もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

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愛されないまま十年。孤独に死んだ私は、結婚前に戻っていた。 だから決めたのです。もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません。 ……そう誓ったのに、前世では私を見向きもしなかったはずの侯爵様が、今世ではなぜか私を逃がしてくれません。 遅すぎた後悔なんて要りません。そう思っていたのに。 これは、愛を言葉にできなかった冷徹侯爵と、今度こそ自分の人生を選びたい令嬢の、やり直しの執愛ロマンス。

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الفصل الأول

登場人物

リリアーナ・エヴェルシア

年齢:20歳スタート

身分:エヴェルシア伯爵家長女

外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。

性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。

長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。

短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。

セドリック・ヴァレンティア侯爵

年齢:27歳スタート

身分:ヴァレンティア侯爵家当主

異名:冷徹侯爵、氷の軍略卿

外見:艶のない黒髪、鋭い蒼灰色の瞳、長身で引き締まった体躯。黒を基調とした軍装や礼服を好み、常に隙のない装い。美丈夫だが近寄りがたい。

性格:寡黙、合理的、感情表現が壊滅的に下手。だが本質は執着が強く、一度自分の内側に入れた相手への独占欲は深い。

長所:判断力、統率力、戦略眼、実務能力、危機察知能力。

短所:説明不足。守るために黙る癖があり、その沈黙で大切な相手を傷つける。

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登場人物
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分:ヴァレンティア侯爵家当主異名:冷徹侯爵、氷の軍略卿外見:艶のない黒髪、鋭い蒼灰色の瞳、長身で引き締まった体躯。黒を基調とした軍装や礼服を好み、常に隙のない装い。美丈夫だが近寄りがたい。性格:寡黙、合理的、感情表現が壊滅的に下手。だが本質は執着が強く、一度自分の内側に入れた相手への独占欲は深い。長所:判断力、統率力、戦略眼、実務能力、危機察知能力。短所:説明不足。守るために黙る癖があり、その沈黙で大切な相手を傷つける。
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第1話 もうあなたの花嫁にはなりません①
 最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だった。花の盛りなどとうに過ぎたと周囲から言われる年齢ではあっても、死ぬには早すぎる。まだ見ていない春があり、まだ歩いていない庭があり、もう二度と着ることはないのだろうと思っていた薄青のドレスを、やっぱりもう一度着てみたかった。 けれど、その時の彼女はもう、何かを望むことに疲れきっていた。 侯爵夫人として十年。笑顔を求められ、沈黙を求められ、我慢を求められ、立っているだけの飾りとして在ることを求められた十年。誰かに「大丈夫」と言われたかった夜は数えきれないのに、その言葉は一度も与えられなかった。熱を出した朝も、誕生日の夜も、侮辱を飲み込んで笑った舞踏会のあとも、夫はいつも冷たかった。必要なことだけを告げ、必要以上には触れず、必要以上には見ない。 だから、最後の最後に自分の前へ膝をついた黒衣の男を見た時、リリアーナはひどく不思議だった。「……リリアーナ」 低く、掠れた声。 雪の上に落ちる炭の欠片のような、重く暗い声だった。聞き慣れたはずの声なのに、こんなふうに震えるのを聞くのは初めてだった。黒髪が乱れている。いつも一分の隙もなく整えられているはずの襟元が崩れている。蒼灰色の瞳は見開かれ、その奥にあるものを、彼女はすぐには理解できなかった。 セドリック・ヴァレンティア。 冷徹侯爵。 彼女の夫。 その男が、血塗れの彼女を抱き起こしていた。抱き上げる腕が強すぎて、砕けそうなほどだった。けれどその強さの中にある震えが、逆に恐ろしかった。「医師を……いや、今さら、違う、馬車を回せ。灯りを寄越せ、誰か、早く!」 あの人が、こんな声を出すなんて。 リリアーナは薄れていく意
