余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました

余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました

last updateLast Updated : 2026-07-20
By:  なつめUpdated just now
Language: Japanese
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余命半年を宣告された公爵夫人は、夫に迷惑をかけず静かに消えるため、離縁状だけを残して家を出た。 三年間、礼儀だけは完璧でも愛情の気配はひとつもなかった。だから追ってくるはずがないと思っていた。 けれど彼は、公爵位も、王命も、都で築いた立場もすべて投げ捨てて彼女を追う。 今さら遅い。そう思っていたのに、追いついてきた男は、冷徹公爵ではなく、ひどく不器用に彼女を失うことだけを恐れる一人の夫だった。 これは、静かに死ぬはずだった女が、遅すぎた愛に追いつかれ、もう一度生きることを選び直すまでの物語。

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Chapter 1

登場人物

リュゼリア・ディルクレイド

旧姓:フォンティア

年齢:24歳

立場:公爵夫人 / 元侯爵令嬢

基本プロフィール

侯爵家の長女として育ち、政略のためディルクレイド公爵家へ嫁いだ女性。

社交界では「静謐の花」と呼ばれるほど穏やかで上品な美貌を持つが、その内面には誰よりも強い矜持を秘めている。結婚後は冷え切った夫婦関係の中でも公爵夫人として完璧に振る舞い続け、屋敷の内外を陰で支えてきた。

しかし余命半年の宣告を受けたことで、ようやく“誰かのためだけではない人生”を選ぶ決意をする。

容姿

柔らかな月光を思わせる、淡い蜂蜜金の長い髪を持つ。

髪質は繊細でやわらかく、光を受けると金糸のように透ける。普段は上品にまとめていることが多いが、ほどけた時にはどこか儚く、触れれば消えてしまいそうな印象を与える。

瞳は澄んだ薄青。静かな湖面のような色合いで、感情を押し隠す時ほど冷たく美しく見えるが、本来はとても優しい目をしている。

肌は白くきめ細かいが、最近は体調不良の影響でやや血色を失っている。細身で華奢な体つきながら、立ち姿や首筋の角度に育ちの良さがにじみ、弱々しいだけでは終わらない気高さがある。

