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第五話:視線

Autor: 新城凪
last update Fecha de publicación: 2026-03-18 12:11:57

赤子は、目を開けたまま動かなかった。
まるで、何かを確かめているように――ひとつの答えを、静かに待っているようだった。

アスイェは、いつものように黙《だま》って赤子の前に立ち、しばらくその目を見つめた。そして、ゆっくりと――本当にゆっくりと、子を抱き上げた。

その身は、最初まるで反応《はんのう》を示《しめ》さなかった。まるで、自分が揺籃《ゆりかご》から離れたことさえ、まだ気づいていないかのように。

子の目は、ずっとアスイェの顔にとらわれたまま動かず、やがて、その小さな手を伸ばし、アスイェを抱きしめた。その手は、まだ小さすぎて、アスイェの首にさえ届かなかった。
「抱きしめる」というよりも――ただ、必死に、無我夢中《むがむちゅう》でアスイェの襟をつかみ、その胸にしがみついただけだった。

赤子は、泣きもしなかったし、音すら立てなかった。
ただ、アスイェの肩に必死でしがみついていた。自分が落とされないように、アスイェを失わないように。
アスイェはその小さな腕を抱き返すことなく、赤子に襟を掴まれたまま、黙って立っていた。
二人は、ぴたりと動きを止めていた。

扉が開いたのは、その時だった――
執事が記録用《きろくよう》のボードを手に入ってきたが、アスイェの姿を見て、ふと足を止めた。足だけでなく、すべての動きが止まった。

けれど、赤子は動いた。
アスイェもついに腕を動かし、片手でその身をしっかりと支えた。赤子はアスイェの腕の中で、ゆっくりと首を動かし、その視線を執事へと向けた。
その視線の先には、執事と、その後ろから微かに漏《も》れる灯《あか》りがあった。

吸血鬼は灯りを嫌《きら》う。だが、赤子が見ていたのは、灯りではなかった。
音と、人だった。

この子は、まだ「その人」が誰かを理解していない。
それでも、その小さな体は、アスイェの方へと、さらに近づいた。
さきほどよりもっと深く、まるでマントの中にでも隠れ込むように、耳をアスイェの胸にぎゅっと押し当てた。

それは、本能だった。
恐れに対する、赤子の本能的な選択《せんたく》。

この子は、まだ逃げない。
ならば、最も近く、最も安全な場所へ――それは、アスイェの腕の中だった。

「このものは、お前を見た」アスイェは、静かに告げた。
「目を開けて、最初に見たのが、お前だった」

執事は、何も言わなかった。
扉の近くに立ち止まり、まるで何かあればすぐに退却できるように、肩をすくめ、視線をそらした。
視線を外せば、これからアスイェが言うことも、自分には関係ない。そうすれば、この吸血鬼から逃れられる――執事は、きっとそう信じていたのかもしれない。

アスイェはしばらく沈黙していた。
子を揺籠に戻したが、その指先は赤子に掴まれたままだった。

「その日、お前は、この者を攫《さら》われたかった」

低く、乾《かわ》いた声だった。
執事はごくりと唾《つば》を飲み込んだ。

「もし、それが『お前の仕事』ならば――お前は、失格《しっかく》だ。俺はこの者に触れていいとは、言っていないはずだ」

アスイェはそう言いながら、そっと赤子の指に触れた。
その顔は、陰《かげ》になってよく見えなかった。

子は、まだアスイェの指先を掴んでいた。
その力は、アスイェにとっては微かなものだったが、子にとっては渾身《こんしん》の力だった。

「なぜ、連れ出そうとした?」

「……あなた様が、気にされないと思い……」

執事はそう答えかけて、何かを思い出したように口をつぐんだ。
その瞬間、部屋の空気すら凍りついた。

「俺は、他の命知らずが、自分のものに触れるのを――何より、好《この》まない」

アスイェの声には、何の感情も乗っていなかった。まるで、ただ天気の話でもするかのように。

執事は、はっとして頭を垂《た》れた。
アスイェは、彼に弁解の機会など与えていない。だからだ。

アスイェは、執事の背後にある灯りを、一つ、また一つと消していった。
まるで、子に眠りの歌でも聞かせるように。

子は泣かなかった。ただ、アスイェの指先を掴んだまま、静かに瞼《まぶた》を閉じただけだった。

執事への小さな罰《ばつ》は、言葉もなく、風さえ止まったまま降りてきた。
赤子も、その様子《ようす》を、見ることはなかった。

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  • アスイェ•Asyeh   第三十六話:少女と炎

    朝の庭は静かで、平和だった。露《つゆ》はまた花びらの上に残っていた。日の光はまたやさしく、芝生《しばふ》を照らしていた。いつもなら、セラフィナは芝生の上に寝転んでいるのだが、まるで何かの儀式の前の準備のようだった。アスイェは手に本を持っていた。「準備はいいか?目標は一直線だ」「でも、ここはアスイェの庭でしょう?」「お前の庭でもある」「燃やしちゃだめだよ!」「昨日の夜、一度燃えただろう。気にしていない」「あ、あれは!」「燃やしたくないなら、石だけに火をつければいい」アスイェは石を一直線に並べていて、それが今回のセラフィナの目標だった。セラフィナは手を挙げて、しばらくそのままだった。「……今回こそ一直線に燃やしてみせる」そう言って、彼女の指先から小さな炎が灯った。「できた!」興奮した瞬間、その炎はセラフィナの指先から逃げ出すように広がり、芝生の上に焼け跡の線を残した。それは「直線」と言いがたいものだった。――それは蛇のように、セラフィナの側からアスイェの前まで燃え広がった。その「蛇」はもちろん、アスイェの靴に触れる前に消えた。アスイェはその痕を見て、しばらく何も言えなかったが、セラフィナは彼に聞いた。「風が吹かなかった?」「お前の頭の中では吹いていたんだろう」「どういう意味?」「かわいいバカって意味だ」「セラ、真剣にやった!」「なら、自分のドレスまで燃やさないはずだ」「燃やしてないもん!」アスイェはゆっくりと少女の側にしゃがみ、彼女の肩を軽く叩いた。「よく見ろ」アスイェが手を軽く上げると、炎は本当に、金色の直線を描いた。その炎は静かで、柔らかそうに見えるが、熱さも、危うさも纏っていた。――アスイェが望めば、すべてを美しく燃やせるのだろう。「アスイェ、火を安定させる魔法も使ったでしょう?」「……使っていない。お前もやってみろ」「こう?」「肩の力を抜け。手を震わせるな。火を灯すんだ。爆発させるんじゃない」

