上のカレンダーに付けられた赤い丸印でピタリと止まった。「昨日は結婚記念日だったのか?どうして教えてくれなかったんだ?」「もう過ぎたことよ」明純の掠れた声を聞いて、智久はさらに罪悪感を募らせたらしく、罪滅ぼしのように外へ連れ出してきた。逆らう気力もなく、そのまま一緒に家を出る。二人がまず向かったのは映画館だった。妻の希望を尋ねることもなく、智久は今一番人気のある恋愛映画のチケットを買ってくる。若き日の誤解で別れた恋人たちが、それぞれ家庭を持ち、離婚を経て再び結ばれるという物語だ。主人公が数年越しに初恋の相手を妻に迎える場面を見た途端、智久は勢いよく立ち上がって席を外してしまった。彼が何も言わなくても、明純にはその理由が痛いほど分かっていた。すっかり続きを見る気も失せ、鞄を手にしてシアターの外へ出る。フロアの片隅にある喫煙室。壁にもたれて煙草を吹かす夫の背中は、どこまでも寂しげだった。足音に気づいて顔を上げた智久は、明純の姿を認めるなり、慌てて灰皿で火を揉み消した。「もう見ないのか?」「目が疲れたから、もういいわ」智久は無理に笑みを作って頷いた。「確かに退屈な映画だったな。買い物に付き合うよ」婦人服の店に入ると、智久は何着ものワンピースを見繕い、自ら試着を勧めてきた。しかし、ずらりと並んだSサイズの服を見て、明純は表情をこわばらせる。Sサイズ。それは美しさを保つために常に体型を気遣っていた、姉のサイズだ。自分はMサイズだと告げようとしたが、言葉を発する前に遮られてしまった。「どうした?気に入らないか?」静かに首を振り、服を抱えて試着室へ入る。背中にはまだ包帯が巻かれているため、ファスナーを上げるだけでも一苦労だった。痛みに滲む冷や汗を拭い、何事もなかったかのように装って
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第4話
その後二日間、智久は家に帰ってこなかった。明純は家で傷を癒やしながら、美琴の更新するSNSを眺めていた。海辺の夕日、遊園地の花火、熱気球から見下ろす花畑。どの写真にも、男の骨ばった手がさりげなく写り込んでいる。小指にある見慣れたほくろを目にして、胸の奥に様々な思いが込み上げてきた。この三年間、智久の心に触れたくて、何度もデートの計画を立ててきた。だがその度に仕事が忙しいと断られ、やがてうやむやになっていた。今思えば、愛していない相手と恋人のような真似をしたくなかっただけなのだろう。でも、もう構わない。彼はもうすぐ自由になれるのだから。ふっと笑みを零し、身支度を整えて家を出る。今日は友人の誕生日で、パーティーに誘われていた。バーに着いて扉を押し開けると、そこには智久と美琴の姿があった。三人の視線が空中で交差し、まるで示し合わせたかのようにスッと逸らされる。明純は人混みを避け、フロアの片隅にある席へ腰を下ろした。店員が酒を勧めてきたが、それに気づいた智久が慌てて制止する。「まだ怪我をしてるんだ。水にしてやってくれ」思いがけない言葉に、美琴も明純も虚を突かれた。周囲の友人たちは「愛妻家だな」と冷やかしてくる。智久は笑って答えをはぐらかすと、無理に話題を変えた。「ゲームをするんじゃなかったのか?始めよう」明純は体調が優れないため、参加せずに黙って見守ることにする。十数回戦の後、ついに智久が負けた。引いた罰ゲームのカードには「最も愛する人に電話をかける」と書かれている。その場にいる全員の視線が、美琴と明純の間を行き来した。智久も硬直したまま、身動き一つしない。見かねた友人たちが、酒を飲んで罰ゲームの代わりにすればいいと場を取り繕ってくれた。智久はテーブルのグラスを手に取り、一気に呷った。次の瞬間、周囲からドッと拍手が沸き起こる。ふと顔を上げると、隠し切れない優越感を浮かべた美琴と目が合った。姉が密かに見せつけてきているのが分かった。心の底に秘められた、決して口には出せない智久からの愛を。すぐに次のゲームが始まる。またしても智久が負け、今度は「人生で最も負い目を感じている相手に酒を注ぐ」という罰ゲームを引き当てた。彼は目に見えて安堵の息を吐くと
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第5話