派手な美人というより、目を離したあとでじわじわ残る類の美しさ。

性格

穏やかで、聡明で、感情を人前で荒げない。

もともと人の機微を読むのが得意で、相手の立場や事情を汲み取り、自分を後回しにしてでも場を整えようとする性質がある。

一見すると従順でおとなしいが、実際には芯がとても強く、いったん「もう戻らない」と決めたら簡単には覆らない。

愛されない苦しみを長く抱えてきたせいで、自分の痛みには鈍感になっているところがある。耐えることに慣れすぎていて、限界を越えてもなお笑おうとしてしまう。

その反面、最後には誰にも奪えない尊厳を自分の手で守り抜く、静かな強さの持ち主。

得意分野

・社交術

・帳簿管理、屋敷運営

・人間関係の調整

・花の手入れ、庭づくり

・刺繍や室内装飾

・相手の体調や感情の変化を察すること

派手に目立つ才ではないが、彼女がいることで場が整い、人が回り、家が保たれる。

ディルクレイド公爵家が内外で高く評価されてきた陰には、彼女の細やかな支えがあった。

弱さ・傷

愛されたい気持ちを長く押し込めてきたため、自己肯定感が低い。

「自分さえ我慢すれば丸く収まる」と考えてしまう癖があり、傷ついても平気なふりをする。

夫に対しても本当はずっと期待していたが、その期待が裏切られるたび、少しずつ心を削られていった。

だからこそ離縁を告げる時の彼女は、怒っているのではなく、もう“諦めきってしまった”静けさを帯びている。

ヴィルレオ・ディルクレイド

年齢:28歳

立場:ディルクレイド公爵家当主 / 王国を支える若き公爵

基本プロフィール

王国でも屈指の権威と実力を誇るディルクレイド公爵家の現当主。

若くして政治、軍務、領地経営のすべてを高水準で担い、国王からも厚い信頼を寄せられている。

社交界では「氷の公爵」と恐れられるほど冷静沈着で隙がなく、感情を表に出さない。

妻であるリュゼリアに対しても、その不器用さゆえに冷たい態度しか取れず、結果として彼女を深く傷つける。

失いかけて初めて、自分の中にあった愛の深さと、取り返しのつかない過ちを知る男。

容姿

艶を抑えた黒髪に、深い青灰色の瞳。

整った顔立ちは鋭く、表情が乏しいため近寄りがたい印象を与える。黙って立っているだけで空気が張りつめるような、静かな威圧感をまとっている。

長身で肩幅も広く、鍛えられた体躯を持つため、正装や軍装風の衣服がよく似合う。

指先まで無駄なく整っていて、所作には一切の緩みがない。

美形だが柔らかさはほとんどなく、“冷たく美しい刃”のような男。

性格

寡黙で理性的、責任感が非常に強い。

公爵としての資質は申し分なく、誰よりも義務を重んじ、民にも部下にも誠実であろうとする。

だが、私情の扱いだけが致命的に下手。

大切なものほどどう扱えばいいかわからず、言葉にできず、守ろうとして距離を置く悪癖がある。

自分の感情を後回しにしてきた人生のせいで、「愛している」「そばにいてほしい」という単純な本音を口にできない。

その結果、本人の中では大切にしていたつもりでも、相手から見れば“何も与えてくれない夫”になってしまっている。

得意分野

・政治判断

・領地経営

・軍略、危機管理

・剣術

・交渉、対外折衝

・情報整理と状況把握

公の場ではほぼ完璧。

混乱の中でも感情に流されず、常に最善手を選べる男として周囲から絶大な信頼を得ている。

弱さ・欠点

人に弱みを見せることができない。

幼い頃から「当主は強くあれ」と叩き込まれてきたため、感情を表に出すこと自体に無意識の抵抗がある。

愛情も心配も、言葉にせず行動で示せば十分だと思い込んでいるが、その行動すら相手に伝わる形で届けるのが下手すぎる。

結果として、守るべき相手を孤独に追い込み、自分が“何もしていなかった”のと同じ状況を作ってしまう。

後悔してからは非常に執着深くなるが、その愛はどこまでも遅い。

リュゼリアへの感情

結婚当初から、彼女に惹かれていなかったわけではない。

むしろ静かで聡明で、誰にも見えないところで場を支える彼女に、早い段階から心は動いていた。

ただ、その感情を「愛」と認めた瞬間に失うのが怖くて、仕事と義務に逃げた。

