LOGIN「終わらせる」決断をヒマリにさせることが、 この決戦での一番の目標でした。
報が届いたのは、夜明け前だった。 薄暗い室内で、フェルマーは一通の魔導通信文を見つめていた。 無表情のまま、それを読む。 一度。 そして、もう一度。 内容は、変わらない。 ただ――重さだけが、確かに増していく。 やがて、彼は小さく息を吐いた。 通信文には、こう記されていた。 北方王国ジギスムント王より、 全同盟国および友好国へ告ぐ。 我が王国が誇る第四軍は、 パタゴニア平原において、 魔王軍の奇襲を受け壊滅した。 死者、推定八千。 これは戦闘ではない。 ――虐殺である。 魔王ノリス、ならびに 自らを聖女と名乗る異世界人ヒマリは、 投降を求める兵士をも焼き尽くした。 ロンデル公国出身の将兵たちは、 故郷へ帰ることなく、炎の中に散った。 我々は、この蛮行を断じて許さない。 なお、第四軍は最後まで勇敢に戦った。 その死は、我が国の正義を証明する礎である。 サンドランド王都ラグナにて ジギスムント・フォン・ブリュード フェルマーは、通信文を置いた。 静かに、息を吐く。「……速い」 独り言が、誰もいない部屋に落ちた。 撤退から、三日。 これほど早く布告を出すとは。 戦場を離れながら、すでに次の盤面を動かしていた。 (さすがだ、ジギスムント) 感心と、苦さが、同時に来る。 フェルマーは、別のスクリーンを展開した。 ロンデル公国の各都市に仕込んだ、観測用の魔導眼。 その映像が、次々と映し出される。 ロンデル公国・首都エルドラ。 夜明けの広場。 布告文が読み上げられた瞬間、 群衆が凍りついた。 一瞬の静寂。 その後。「……息子が」 老いた女が、呟いた。「息子が……死んだのか……」 その声が、引き金だった。「虐殺だと!?」 「魔王軍がやったのか!」「聖女ヒマリ――魔王と変わらぬ!」 怒号が、広場を埋め尽くす。 泣き声と、叫びが混ざり合い、 空気そのものが歪んでいく。 国境の町。 帰還したわずかな生存兵が門をくぐる。 歓声が上がる。「生きてた!」 だが――「隣の息子は?」 「うちの夫は?」 問いが、重なる。 兵士は答えない。 答えられない。 俯いたまま、唇
王都の鐘が鳴った。 ――敗者ではなく、王を迎える音として。 夜明けの光が、戦火の名残を引きずる街に、 ゆっくりと差し込んでいく。 傷ついた将兵。不安げに物陰から様子を伺う住民。 その中で王城だけは、異様なほど整えられ、静まり返っていた。 まるで、この瞬間のためだけに。 玉座の間には、貴族、将軍、文官、神官、そして兵士たちが、 身分も派閥も越えて、厳粛な沈黙の中に並んでいる。 その中央、赤い絨毯の先。 玉座の前で、ヒマリは立ち尽くしていた。 白と深紅を基調とした聖女王の装束。 ひどく綺麗で――ひどく、自分に似合っていない気がした。(……なんで、こうなったんだっけ) ほんの数か月前まで。 自分は、ゴミ捨て場に捨てられた女子高生だった。 聖女として召喚され、役に立たないと切り捨てられ、 魔物の巣に放り込まれ、生き延びるために必死に戦った。 あの頃、頭にあったのは、 ただ「生きたい」という気持ちだけ。 それがどうして今、 こんな場所に立っているのか。「――聖女ヒマリ」 大司祭の声が、天井に反響しながら静かに響く。「汝は王都を解放し、民を救い、 この国を圧制から引き戻した」「ここに、錫杖と王冠を授ける」 差し出された王冠を見た瞬間、 ヒマリの喉が、かすかに鳴った。(……重そう) 場違いな感想が、ふと浮かぶ。 けれどその奥で、もっと重い何かが沈んでいた。 復讐。 最初は、それだけだった。 ジギスムント王を殺す。 この理不尽な世界を、ぶち壊す。 それだけが、生きる理由だった。 でも―― 最前列で、フェルマーがこちらを見ていた。 責めるでもなく、縋るでもなく、 ただ、覚悟を問う視線。『君は、もう楽になる道を選べない』 クルスの声が、脳裏に蘇る。(……知ってるよ) 復讐者でいる方が、ずっと楽だった。 怒って、壊して、殺して、終わり。 そこには未来も、責任もなかった。 でも―― 王になるということは、 間違え続ける役目を引き受けるということだ。 誰かを救えば、 誰かを見捨てる。 正しい選択なんて、どこにもない。 それでも。 ヒマリは、王冠に手を伸ばした。 頭に載せられた瞬間、 その重みが首から背骨を通り、心の奥へ沈み込む。(……逃げられない、
