Chapter: 第2話 巻き戻った朝の誓い⑤ スプーンを持つ。とろりとしたスープが舌にのる。塩気は穏やかで、喉を通る熱がやさしい。前世の終わりには、食べることすら義務になっていた時期があった。味がしない日も多かった。だから、今こうして素直に「温かい」と思えることが、少しだけ救いになる。「午後の衣装係には、頭痛とお伝えしておきました」 「ありがとう。お母様は?」 「少々ご不満のご様子でしたが、侯爵様が急においでになったことで、お疲れになったのだろうと……」 「そう」 継母にとっても、侯爵本人の予期せぬ来訪は予定外だったのだろう。ならば好都合だ。その揺れを使えるかもしれない。 リリアーナはスプーンを置き、エマを見た。「エマ、あなたに頼みたいことがあるの」 「なんなりと」 「まだ、誰にも言わないで聞いてちょうだい」 侍女は少し緊張した面持ちで背筋を伸ばした。「母方の叔母、アデルおばさまの居場所は分かる?」 「アデル様……。たしか西の丘陵地の修道院に近い領地で、温室と薬草園をお持ちだと」 「今も?」 「はい、昨年だったか、一度だけお手紙が来ていたかと」 よかった、と心の中で息をつく。前世で唯一、結婚前の自分に『嫌なら無理に嫁がなくてもいいのですよ』と言ってくれた人だった。だがその時のリリアーナは、そんな優しさを受け取る資格がないと思ってしまった。家のために決まった縁談なのだからと。 愚かだった。「おばさま宛に手紙を書くわ。できるだけ早く、確実に届くようにしたいの」 「……ご内密のほうがよろしいのですね」 「ええ」 エマは一瞬だけ迷ったようだった。だがすぐに、真剣な顔で頷いた。「承知いたしました。御者の中に、口の固い者が一人おります」 「助かるわ」 味方が一人いる。その事実だけで、少し立っていられる気がした。「それからもう一つ。お父様の書斎に、商会からの書簡が届いているはずよ。最近、封の色が濃紺のもの」 「お嬢様、それは」 「盗み見したいわけではないの。ただ、差出人を知りたいの。帳場に出入りする商会の名だけでいい」 「……危ういことでございます」 「分かっている。でも必要なの」 前世の終盤、伯爵家はかなり追い詰められていた。資金繰りは悪化し、父は侯爵家との縁を使って幾つも融通を受けようとしていた。もし今も既にその兆候があるなら、婚約の打算を裏づける材料になる。
Última actualización: 2026-06-13
Chapter: 第3話 冷徹侯爵の違和感④ その間も、セドリックはほとんど喋らなかった。 前世と同じように見えて、やはり違う。 彼は確かに沈黙している。だが無関心ではない。むしろ、沈黙の密度が濃すぎる。こちらがカップを持てば視線が落ち、義母が何か言えば空気の温度を測るように眉がわずかに動き、リリアーナが疲れた様子を見せれば息を呑むのをこらえるように喉が小さく上下する。 気づいてしまう自分が嫌だった。 見なければいいのに、見てしまう。 前世では一度も自分に向かなかったはずの注意が、今は僅かにでも向いていることを。 それが嬉しいわけではない。 嬉しいものか。 ただ、怖いのだ。 人は一度乾いた土へ水が落ちる音を知ると、二度目はその気配だけで身構える。期待ではなく、警戒として。「少し庭を歩かれますか」 不意に、セドリックが言った。 室内の会話が一瞬止まる。継母の顔がぱっと明るくなり、父は機嫌よく頷きかけた。だがリリアーナはその前に、思わずセドリックを見た。「……わたくしに?」 「ああ」 「なぜ」 問いが、そのまま零れてしまった。 気まずい沈黙が落ちる。継母がすぐに笑って取り繕う。「まあ、リリアーナ。