距離を置くことで平静を保とうとした結果、彼女には冷たさしか伝わらなかった。

離縁を告げられ、去られ、初めて彼女がどれほど自分の生活と心の中心にいたのかを知る。

それ以降の彼は、遅すぎた愛と後悔に足を取られながら、それでも

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リュゼリア・ディルクレイド旧姓:フォンティア年齢:24歳立場:公爵夫人 / 元侯爵令嬢基本プロフィール侯爵家の長女として育ち、政略のためディルクレイド公爵家へ嫁いだ女性。社交界では「静謐の花」と呼ばれるほど穏やかで上品な美貌を持つが、その内面には誰よりも強い矜持を秘めている。結婚後は冷え切った夫婦関係の中でも公爵夫人として完璧に振る舞い続け、屋敷の内外を陰で支えてきた。しかし余命半年の宣告を受けたことで、ようやく“誰かのためだけではない人生”を選ぶ決意をする。容姿柔らかな月光を思わせる、淡い蜂蜜金の長い髪を持つ。髪質は繊細でやわらかく、光を受けると金糸のように透ける。普段は上品にまとめていることが多いが、ほどけた時にはどこか儚く、触れれば消えてしまいそうな印象を与える。瞳は澄んだ薄青。静かな湖面のような色合いで、感情を押し隠す時ほど冷たく美しく見えるが、本来はとても優しい目をしている。肌は白くきめ細かいが、最近は体調不良の影響でやや血色を失っている。細身で華奢な体つきながら、立ち姿や首筋の角度に育ちの良さがにじみ、弱々しいだけでは終わらない気高さがある。派手な美人というより、目を離したあとでじわじわ残る類の美しさ。性格穏やかで、聡明で、感情を人前で荒げない。もともと人の機微を読むのが得意で、相手の立場や事情を汲み取り、自分を後回しにしてでも場を整えようとする性質がある。一見すると従順でおとなしいが、実際には芯がとても強く、いったん「もう戻らない」と決めたら簡単には覆らない。愛されない苦しみを長く抱えてきたせいで、自分の痛みには鈍感になっているところがある。耐えることに慣れすぎていて、限界を越えてもなお笑おうとしてしまう。その反面、最後には誰にも奪えない尊厳を自分の手で守り抜く、静かな強さの持ち主。得意分野・社交術・帳簿管理、屋敷運営・人間関係の調整・花の手入れ、庭づくり・刺繍や室内装飾・相手の体調や感情の変化を察すること派手に目立つ才ではないが、彼女がいることで場が整い、人が回り、家が保たれる。ディルクレイド公爵家が内外で高く評価されてきた陰には、彼女の細やかな支えがあった。弱さ・傷愛されたい気持ちを長く押し込めてきたため、自己肯定感が低い。「自分さえ我慢すれば丸く収まる」と考えてしまう癖があり、傷つい
last updateLast Updated : 2026-06-20
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第1話 冷たい朝の公爵夫人①
 夜の名残をわずかに含んだ群青が、東の空の底でゆっくりと薄れていくころ、リュゼリア・ディルクレイドは目を覚ました。 寝台の天蓋を縁取る薄布は、まだ朝を迎えきれない部屋の中で、冷えた水面のように青白く見えた。重たいベルベットのカーテンは半ばまで閉じられ、隙間から差し込む冬の終わりの光が、床に長い帯を落としている。その光は暖かさを運んではこない。ただ、夜が終わることだけを淡々と知らせていた。 リュゼリアはすぐには起き上がれなかった。 胸の奥に、薄い針が幾本も沈んでいるような痛みがあった。激しい痛みではない。だが、眠りから浮上するたび、呼吸のたびにそれが小さく軋み、内側から静かに削ってくる。胸元をそっと押さえると、指先の下で心臓が少し速く打っていた。 まただわ、と彼女は思う。 このところ、朝はいつもこうだった。寝ているあいだに体が回復するどころか、むしろ夜を経るたび、芯に冷えが溜まっていくような感覚がある。肩のあたりは重く、喉は乾いているのに、深く息を吸おうとすると咳がこみ上げそうになる。 けれど、それを表に出すわけにはいかなかった。 公爵夫人が朝から青い顔をしているところなど、侍女たちに見せるべきではない。まして、この屋敷では。 リュゼリアは睫毛を伏せたまま、小さく息を整えた。