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第1話 もうあなたの花嫁にはなりません②
 窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりまとめた、小柄な侍女。侯爵家へ嫁ぐ時には「手のかからない侍女だけを連れていけ」と継母に言われ、連れていくことを許されなかった娘だ。泣きながら見送ってくれたその顔を、リリアーナはよく覚えている。今目の前にいるのは、まだ少し幼さの残る、十九か二十そこそこのエマだった。「……何日?」 「え?」 「今日は、何日……?」 問いながら、指先が震えた。エマは不思議そうに瞬きをして、それでもすぐに答える。「三月の十日でございます」 三月十日。 婚約調印の、四日前。 その数字が頭の中で形を結んだ瞬間、胃の奥がひっくり返るように冷えた。リリアーナは反射的に身を起こし、口元を押さえる。吐き気がこみ上げる。だが吐くものはない。空の胃がきしきしと縮むばかりだった。「お、お嬢様?」 「……水を」 「はい、すぐに」 エマが差し出したグラスを受け取ろうとして、リリアーナは自分の手を見た。 白い。 細い。 指の関節はまだ柔らかく、節くれ立っていない。侯爵夫人として社交に、帳簿に、書簡に追われていた頃よりも、ずっと若い手だった。右手の人差し指の付け根には、前世の終盤、ペンを握りすぎてできた硬い皮膚がない。左の薬指には、金の結婚指輪の痕すらない。 水を飲む。冷たい。透明で、ただの水だ。それだけなのに、喉を通るたびに涙が出そうになった。血ではない。薬草を煮出した苦い鎮静剤でもない。誰かの顔色を窺いながら飲み下す食後のお茶でもない。ただの水が、こんなにやさしいなんて。「顔色が悪うございます。奥様をお呼びいたしましょうか」 「……いいえ」 ほとんど反射でそう答えたせいで、声にわずかな鋭
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第1話 もうあなたの花嫁にはなりません③
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ行き、同じ沈黙の中で十年を削って、最後にはあの冷たい石畳の上で死ぬのだ。たとえ最後に彼が泣いたとしても、その涙一つで帳消しになるほど、自分の孤独は軽くない。 思い出してはいけないような気もした。それでも、死の間際の彼の顔が焼きついて離れない。蒼灰色の瞳に浮かんでいた絶望。自分の名を呼ぶ声。頬に落ちた熱い雫。 なぜ。 どうして、そんな顔をしたの。 あなたは私を愛していなかったでしょう。 その問いが胸の奥で疼き、腹の底を熱くした。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。ただ、ぐちゃぐちゃに絡まった感情の中心にあるものだけは分かった。 もうたくさんだ。 もう、あんな人生はいらない。「エマ、鏡を」 侍女が急いで手鏡を差し出す。銀の縁に小花の彫刻がある、見慣れた手鏡だった。そこに映った顔を見て、リリアーナはしばらく息を止めた。 若い。 本当に若い。 頬はまだ痩せこけておらず、目の下の影も薄い。睫毛は長く、翡翠の瞳は今よりずっと明るい色をしていた。蜂蜜色の髪は昨夜の眠りで少し乱れているものの、艶があり、痛みも少ない。唇は血色を保っていて、口元にはまだ「侯爵夫人らしい微笑み」の癖が刻まれていない。 知らない顔ではない。けれど、前世の終わりに近づくほど鏡の中にいた女とも違う。 これは、失う前の自分だ。 その事実に、胸のあたりがきゅっと縮んだ。「……戻れるのね」 思わず零れた声は、誰に向けたものでもなかった。エマが「お嬢様?」と首を傾げる。リリアーナは手鏡をゆっくり下ろした。「なんでもないわ」 戻れる。 人生も、選択も、たぶん。 ならば今度こそ、自
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第1話 もうあなたの花嫁にはなりません④