侯爵様のお心遣いでしょう」 「お心遣い」 その言葉がやけに苦く聞こえる。 前世でも最初の数か月、セドリックは形式としての気遣いは見せた。食事はどうか、部屋の寒さはないか、必要なものは揃っているか。だがそれらはすべて“侯爵夫人を適切に配置する”ための確認に見えた。だから今の庭へ、という誘いも、善意ではなく別の何かにしか思えない。「長くは歩かない」 セドリックは静かに付け足した。その声音には強制の響きはない。むしろ、断られる前提で傷つかないようにしているような、妙な慎重さがあった。 そんなふうにしないで。 心の中でそう叫びたくなる。 あなたはもっと無関心でいてくれたほうがいい。 そうすれば私は、前世と同じ冷たさを憎むだけで済むのに。「……ご遠慮します」 リリアーナは微笑んだ。形だけは崩さずに。「少し疲れましたので」 「そうか」 「はい」 断られた時、セドリックの目がほんの少しだけ暗く沈んだ。けれど彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、分かったというように短く頷く。そのあまりの引き下がり方が、かえって違和感を深くした。前世の彼は無理強いもしなかったが、こ
Última actualización: 2026-06-13
Chapter: 第2話 巻き戻った朝の誓い③ 一口含む。甘い。温かい。喉を下りていくやさしい熱に、ようやく肩の力が少し抜けた。甘さというものは、こんなにも人の神経を緩めるのだと、前世の自分は時々忘れていた。侯爵家では何を口にしても、どこか気を張っていたから。「……驚いたでしょう」 「はい。少し」 エマは正直に頷いてから、慌てて付け足した。「でも、お嬢様が無理をなさる必要はございません。侯爵様も、お怒りではなかったようですし」 「怒らない人だから」 「え?」 「いいえ」 ぽつりと零れた本音を誤魔化し、カップを見つめる。怒らない人。たしかにそうだ。セドリックは簡単には怒声を上げない。怒鳴らない。感情を爆発させない。だから余計に、何を考えているのか分からなかった。冷たい静けさのほうが、剥き出しの怒りよりよほど人を孤独にすることを、リリアーナは知っている。「エマ」 「はい」 「今日の午後、衣装係が来る予定だったわね」 「はい。婚約調印用のドレスの最終調整と、宝飾品の合わせを」 その言葉だけで胃がきしんだ。婚約調印用のドレス。真珠の髪飾り。ヴァレンティア家の紋を織り込んだショール。前世で何度も袖を通した、それらの始まり。「断って」 「え?」 「少し延期してもらえるかしら。頭痛がすると伝えて」 「ですが、奥様が……」 「お母様には私から話すわ」 嘘だった。継母に理解を求める気はない。ただ、今あの衣装に触れたくなかった。あの布の重みを肩に乗せれば、まるで既に婚姻が決まってしまったような気がしてしまう。 エマは戸惑いながらも頷いた。もともと、主人の顔色を読んで動ける賢い娘だ。前世で連れていけなかったことを、何度惜しんだか分からない。「それから、便箋をもう一組。できれば、家名の入っていないものを」 「家名の、入っていない?」 「ええ。私用の手紙を書くの」 「かしこまりました」 エマが再び下がる。部屋に静けさが戻った。 窓の外では風が少し強くなり、若い枝が擦れ合ってかさかさと鳴っていた。春を待つ庭の音だ。まだ何も咲いていない。けれど土の下では、たしかに何かが動いている。そう思うと、胸の奥に小さく、ほそい火が灯る。 恐怖は消えない。けれど恐怖だけでは終わらせない。 リリアーナは机へ向かった。 * 紙の上に、最初の一行を書くまでに、ひどく時間がかかった。 ペン先