吸って、止めて、吐く。吐くたびに胸の痛みが少し和らぐのを待ってから、ゆっくり身を起こす。絹の寝間着が肌にすべり、冷えた空気が首筋を撫でた。思わず肩が震えたが、それもひとつの呼吸で押し戻した。 寝台の隣は、昨夜の時点ですでに空だった。 乱れのないシーツ。沈み込みの浅い枕。そこに人の気配があった痕跡はほとんどなく、ただ薄く残る冷たさだけが、ヴィルレオがこの部屋を「夫婦の寝室」として必要な分だけ使っていることを物語っている。 彼は昨夜も遅くまで執務室にいて、そのまま別室で休んだのだろう。あるいは夜明け前に起きて、剣の鍛錬へ向かったのかもしれない。どちらでも不思議はなかった。彼がこの部屋に留まる夜は、数えるほどしかない。 最初のころは、そのたびに眠れなかった。 時計の音に耳を澄ませ、廊下の足音ひとつに胸を高鳴らせ、扉が開く気配を待っていた。今日は来てくださるかしら、と。ひどく滑稽だとわかっていても、若い娘のような期待を胸の奥に残していた。 けれど、それも三年も続けば、期待は癖
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第1話 冷たい朝の公爵夫人②
 衣装は朝の執務にふさわしい落ち着いた青灰色のドレスを選んだ。胸元も袖も控えめだが、仕立ては良く、動くたびしなやかな艶が浮く。耳には小粒の真珠。首元はあえて飾らない。重たい宝飾は、このところ少し息苦しかった。 コルセットを締められると、細い肋骨がぎゅうと内へ押され、胸の痛みが鋭く走った。「……っ」 ごく短く漏れた息に、若い侍女がぎくりと顔を上げる。アイダはすぐに手を緩めた。「申し訳ありません。締めすぎました」「いいえ、わたくしが浅く息を吸っただけよ。もう少しだけ緩めていただけるかしら」「もちろんでございます」 アイダの指先が、何も言わずに力を調整していく。その手つきの確かさに救われる一方で、リュゼリアは若い侍女たちの視線を感じていた。 具合が悪いのかしら。奥様はまた痩せられた。そういう無言の気配は、視線の温度だけでわかる。 だが、それ以上の同情はない。 彼女たちにとってリュゼリアは、やさしく美しいが、どこか頼りない主人なのだろう。絶対的な権力を持つ当主ヴィルレオに比べれば、屋敷における発言力も、叱責の鋭さも、何もかも淡い。だからこそ扱いやすい半面、軽んじられもする。 朝の支度を終え、リュゼリアが食堂へ向かうころには、廊下の大時計が七つを打とうとしていた。石造りの長い廊下はまだ冷え、窓辺のガラスは曇っている。外では庭師が剪定の準備をしているのか、枝の擦れるかすかな音が風に混じって届いた。 食堂の扉が開かれると、温かなスープの匂いと、磨き上げられた銀器の鈍い光が迎えた。 長い食卓の上には白いクロスが隙なく張られ、朝の光を受けたグラスが淡く輝いている。いつ見ても完璧な光景だった。けれど、その完璧さの中心にあるべき夫婦の温度だけが、いつも足りない。 ヴィルレオはすでに席についていた。 黒髪は後ろへ整えられ、濃紺の上着の襟元まで一分の隙もない。朝の光を受ける横顔は、彫像のように端正で冷たかった。深い青灰色の瞳は新聞ではなく、今日の予定を記した書類に落ちている。彼はリュゼリアが入ってきた気配に気づいたはずだったが、すぐには顔を上げなかった。「おはようございます、旦那様」 先に声をかけたのはリュゼリアのほうだった。 その声に、ヴィルレオがゆっくりと視線を上げる。「……おはよう」 低く、落ち着いた声。よく通るのに、体温だけが抜けているような
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第1話 冷たい朝の公爵夫人③