明純は長い夢を見た。夢の中で、家族に無理やり水泳を習わされていた彼女は、海で溺れかけていた。誰にも気づいてもらえない。波に飲まれ、遊泳区域の外へと流されていく。海面で必死にもがきながら、自分はここで死ぬのかと絶望し、涙が止まらなかった。そんな死の淵から救い出してくれたのは、危険を顧みずに海へ飛び込んできた智久だった。霞む水飛沫の向こうから、焦燥と心配が入り交じった声が聞こえてくる。「明純?」ゆっくりと目を開けると、現実でも夢の中と同じ必死な顔が目の前にあった。乾いた唇を開き、掠れた声で呟く。「大丈夫よ」その言葉を聞いた智久は慌てて医師を呼び、何度も容態を確認し始めた。診察を終えた医師は少し呆れた様子で、同じ言葉を繰り返す。「刃は急所を外れており、傷も深くはありません。しばらく安静にしていれば治りますよ」何度も念を押されて、ようやく智久は安堵の息を吐いた。明純に布団を掛け直し、コップに水を注いでから、複雑な眼差しを向けてきた。「どうしてあんな馬鹿なことを?わざわざ庇う必要なんてなかっただろう?」明純は小さく睫毛を震わせ、脳裏に蘇った夢の情景を思い返す。少しの沈黙の後、彼から受け取った水を一口飲み、十歳の時に命を救われた出来事を語り始めた。ただ、その口調に、かつてのような淡い恋心の恥じらいはもうない。あるのは過ぎ去った過去への感慨と、ようやく恩を返せたという安堵だけだった。智久は呆然とした顔で話を聞き終え、戸惑うように口を開く。「じゃあ、貸し借りはなしって言ったのは、そのことだったのか?」彼の表情を見て、そんな出来事はとうの昔に忘れてしまっていることに気がついた。自分だけが胸を焦がしたあの瞬間は、夫の心の奥底に何の痕跡も残していなかったらしい。無理もない。あの頃の彼は、姉のことで頭がいっぱいだったからだ。美琴の妹だから助けただけで、そこにはそれ以外の感情などなかったのだろう。口角を上げ、冗談めかして答える。「ええ。もしこれから私に何かあっても、庇ったからといって罪悪感を抱く必要はないわ」智久は、その言葉の裏に別の意味を感じ取ったらしい。問い質そうと口を開きかけた矢先、テーブルに置かれたスマートフォンが鳴った。画面の着信表示を見た瞬間、彼は弾かれ
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第6話
扉が開くと、祝杯を挙げていた梅沢家の面々は、連れ立って現れた二人の姿に少し驚いたような顔をした。だがすぐに我に返り、愛想笑いを浮かべて歩み寄ってくる。「智久君、よく来てくれたね。美琴の誕生日を祝いに来てくれたんだろう。さあ、君のような大事なお客は主役の隣に座らなくちゃ」彼らは智久を半ば強引に席へと押しやり、明純は扉の前に一人取り残されてしまった。皆が好き勝手に歓談を始め、彼女には誰も見向きもしない。暗がりの中に立ち尽くし、きつく拳を握りしめて踵を返そうとする。だが一歩踏み出したところで、美琴の声に呼び止められた。「明純、どうしてこっちに来ないの?もしかして、まだ怒ってるの?」部屋中の視線が一斉に突き刺さり、明純は振り返るしかなかった。だが満席のテーブルのどこに座ればいいか分からず、自ら台所から椅子を運び出し、部屋の片隅に腰を下ろす。智久がすぐさま立ち上がり、明純の隣へ来ようとしたが、梅沢夫婦に引き止められてしまう。「智久君はここにいなさい。あの子は昔から引っ込み思案で、隅っこが好きなのよ」「誰に似たんだか、あの捻くれた性格は何年経っても直らん。放っておけばいい。さあ、飲もう」智久もそれ以上は固辞しようとせず、大人しくグラスを手にした。宴席は再び活気づき、談笑と共に杯が交わされていく。かつてのように美琴のために海老の殻を剥き、代わりに酒を飲み、時折親しげに耳打ちをする夫の姿を見て、明純は静かに視線を逸らした。箸を手に取ったものの、おかずには一切手を付けず、ただ白米だけを少しずつ口に運ぶ。宴もたけなわとなり、智久にもだいぶ酔いが回ってきた。梅沢家の面々は、酔い覚ましに庭を散歩してきなさいと美琴に勧める。智久もそれを断らなかった。二人が席を立つのを見て、明純も立ち上がり、トイレへ向かおうとした。すると、先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていた家族の表情が、瞬時に険しいものへと変わる。「止まりなさい!幼馴染の二人が久々に語り合おうって時に、大人しく座っていられないのか!」「明石家に嫁いで三年になるからって、調子に乗らないで。あの二人は小さい頃から絆が深いの。お前が入り込む隙なんてないんだから、余計な真似はしないの」末の娘である自分は、この人たちにとって一体何なのだろう。もうすぐこ
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第7話