Última actualización: 2026-06-13
Chapter: 第3話 冷徹侯爵の違和感② 馬車が止まる。 扉が開かれる。 冷たい空気が流れ込み、リリアーナは無意識に肩を竦めた。乾いた土の匂い、冬を抜けきらない芝の匂い、遠くで焚かれている薪の匂いが混ざる。御者台のほうで革具が鳴り、玄関前には既に数人の使用人が整列していた。前世の記憶が正しければ、ここに立つ執事の名はローレンス。年配で、白髪を一筋の乱れもなく撫でつけ、礼儀正しく、だが侯爵家に不要な情を見せない男だ。「エヴェルシア伯爵家の皆様、お待ちしておりました」 やはりその声だった。 低く、無駄のない声音。リリアーナの背筋にうっすらと寒気が走る。懐かしさではない。傷跡に似た感覚だった。 マリアンヌが小さく「まあ」と感嘆し、継母は満足げに頷きながら先に降りた。リリアーナは最後に足を下ろす。石段へ靴裏が触れた瞬間、前世の最後に倒れた石畳の冷たさが一瞬だけ蘇り、膝から力が抜けかけた。「お嬢様」 すぐ後ろに控えていたエマが小さく囁く。その声で、かろうじて意識が今へ戻った。「……大丈夫」 自分に言い聞かせるように呟き、顔を上げる。 玄関扉はすでに開かれていた。中から流れ出てくる空気は外より暖かい。磨かれた木の匂い、蜜蝋、微かな花の香り。だがその温度のやさしさに反して、胸の奥はますます強張っていく。 前世の初訪問では、セドリックは出迎えにすら現れなかった。 それはよく覚えている。義母が応接間でこちらを値踏みし、父が必要以上に機嫌を取り、継母がこわばった笑みを浮かべる中、肝心の当主は「公務のため遅れる」とだけ伝えられた。あの時のリリアーナは、まだ未来を知らず、それでも胸のどこかで少し落胆したのだ。婚約相手に無関心なのだと、その時点で薄々気づいてしまったから。 だから今回も、そうだと思っていた。 彼は来ない。 来ても挨拶だけで終わる。 そうであってほしい、とさえ思っていた。 だが玄関ホールへ一歩足を踏み入れた瞬間、そこに立つ黒い影を見て、リリアーナは立ち尽くした。 セドリックがいた。 前世ではいなかった場所に、当たり前のように。 黒の礼装に身を包み、真っ直ぐにこちらを向いて立っている。窓から差す冬の名残のような淡い光が、その輪郭だけを冷たく縁取っていた。高い鼻梁、結ばれた薄い唇、蒼灰色の瞳。相変わらず他人を寄せつけないほど整った美貌なのに、その顔は今日、わずかに血の気を失
Última actualización: 2026-06-13
Chapter: 第3話 冷徹侯爵の違和感① ヴァレンティア侯爵家へ向かう馬車の中は、やけに静かだった。 揺れは一定で、車輪は石畳の継ぎ目を拾うたびに小さく軋む。その規則正しさが、かえって胸の内の不穏を際立たせていた。窓の外には王都の通りが流れていく。薄曇りの朝だ。春は近いはずなのに空気はまだ冷たく、行き交う人々の吐く白い息が細く散っては消えていく。 向かいには継母のイザベラ、隣には異母妹のマリアンヌ。二人とも晴れやかな顔をしていた。まるで祝いの席へでも向かうような表情だ。継母の膝には絹張りの手袋、マリアンヌの帽子には小さな白い羽飾りが揺れている。伯爵家の令嬢としては十分上等な装いだったが、これから向かう先を思えば慎ましい部類に入る。けれど二人はそんなことなど気にしていないらしい。ただ、この縁談がどれほど家に利益を運ぶか、その期待だけで頬を明るくしていた。「お姉様、今日はくれぐれも失礼のないようにね」 マリアンヌが楽しげに言った。その声音は軽い。姉の緊張を気遣うふりをして、実際には侯爵家の空気に呑まれる姿を見たがっているのが透けていた。