  • アスイェ•Asyeh   第三十五話:炎の子

    夜の風が吹き、アスイェの薔薇が揺れていた。今夜の月は明るく、セラフィナは自分のマントをしっかり着ていた。顔を上げると、アスイェは廊下の奥に立っていた。彼はセラフィナを促すことなく、ゆっくりと彼女に近づき、見つめた。「靴紐はしっかり結んだか?」「うん!」「武器は?」「はーい」アスイェは頷き、 セラフィナを連れて階段を降りた。通りは少し濡れていて、灯りも暗く、セラフィナはアスイェを見た。彼女はいつも、この長い階段を降りていくアスイェの背中を見つめていた。自分の足でこの階段を降りるのは、これが初めてだった。アスイェに連れられて、アスイェの書斎を通り、庭を抜け、屋敷の扉に辿り着いた。「いつも、夜は外に出してくれないのに」「お前は怖がっていたからな……今夜は散歩だけだ」「散歩?セラを連れて?」「お前は成長したからだ」セラフィナは小さく「うん」と答えた。二人は森に入った。森は静かで、虫の鳴き声すらなかった。ただ、二人の足音が響いた。何回か蟲の殻を踏んだと思ったが、その違和感も小さく、すぐに忘れてしまった。二人は足を止めた。セラフィナはなんとなく、ここが彼のよく立ち止まる場所だと感じた。「……お前もここに来たことがある」「セラ、覚えてないよ」「あの夜は、お前が外に逃げ出して、風に当たって、そのまま熱を出した。俺が見つけた時、お前はよく泣いていた」「セラはなんで外に逃げ出したの?」「お前は外の色を見たいと言った」「そうなの?」「今見ただろう?あまり面白いものではない」森で微かな音がした。風の音だった。木の影が揺れているだけのはずだったが、セラフィナは焦げた匂いを感じた。風が森の奥から運んできた焦げた匂いには、薔薇の香りも混じっていた。アスイェは足を止めた。少女はそのそばで、息を殺した。「匂いが……」「わかるのか」「蟲がいる?」「そうだ。匂いでわかるなら、お前が炙り出せるはずだ」

  • アスイェ•Asyeh   第二十三話:彼女はルビーを見えた

    セラフィナが自ら言い出した。――その特別な夜に現れる、血のように赤い、吸血鬼の目のような月を「見たい」と。「『ダメ』って言うのはなし!今夜は、血の月の夜でしょう?セラは見たい!」若い子は朝からそう宣言していた。「危険だって、セラはまだ見てないからわかんないもん!」そのあとも何度か同じことを言い、まるで決定事項のように準備を始めた。準備する物の中に、自分の気に入りのマントも持ち出し、「これがあれば寒くない」と、自分に言い聞かせるように」アスイェは「いい」も「ダメ」も言わず。ただ聞いていただけだった。

  • アスイェ•Asyeh   第十八話:「シロップ 」と灯り

    セラフィナは名を持ってからというもの、成長が驚くほど早かった。 今では、人間でいえば二、三歳ほどの年頃に達している。 もっと上かもしれないが、アスイェは人間の時間概念はよく理解していない。 吸血鬼にとって歳はそんなに重要ではない、 セラフィナもいつれ同じように思うようになるだろう。 体格はまだ小さいものの、「ひとりで留守番ができる」ほどには成長した。 アスイェは部屋

  • アスイェ•Asyeh   第六話:鐘声の審判

    執事は、あの赤子が気に入らなかった。
理解できないわけではない。ただの嫌悪《けんお》でもなかった。彼はこの収容場で長く仕《つか》えている。育児の失敗例など、幾度となく目にしてきた。泣き叫び、噛みつき、殺した幼い吸血鬼たち。老《お》いた血奴《サーバント》の手には無数の傷跡《きずあと》が刻《きざ》まれ、ときに掌《てのひら》の肉《にく》や指ごと噛み千切《ちぎり》られたこともあった。牙《きば》すら生えていない幼体《ようたい》が、だ。彼は、この施設が聖堂として廃され、実験の場となる以前から、ここにいた。
三人の長老《ちょうろう》に仕《つか》え、数え切れぬ失敗作を処理して

  • アスイェ•Asyeh   第四話:暗闇が苦手

    あの夜、灯は早めに落とされた。
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アスイェと子だけがいる空間は、異様《いよう》なほど静かだった。壁に掛けられた古い織物《おりもの》は、かすかに揺れている。わずかな隙間から忍び込んだ夜風が、ほとんど聞こえないほど小さな音を、石造《いしづく》りの床の上に落としていた。アスイェは灯を点けなかった。
古い長椅子に腰を下ろし、手元には開かれていない本が一冊。
部屋の中は深い漆黒《しっこく》に包まれ、窓の隙間から差し込む月光だけが、布の上に落ちた銀糸《ぎんし》のように断続的に揺れていた。その光は、時折《ときおり》雲に遮られ、またふたたび現

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