魔王城の最上層。 結界と演算陣に囲まれた制御室は、 戦場よりも遥かに静まり返っていた。 無数の魔導スクリーンには、 各国の外交動向―― そして、ヒマリの心拍が、 リアルタイムで映し出されている。 一番手前に。 一番大きく。「……第二軍、王都防衛中核配置。 合理性評価、七十八点」 冷たい声が、誰もいない制御室に落ちる。「情緒的判断、二十二点。 だが、その誤差が、この国の人間的安定を 飛躍的に高める」 無数の演算式が、空中で解体と再構築を繰り返す。「理解はできる。 だが――納得は、しない」 スクリーンの中で、ヒマリが立ち上がった。 クルスは、彼女の行く先を、無意識に目で追っていた。 かつて女性の形をしていた身体は、今は違う。 肩幅が広くなった。 顎の輪郭が鋭くなった。 声帯の周波数が、わずかに低くなった。 理由は、演算済みだ。 ヒマリの視線が、無意識に追う顔の輪郭。 ヒマリの心拍が、安定する声の周波数。 ヒマリが、信頼できると判断する身体的特徴。 すべて、データがある。(最適化は、完了した) だが、クルスは今日も、 自分の手の輪郭を、一度だけ確認した。 ヒマリが、好む形かどうか。 彼女は、人を信じることで、 王都を統治しようとしている。 聖女としては美しい。 だが、ノリスに裏切られたクルスにとって、 最も不確実で、 最も危険な統治手法だった。「信頼とは」 クルスは、一拍置いた。「再現性のない、奇跡だ」 スクリーンの数値が、静かに流れる。「奇跡を制度化しようとした瞬間、 それは必ず、破綻する」 スクリーンの中で、 シュルツが深く頭を下げている。 その姿を、クルスは、 観測対象としてしか見ていない。「なるほど、彼は裏切らない可能性が高い。 だが、それは裏切れない状況に 置かれているからに過ぎない」「人は、環境が変われば、必ず変質する」 その前提を、前魔王であるクルスは 一度たりとも、疑ったことがなかった。 だからこそ、彼は魔王城を管理した。「支配とは、自由を奪うことではない。 選択肢を削ぎ、最適解しか見えなくさせることだ」「恐怖も、忠誠も、愛情でさえ、
玉座の間は、嵐のあとの砂漠のように静まり返っていた。 ジギスムント王に仕えていた貴族たちは、 誰一人として無関係ではなく、 次の犠牲者が自分になる可能性を、肌で理解していた。 王都を去ったジギスムントの代わりに、ヒマリが玉座に座る。 決戦時、無断で離反した上に、第二軍を率いて王都を目指したシュルツ。 一歩間違えば、王座に座っていたのは、この男だった。 貴族たちの視線が、一斉に一人へと集まる。 シュルツ・フォン・ライヒベルク。 第二軍団長。 彼は逃げなかった。 背中に、死の予感が張り付いているにもかかわらず、 ゆっくりと、玉座の前へと進み出る。「何故、第二軍を連れ戦場を離れた?」 フェルマーの冷徹な声が、静寂を切り裂いた。「――まず、ジギスムント王から戦力を削ぐこと。 その後、王都防衛に充てるためです」「そのまま離反し、漁夫の利を得ようとしたのでは?」 ざわめきが走る。 ここにいる誰もが胸に抱いていた疑念を、 フェルマーは、何のためらいもなく言葉にした。 だが、シュルツは目を伏せなかった。 まっすぐに、ヒマリを見つめる。「亡命して日が浅い身ながら、 断じてそのようなことはございません!」 彼は、右膝を床に突いた。「第二軍をもって、王都の全防衛を引き受けさせてください。 この命に代えても、必ず守り抜きます」 重たい沈黙。 