「ヴァレンティア侯爵家は王都でも指折りの名家ですもの。少しでも浮ついたところを見せたら、すぐに見抜かれてしまうわ」 「マリアンヌ」 継母がたしなめるように名を呼ぶ。だが口元には薄い笑みが残っていた。「リリアーナも分かっているでしょうけれど、今日はあなたの振る舞い一つで今後が決まるのです。侯爵夫人となるなら、それに相応しい品格を見せなくてはなりません」 「……ええ」 返事は短くなった。これ以上口を開けば、余計なものまで零れそうだったからだ。 胸元で握った手袋がわずかに軋む。柔らかな革の感触の下で、指先は冷えきっていた。 ヴァレンティア侯爵家。 その名を頭の中でなぞるだけで、胃の奥に薄い刃を差し込まれるような気がした。 前世で、あの屋敷は最初から豪奢だった。磨き上げられた床、無駄のない調度、花ひとつ生けるにも品位があり、どこもかしこも静かで、乱れがなかった。美しい屋敷だった。だからこそ、そこで自分だけが異物のように感じられる日々は、あまりにも息苦しかった。 白い大理石の階段。 高い天井。 音を吸う絨毯。 義母の香水。 使用人たちの行き届いた視線。 何もかもが洗練されているのに、どこにも安らぎがない家。 その記憶が、まだ屋敷へ着い
Última actualización: 2026-06-13
Chapter: 第3話 冷徹侯爵の違和感⑥ 扉が閉まるなり、エマが心配そうに駆け寄った。「お嬢様、お水を」 「ありがとう」 差し出されたグラスを受け取り、一気に半分ほど飲む。冷たい水が喉を通るたび、張り詰めた神経に少しずつ現実が戻る。だが完全には落ち着かない。「お顔色が……とても」 「分かっているわ」 「何か、ございましたか」 「……ええ」 短く答え、リリアーナは窓辺の椅子へ腰を下ろした。外では風が枝を鳴らしている。曇天の光は鈍く、室内の色彩まで褪せて見えた。 何があったのかと問われても、上手く言葉にできない。 意地悪をされたわけではない。 露骨に侮辱されたわけでもない。 むしろ表向きは、前世の初訪問よりずっと穏やかだった。 なのに、どうしてこんなに消耗しているのだろう。 答えは分かっている。 違ったからだ。 前世と同じ場所に、同じ人々がいて、義母の笑い方も屋敷の空気も変わらないのに、セドリックだけが違った。その違いが、彼女の中の“知っている未来”をぐらつかせた。人は不幸な未来を知っていても、形が決まっていればまだ身構えられる。だが、その不幸に違う色が混ざった瞬間、心はひどく不安定になる。 エマがおずおずと尋ねる。「侯爵様が……何か?」 「……何も」 「でも」 「何もなかったの。だから厄介なのよ」 思わず本音が零れた。 何もなかった。何もはっきりしたことは。なのに、あの視線だけが残る。痛みを含んだような、喪失を知っているような、初対面の婚約者に向けるには重すぎる目。 エマは言葉を選ぶようにして口を開いた。「お嬢様が、お嫌なお気持ちになるのでしたら」 「嫌、というより……怖いの」 自分で口にして、ようやく少し整理がついた。「前世の侯爵様は、もっと冷たかった。もっと遠かった。だから、傷ついても理由が分かりやすかったの。無関心だったのだって、そう思えたから」 「はい」 「でも今日は違ったわ。見ているのに、分からないの。何を考えているのかも、どうしてあんなふうに……」 そこまで言って、リリアーナは唇を閉じた。エマに前世のことをすべて話したわけではない。話せるはずもない。だが侍女はそれ以上聞かなかった。ただ静かに、主人の手元へ新しいハンカチを置く。「分からないものは、怖うございますね」 「ええ」 「でしたら、近づけないのが一番でございます」