 それはあまりにも唐突で、リュゼリアは一瞬、自分に向けられた言葉だと理解できなかった。「え……」「紅を引いても隠しきれていない。無理はするな」 低い声は変わらず平坦だった。労わる響きがあるわけではない。ただ事実を指摘しているだけにも聞こえる。だが、それでもリュゼリアの胸は不意打ちのように跳ねた。 見ていてくださったの。 そんな、あまりにも小さくて惨めな喜びが、痛みより早く浮かび上がってしまう。「ありがとうございます。でも、大したことはございません。少し、昨夜冷えただけです」「医師は呼んだのか」「定期の診察は先日。問題ないと言われました」 嘘ではない。ただ、本当に問題がないのかは自分でもわからなかった。診察のたび、原因のはっきりしない疲労と貧血だと言われ、滋養のあるものを摂るよう勧められるばかりだ。身体の内側で何かが少しずつ擦り減っているような感覚だけが、説明されないまま残っている。 ヴィルレオはそれ以上追及しなかった。「そうか」 そしてまた食事に戻る。 たったそれだけのやりとりだった。けれどリュゼリアは、その短さの中に自分が反応しすぎたことを恥じた。頬が熱くなる。朝の冷えた空気には似合わない熱だった。 なんて情けないのだろう。 ほんの一言、顔色が悪いと指摘されただけで、心が揺れてしまうなんて。 愛されていないと、もうわかっているはずなのに。 朝食を終えるころには、彼は再び書類へ意識を戻していた。リュゼリアはパンを半分も食べられなかったが、残す量を目立たせないよう、スープの皿と配置を少し変えて誤魔化した。 食堂を出る際、ヴィルレオが立ち上がった。「旦那様」 呼び止めるつもりはなかったのに、喉から声が出ていた。 彼が振り返る。光を受けた瞳は淡く鋼色に見えた。「なんだ」 言葉が続かない。 本当は何を言いたかったのか、自分でもわからなかった。お気をつけて。今夜は何時ごろに。お戻りになったら温かいお茶を。それとも、ただ名前を呼びたかっただけかもしれない。 わずかな沈黙ののち、リュゼリアは唇に微笑みをつくった。「……いいえ。どうか、お忙しい一日をご無事に」「ああ」 それだけを残して、ヴィルレオは去っていく。裾の長い上着が翻り、磨かれた床を靴音が規則正しく遠ざかる。その背中はいつも通り広く、頼もしく、そして少しもこちらを振
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第1話 冷たい朝の公爵夫人④
「でも、午後には伯爵夫人がいらっしゃるし……」「だからこそです。人前では無理をなさるのですから、その前に少しでも休まなければ」 アイダの声音はやわらかいが、譲る気配がない。リュゼリアは視線を落とした。「……最近、少し疲れやすいだけなの」「その『少し』が、もう少しではなくなっております」 胸の奥を、別の意味で刺される。 疲れている。確かにそうだった。以前はこれほど長く机に向かっていても、午後になれば庭へ出て薔薇の様子を見る余裕があった。夜に刺繍枠を手に取ることもできた。けれどいまは、午前のうちから骨の芯に砂が詰まるような倦怠が広がっていく。 でも、とリュゼリアは思う。 もし自分が倒れたら、この屋敷の誰が困るのだろう。アイダは悲しむだろう。古くからの侍女も何人かは心を痛めるかもしれない。だが多くの者にとって、それは「主人のひとりの体調不良」にすぎない。公爵夫人が一日や二日臥せったところで、当主であるヴィルレオの生活は大きくは変わらない。 そう考えてしまう自分が、たまらなく惨めだった。「少しだけ、後で休みます」「必ずでございますよ」「ええ」 約束をしたところで、廊下の先から来客を知らせる足音が近づいてきた。     ◇ 午後、応接間には春を先取りした花々が飾られた。 まだ外では風の冷たい季節だが、温室で咲かせた白いアネモネと淡桃のラナンキュラスが、丸い銀の花器のなかで柔らかく揺れている。暖炉では薪が爆ぜ、その香ばしい匂いに茶葉の蒸れる香りが混じっていた。厚手の絨毯は足音を吸い、窓辺のレース越しの光が部屋全体を淡く明るくしている。 ラズウェル伯爵夫人は、豊かな栗色の髪を高く結い上げた華やかな女性だった。年は四十を少し過ぎているはずだが、笑うたびに目元へ寄る皺すら愛嬌に変えてしまう人である。社交界において声も影響力も大きい。「まあ、リュゼリア様。お会いできてうれしいわ。相変わらずお美しくていらっしゃること」「恐れ入ります、伯爵夫人。本日はお越しくださりありがとうございます」 互いに微笑み、礼を交わす。その一連の動きは、長年磨いた舞踏のように滑らかだった。 茶が注がれ、焼き菓子が運ばれる。伯爵夫人は公爵家の温室で採れた柑橘のマーマレードを添えたタルトを気に入り、何度も褒めた。リュゼリアは柔らかな相槌を打ち、慈善茶会の趣旨や招待客の顔ぶ