物心ついた頃から、美琴は名門の私立校に通い、毎日お抱えの運転手に送迎されていた。一方の明純はごく普通の学校へ通い、同級生たちに混じってバスに揺られていた。美琴には山のように服やアクセサリーが買い与えられ、湯水のごとくお金が使われている。だが明純の小遣いは昼食代だけで消え、服も姉のお下がりばかりだった。姉は誰もが甘やかす、賢くて可愛くて優しいお姫様。妹はどれほど努力して棚を賞状やトロフィーで埋め尽くそうと、誰にも見向きされない日陰者だった。これまで受けてきた露骨な差別を思い返しているうちに、もはや我慢の限界を超え、つい声を荒らげてしまう。「私も本当の娘でしょう?どうして私が手に入れたものは、全部美琴に譲らなきゃいけないの?私には幸せになる資格すらないの?」すると、祖母の梅沢美知子(うめざわ みちこ)が不快そうに目を細め、冷ややかに言い放った。「馬鹿なことを。美琴はあんたよりずっと優秀なんだから、譲って当然でしょう?それに、智久君が美琴を想っていることなんて、誰の目にも明らかだったじゃない。勝手にすり寄っておいて、幸せになれないからと誰を恨むつもり?自業自得というものよ」明純は家族に対する最後の未練すら、その言葉で完全に断ち切られた。顔を上げ、込み上げる熱い涙を必死に堪えながら、全身の力を振り絞って告げる。「分かったわ!望み通り、もう二度と戻ってこない!」そう言い捨てて、踵を返す。次の瞬間、怒りに任せて元田がテーブルをひっくり返した。熱い汁や料理が明純の全身に降りかかり、肌が赤く腫れ上がる。飛んできた陶器の皿が背中に直撃し、癒えかけていた傷から再び血が滲み出した。だが一度も立ち止まることなく、足早にその場を後にする。廊下に出たところで、美琴と鉢合わせた。こちらの惨めな姿を目にするなり、姉が腕を掴んでくる。「お父さんたちにまた怒られたの?」彼女のわざとらしい芝居など見たくもなく、明純は伸ばされた手を思い切り振り払った。美琴の瞳に狡猾な光がよぎったかと思うと、わざと体勢を崩してこちらにぶつかってきた。大きな水音とともに、明純は庭のプールへと転落する。真冬の冷水が傷口に染み、血液まで凍りつくような冷たさが全身に広がる。激痛と寒さで歯の根が合わず、骨まで凍てつきそうになり、手足の感覚すら失わ
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第8話
翌朝目覚めた時、智久の姿はすでになかった。明純は彼の行き先を気にかけることもなく、使用人に食事を多めに用意するよう頼む。昼頃に訪ねてきた香瑠は、包帯に覆われた明純の傷を見て痛ましそうに目を細めた。「もうすぐいなくなるっていうのに、どうしてこんなに傷だらけなの」明純は静かに笑みを浮かべ、穏やかな声で答える。「過去と完全に別れなければ、新しい人生なんて始められないわ」「手配は済んでるわよ。乗務員はパラシュートで脱出し、機体は海に墜落する。この世界から『梅沢明純』という人間は消え去るの。あとは、『ノクティス航空4192便』のニュースだけ気にかけていればいいわ」香瑠が言い終えるか終えないかのうちに、ガチャリと部屋の扉が開いた。最後の一言だけを耳にした智久が、怪訝な顔で入ってくる。「何の便だ?」明純は顔色一つ変えず、平然と答えた。「明日乗る飛行機よ」智久は小さく頷くと、何気なく尋ねてくる。「結婚式に行くんだったな。いつ帰ってくる?迎えに行こうか?」明純は一瞬言葉に詰まったが、スッと視線を逸らして答えた。「結構よ」もう二度と、帰るつもりはないのだから。夫もそれ以上は強く言ってこず、香瑠に軽く挨拶をして書斎へ入っていった。その後、少し言葉を交わして香瑠は帰っていく。明純はトランクをいくつか用意し、荷物の整理を始めた。結婚後に彼のために買い揃えた服や日用品、自分の化粧品、洋服、靴、鞄、そして彼から贈られた数々の品。それらを残さず集め、躊躇うことなくゴミ袋へと放り込んでいく。夕方になってようやく一階へ降りてきた智久は、すっかり殺風景になった居間を見て眉をひそめた。「随分と物が減ったな?」「少し片付けたの」適当に誤魔化すと、智久もそれ以上深く追及されることはなかった。「明日は空港まで送ろうか?」「忙しいなら無理しなくていいわ。その前に、お祖母様のお墓参りに行きたいの」その言葉を聞いて、しばらく墓参りに行っていなかったことを思い出したのだろう。智久は一緒に行くと申し出てきた。翌日、二人は花束を買い、荷物を持って墓地へ向かった。宇多子の墓前で、明純は一つの問いを投げかける。「あの時、私に指輪を渡したこと、後悔した?」智久は一瞬瞳を強張らせ、不自然な表情を浮かべた後
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第9話