Última actualización: 2026-06-13
Chapter: 見えない労働の記録② そこまで書いた時、澄乃の手が止まった。 一定の評価。 医師はそう言ったのだ。 前より塩分を控えられていますね。ご家族の協力があるのでしょう。 その時、義母は少しだけ誇らしげに笑った。義父は面倒そうに咳払いをした。澄乃は診察室の端で小さく頭を下げた。 誰の協力かは、口にされなかった。 澄乃はペン先を紙につけたまま、しばらく動かせなかった。胸の奥から熱いものが上がりそうになり、喉元で止まる。 泣くほどのことではない。 そう思う癖が、まだある。 けれど、それは泣くほどのことだったのかもしれない。 自分がしたことが、自分のものとして認められなかった。その小さな欠落が何年も積もり、今の自分をここまで空っぽにしていた。 澄乃は目を伏せ、ゆっくり息を吐いた。 泣くのは後でいい。 今は書く。 次に、義母の予定帳を開いた。 義母、久世佳枝は社交の多い人だった。友人との昼食、茶会、習い事、親族の集まり、地域の婦人会、会社関係者の夫人との付き合い。どれも義母自身が華やかに見える場だったが、その裏側の手配は澄乃に回ってきた。 車の時間。 手土産。 相手の好み。 贈答の格。 着物と帯の組み合わせ。 話題に出してよいこと、避けるべきこと。 澄乃は、別のページへ記入した。 日付。結婚一年目四月以降、随時。 相手。久世佳枝および交友関係各位。 内容。外出予定管理、手土産選定、移動手配、相手方の好み・禁忌事項確認、礼状下書き。 依頼者。久世佳枝。場合により久世昌親、久世隆成。 理由。久世家としての体裁維持、関係悪化の回避。 対応。相手別に贈答品履歴作成。昼食会、茶会、見舞い、季節挨拶ごとに文面調整。過去に不評だった品、話題、席順を記録。 結果。大きな失礼や贈答重複を回避。義母の外向きの印象維持に寄与。 寄与。 その言葉を書いた時、少しだけ指先が震えた。 これまでの澄乃なら、そんな言葉を使うことにためらったはずだ。自分のしたことを大きく見せているようで、恥ずかしかった。思い上がりだと言われる気がした。 けれど今は、そう書かなければならないと思った。 控えめにしすぎることもまた、自分を消す行為だった。 澄乃は、ペン先を軽く布で拭った。インクの黒が、白い布に小さく滲む。手の震えはまだあった。けれど、震えながらでも字は書けた。 次に
Última actualización: 2026-06-13
Chapter: 見えない労働の記録① 澄乃は、古い裁縫部屋の窓を少しだけ開けた。 朝から降りそうで降らない空だった。灰色の雲が庭の上に低く垂れこめ、湿った風が木々の葉を重たげに揺らしている。開けた隙間から入り込んだ空気には、土と青葉と、遠くで焚かれている何かの煙の匂いが混じっていた。 久世家の二階にあるその小部屋は、もともと澄乃の私室ではなかった。 義母からは裁縫道具や季節外れの布類を置く部屋として使えばいいと言われた。最初は、ほとんど物置のような扱いだった。低い文机、古い桐箪笥、予備の座布団、箱に詰められた手拭い、使わなくなった花器。誰かの気配が薄く、屋敷の中でも少しだけ忘れられた場所だった。 澄乃は、いつの間にかそこに自分の記録を集めるようになっていた。 最初は、ただの逃げ場だったのだと思う。 台所にも食堂にも応接間にも、澄乃の手で整えたものはたくさんあった。けれど、そこに澄乃自身の場所はなかった。いつも誰かのための部屋で、誰かのための道具で、誰かのための支度だった。 この小部屋だけは違った。 ここに置かれているものは、誰にも見られず、誰にも褒められず、それでも澄乃が久世家を回すために必要としてきたものだった。 