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第1話 冷たい朝の公爵夫人⑤
「……ごめんなさい」「謝ることではございません。お見せください」「大丈夫」「奥様」 あまりにも静かな声で言われて、リュゼリアは抵抗をやめた。白いレースのハンカチをそっと開く。 そこに、ほんの小さな赤が点のように付いていた。 まるで、誰かが薔薇の花弁をひとかけら擦りつけたような、ごくわずかな色。けれど、それが何であるかを見誤るほど、二人とも幼くはなかった。 アイダの顔から血の気が引く。「……奥様」 リュゼリア自身も、数秒、何も言えなかった。 血。 そう認識した途端、耳の奥がしんと静まり返る。暖炉の薪の爆ぜる音も、外で鳴いた鳥の声も、遠くへ押しやられていく。ただ視界の中央に、小さな赤だけが鮮やかに残った。「たぶん……喉を傷めただけよ」 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。「咳が続いたから、毛細血管が切れたのでしょう。そういうことは、あるわ」「いますぐお医者を」「でも、こんなに小さな」「小さいから見過ごしてよいものではございません」 アイダの手がわずかに震えている。彼女が取り乱しそうになるのを見て、逆にリュゼリアのほうが落ち着いていくのを感じた。こんなときまで、自分より他人を宥めようとする癖は変わらない。「……わかったわ。呼んでちょうだい」「はい」「ただし、大げさにはしないで。屋敷中に広める必要はありません」「承知しております」 アイダが急ぎ足で出ていく。扉が閉じられると、応接間の静けさが急に大きくなった。 リュゼリアはハンカチを見下ろしたまま、ゆっくりと呼吸した。吸うたび、喉の奥に鉄の味が薄く残っている気がする。血の匂いだと気づいて、唇がかすかに震えた。 怖い、と思ったのは、そのときだった。 ほんの少し前まで、疲れやすいだけだと思っていた。休めばよくなるのだと。季節の変わり目の不調だと。けれど、白い布についた赤は、そういう曖昧な言い訳を許さない。 もし、自分が本当に病んでいるのだとしたら。 もし、これがただの咳ではなく、もっと深いところから来る不吉な印なのだとしたら。 そのとき、自分の人生には何が残っているのだろう。 公爵夫人という立場。整った部屋。磨かれた食器。完璧な行儀。誰もが羨む家名。けれど、その中心にあるべき温もりは空いたまま三年が過ぎた。 死ぬのが怖いのではない。 このまま、何も持たずに擦り減っ
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第1話 冷たい朝の公爵夫人⑥
パート6 誰かがもう伝えたのだろう。あるいはアイダが、彼にだけは知らせるべきだと判断したのかもしれない。 リュゼリアは上体を起こそうとしたが、ヴィルレオが先に言った。「寝ていろ」 低い声だった。命令の形なのに、どこか焦りが滲む。「でも……」「無理をするなと言ったはずだ」 その言葉に、昼間の食堂で交わした短い会話がよみがえる。顔色が悪い。無理はするな。たったそれだけの言葉を、彼は覚えていたのだろうか。 ヴィルレオは寝台の脇に立ったまま、じっと彼女を見た。青灰色の瞳がいつもより近い。その視線の強さに、リュゼリアの喉が細く上下する。「大したことではありません」 そう言うしかなかった。そう言ってしまうのは、彼を安心させたいからなのか、それともこれ以上自分に関心を向けられることに慣れていないからなのか、自分でもわからない。「医師が診るまでは断定するな」「……はい」 彼の手が、ためらうように一度だけ動いた。額に触れるつもりだったのかもしれない。けれど実際には、伸びかけた指先は途中で止まり、そのまま拳をつくって引かれていく。 触れられなかったことに安堵したのか、落胆したのか、リュゼリアは自分の感情を見分けられなかった。「今夜の会議は延期させる」「そんな、そこまでなさらなくても」「する」 有無を言わせぬ声。公爵として人を従わせる時の声だった。リュゼリアはそれ以上何も言えない。「旦那様、お忙しいのに……」「忙しいからといって、お前が血を吐いているのを放っておけと?」 その言い方は、責めるようでもあり、自分自身に向けた苛立ちのようでもあった。 