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本当に。お姉様、よかったですわね。もうお気にかけていただいているのかもしれません」 マリアンヌの言葉に、食堂の空気がかすかに甘くなる。将来有望な縁談に浮き立つ家族の気配。リリアーナだけが、その場から薄く剥がれたような気分で座っていた。 お気にかけて。 そんなこと、前世では一度もなかった。少なくとも、彼女に見える形では。 最後に泣いたからといって、過去が塗り替わるわけではない。けれど、もし今ここで彼が前世と違う行動を取り始めているのだとしたら、それは偶然ではないのかもしれない。あの涙と何か関係があるのかもしれない。 だとしても。 だとしても、それで何になるの。 リリアーナはカップを手に取った。紅茶の表面から立ちのぼる湯気が、頬にやわらかく触れる。ベルガモットの香り。昔は好きだった香りだ。だが前世では、義母が毎朝同じ香りの紅茶を好んだせいで、途中からこの匂いを嗅ぐだけで胃がきりきりした。 今も、少しだけ胃が縮む。「お父様」 呼びかけると、父が怪訝そうに見た。「なんだ」 「もし……もし私が、この婚約を望まないと言ったら、どうなさいますか」 一瞬。 本当に一瞬だけ、部屋の音が死んだ気がした。 マリアンヌの手が止まる。継母の微笑みが固まる。父は数秒、娘が何を言ったのか理解できない顔をし、それからゆっくりと新聞を卓上に置いた。「……なんだと?」 「仮定の話です」 「そのような仮定に何の意味がある」 「意味はあります。私の意思を確認したいのです」 自分でも驚くほど、声は平坦だった。感情をぶつければ、すぐに未熟だと切り捨てられる。泣けば、婚約前の気まぐれと
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第1話 もうあなたの花嫁にはなりません⑤
 部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知ったところで、苦しくなるだけなのに。 胸の前で手を組むと、指先が少し冷たかった。手袋をしていないと、こうしてすぐに手が冷える体質だったことを思い出す。前世では、冬になると指先が白くなり、何度も暖炉にかざした。それを一度だけ、セドリックが見ていたことがある。何も言わなかった。ただ、翌日から書斎にだけ、よく燃える薪が優先的に運ばれるようになった。 あれは偶然だったのだろうか。 ああ、駄目。 そうやって細部を拾い集めてしまうから、私は十年も期待してしまったのだ。 リリアーナは目を閉じ、深く息を吸った。春先の空気は少し湿っている。庭土の匂い。開ききらない蕾の青い匂い。遠い厨房からは煮込みの香りも漂ってくる。生きている。今ここにいる。まだ何も始まっていない。 ならば終わらせられる。 始まる前に。「エマ」 「はい、お嬢様」 控えていた侍女がすぐに応じる。リリアーナは振り返り、できるだけ穏やかに告げた。「便箋と封蝋を用意して」 「お手紙を?」 「ええ。すぐに」 「かしこまりました」 エマが机へ文具を整えていく。その音を聞きながら、リリアーナは自分の鼓動を数えた。一つ。二つ。三つ。やはり早い。怖いのだ。こんな手紙一通で何かが変わるとは思えない。父に握り潰されるかもしれない。侯爵家に届く前に止められるかもしれない。それでも、何もしないよりはいい。 前世の自分は、何もしなかった。 黙って頷き、家のためだと自分に言い聞かせ、与えられた未来へ進んだ。だから今度は、最初に声を上げる。聞き入れられなくてもいい。私は望んでいないと、まず自分で自分に証明するために。 椅子に腰
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第2話 巻き戻った朝の誓い①
 通して、と言ったあとで、リリアーナはすぐに後悔した。 喉の奥がひどく乾いている。掌は冷たいのに、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。胸の中で心臓が速く鳴っている。控えめな足音が廊下を近づいてくるたび、前世の最後に聞いた、あの重く静かな足取りが耳の奥で重なった。 逃げたい。 扉の向こう側へ背を向けて、窓から庭へ降りてしまいたい。そんな衝動が一瞬、幼稚なくらい鮮明に浮かんだ。けれど、もう子どもではいられない。逃げるにしても、まずは現実を見なければならなかった。彼が本当に前世と同じ男なのか。あの涙が、死の間際の錯覚ではなかったのか。そして、自分はこの婚約から、本当に降りられるのか。 ノックは二度、控えめに鳴った。「失礼いたします」 家令の声に続いて扉が開く。先に入ってきたのは伯爵家の使用人で、その背後に、黒い影がひとつ立っていた。 リリアーナは息を止めた。 セドリック・ヴァレンティアは、前世の記憶と寸分違わぬ姿でそこにいた。