文机の上には、すでに何冊ものノートとファイルが積まれている。 家事ノート。 贈答記録。 会食先の控え。 義父母の体調メモ。 親族行事の一覧。 会社関係者の避けるべき話題。 それらをひとつずつ並べるだけで、机の上はすぐに埋まった。紙の束が作る影は薄く、けれど重い。窓から入る鈍い光が、ファイルの背に貼られた小さな見出しを照らしていた。 澄乃は、椅子に座らず、しばらくその前に立っていた。 自分が何年もかけて積み上げてきたものが、これほどの量になっているとは思わなかった。 日々の中では、ひとつひとつは小さかった。 朝食の味噌汁を義父用に薄くする。義母の友人へ送る手土産を、季節と相手の好みに合わせる。昌親の会食相手が酒を飲めない日には、店へ事前に伝える。親族の法事では、誰を隣に座らせないか気を配る。会社の受付へ届く祝い花の札を確認する。 小さなこと。 そう呼ばれてきた。 細かいこと。 大げさなこと。 妻なら当然のこと。 けれど、それらは積み重なると、机一つを埋める量になった。 澄乃は、ゆっくり椅子に腰を下ろした。古い椅子がかすかに軋む。その音が
Última actualización: 2026-06-13
Chapter: 妻の中の中身④ これを会社の総務が正式な業務として行えば、担当者名がつき、引き継ぎ書が作られ、評価の対象になるだろう。 澄乃が行えば、妻の手伝いになる。 廊下の薄暗い光の中で、澄乃は紙を持つ手に力を込めた。 持っていかなければならない。 少なくとも写しを。 自分がしてきたことを、自分の手元に残さなければならない。 食堂へ戻ると、昌親が顔を上げた。「会社か」「はい。祝い花の札の確認でした」「総務に任せておけ」「任せています。確認だけです」「そういうところが細かいんだよ」 昌親は何気なく言った。 隆成が新聞の向こうで、わずかに眉を動かした。だが、何も言わない。 澄乃は食卓の横に立ったまま、静かに息を吸った。 細かい。 昨日も、彼は似たような目をしていた。 妻の座の中身を知らないまま、大げさだと言った。 今日も同じだ。 この確認がなければ、会社は失礼をするかもしれない。相手の肩書を間違えることは、古い関係ほど小さな傷になる。隆成ならそれを分かっているはずだ。けれど彼もまた、自分ではやらない。 澄乃がやっている限り、何も起きない。 何も起きないから、必要性が見えない。 澄乃は頭を下げた。「失礼いたしました」 謝罪の声は、いつも通りだった。 だが、その内側にあるものは違っていた。 もう、その言葉で自分の心まで折り畳まない。 朝食を終え、食器を下げる。 洗い物をしながら、澄乃は頭の中で時間を刻んだ。義母への電話まで、あと四十分。その前に、義父の薬の残数を確認し、会食先の電話番号を手元に出しておく。会社の祝い花の札は、写真が送られてきたら確認。親族の慶弔予定は昼食後。さらに、瑠璃花へ渡すための最低限の家の記録を整理する必要がある。 最低限。 その言葉を、澄乃は心の中で強くした。 全てを渡す義務はない。 これまで通りに整えて、これまで通りに守って、これまで通りに傷を隠してやる必要はない。 彼女が欲しいと言ったのは座だ。 座の上に座るなら、その重さも知ることになる。 澄乃は洗い終えた椀を布巾で拭いた。椀の縁に、指先が触れる。漆のなめらかな感触がある。義母はこの椀の艶にうるさい。水滴の跡が残ると、すぐに気づく。 それも、記録に入れるべきだろうか。 澄乃は小さく笑いそうになった。 笑いは、喉の奥で消えた。 入れるべきなのだ
Última actualización: 2026-06-11