リュゼリアの胸が不意にきゅうと縮む。 ああ、この人は、本当に冷酷というわけではないのだ。 ただ、やさしさの表し方があまりにも下手で、届く前に凍ってしまうだけで。 そんなふうに思ってしまうから、いつまでも諦めきれないのだと、彼女はようやく自覚した。「ごめんなさい」 小さく漏れた謝罪に、ヴィルレオの眉がわずかに寄る。「なぜ謝る」「……ご迷惑を」「迷惑ではない」 即答だった。 迷惑ではない。 その一言が、どうしようもなく胸に沁みた。三年の結婚生活の中で、彼が彼女個人に向けてそれほど早く感情を返したことが、ほとんどなかったからだ。 けれど、だからこそ苦しい。 たった一言で救われそうに
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第1話 冷たい朝の公爵夫人⑦
「お前の体調は、申し上げるほどのことだ」 その言葉に、胸の奥がひどく痛んだ。 そうなのだろうか。そうであってほしかった。ずっと。最初から。「……でしたら」 唇が、勝手に動く。「少しだけ、そうとわかるようにしていただけたら、嬉しかったです」 言ってしまった瞬間、部屋の空気が止まった気がした。 リュゼリアは自分でも驚いていた。こんなことを口にするつもりではなかった。ただ黙って、やり過ごすつもりだった。いつも通りに。 だが、疲れと不安と、たった今向けられた幾つかの言葉が、心の薄皮を剥がしてしまったのだろう。 ヴィルレオの瞳が、ごくわずかに揺れた。「……どういう意味だ」 問い返す声が低い。怒っているわけではない。けれど、その底にあるものを読み取るには、リュゼリアはもう少し元気であるべきだった。 彼女は首を振った。「申し訳ありません。忘れてください」「忘れろと言われて忘れられる言い方ではない」「でも」「リュゼリア」 初めてだった。 彼がこんなふうに、呼びかけるためだけに彼女の名を口にしたのは。 いつもなら必要事項の中でしか呼ばれない名前が、たったそれだけで胸の奥に落ちてくる。あまりにも今さらで、あまりにも鋭い。 リュゼリアは目を伏せたまま、小さく息を吸った。「……わたくしは、旦那様のお役に立てればそれでよいと思ってまいりました」 声が掠れそうになり、唇を湿らせる。「公爵夫人として恥じぬように。屋敷に不備がないように。お客様をお迎えし、使用人たちをまとめ、旦那様のお手を煩わせぬように。それが妻として当然の務めですから」 ヴィルレオは黙って聞いていた。「でも、ときどき……本当にときどきで結構でしたの。今日のように、顔色を見てくださるとか。食事の席で、ほんの少しだけでも、お話ししてくださるとか。そういうことが、あれば」 そこまで言って、リュゼリアは唇を噛んだ。 これではまるで、愛情をねだる子どもだ。 情けない。みっともない。三年もかけて呑み込んできた言葉を、こんな形で漏らしてしまうなんて。「……失礼を申しました。具合が悪いせいで、余計なことを」「余計なことではない」 ヴィルレオの声が、ひどく近くなった。 顔を上げると、彼が寝台のすぐそばまで来ていた。長い影がシーツに落ちる。彼の表情は薄暗がりで読み切れない。ただ、いつ
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第2話 優しいふりもできない夫①
 夜のあいだ、雨が降っていたらしい。 朝、リュゼリアが目を覚ましたとき、窓の外にはまだ濡れた石畳の鈍い光が残っていた。雲は低く垂れこめ、庭の木々は細い枝先に水滴をいくつもぶら下げたまま、じっと息を潜めている。いつもの冬の朝よりも空が暗く、そのぶん寝室の中もひどく静かだった。 薬湯の苦い匂いが、まだ薄く空気に残っている。 昨夜は医師が処方した鎮咳の薬を飲み、アイダに何度も額を冷やされ、ようやく浅い眠りに落ちた。眠っているあいだも何度か咳で目が覚めた気がするが、それでも、横になっていた時間が長かったぶん、体はわずかに軽かった。 胸の奥にある針のような痛みは消えていない。けれど昨日のように呼吸のたびに鋭く刺すのではなく、奥のほうでじくじくと居座っている感じだ。喉の奥には血の味は残っていない。それだけで、少し救われる。 枕元に置かれた時計を見ると、いつもより遅い時刻だった。 