艶のない黒髪。整いすぎて冷たく見える面差し。高く通った鼻梁。薄い唇。人を射抜く蒼灰色の瞳。朝の光の中にいてもなお、彼だけが夜を連れてきたように見える。 ただ一つだけ、違っていた。 その目が、彼女を見た瞬間に、はっきりと揺れた。 ほんのわずかだ。父や継母なら気づきもしないほど短い乱れ。けれど十年、その冷えた横顔ばかり見てきたリリアーナには分かった。彼は今、驚いている。あるいは安堵している。喪ったものをもう一度見つけた人間のように。 そんな顔を、する資格があなたにあるの。 胸の底で、鋭いものがきらりと光る。 父が慌てたように立ち上がった。「侯爵様。わざわざご足労いただき、恐悦至極に存じます。本来であれば応接間へご案内すべきところ」「構わない」 低い声。短く、無駄がない。前世と同じ響きだった。だがその後、彼は父ではなく、真っ直ぐにリリアーナへ視線を向けた。「急な訪問で申し訳ない。体調が優れないと聞いた」「……少し、朝から気分がすぐれなかっただけです」 自分でも驚くほど、声が細かった。 セドリックは部屋の中央まで進み出たが、それ以上は近づかなかった。距離を測っているようでもあり、うかつに触れれば壊れるものを前にしているようでもあった。黒手袋を嵌めた指先が、ほんの僅かに強張っている。「顔色が悪い」「ご心配には及びま
last updateآخر تحديث : 2026-06-10
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第2話 巻き戻った朝の誓い②
 気のせいであってほしいと思った。そうでなければ、また期待してしまう。期待は人を弱くする。前世で嫌というほど学んだ。「それだけのために、ご自身が?」 「必要だった」 短い。 けれど今度は、父も継母も何も言えなかった。セドリックの必要だった、という一言には、それ以上の説明を封じる力があった。いつもの冷徹侯爵の声だ。なのに、リリアーナの胸には別の響きで届く。 必要だった。 何が。 私の顔を見ることが? 生きていると確かめることが? 唇の裏側を噛み、浮かびかけた問いを飲み込む。そんなことを聞いてどうする。答えがどちらでも、きっと痛いだけだ。 セドリックはわずかに視線を落とし、彼女の手元を見た。握りしめられたままのハンカチ。白い指先。前世の最後、血に濡れて冷え切っていたその手を思い出しているのだとしたら、ひどく勝手だ。「長居はしない」 そう言って彼は踵を返しかけ、しかし扉の前で止まった。振り返った横顔は、輪郭だけなら相変わらず美しい氷像のようだった。「調印の日までに、何か不都合があれば知らせてくれ」 「……不都合?」「どんなことでもいい」 その言い方が、あまりにも妙だった。婚約前の令嬢に対する形式的な気遣いにしては、低すぎる。真剣すぎる。まるで何かを知っていて、先回りして手を伸ばそうとしているような声。 リリアーナはその違和感から逃げるように、薄く微笑んだ。「では一つ」 父がぎょっとする気配がした。継母は制止の言葉を飲み込んだらしい。セドリックだけが、静かに彼女を見つめている。「今日はお帰りくださいませ。少し、疲れましたの」 言い切ると、部屋がしんと静まり返った。 あまりにも露骨な拒絶だった。だがセドリックは怒らなかった。怒る代わりに、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。その動きはあまりに小さく、知らなければ見落としていただろう。だがその短い沈黙が、妙に胸に残る。「……分かった」 それだけ言って、彼は本当に帰った。 扉が閉まる音がして、ようやくリリアーナは自分が息を詰めていたことに気づいた。肩から力が抜ける。椅子の背に手をつかなければ立っていられなかった。「リリアーナ!」 父の声が飛ぶ。だが予想していたほど激昂してはいない。ヴァレンティア侯爵の反応が予想外だったせいだろう。もし彼が不快を露わにしていれば、今頃自分は平手打ちの一
last updateآخر تحديث : 2026-06-11
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第3話 冷徹侯爵の違和感⑥