Chapter: 妻の中の中身③「今日の会食ですが」 澄乃は言った。 昌親は湯呑みを置きながら、面倒そうに目を細めた。「何だ」「料亭へ十時半までに最終確認を入れます。甲殻類の件は先方へ伝えてありますが、念のためお店にも再確認をしておきます」「まだやってなかったのか」 その言葉が、台所に落ちた。 澄乃は一瞬、手を止めた。 まだやってなかったのか。 昨夜のうちに一次確認は済ませてある。店側からの折り返しも受けた。ただ、当日の担当者にまで伝わっているかを確かめるだけだ。 そこまでして初めて、失礼が起きない。 澄乃は説明しかけて、やめた。 彼は、結果しか見ない。 問題が起きなければ「普通」。問題が起きれば「なぜ確認しなかった」。その間にある手間は、彼の目には映らない。「最終確認です」 澄乃は静かに言った。「ああ、そう」 昌親はそれ以上聞かなかった。 澄乃は味噌汁の火を止めた。 昌親はまだ台所に立っている。何か言いたげだった。昨夜のことか、瑠璃花のことか。あるいは、澄乃が思ったより普段通りに動いていることへの戸惑いか。 けれど彼は、何も言わなかった。 言葉を選ぶ労力を避けるように、湯呑みを持ったまま食堂へ向かった。 澄乃はその背中を見送った。 昨日までは、その背中を見て、今日の機嫌を測っていた。肩の下がり方。歩く速度。扉の閉め方。そういうものから、朝食の会話量を調整し、義父母の前で余計な摩擦が出ないよう気を配っていた。 それも、仕事だった。 誰にも名前をつけられなかった仕事。 食卓を整えると、義父がやって来た。 久世隆成は、昌親の父であり、会社ではまだ大きな影響力を持つ人だった。現社長ではあるが、実務の多くは昌親に移している。けれど取引先の多くは、いまだに隆成の顔を見て久世家を判断する。 七十近い年齢だが、背筋は伸びている。朝は新聞を広げ、食事に注文をつけるのが習慣だった。「味噌汁は薄くしすぎるなよ」 椅子へ座るなり、隆成は言った。「はい。香りを強めにしております」「香りで腹は膨れん」「卵焼きを少し多めにいたしました」 隆成はそれ以上言わず、新聞を開いた。 澄乃は椀を置きながら、義父の指先を見た。少しむくんでいる。昨日、塩気の強いものを口にしたのかもしれない。薬は飲んだはずだが、念のため朝の血圧を確認した方がいい。 これも、仕事。
Última actualización: 2026-06-10
Chapter: 妻の中の中身② 親族の慶弔予定は、昼までに見直す。 来週、昌親の従姉の子が入学祝いを迎える。金額は義母の見栄に合わせなければならないが、相手の家に負担を感じさせない書き方が必要だった。さらに、遠縁の叔母の法要が近い。昌親はほとんど会ったことがないと言うが、義父の世代には重要な付き合いだ。欠席するなら、供花と手紙の文面を整えなければならない。 澄乃は、鍋の中で小さな泡が立ち始めるのを見た。 それらは、毎朝の中に紛れ込んでいた。 家事。 そう呼ばれていたもの。 けれど、今こうして一つずつ並べてみると、それは単なる炊事や掃除ではなかった。栄養管理、予定調整、社交実務、秘書業務、贈答管理、親族間の火種の処理、会社の体裁の補助。 名前を変えれば、いくらでも仕事になるものだった。 それなのに、久世家では全部「妻だから当然」の中へ入れられていた。 湯が沸く直前で火を弱め、鰹節を入れる。ふわりと出汁の香りが立つ。澄乃はその香りを吸い込みながら、少しだけ目を伏せた。 当然。 その言葉は、便利な箱だった。 妻だから当然。嫁だから当然。家にいるのだから当然。気づいた人がやればいい。あなたはそういうのが得意でしょう。