処罰を待つ姿勢でありながら、 その言葉は、願いではなく、命令を待つ覚悟を帯びていた。 ヒマリは、玉座で指を組み、彼を見つめる。「……ずいぶん、都合のいい申し出ね」「承知しています」 シュルツは、わずかに口元を緩めた。「ですが、私は―― ヒマリ様に亡命した日のことを、今も忘れられません」 場の空気が、わずかに揺れる。「警戒して、何も口にしなかった私を、 ただの兵士として迎え、温いお茶を差し出してくださった」 ヒマリの目が、かすかに揺れた。「『選び直すことは嫌いじゃない』と、 笑っておられた」 彼は、静かに視線を落とす。「その時、私は決めたのです。 この方に、命を預けようと」 沈黙が、柔らかく、しかし確かに場を包み込む。 ヒマリは、ゆっくりと立ち上がった。「……あなたは、自分が処刑されるかもしれない場
砂は、血を吸わない。 どれほど兵が死に、どれほど王国が崩れようと、 サンドランドの大地は何事もなかったかのように乾いている。 王都ブリュードから南へ。 敗走と呼ぶにはあまりに整然とした軍列が、砂の都《ラグナ》へ流れ込んでいた。 ジギスムントは、その先頭に立つ。 顔色は変わらない。 敗北の影もない。 ――撤退ではない。 これは、戦場の移動だ。 そう信じているからだ。 ラグナ王宮、砂岩の玉座の間。 サンドランド王族と重臣たちが、ジギスムント王を迎えていた。 彼らの目には、警戒と欲望が同時に宿っている。 北方最大国家の王。 だが今は、魔王に追われて逃げ込んできた男。「……歓迎しよう、ジギスムント殿」 サンドランド王が、慎重な笑みで言う。「我が国は中立を重んじる。 だが、婚姻はお忘れなきよう」 ジギスムントは、一礼する。「はい。国を追われた身となりましたが、 改めて貴国の王女を正妃に迎えたい」 場が、わずかにざわめく。 ジギスムントは続ける。「見返りとして、北方四万の軍事力。 そして――魔王軍を排した後の交易独占権を」 王族たちの目が、光った。 これは、救済ではない。 投資だ。 サンドランドにとって、 敗走中の王に賭けるのは、あまりにも危険で―― あまりにも、甘い話だった。「魔王ノリスと、聖女ヒマリ」 ジギスムントは、二人の名を出す。「彼女たちは、強い。 だが、国家運営を知らない」 砂の都の空気が、わずかに変わる。「私が負けたのではない。 私は、次の戦場を選んだだけだ」 その言葉に、サンドランド王は目を細めた。「……その次の戦場が、この国だと?」「いいえ」 ジギスムントは、静かに首を振る。「貴国は、私の背後になる」「魔王軍の主力は魔物だ。 魔物では、国は治められない」 一拍。「それが――彼女たちの、唯一の弱点だ」 沈黙。「私は、その裏側で、 兵站と外交と婚姻で包囲する」「勝つのは、いつも――」 ジギスムントは、断言する。「剣ではなく、制度だ」 その夜。 ジギスムントに会いに扉を開けた瞬間、 王女アリシアは思わず息を止めた。 薄橙色の流れるような髪に、翠の瞳。 美しいと言われながら育った。
炎と死臭が、平原を覆っていた。 第四軍の陣列は、すでに軍と呼べる形を失っている。 燃え、砕け、散り、 ――それでもなお前へ進もうとする残骸。 それを見下ろす王都軍本陣で、 ジギスムントは、ただ黙って立っていた。 ――計算外だ。 第四軍は捨て石。 魔王軍の前衛を削り、 ヒマリとノリスに躊躇を生じさせるための犠牲。 だが―― ノリスは、魔力消耗を度外視して火球を撃ち続けた。 ヒマリも、決断を止めなかった。 想定よりも早く、 想定よりも深く、 王の盤面が削られていく。「……次の報告を」 ジギスムントの声は、まだ落ち着いていた。 想定の外側にある事象を 失敗と呼ばない。 伝令が駆け寄る。「第、第四軍――八割以上が壊滅。 残存部隊も、戦闘能力を喪失しました。 その際、魔王城結界は消失」 伝令の声が、わずかに震えていた。「ああ、光の幕が崩壊する様が見えた」 王は、目を細めた。 