そのニュースを耳にした瞬間、智久は弾かれたように立ち上がった。テーブルに激しく肘がぶつかり、海鮮料理の皿がひっくり返る。煮えたぎる熱い汁が派手に飛び散り、スラックスに容赦なく降りかかった。布越しに伝わる熱が肌を刺したが、智久は痛みなどまったく感じていないかのように、モニターを凝視したまま凍りついている。突然の行動に驚いた美琴は、レンゲを落として立ち上がり、心配そうに尋ねてきた。「どうしたの?」智久は何も答えない。頭の中はすでに真っ白になっていた。脳裏を占めているのは、事故に遭ったあの便のことだけだ。ノクティス航空……4192便!見えざる手に心臓を鷲掴みにされたように、激しく呼吸が荒くなる。慌ててスマートフォンを取り出し、震える指で明純の番号をタップする。端末を耳に強く押し当て、微かな音すら聞き漏らすまいと必死に耳を澄ませた。だが、返ってくるのは無機質な機械音声だけだった。「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません……」「おかけになった電話は……」「おかけになった電話は……」……血走った目で、何度もリダイヤルを繰り返す。そうすれば、明純が電話に出て、無事だと伝えてくれるとでもいうように。その異様な様子に不安を覚えたのか、美琴が再び声をかけてくる。「一体どうしたの?怖がらせないでよ」スマートフォンが力なく手から滑り落ちた。智久の声は、元の響きを失うほどひどく掠れていた。「ノクティス航空4192便……明純が、あの飛行機に乗っていたんだ……」美琴は一瞬呆然とした後、大きく目を見開いた。だが、最初に湧き上がったのは悲しみなどではなく、抑えきれない歓喜だった。美琴は智久にすがりつき、興奮交じりに声を上げる。「離婚はできないけど、死別ならいいのよ!あの子が死ねば夫婦関係は解消されて、私たちは一緒になれるわ!」智久は信じられないという目で美琴を見下ろした。まるで、見知らぬ赤の他人を相手にしているかのようだった。まさか最初の言葉がそれだとは、思いもよらない。胸の奥で、言い知れぬ複雑な感情がどす黒く渦巻いていた。実の妹だというのに、少しも悲しくないのだろうか。自分の言葉が不謹慎だったと気がついたのか、美琴は慌てて智久から体を離し
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第10話
貞枝も嬉々として同調してくる。「そうね、智久君。何年も長引いたけれど、これでようやく堂々と夫婦になれるわ」だが、智久の顔色は決して明るいものではなかった。スマートフォンを握りしめる指には関節が白くなるほど力が入り、胸の奥で言い知れぬ怒りと悲しみが渦巻いている。明純の死に対して、実の家族がこれほど冷酷に振る舞うとは思いもしなかった。美琴はわざとらしく咳き込み、涙を絞り出して声を詰まらせる。「お父さん、お母さん、何を言ってるの?明純が死んだんだから、先にお葬式をしてあげなくちゃ。結婚式だなんて……」元田と貞枝ははっと気まずそうな顔を見せたが、すぐに元の無関心な態度に戻った。「どうせ智久君もあの子のことは好きじゃなかったんだろう。形式的なことをしてどうなる。それに、あの子が死んでみんな幸せになれるんだから」血の通っていない言葉の数々に、智久は背筋が凍るような思いがした。これ以上聞いていられず、弾かれたように立ち上がると、氷のように冷え切った声で言い放つ。「海へ行ってくる」元田は眉をひそめ、苛立たしげに言う。「海へ行ってどうする?死人は戻らない。行くだけ無駄だ」智久の眼差しは鋭く冷え切り、拒絶を許さない響きがあった。「生きていれば探し出し、死んでいれば亡骸を連れ帰る」美琴も後を追おうとしたが、両親に引き止められてしまう。貞枝は娘の手を引き、甘やかすように言った。「美琴は体が弱いんだから、海の風に当たるのはやめなさい。ここで待っていればいいわ。どうせ智久君が好きなのは美琴なんだから。あの子が死んだところで何も変わらないわよ」美琴は唇を噛み締め、微かな不安を覚える。だが、智久が自分をずっと愛してくれていることを思い出し、少しだけ心を落ち着かせた。こくりと頷き、小さな声で答える。「ええ、ここで待つわ」海辺にたどり着くと、捜索隊が懸命に引き揚げ作業を行っていた。激しい風が吹き荒れ、岩に打ち付ける波が轟音を立てている。荒れ狂う海を見つめながら、智久の胸の奥では様々な感情が入り乱れていた。風が波を逆立てる様は、まるで底知れぬ悲しみを訴えかけているかのようだった。ふと、以前偶然目にした明純の日記が脳裏をよぎる。そこには、智久への密かな思いがびっしりと綴られていた。【今日も智久さ
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