澄乃なら分かってくれるでしょう。澄乃は怒らないから大丈夫でしょう。 たくさんの言葉が、今朝の台所で静かに形を変えていく。 それは感謝ではなかった。 依頼ですらなかった。 ただ、澄乃の時間を誰かのものとして扱うための、柔らかな命令だった。 土鍋の蓋の隙間から、白い湯気が上がり始めた。 澄乃は蒸らし時間を確かめ、魚を焼き網へ置いた。皮の表面に薄く火が入り、じり、と小さな音がした。魚の脂が落ちる匂いに、出汁と米の香りが混じる。いつもの朝の匂いだった。 この匂いを、昌親は覚えているだろうか。 たぶん、覚えていない。 そこにあるのが当然のものは、人の記憶に残りにくい。 食卓を整える前に、澄乃は壁の時計を見た。六時十五分。昌親が起きてくるまで、まだ少しある。 その隙に、台所の隅に置いてある小さな帳面を開いた。 表紙には「家事覚え」とだけ書いてある。以前、義母から「あなたは細かく書きすぎるわね」と笑われたものだ。澄乃はその言葉に合わせ、ただの覚え書きのような題名にした。 だが、中身は覚え書きというには多すぎる。 月別の献立傾向。義父の血圧の変動と食事内容
Última actualización: 2026-06-10
Chapter: 妻の座の中身①翌朝、澄乃は五時二十分に目を覚ました。 目覚ましが鳴るより、十分早かった。寝室の障子の向こうはまだ薄暗く、夜の名残が畳の端に沈んでいる。掛け布団の中には人の温もりがない。昌親は昨夜、書斎から戻らなかった。 珍しいことではなかった。 仕事が立て込んでいる時、気まずい話のあと、あるいは自分の都合の悪い沈黙を朝まで持ち越したい時、昌親は書斎の長椅子で眠る。最初の頃、澄乃はそれを心配して毛布を持っていった。首を痛めないよう枕を置き、朝には温かい味噌汁を少し薄めに仕立てて、胃に負担がかからないようにした。 今思えば、あれも癖だった。 相手が何も求めていなくても、先に整える。嫌われないように。責められないように。自分が役に立つことで、そこにいてもよい理由を作るように。 澄乃は、しばらく天井を見つめていた。 古い木目の中に、黒く細い節がある。嫁いできた最初の夜にも、眠れずにその節を数えたことを覚えている。あの時は、自分はこれからこの家の人間になるのだと思っていた。慣れない屋敷、硬い空気、義母の視線、昌親の曖昧な優しさ。怖さはあったが、それでも努力すれば居場所ができると信じていた。 七年経って、澄乃は知った。 努力だけでは、居場所にならない場所がある。 役目だけが増え、名前だけが薄くなっていく場所がある。 布団の中で、澄乃はゆっくりと息を吐いた。胸が痛むほどではない。ただ、内側に冷たい石が置かれているようだった。昨日、応接間で聞いた言葉が、遅れて身体の中に沈んでいる。 妻の座を譲ってください。 その言葉を思い返しても、涙は出なかった。 代わりに、頭の奥が妙に冴えていた。 澄乃は起き上がった。布団から出た瞬間、朝の冷気が足首を撫でる。五月とはいえ、早朝の久世家はひんやりとしている。古い屋敷は日中こそ陽を含むが、朝は湿気と冷えが床から上がってくる。 身支度を整え、髪を低くまとめる。 鏡に映った自分は、いつもとほとんど変わらなかった。淡い色の部屋着。薄く結んだ唇。表情を大きく動かさない目。久世家の朝に馴染んだ、静かな嫁の顔だった。 けれど、鏡の中の目だけが違った。 昨夜までの澄乃なら、今日の朝食をどう乗り切るかを考えていた。昌親が不機嫌にならないように。義父母に余計な心配をかけないように。汐見瑠璃花の話題をどう避けるか。もし出た場合、どう受け流すか。
Última actualización: 2026-06-10