その声に、喜びも悲しみもない。 ――将来の反乱分子を、魔王軍の仕業として処分できた。 それで、十分だった。「目的は達した。魔王軍の魔力消耗率は?」「結界を失い……想定の一・三倍です」 わずかに、王の口角が上がる。 ――使える。 第四軍は無駄死にではない。 魔王軍の弱体化という形で、確実に価値を残している。 だが、その瞬間。「……陛下」 別の伝令が、青ざめた顔で割り込んできた。「第二軍が――陣を離脱しました」 空気が、止まった。「……何?」「行方不明であった第二軍・シュルツ将軍が、部隊を率いて戦線から後退。 現在、王都方面へ進路を――」「……理由は」「不明です。伝令も拒否されています」 一拍。 二拍。 ジギスムントの思考が、超高速で回転する。 第二軍。 主力。 魔王軍を抑え、第四軍の犠牲を意味のあるものに変えるための要。 それが――消えた。 この瞬間、王の戦場は未定義になる。 どれほど兵が残っていようと、 どれほど王都が堅牢であろうと、 勝利条件が崩れた戦争は、すでに負けている。「……シュルツめ」 怒りはない。 あるのは、冷たい納得だけ。 ――やはり、あの男も役立たずだ。 理屈よりも、信義や縁を貫く男。 王にとっ
王都ブリュード、王城最上階。 重厚な扉の向こう、執務室には静かな緊張が満ちていた。 机いっぱいに広げられた地図。 その前に座る男は、 まるで大理石から削り出された彫像のようだった。 長い睫毛の影が白い頬に落ち、 整いすぎた輪郭は感情を拒む刃のように鋭い。 淡い銀の髪が光を受け、静かに揺れる。「……遅いな」 ぽつりと漏れた声には、苛立ちが滲んでいる。 本来なら、とっくに報告が届いているはずだった。 ゴミ捨て場――処分したはずの異世界人の痕跡について。「フェルマーめ……」 蒼い瞳がゆるやかに細まる。 あの男は有能だ。 天才で、合理的で、感情に左右されない。
魔王城の玉座は、今も空いている。 かつて、この場所に座っていた者の名は ――前魔王クルス。 中層から撤退したヒマリに魔物達の失望が広がる。 クルスの治世は冷酷で無慈悲だったが、 均衡は保たれ、争いは最小限に抑えられていた。「……あの方なら、こうはならなかった」 誰かの呟きが、静まり返った広間に溶ける。 その言葉は祈りであり、同時に今を否定する呪いでもあった。 だが、玉座の前に立つ少女 ――ヒマリは、その名に縛られない。「知らないよ。その魔王がどれだけ立派だったかなんて」 そう言って、ヒマリは小さく息を吸い、一歩だけ前へ出た。 玉座に落ちた影が、ゆっく
魔王城の最下層を制したヒマリは、 浄化された魔物たちを率いて、さらに上を目指していた。 ゴブリンたちが先行して索敵し、骸骨兵が重い扉を押し開く。 ゴーストたちは地図を広げ、進路や危険箇所を静かに分析していた。「ヒマリ様。中層はこれまでと違います」 一体の骸骨兵が告げる。「ここには、現魔王ノリス様に仕えている 上位の配下が出てまいります。 悪魔族と呼ばれるサキュバスや、デーモンたち…」 ヒマリは小さく頷いた。「これまで通り下層で配下を集めた方がよろしいのでは?」「後戻りは出来ないのよ」 魔物達には言えてないが、ここでの食事は劣悪だ。 ゴミ捨て場からゴーストが拾
王都ブリューテ。 王城最奥、ジギスムント王の執務室。 重厚な机の上には、広げられた一枚の地図。 他国の国境線に、赤い矢印が何本も引かれている。「西方ロンデル公国は、抵抗が激しい」 ジギスムントは淡々と告げた。「だが、魔王ノリスの軍を先鋒に出せば、一週間で落ちる」 周囲に控える貴族たちは、揃って恭しく頷く。 その表情の裏にあるのは忠誠ではない。 戦後の領地、褒賞、利権―― 誰もが腹の中で計算していた。「初戦を魔導士の結界ごと吹き飛ばしたとか、 さすがは魔王ノリス様ですな」 先月まで若い王に陰口を叩いていた 老臣が媚びるように笑う。「かつて大陸を震え上が