 扉が閉まるなり、エマが心配そうに駆け寄った。「お嬢様、お水を」 「ありがとう」 差し出されたグラスを受け取り、一気に半分ほど飲む。冷たい水が喉を通るたび、張り詰めた神経に少しずつ現実が戻る。だが完全には落ち着かない。「お顔色が……とても」 「分かっているわ」 「何か、ございましたか」 「……ええ」 短く答え、リリアーナは窓辺の椅子へ腰を下ろした。外では風が枝を鳴らしている。曇天の光は鈍く、室内の色彩まで褪せて見えた。 何があったのかと問われても、上手く言葉にできない。 意地悪をされたわけではない。  露骨に侮辱されたわけでもない。  むしろ表向きは、前世の初訪問よりずっと穏やかだった。 なのに、どうしてこんなに消耗しているのだろう。 答えは分かっている。 違ったからだ。 前世と同じ場所に、同じ人々がいて、義母の笑い方も屋敷の空気も変わらないのに、セドリックだけが違った。その違いが、彼女の中の“知っている未来”をぐらつかせた。人は不幸な未来を知っていても、形が決まっていればまだ身構えられる。だが、その不幸に違う色が混ざった瞬間、心はひどく不安定になる。 エマがおずおずと尋ねる。「侯爵様が……何か?」 「……何も」 「でも」 「何もなかったの。だから厄介なのよ」 思わず本音が零れた。 何もなかった。何もはっきりしたことは。なのに、あの視線だけが残る。痛みを含んだような、喪失を知っているような、初対面の婚約者に向けるには重すぎる目。 エマは言葉を選ぶようにして口を開いた。「お嬢様が、お嫌なお気持ちになるのでしたら」 「嫌、というより……怖いの」 自分で口にして、ようやく少し整理がついた。「前世の侯爵様は、もっと冷たかった。もっと遠かった。だから、傷ついても理由が分かりやすかったの。無関心だったのだって、そう思えたから」 「はい」 「でも今日は違ったわ。見ているのに、分からないの。何を考えているのかも、どうしてあんなふうに……」 そこまで言って、リリアーナは唇を閉じた。エマに前世のことをすべて話したわけではない。話せるはずもない。だが侍女はそれ以上聞かなかった。ただ静かに、主人の手元へ新しいハンカチを置く。「分からないものは、怖うございますね」 「ええ」 「でしたら、近づけないのが一番でございます」 
last updateآخر تحديث : 2026-06-13
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第3話 冷徹侯爵の違和感①
 ヴァレンティア侯爵家へ向かう馬車の中は、やけに静かだった。 揺れは一定で、車輪は石畳の継ぎ目を拾うたびに小さく軋む。その規則正しさが、かえって胸の内の不穏を際立たせていた。窓の外には王都の通りが流れていく。薄曇りの朝だ。春は近いはずなのに空気はまだ冷たく、行き交う人々の吐く白い息が細く散っては消えていく。 向かいには継母のイザベラ、隣には異母妹のマリアンヌ。二人とも晴れやかな顔をしていた。まるで祝いの席へでも向かうような表情だ。継母の膝には絹張りの手袋、マリアンヌの帽子には小さな白い羽飾りが揺れている。伯爵家の令嬢としては十分上等な装いだったが、これから向かう先を思えば慎ましい部類に入る。けれど二人はそんなことなど気にしていないらしい。ただ、この縁談がどれほど家に利益を運ぶか、その期待だけで頬を明るくしていた。「お姉様、今日はくれぐれも失礼のないようにね」 マリアンヌが楽しげに言った。その声音は軽い。姉の緊張を気遣うふりをして、実際には侯爵家の空気に呑まれる姿を見たがっているのが透けていた。「ヴァレンティア侯爵家は王都でも指折りの名家ですもの。少しでも浮ついたところを見せたら、すぐに見抜かれてしまうわ」 「マリアンヌ」 継母がたしなめるように名を呼ぶ。だが口元には薄い笑みが残っていた。「リリアーナも分かっているでしょうけれど、今日はあなたの振る舞い一つで今後が決まるのです。侯爵夫人となるなら、それに相応しい品格を見せなくてはなりません」 「……ええ」 返事は短くなった。これ以上口を開けば、余計なものまで零れそうだったからだ。 胸元で握った手袋がわずかに軋む。柔らかな革の感触の下で、指先は冷えきっていた。 ヴァレンティア侯爵家。 その名を頭の中でなぞるだけで、胃の奥に薄い刃を差し込まれるような気がした。 前世で、あの屋敷は最初から豪奢だった。磨き上げられた床、無駄のない調度、花ひとつ生けるにも品位があり、どこもかしこも静かで、乱れがなかった。美しい屋敷だった。だからこそ、そこで自分だけが異物のように感じられる日々は、あまりにも息苦しかった。 白い大理石の階段。  高い天井。  音を吸う絨毯。  義母の香水。  使用人たちの行き届いた視線。  何もかもが洗練されているのに、どこにも安らぎがない家。 その記憶が、まだ屋敷へ着い
last updateآخر تحديث : 2026-06-13
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