そういえば昨夜、アイダが「明朝はお食事の時間まで無理に起き上がられませんよう」と言っていた。公爵夫人が朝の食卓に現れないのは、本来なら好ましいことではない。屋敷の主人たちが顔を揃える食事は、そのまま家の秩序を示すものだからだ。 けれど、昨日ヴィルレオ自身が「休め」と言った。 その一言が許しのように働いていることが、妙に不思議だった。 リュゼリアは寝台の上で身じろぎし、冷たいシーツの感触に肩をすくめた。隣の半分はやはり空だったが、今朝はそれを見てもいつもほど胸がひりつかなかった。昨日の夕方、彼がこの部屋へ来た。その事実だけで、寝室の空気が少しだけ別のものに変わってしまったような気がする。 それが良い変化なのか、悪い前触れなのかは、まだわからない。 扉が控えめに叩かれる。「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」「ええ、起きています」 アイダが入ってきた。銀の盆には湯気の立つ白湯と、薄く蜂蜜を溶いた薬が載っている。彼女はいつも通り落ち着いて見えたが、寝台に近づく足取りには昨夜の緊張がまだ少し残っていた。「お加減はいかがですか」「昨日よりは楽よ。咳も少し落ち着いたわ」「それでも、本日はなるべくお休みくださいませ。先生もそう仰っておりました」「午前の執務を全部外すわけには……」「外していただきます」 柔らかいのにきっぱりした声だった。アイダは枕を整え、リュゼリアの背へ手を添
last updateLast Updated : 2026-06-24
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第2話 優しいふりもできない夫②
 昼食は部屋へ運ばれた。柔らかく煮た鶏肉と野菜、薄く焼いたパン、りんごを煮崩した甘いコンポート。いつもの食堂よりずっと簡素だが、体にはやさしい献立だった。こういうとき、厨房は驚くほど迅速に「病人用」の食事を用意する。指示系統が明快だからだろう。そこに心があるかどうかは別として。 少量ずつなら食べられた。昨日までのようにひと口目から胃が拒むこともない。スプーンを置いたところで、廊下の向こうから足音が近づいてきた。 使用人のそれとは違う。迷いがなく、一定で、床板に余計な響きを残さない歩き方。 リュゼリアの指先が、膝の上でわずかに強ばる。 ノックは一度だけだった。「入れますか」 ヴィルレオの声。「はい」 返事をすると、扉が開いた。彼は昼の光を背にして立っていた。朝から王城へ出ていたのだろう、外套は脱いでいたが濃い色の上着には外気の冷たさが少しだけ残っているように見える。髪は乱れておらず、表情もいつも通りきわめて整っていた。けれど目元には、昨夜から続く寝不足のような影がほんの薄く差していた。「起きていたのか」「はい。ずっと横になっているのも落ち着かなくて」 彼は部屋へ入ると、長椅子から少し離れた位置で立ち止まった。近づきすぎることを避けているようにも、どう近づけばいいかわからないようにも見えた。「食事は」「少しですが、いただけました」「咳は」「昨日よりは」 問う言葉は短く、返す言葉も短い。そのやりとりの乏しさが、却って互いのぎこちなさを際立たせる。 ヴィルレオは一度だけ窓の外へ目をやり、それから部屋の中央に置かれた小卓の上へ、持ってきたらしい細長い箱を静かに置いた。「これを」「……何でしょう」「喉を潤す飴だ」 箱は濃紺の紙張りで、王都でも老舗とされる薬舗の印が押されていた。上流階級の婦人たちが好む砂糖菓子ではなく、薬効のある香草や果汁を煮詰めてつくる飴である。ほんのり苦く、けれど喉にはよく効くと聞いたことがあった。 リュゼリアは箱に手を伸ばし、蓋を開ける。中には薄い琥珀色の飴が整然と並んでいた。封を切った瞬間、蜂蜜とハーブの匂いがふわりと立つ。「ありがとうございます」 礼を言うと、ヴィルレオはわずかに顎を引いた。それで会話が終わったと思ったのか、彼はすぐ踵を返しかける。 リュゼリアは、咄嗟に声をかけていた。「旦那様」 
last updateLast Updated : 2026-06-24
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